≪日本人移民と日本のペルー援助≫
夕食を食べてからリマの飛行場に行き、翌日早朝に発つラン航空でリマ⇒ロスアンゼルス⇒成田、そして私は新千歳と乗り継ぎ、帰宅した。帰路も長い長い時間だった。(スーツケースは昨日修理が終わって送り返された。鍵も新しくなり、すごく良くなっていた)
最後にやはりこれは書いておきたいと思った事がある。それはペルーへの「日本人移民」の事だ。
クスコとリマのガイドが概略を話していたので、帰国後調べて見た。知らなかった事だったのでとてもショックだった。
次の文の多くは細谷広美編集「ペルーを知るための66章」明石書店を参考にしている。
かってペルーでも、アフリカからの黒人奴隷を、海岸地帯(コスタ)の漁業やオアシス農園の労働力不足を補うために使って来ていたが、1854年に「奴隷解放令」が発布されてからは禁止になった。
ペルーはその後の労働力をヨーロッパからの移民に期待したが、彼らは広大な農地があるアメリカやブラジル、アルゼンチンなどに行ってしまったため、1849年「中国人法」を制定した。これにより1874年までに「契約労働者」として10万人にものぼる中国人が来たという。
中には人身売買同然でやって来た中国人達も多かったらしい。彼らは「クーリー(苦力)」と呼ばれ、コスタの農園で輸出用の綿花、砂糖の栽培、グアノ(海鳥の糞を集めたもの)採掘、鉄道敷設などで奴隷同様に働いた。しかし中国移民も1874年に中止された。
いよいよ1899年(明治32)、「苦力」だった中国人に変わる「日本人契約農民労働者」の導入が始まった。
3万3千人の日本人が沖縄、山口、福岡、福井などからペルーに渡ったが、初めは予想とは全く異なり、奴隷かそれ以下の状況で働らかせられたようだ。
しかし中には真面目に働き、リマなどの都市部で日用雑貨品店や理髪店をしたり、行商人などをして成功する人も出、花嫁を日本から呼び寄せる「写真(見合い)結婚」をした男性も沢山いたらしい。
また農村では、日本人同士が集団で助け合って困難を乗り越えようとし、1909年には「日本人学校」が作られた。また1912年には「日本人協会」を設立している。
ところが国際情勢が緊張して来た1941年、40年以上続いた「日本人契約農民労働者」は廃止された。
1941年12月、第二次世界大戦が始まると、ペルーは親米政策を取り、排日的な政策を実行して行った。
日本語新聞社閉鎖、日本人の資産凍結、集会禁止、日本との国交断絶の上、2000人の日本人を米国に強制連行して「日系人強制収容キャンプ」に送ったのだ。
(1988年、米国は11万人の日系人強制収容を謝罪し、翌年より(米国以外の日系人収容者には1996年より)補償を始めている)
人口過多だった日本の貧しい農村から、国の宣伝、誘いに乗り、遠いペルーまで行って辛酸をなめた多くの人達の事を考えると、戦前、中国東北部に開拓民として渡った人々に重なり、私は胸が痛くなるのである。
1990年、日系人のフジモリ氏が大統領になると、日本政府のペルー援助は拍車がかかったという。ODA白書などから作成された前掲書の資料から掲載する。
1990年迄の累計では、①日本からの有償資金 538.51億円 ②無償資金 208.25億円 ③技術協力 282.51億円
1991~2000年の合計額では、①4046.9億円 ②533.86億円 ③390.27億円
その後、フジモリ大統領は不正蓄財疑惑を追及されて、一時日本に居たこともあるが、辞職した。
こんなに多額の国の資金が、ODA関連とは言え1つの国に流れた事を、国民の1人として私自身調べるまで知る由も無かったのだ。ペルー人が思うフジモリ氏は、私たち日本人が描いている彼とは随分違うようだ。
今回の旅行を振り返ると、観光ポイント間の移動距離も時間も長過ぎ、遅くにホテルに着き早朝に出発するという毎日だったし、おまけに南米は日本との気候の違いや時差も大きいので、本当に疲れ果てた。
旅行中、油っぽい食事を控えたために私自身の体力が落ちたのだろうか、帰りの飛行機で咳き込む人が傍に居たためもあって、喉がひりひり痛む風邪をひいた。帰国後2週間になるが、時差ボケや体調はまだ完全には回復していない。
しかし「イグアスの滝」「マチュピチュ」「クスコ」での観光は感動的で、私の海外旅行体験中、その充実度は3本の指に数えられる旅だった。
また、この大変なコースにもかかわらず、参加者の1/3が60~70歳代の1人参加の女性だった事は正直なところ驚きだった。私自身も行く前は体力的に不安で一杯だったが、何とか行って来られた事で自信が付いた。
それで今までは「無理だろう」と思っていた所にも「そのうち機会があれば、行って見ようかな」と選択範囲が広がり、前向きになれた様に思う。
リマからロスアンゼルスに飛んだ時も窓側席に座る事ができ、下を見ながら「今度は中米に行きたいな」と思った。
やっと完成に漕ぎつけた。結果的に長文となった記事にお付き合い下さった方々と、コメントを下さった方々に感謝します。
私なりに500枚の写真から掲載する写真を選択し、数冊の本も読んで書いた記事だったが、いかがだっただろうか。 (完)
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