花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

香港・マカオの旅(3)

2011年11月23日 | 海外旅行「中国Ⅱ」江南・黄山・香港、マカオ

≪マカオ≫
3日目の朝、ホテルを出てからフェリーターミナルに行き、香港の出国手続きを済ませてからマカオ行の大型高速船に乗った。
約1時間後、マカオに着いた。ターミナルに入り、入国手続きをしてマカオに入国した。入国審査場には人が大勢並んでいるため、この手続きに1時間近くかかった人もいた。(私は65歳以上の人と障害者用窓口に並んだので早く入国できた)
香港もマカオも今では中国なのに、「一国二制度」を採る間は今までと変わらない体制をとっている事が良く分かった。
マカオには別の現地ガイドがいて、私達を案内してくれた。
ガイドブックによると、1887年、中国へのアヘンの密貿易取締りに貢献したポルトガルが、清朝からその報酬として受け取ったのがマカオなのだ。
しかしその後は、この地域の貿易中継地として香港が興隆したためと大型船の入港ができなかったため、マカオは活気を失って行ったらしい。

マカオは1999年12月にポルトガルから中国に返還されたが、やはり50年間は特別行政区として資本主義が認められている。人口は46万人でその95%が漢民族。公用語はポルトガル語と中国語だが、最近は観光業で英語の必要度が高まって来ているそうだ。通貨は『パタカ』だが『香港ドル』も通用するので、私はお金を『パタカ』に変えなかったが、全く不自由はなかった。
ガイドの話では、現在のマカオの90%の土地は、元々湿地帯だった所を埋め立てて町を作った所だという。今では富裕層の中国人がやって来てカジノを楽しむための超豪華なホテルが沢山建つレジャーランドの様相を呈していた。

私達はバスに乗ってポルトガルの影響を受けた街並みを見ながら、世界遺産の「聖ポール天主堂跡」や「聖ドミンゴ教会」、「セナド広場」の観光に向かった。その途中、観覧席が設けられ、人が大勢いる所に出くわした。ガイドは、毎年この時期はスポーツカーの「マカオグランプリ」があるが、今年は今日からなので、とても混雑していると言っていた。一般道路を閉鎖して、カーレースが繰り広げられるらしい。

マカオの顔である高台に建つ世界遺産「聖ポール天主堂跡」に行った。天主堂は17世紀初めにイエズス会が建立したものだが、建設にはポルトガル人と長崎を追われた日本人キリシタンも大勢加わったのだと言う。
全面の壁は堅牢な石造りだが、背後は木造建築だったため、1835年の火災で焼失してしまったのだと言う。正面ファザードには、キリスト像、マリア像、フランシスコザビエル像の他、漢字の表記などが残されている。こんな場所で自国で迫害された日本人が、マカオの歴史を刻んでいたことに胸が熱くなった。

   

次にそこから少し歩いて「セナド広場」に向かった。石畳の広場を囲むように17世紀に建てられた黄色い「聖ドミンゴ教会」①や政府の庁舎②、16世紀に初代司教が建てた慈善活動施設の「仁慈堂」③が建ち、独特な雰囲気を醸し出していた。夕食後に再度来た時は、広場の建物の内側がライトアップされていて綺麗だった。

 ①  ②

 ③  

バイキング式の昼食を食べた後、マカオタワー、カジノが行われている「ベネチアンホテル」に行った。
「ベネチアンホテル」のカジノでは、中国人が大勢、ゲームに興じていた。昨日のニュースでは、大王製紙の元会長もマカオのどこのカジノかは知らないが、VIP客として庶民には到底考えられないような巨額の遊興費を注ぎ込んだらしいが、そんな一握りの人たちによってこうしたホテルの経営が成り立っているのだろう。広い贅沢なエスカレーター室は、豪華なバロック様式の天井画で飾られていて驚いた。
私達はエスカレーターでホテルの最上階に造られているベニスの運河と町並みを模した巨大なテーマパークに行った。そこでは広大な面積の天井にあたかも本物の天と見間違う屋根が張ってあり、その下の有名ブランドショップや大食堂が大勢の人で賑わっていた。

   

   

ホテルを出た後、運河の向こうに中華人民共和国の広東省地域を見ながら、バスで広東料理の店に行って夕食を食べた。それから再度、「セナド広場」の夜景を見てから、再びフェリーで香港に戻った。香港に近づいた時に船の窓越しに見えた夜景が素晴らしかった。




4日目の朝は5時に起き、6時にホテルを出て、飛行場に向かい、9時半の札幌行き航空機に搭乗した。朝食には前日マカオで買った菓子パンを食べた。
帰りは満席ではなかったが、大半の乗客が香港人で、北海道旅行が目的と思われる人達で溢れていた。たまたま私の隣席に香港のツアーガイドが座ったので聞くと、4泊5日で札幌、小樽、洞爺、登別を回るツアーだと言っていた。
香港から多くの人達が初冬の北海道を訪れてくれている事は嬉しかったが、来道後急に気温が下がり、雪景色になった北海道を見て、感激しながらも寒さに震えているのではと案じている。案外、洞爺や登別の大きな温泉にゆったりとつかって、北海道旅行を満喫したのかも知れないが。

新千歳空港に到着したら15時になっていた。行った日より気温は高めで、小雨が降っている中を帰宅した。
今回は正味2日間の観光だったし、時差は1時間だったのでほとんど疲れなかった。そして香港もマカオも実際に行って見て、初めて現地の様子や歴史が分かり、本当に良かった。(完)


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香港・マカオの旅(2)

2011年11月22日 | 海外旅行「中国Ⅱ」江南・黄山・香港、マカオ

また香港は「100万ドルの夜景」で有名だが、日没後、高層ビルに一斉に明かりがつくのを高台のビクトリアピークや海上のスターフェリーの船内から見ると、まるで丈の長い光のカーテンが張り巡らされているように見えるからなのだ。
クリスマスが近づいた今頃からは、ビクトリア湾に面したビルが思い思いにデザインしたイルミネーションを揃ってつけるのも人気を呼んでいた。
しかし、今回は小雨が降る中での見物だったので、私達は残念ながら両方ともすっきりとした夜景を見られなかった。

      

          

中国本土と違って屋台はほとんど見当たらなかった。ガイドの話によると政府が不衛生だとして禁止したらしい。
その代り、食堂は朝4時頃から営業しているそうで、7時過ぎに散歩をした時、幾つもの飲茶料理店に客が入っていた。また、蒸し饅頭を売る店に立ち寄って、私たちが菓子パンを買う様に朝食用に買って行く人も多いようだった。



私達が飲食に使ったレストランの食事は、どこも中国本土に比べて全然脂っこくなく、塩味も薄くて美味しく食べられた。イギリスの影響を受けたためだろうと思う。中国旅行ではいつも胃腸を壊し、1~2日間絶食を余儀なくされるのに、今回はたった4日間で私の体重は1kgも増えてしまった。暫くダイエットしなければならないが、増えた体重を同じ日数で戻せるだろうか。

免税店に案内された時、ブランド品には関心が無いので、ガイドから聞いた近くの「ペニンシュラホテル」に案内してもらった。
このホテルは1928年に創業した香港のトップホテルだ。しかし、実は日本との関係が深い場所でもあった。

1941年12月8日、日本軍はアメリカの真珠湾を攻撃した日に、香港への侵略も始めていたのだ。
ガイドブックによると日本軍は中国深センから国境を越えて九龍市街地を占拠し、香港島へと迫った。香港島にいたイギリス軍と戦闘に入り、25日に日本軍が勝利した。その後、敗戦までの3年8か月間、ペニンシュラホテルを接収して軍政庁にし、香港を南方侵略の基地として占領したという。
その間、香港では食料不足が激化して餓死者が続出、100万人の人々が香港を脱出したらしい。
1945年8月15日、日本が無条件降伏するとイギリス軍がやって来て、香港を支配下に置いたのである。
今でも8月の最終月曜日を「香港解放記念日」として祝っているのである。
日本が戦争をした責任は私には直接無いが、こうした歴史的な事実を踏まえた上で旅行をする必要は絶対にあると思う。

今、ホテルの1階レストランでのアフタヌーンティーが人気で、私が行った時にも20人以上の人達が並んで待っていた。2階の隅では丁度「カルメン」の曲を小楽団が生で演奏していて、ロビー全体が素敵な雰囲気に包まれていた。席が空いていれば私もお茶を飲みたかったが、次回訪れることがあれば、また来たいと思った。

       




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香港・マカオの旅(1)

2011年11月21日 | 海外旅行「中国Ⅱ」江南・黄山・香港、マカオ

庭木の冬囲いを済ませ、先の16~19日の4日間、香港とマカオに行って来た。
今までトランジットで立ち寄った事があるものの、香港がどんな町か知らなかったし、札幌(新千歳)空港から香港空港までのキャセイ航空の直行便を利用したツアーがあったので出かけたのだ。
今回のツアーは4日間といっても、初日は午後4時札幌発の航空機で行き、中2日間だけ観光して、4日目の最終日は早朝に飛行場に行き、9時半発で帰国するという忙しい旅だった。それに私は同行者がいなかったので、1人室の追加料金を払っての旅だった。

事前に現地の気温を調べたら、最高気温は28度になるという予報だったので、北海道と温度差があり過ぎて心配したが、観光した2日間共曇り、時々雨だったため、最高気温も26度と低くラッキーだったが、雨で太陽が出ていないので写真には最悪の天候だった。
今回は観光した場所の様子を1つ1つ書くことは止めて、心に残った事を中心にまとめて見たい。

≪香港≫
札幌からの添乗員はいなかったが、香港空港で迎えてくれた現地ガイドは、香港に30年以上暮らしている日本人女性だったので、現地の生活事情に詳しかった。
1997年にイギリスから返還された香港は、その後も社会主義国の中国から特別行政区として50年間の自治権が認められている資本主義の場所だ。繁華街には世界中のブランドショップが立ち並んでいるが、ビルの地下通路ではホームレスと身障者が物乞いをしていた。
香港は日本と同じアジアの金融の中心地でもあり、中国の元とは異なる香港ドルが通貨だ。最近の円高の影響で、1香港ドルは10円だった。香港島には香港の3つの銀行の他、世界中の銀行が集まっていた。また多くの世界的な企業のビルは、どれも立派だった。

  

現在、多くの島の集合体香港には人口710万人が住むが、土地が狭いために一戸建ての家を建てる事ができない。幸い地震が無いために高層の集合住宅を建てて、その中でほとんどの人が暮らしているという。
ガイドの話によると、低所得者は数十年前に建てられたエレベーターの無い6階建て以上の1~2室のアパートに家族5~6人で住んでいる事が多いらしい。新しい高層マンションも次々と建っているが、100㎡程度だと1億円を下らないので、日本円で1~2万円の月給で暮らす普通の労働者は買う事ができないという。それに失業者も6%以上いて、香港は酷い格差社会だとガイドは言う。
バスから見えたあるビルは、窓にはガラスが無く、安全のために鉄格子だけが入っている古いアパートだったが、ガイドがこれは「難民アパート」と言われていると説明した。
また、窓にガラスが入っている一般向けアパートは狭く、2畳程の広さの台所と6畳程の居間、それに3畳程度の寝室が2室ある位だそうだ。しかし天井は比較的高く造られていて、3段ベッドを置いて生活しているのだという。ガイドは香港の一般住宅は「ネズミ小屋」だと言っていた。
しかし、多くの古い汚いビルが立ち並ぶ背後に、真新しい高層マンションが天にそびえる様に建っていて、それが今の香港の普通の街並みだった。
香港島の高級住宅街を通った時、塀の上にバラセンを設置した所もあった。



 

庶民の足は2階建ての路面電車やバス、島を渡るフェリーだった。路面電車とフェリーには乗った。

   

 








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中国黄山の旅(6)

2011年05月13日 | 海外旅行「中国Ⅱ」江南・黄山・香港、マカオ

最後の見学は「河坊古街」だった。ここは2004年から開発保護された宋代から清代に繁栄した商店街で、明代~清代の古い建物が保存されていて、当時の賑やかな雰囲気を疑似体験できる所である。
30分自由時間が与えられたので、古街の中心まで行って見た。
お茶屋、呉服屋、菓子屋、玉石店、雑貨店などが軒を連ねる通りは賑やかで、金銭と子宝に恵まれそうな金ぴかの布袋大仏の前では写真を撮る人が絶えないようだった。またレトロな建物が多く、古代の服装に身を包んだ餅売りや彫刻があちこちに置いてあって、時間を忘れて楽しめた。
文化大革命の頃、毛沢東が紅衛兵を使って貴重な歴史的文化遺産を破壊したが、今の中国では様々な遺跡や文化遺産の保護に国を挙げて予算を付け、取り組んでいることが見て取れた。中国がそれらの価値に気が付き、ユネスコが後押しをしていることは良い事である。

  

 

夕食後は、オプショナルで「西湖の夜歌舞ショー」を見に行った。4列目の席に座って、目の前の舞台で繰り広げられる杭州の歴史をテーマとした華やかなショーを見たが、十分に楽しめるものだった。

  




杭州市のホテルは12月に2泊したホテルだったので、5日目の朝は早めに起きて娘を誘い、6時に付近を散策した。
前にも行った市場では、既に商いの準備をしていた。肉屋が大ナタで豚肉を切り分けていたので写真を撮らせてもらった。
通りに朝食用の屋台が色々出ていた。娘が買った鶏卵とひき肉入りのパンケーキが美味しかった。

  

朝食を済ませ、7時40分にホテルを出て、国内最大の国営シルク店とお茶博物館を見学、ショッピングした。
お茶博物館は茶の農園を持っていて、茶の世界的な栽培分布や製法の違い、中国茶の種類他が分かりやすく展示されていた。
シルク店は、広大な敷地を有する立派な建物の店だったが私達以外の客はいなかった。こんな状態で経営が成り立つのだろうかとグループの男性たちが心配していたが、私は国営企業なのでそこは大丈夫なのだろうと思った。シルク店でスカーフを買った。

       

杭州空港に着いてから現地ガイドと別れ、個々人で搭乗手続きを済ませてから、杭州空港発13:40のANAで帰国した。
私と娘は成田空港に17:50に着いた後、同行者たちと別れて、日航成田ホテルに後泊し、翌日10:20発の飛行機で新千歳に戻った。
黄山は健脚者向けだったので帰国後に疲れが出たが、黄山の光景が期待以上に本当に素晴らしかったので、また中国の別の高山に行きたいと思っている所なのだ。(完)


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中国黄山の旅(5)

2011年05月11日 | 海外旅行「中国Ⅱ」江南・黄山・香港、マカオ

4日目となる5月3日の朝は、最後の朝日を鑑賞するチャンスだったが、夜中強い雨が降り、朝日を望むことはできなかった。
朝食後、7時半にホテルに別れを告げ、「雲谷二索」のゴンドラ駅に向かった。
2泊分の荷物を入れたリュックは重いし、登りの石段がずっと続くので、前日の登山よりも私にはきつかった。まさに「行きはよいよい、帰りは恐い」だった。
ゴンドラが動き出すと10分間で下に着いた。
5月1日の朝は、ゴンドラの営業が8時からなのに、すでに朝の3時からここに人が並び始め、昼迄は3時間待ちだったと聞いたが、メーデーの休日が終わったので、見ると並んでいる人は誰もいなかった。また、待っていたクリーンバスに乗って大型バスの駐車場に戻った。

 

1時間バスに乗り、着いた所が世界遺産「イ県古民家村・宏村」だった。
ここは南宋時代に造ったという半月型の池があり、そのほとりに明、清代の古民家が150軒ほど点在し、今も数百人が暮らしているという。
かってはこれという産業がなく、男たちは何年も遠くへ出稼ぎに行ったり、商人として働いたりしたらしい。
家に姑と残った嫁さんが夜中に寝室から逃げ出さないようにするため、2階の窓は小さく作られ、鉄格子がはめられていた。当時の結婚で嫁に期待したのは、後継ぎの子供を産むことと老いた両親の介護だったのだ。

  

村の中心にある池では、老女が鍋を洗っていた。数人の女性が仲良く筍の皮むき処理をしていた。小路の店では焼いた鶏肉などを売っていた。
美術専門学校の学生が村を写生していた。ガイドによると、今では古民家の建築者がいなくなったので、学生に学ばせているのだそうだ。

   

古民家の一つに塩の商売で財をなした「汪志永」の立派な家が残されている。
中に入り、両親の居室、アヘンを吸う部屋、麻雀室などを見て回った。
アヘン室の床は、石灰と豚の血液、もち米の粉を混ぜて作ってあった。石灰は消毒作用があるから使われたのだろう。
麻雀室には、汪志永の妻が来た時に、2人の妾が隠れる暗室もあった。家事や接待は妻がやり、妾は麻雀室で遊んでいたのだと言う。
また応接室にある2か所の出入り口の上部には、「商」の字をデザインした素晴らしい木彫りの飾りがはめ込まれていた。当時、商人は身分が低かったが、身分の高い権力者でもその入り口から入ると商人の下になる様にと考えられた作りだという。

 (両親の居室)

              (応接室の出入り口上部)

宏村を出てから杭州市の「西湖」に向かい、霧に霞んだ西湖を1周、船で遊覧した。12月の時は、半周しただけだったので、西施になったつもりでゆったりと湖上から周囲の景色を楽しんだ。

       

 

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中国黄山の旅(4)

2011年05月10日 | 海外旅行「中国Ⅱ」江南・黄山・香港、マカオ

3日目の5月2日は、4時半に起きて5時20分位に昇るはずの朝日を鑑賞する予定でいたが、夜から朝まで強い雨が続いたために中止された。
7時過ぎにレストランに行き、朝食を食べた。

塩茹で卵、ちまき、おかゆ、ソーセージ、キャベツの油炒め、セロリの油炒めといった山らしい簡易な食事だった。

8時半にホテルを出発して階段状の登山道を登って行った。どこからやって来たのかと不思議に思う位大勢の人が石段を登り、一団となって上を目指した。その人混みの中を天秤棒にペットボトルや物資を下げてゴンドラの駅からホテルに運んだり、反対に客が使い終わったシーツやタオル類をホテルから駅まで運ぶ「強力さん」が、休み休み行き来していた。(環境を守るために、洗濯は下の町でするためだ)
石段は自分で好きな歩幅を選べないから登るのがきつい。私は時々ガイドに休ませてくれと頼んで、1~2分立ち止まらせてもらいながら登った。

霧雨の中を2時間20分登り続けて、遂に10:50、標高1860mの「光明頂」に着いた。
黄山で1番高い山は1864mの「蓮花峰」だが、「光明頂」はそれに次ぐ2番目に高い山だ。
そこの広場も展望台も人で溢れ返っていたが、残念な事に濃霧のために眺望は効かなかった。広場にはテントが張られていて、食べ物を売る店が出ていた。「光明頂」には、ホテルや気象台もあった。

   

        

そこで40分程休憩してから、黄山の西側に向かって歩いた。その道に入るとすっかり人影はまばらとなったため、私たちは静かな山道をのんびりと歩いた。
やがて高さ12mもある「飛来石」と呼ばれる奇岩の展望台に着いた。写真を撮ってから「飛来石」の所に行った。
ガイドは、「男は左手で、女は右手で飛来石をなでると健康で長寿できます。」と言ったが、私はつい両手で触ってしまった。
この不安定に見える石は、伝説ではインドの空から飛んで来てこの岩に突き刺さったと言われているが、本当は大雪があった遥か昔に運ばれて来て、今の所に辿り着いてから雪が溶けて留まったと考えられているそうである。

   

暫く行くと左右の岩山の間に、谷を挟んで向こうの岩山が見える場所があった。その頂上の左側の岩が観音様の横顔にそっくりなので、土地の人の信仰を集めている様だった。
      

やがて急な下り階段が続いた。その先に「印鑑岩」があった。そこからさらに急な石段を下ると村があるそうだが、私たちはそこで引き返した。
その近くの谷底に霧が漂い始めると幽玄な雰囲気に包まれた。20分程、谷底と雲海を眺めて写真に収めた。

   

               

下った分をまた登ってホテル「西海飯店」に行く事にした。ホテルの近くにある「西海水庫」は、高山に囲まれた深い大きな峡谷になっていて絶景だった。
「西海飯店」で昼食を済ませた後は自由散策だったので、私はロビーで少し休んだ。

ホテルの前から観光客のための籠かきが出ていた。目的の距離によって値段が決まっていた。丁度、お年寄り2人を担いで行くところだった。籠かきの2人にのど飴を渡したら喜んでくれた。

15時半に「西海水庫」の展望台に行って見ると、丁度、峡谷に雲海が立ち込めて来たところだった。刻一刻と靄が立ち昇って来て、最後には谷全体が真っ白になった。全く幻想的な体験ができて、日本から遥かな黄山へ来た甲斐があったと心から思った。

  

17時過ぎには夕日が見られると言うので展望台で待ったが、太陽はついに姿を見せなかったため中止された。
そこから40分、きつい階段を上り続けてやっとホテル「北海賓館」に戻った。その日の夕食もとても美味しかった。

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中国黄山の旅(3)

2011年05月08日 | 海外旅行「中国Ⅱ」江南・黄山・香港、マカオ

2日目は5時半に目が覚めた。昨夜とは違う静寂さが烏鎮を包んでいた。

 

黄山にいる2泊3日の生活に必要な荷物をリュックサック1つにまとめて入れた。スーツケースは山に持って行けないので下に置いて行くのだ。
民宿のお父さんが作ってくれた麺の簡単な朝食を食べてから7:50に集合し、バスで4時間かかる安徽省の黄山山麓の町「屯渓市」に向かった。
屯渓市に着いたのは昼だったが、そこは大きな町だった。古くから茶葉の交易路にあって、優秀な商人を多く輩出した町でもある。
立ち並ぶ集合住宅の屋根には、太陽光を利用する温水器が並べて設置されていた。
また建築中の集合住宅も沢山あった。ガイドに聞くと、農村から都市に出稼ぎに来た多くの人達が住むために、建てているのだそうである。
何でも今年、政府は労働者の賃金を20%アップすることを打ち出しているそうだ。
(今回のガイドは、中国がGNPで日本を抜いて世界第2位になった事を1度も言わなかった。その代り、中国人は5%は金持ちになったが、95%は未だに日本の1/15の収入で貧しい暮らしをしていて、自分もその一人だと言っていた)

  

屯渓のレストランで美味しく昼食を食べた後、「老街」という古い町を散策した。
手が混んだ木彫の装飾が目を引く宋代から明代に建てられた古い江南建築の商店街が立ち並んでいた。また、「ウダツ」を上げた白壁と黒瓦の伝統的な家の作りも特徴的で、特産のお茶や乾物を売る店、名産の硯を売る店などが軒を連ねていた。
自由時間が30分あったので、お茶屋でガイドに勧められたゴマの菓子を買った。

   

いよいよバスは山間地に入り、曲がりくねった道を進んで行った。外には平地だけでなく斜面にも至る所にお茶畑が作られていた。このあたりの山地は、平均気温が低い上に霧が多いので、良質のお茶ができるのだろう。

途中の町でバスを降り、入山専用のクリーンバスに乗り換えた。そのバスは電気で走るバスのようだった。
曲がりくねった山道をバスがかなりのスピードで走って来たので、私は気分が悪くなり、クリーンバスでは前の空席に座らせてもらった。ここからは山岳ガイドが1名加わった。この方は、私たちが山を下りるまで一緒にいて、何かとサポートしてくれた。

黄山は標高1000mを超す高い山が72もあり、その峰々が連なる名峰で、中国十大風景名勝地の1つであるばかりでなく1990年にユネスコの世界遺産に登録された広大な山地なのだ。
ガイドの話では、1億2000万年前に海中で爆発した火山が隆起してできた地形なのだという。
登るには4基のゴンドラがあるのだが、私たちは最も東側の「雲谷寺」から上がって上の「白鵝峰」まで行く新しい「雲谷二索」のゴンドラに4人ずつ乗った。標高差773m、距離2.8kmを10分間位で登るのである。丁度、霧が漂っていて視界は悪かったが、ゴンドラから見る景色は素晴らしかった。
安徽省出身の江沢民は黄山が好きで、彼が登ってから高速道、高速鉄道、黄山の山道が整備されたのだそうだ。到着した「白鵝峰」の駅からは整備された石の階段がどこまでも続いていた。
ガイドに言われて良く見ると、歩いている石段は山の斜面から突き出して作られていて、私達は空中に浮いている有様の場所もあった。世界遺産とはいえ、登山道を作るだけで難工事だったことだろう。

   

           

景色が素晴らしく、かつ、高度差を実感できる幾つかの場所で写真を撮りながら歩いて行った。強風のために片側にしか枝葉が出ていない松が多かった。やがて山中にある「北海賓館」ホテルが見えて来た。ほとんど下りのコースだったので、楽しんでいる内にホテルに着いた。(その代り帰りは登りが続くことになるのだ)
このホテルは、黄山に数か所あるホテルの中で4つ星のホテルだ。ホテルの営業と生活に関わる物資は、何から何まで下の町から調達しているのだが、ゴンドラの駅からは階段道しかなくて車を使えないため、運搬は全てを人力に頼っているのだ。「強力さん」と呼ばれる男性が、天秤棒の前後に85kg以上の荷物を下げて、休み休み階段を上下する姿は痛々しかった。

ホテル前のテニスコートに、カラフルなテントが沢山張ってあった。ガイドに聞くと、ホテルが満室なので、止まれない人達は4000円でテントを借りてここで泊まるのだそうだ。山の天気は変わりやすくその夜も雨が降った。テントで寝た家族たちは、さぞ寒かっただろうと想像した。
このホテルに2泊したが、夕食は美味しかった。
(テーブルにある陶器の壺には岩竹のスープが入っていた。岩竹は黄山の断崖絶壁に貼りつくようにして生えているきくらげに似た黒いキノコだ。その収穫作業は危険なため、非常に珍重され、高価なものである.手前の料理はその岩竹と卵の炒め物)

  

 

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中国黄山の旅(2)

2011年05月07日 | 海外旅行「中国Ⅱ」江南・黄山・香港、マカオ

成田日航ホテルでの前後泊を入れて6泊7日の中国の旅を終え、5日に無事帰宅した。
留守中は予想外の低温と雨が続いたらしく、ベランダに出して行った苗やゼラニュームが弱っていて驚いた。
今回の旅は黄山の山中にあるホテルで2泊して軽登山を楽しむことが中心だったので、帰宅後、筋肉痛やら全身疲労が出て昨日まで静養していた。

4月30日、成田空港発10:10のANAで飛び立ち、3時間半後の12:40に予定通り中国杭州国際空港に降り立った。
飛行機から見た杭州市は、どこまでも整備された田圃と農地が広がっていて、13億国民の食糧供給地の一つであることが分かった。

今回のツアーは、日本からの添乗員は無かったので、杭州の空港で荷物を受け取って出口を出た所で初めて現地ガイドに会った。
ガイドは40歳代の男性で、特に黄山の案内と安徽省の観光を得意としている人だった。
人数も10人と少なく、和気あいあいとまとまりやすかったし、円卓を囲む食事の際も丁度良い人数だった。バスは32人乗りで、1人2席でも余り、ゆったりとした快適な旅ができた。

しかし、予想外だったことは、5月1日のメーデーは中国では国を挙げた祝日で、国内旅行を楽しむ中国人が全国から観光地に大挙して押し寄せていた事だ。そのため4月30日~5月1日は、本当に人の波をかき分けて進むという状態で驚いた。世界遺産黄山の登山道も、さながら黄山銀座の様子を呈していたのだった。

では1日目、杭州空港から3時間半かけて向かった古都「烏鎮」(ウチン)の様子から書きたい。
私は昨年12月に行っているので懐かしい場所だったが、気温が26度という蒸し暑さの中、今回はまず、大河「銭塘河」に繋がって張り巡らされている烏鎮の東圏の運河を小舟で遊覧した。
その後、12月には静かだった狭い路地や運河沿いの道を、人をかき分けながら進んだのだった。
中国人もツアーで来ている人が多く、何人ものガイドがハンドマイクでボリューム一杯に喋る音がけたたましく感じられた。
前回行った木彫り博物館や藍染工房(今は営業していない)、作り酒屋、ベッド博物館などを見てから、烏鎮の郷土料理の夕食を取った。

   

それからバスで西圏に移動し、私たちは古民家に設けられている民宿の数か所に分かれて宿泊した。
烏鎮西圏は4年前から民宿の営業ができるように整備されたのだという。古民家の2階の部屋は、狭いながらもツインの部屋の中に洗面所、シャワー設備、空調が整えられていた。
小休憩してから暗くなっても人で溢れる運河沿いを娘と散策した。ライトが灯された古都の夜景には独特の雰囲気があった。運河にかかる幾つもの小さな石橋も、人で溢れていた。
散策を切り上げて民宿に戻り、寝る事にしたが、外は23時頃まで賑やかだった。

           



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中国黄山の旅(1)

2011年04月29日 | 海外旅行「中国Ⅱ」江南・黄山・香港、マカオ

ここもやっと紫つつじや水仙が開花し出し、少しずつ庭に彩が出て来たところだが、本日午後、新千歳空港から成田空港行の飛行機に乗り成田のホテルで前泊して、明日(4月30日)は成田10:10発の全日空機で中国杭州空港に向かう。
成田⇒杭州は、時差1時間で3時間半の空の旅だ。
今回の6泊7日の旅行の中心は、上海の南西に位置する山々が連なる黄山の観光だ。
本当は2月末に4月上旬出発の旅を申し込んだのだが、その後、東日本大震災が発生し、私以外は全員がキャンセルしたため催行中止になったのだ。それで催行されるというゴールデンウイークのツアーに止む無く合流することにしたのだ。
この日程なら働らいている娘も行けそうなので誘った所、結局、クロアチア旅行以来久しぶりの娘との旅行となった。

明日、杭州空港に着いてからはバスで烏鎮に向かって、観光後、宿泊する。
私は昨年12月、江南地方のこの辺りには行っているので、場所によっては懐かしい旅となりそうだ。

明後日は2連泊分の荷物を持って黄山山頂までロープウエイで上り、山頂のホテルに泊まる。
3日目は1日ハイライトの黄山観光だが、天気予報を見ると雨の予報が出ているので、どうなることやら。天候だけは仕方がない。
4日目は、黄山から降りて山麓の村を散策し、その後屯渓を経由して杭州に戻る。
5日目は杭州で西湖遊覧後、午後、杭州空港から成田空港に戻る。
帰国後も成田のホテルに後泊し、翌日、新千歳空港に戻るので、今回はゆったりした旅行だ。

働く人が行ける連休は旅行代金が高いので、毎日が日曜日の私としては本当なら連休中のは外したいので、今回はひょっとして娘と行く最後となるかも知れない。
また、今日出かけるために、冬中家の中に置いてあった草花を庭に下したり、差し当たって蒔ける野菜の種を庭に蒔いた。
室内の窓辺で育てた花や野菜の苗の植え付けなどもあって忙しかった。帰ってくる1週間後の5月5日にはどんな庭になっているか楽しみである。
帰宅後は気温も安定して来るので、友人の家の菜園に仲間とじゃが芋、さつま芋を植えつける事にしていて、農協に種芋を頼んである。

そんな訳で、少しの間、留守にする事になるが宜しく。

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中国江南の旅(9)

2010年12月30日 | 海外旅行「中国Ⅱ」江南・黄山・香港、マカオ
7日目(12月17日)は、上海の市内観光だった。
この日も朝から晴天で心地よい陽気だった。
立派な高層マンションがひしめき合う様に立っている場所でも、また古い低層アパートでも、晴れの日を待っていたかの様にベランダに洗濯物を干している家が多く見られた。
ガイドはそれを見て、「万博前から上海では、洗濯物を外に干さないようにと呼びかけているが、家が狭いので室内に干す場所がない家が多い。しかし、下着を堂々と干すのは恥ずかしいから止めて欲しい。風が強い日にパンツが飛んできて通行人の顔にぶつかった事もある。」と話した。立派なマンションのベランダに干されていた古そうな布団を見て、ガイドは「1億円のマンションに住む人が寝ている布団には見えない。恥ずかしい。」と、しきりと嘆いていた。

最初、伝統的なデザインの建物が多い豫園市場①の混雑を抜けて、明代の1577年に建設された名園、「豫園」に行った。
ここは四川省の役人、潘允端が父親のために建築した私邸なのだ。私がここに来るのは2回目だったが、大きな龍が上を這う壁②、太湖石の庭など、当時の美意識を改めてあちこちに見る事ができた。さざんかが咲いていて、庭に華やかさを添えていた。③

 ① ② ③ 

豫園を見てから上海博物館に行った。ここは1996年12月にオープンした4階建ての近代的な博物館だった。④
中国古代青銅館、古代彫塑館、絵画館、古代陶磁館、古代玉器館、少数民族工芸館、歴代印鑑など、テーマ毎の部屋に分かれていた。
私が目を見張ったのは、仏像の展示⑤と民族服の展示⑥だった。1時間半があっという間に過ぎた。

 ④ ⑤

 昼食は小龍包と点心料理で美味しかった。中国の人達も沢山食べていた。
(ガイドブック「地球の歩き方」に、「レストランの中には中国人向けと外国人向けのメニュー表が別々に作ってあって、同じ料理でも価格が異なる事も多い」と書いてあったのを思い出した)

その後、浦東地区にある上海ヒルズに行った。この地区には、まるで未来都市さながらに超高層ビルが立ち並んでいて、上海経済の高度成長を見せつけていた。⑦
上海ヒルズは、地上98階建ての492mのタワー状の建物⑧である。(近くで撮ろうとしたが、余りに高くて上まで入らなかった)
高速エレベーターで94階の展望台に上がり、360度、上海を上から見下して写真を写した。⑨
丁度クリスマスを前にして数本のツリーが立てられていて、それに下げるカードを自由に書けたので、私も「また上海に来られて幸せです。JAPAN、○○」と書いて下げて来た。従妹もその友人も何か書いて釣っていた。

 ⑦ ⑧ ⑨

最後にお茶屋と100元ショップに連れて行かれた。
お茶屋では高価なお茶ばかりだったので、誰も買わなかった。100元ショップは、日本の100円ショップにヒントを得て、開店したと店長が説明してくれた。100元は日本円で1300円だが、貨幣価値が違うので、3000円以上の商品を取りそろえているように見えた。ここの価格は手頃だったし、同じ品物で今まで行った店よりも安いものもあったので、何人かがお茶やクッキーなどを買い求めていた。

夕食はホテルで食べたが、変化に富んでいて最後の食事にふさわしいものだった。




翌朝ホテルを5;15に出発し、不味い朝食の弁当をバス内で食べて上海浦東国際空港に行った。現地ガイドと別れ、8;15発の飛行機に搭乗する手続きは個人で済ませて、中国東方航空機の新千歳空港行き直行便で帰国した。
今回の旅行は、全体を通して見ればホテル良し、食事良し、観光良しで良い旅だった。
ただ、天候は悪かったが、これは仕方ない。帰国後の上海は、毎日晴天続きらしかった。
来年は、また数度目の中国のどこかに行きたいと思っている。 
つたない旅日記を読んで下さった皆さん、有難うございました。皆さんは中国江南地方にどのような感想を抱いただろうか。できればコメントをお願いします。 (完)




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中国江南の旅(8)

2010年12月28日 | 海外旅行「中国Ⅱ」江南・黄山・香港、マカオ
6日目(12月16日)は、幸いに晴れていた。
予定より1時間早い8時半にホテルを出て、浙江省の首都で人口800万人の杭州市内観光のために、また、昨日走れなかった高速道路を2時間かけて杭州に向かった。

バスの中で、今の「1人っ子政策」について、上海や北京では、両親とも1人っ子なら、2人まで生むことができるし、農村では1人目が女児ならもう1人生んでも良いとガイドが説明した。違反したら、40万~100万円の罰金が科せられるそうだ。
それを聞いて私は、金持ちだけは自由に子供を持てるのかと思った。罰金が払えなくて、社会的に隠し子になってしまう子供もきっと多い事だろう。
また、土地や国営のマンションは、国から70年間、借りる契約を結ぶのだとか。
土地の私有が認められない中国人は、私有することと投資に魅力を感じて、最近、日本の山野や住宅を買い漁っているのではとも思った。
ネオンサインで飾られたような高層マンションは、上海の郊外では1㎡25000元(32万円)以上しているので、1坪では100万円を超す価格で販売されているそうだ。
さらに物価も最近は月5%も値上がりしているので、庶民の生活は苦しいが、値上げしないものもある。ガイドは、バランスが大事で、大事な費用を重点的に支出すると言っていた。

まず西湖の岸辺でバスから降りて、写真を写した。昨夜まで降った雪が木々を飾り、美しい雪景色に変わっていた。①
それから高台にある印鑑の販売店に案内された。さざんかが咲いていて美しかった。②
誰も高価な印鑑は買わなかったら、先日、刺繍研究所で言われたのとほぼ同じ言葉を言われて、また、私たちは不愉快になった。
私は、高齢者の旅行団体には、もう印鑑は売れないのにと思った。
販売店のトイレは中国式のニーハオトイレだったが、私は思い切って実験的にグループの女性と並んで使ってみた。別に大騒ぎするほどの事は無かった。③

 ① ② ③

それから西湖の40人乗りの遊覧船に貸切で乗った。④ 中国に来て初めて晴天になったので、気温はまだ低かったが気分が良く、湖畔の景色も墨絵の様だった。⑤
中国の定年は、男性60歳、女性58歳だというが、65歳以上の高齢者は西湖で無料で釣りを楽しめるのだそうだ。

 ④ ⑤

向こう岸で降りて、2.5km程バスに乗り、浙江省第1の大河、銭塘江の畔に建つ「六和塔」に行った。⑥
この河は、旧暦8月の中秋節の頃、海の海水が逆流する海嘯現象が見られる事で有名だが、970年にここを治めていた呉越王が、銭塘江の氾濫を鎮めるために古代レンガと木で建てた高さ60mの塔を建てたのだ。それが六和塔なのである。
自由時間が25分あったので、私達3人は1人10元を払って上の展望台まで上ることにした。
階段は急で、数えたら230段もあった。途中で休みながら、何とか10分で上に着いた。外観は八角13層に見えるが、内部は7層になっていた。
展望台からは銭塘江とその周辺の景色が手に取るように見渡せ、大満足したのだった。⑦

 ⑥ ⑦

昼食後、バスは一路180kmの距離を、3時間かけて上海に向かった。郊外には超高層マンションが天を衝くように建てられていた。⑧
上海に入って直ぐに高反発素材、ラテックスの店に立ち寄った。そこは日本人のための店で、日本人スタッフが説明をしてくれた。生ゴムでできたラテックスのマットレスと枕に客を試験的に寝せて試させた後、販売をした。枕は1つ、6500円もしたが、大勢の人が次々と購入したのには驚いた。

 ⑧

四川料理の夕食を終え、ホテルへ向かう頃にはラッシュになっていた。上海の道路は車がとても多く、バイクや自転車も結構走っていた。
ホテルには18時についた。夕食後、従妹と友人は、オプショナルの「上海雑技団」の公演に行くためバスで行った。
私は前に見ているので、のんびりと風呂に入り、先に寝た。



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中国江南の旅(7)

2010年12月25日 | 海外旅行「中国Ⅱ」江南・黄山・香港、マカオ
5日目(12月15日)、目が覚めてカーテンを開けると昨夜までの雨が雪に変わっていた。
何故か出発時間が10時半と遅かったので、昨夜、ホテルの近くにあると聞いた市場に朝食後3人で行って見た。
かなり大きな市場で、杭州市民の台所らしかった。
様々な活魚が売られていた。女性たちが肉を大胆に切って売っていた。①
何度か料理に出たアヒルの血を固めて作った豆腐もあった。② 豆腐や油揚げも売られていた。③
野菜は山積みにされ、私が見たこともないものもあり、とにかく市民が沢山買いに来ていて活気に満ちていた。

 ① ② 



10時半に集まり、雪が降る中、バスで70km先の紹興まで行った。
昼食を済ませてから、魯迅ゆかりの立派な「魯迅故居記念館」に行った。④
入り口を入るとホールで魯迅(本名、周樹人)の像が出迎えてくれた。⑤

展示を辿りながら、官吏の子として生まれた魯迅には、子供時代、遊び友達がいなかった事、難関の科挙の試験を受ける事に成った時、孫を合格させようと試験官に金を渡した役人の祖父の不正が見つかって捉えられ、祖父は死刑になった事、間もなく父も病死して、地主だった実家は没落してしまったことなどを、ガイドが説明した。
さらに私が調べた所、その後魯迅は、政府から多大な奨学金をもらって日本に留学し、1909年、仙台医学専門学校(現東北大学医学部)に入学した。
しかし、そこで中国人が殺される日露戦争のニュース映像を見て心を傷め、医学より文学による精神改造が中国人には必要だと考え、1年半で退学し、文学者になって、最初の小説「狂人日記」を書いたという。(私は読んだことがないので、今度図書館から借りたいと思う)

その後、近くにある魯迅が子供時代に学んだ私塾の「三味書屋」を見学した。
三味とは、経典が米や穀物、歴史がご馳走、芸術が肴の意味らしい。魯迅はここで12~17歳まで学んだ。
建物も教室も、ほぼそのまま保存されていた。⑥ 1度遅刻をして叱られてからは、2度としなかったという魯迅のエピソードが残されていた。

 ④ ⑤

 ⑥

次いで、紹興名物、紹興酒の製造元⑦に行って、製造工程を見学した。写真撮影は禁止された。
紹興酒の製造は、2500年前に始まったという。
当時、男の子が生まれたら豚1匹、女の子が生まれたら紹興酒1壺が、祝いとして王様から与えられたそうだ。
最後に事務所の2階に通され、5年物と10年物の紹興酒を試飲させて貰ったが、10年物の方がまろやかな味だった。欲しい人は買ったが、私は味が好きではないので買わなかった。

いよいよ杭州に戻る頃、雪が激しくなって来た。こちらの車は、夏タイヤしか履いていないという。高速道は事故で通行禁止になったらしく、バスは普通道路を戻るしかなかった。
夜になった。降りしきる雪の中でスリップして追突し、ストップした車を何台も見かけた。警察のパトカーも走っていた。
バスがやっと杭州のホテルに着いたら、22時近くになっていた。駐車場の車にも雪が積もっていた。⑧
私はバスから降りる時、夏タイヤで頑張った運転手さんに、心からありがとう(謝謝)と言った。 
 ⑦ ⑧
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中国江南の旅(6)

2010年12月24日 | 海外旅行「中国Ⅱ」江南・黄山・香港、マカオ
4日目(12月14日)は烏鎮の観光に行くため、ホテルを9時に出た。この日もやはり雨が降り続いていた。
烏鎮は蘇州から80kmあり、杭州との中間にある水郷の町として宋代に発展をした。多くの商人の他、文人も集まった所だという。
運河には色々な形の橋が架かっていた。火事の際の類焼を防止するために立派な『うだつ』を上げた古民家もあった。①②③

 ① ②

 ③

最初は、烏鎮出身の作家、「茅盾故居」の見学だった。
農民の出身だった茅盾(ぼうじゅん)先生(1896~1981年)④は、北京大学に合格した英才だったという。しかし、大学を中退し共産党に入党した。
国共合作が崩壊してからは、農民の貧しい状態を改善するには小説を書いて啓蒙するのが1番だと気づき、作家活動に専念して多くのリアリズム小説を発表した。
1928~1930年には日本に亡命もした。1949年、新中国が成立してからは文化相の職に就いた。
このようにして現代中国文学の代表作家の地位を築いた後、死の直前に本人が申請して党籍が回復され、葬儀は国家葬だったという。
私には全く知らない人だったので、ガイドが熱を入れて説明をしてくれたのに対して、多少違和感があった。「茅盾故居」は、北京にもあるという。

その後、運河沿いの古い街並みを歩いて行くと、運河で洗濯をしている女性を見た。⑤
また、今は営業をしていない藍染工場があった。染めた布が、降る雨の下で濡れていた。⑥
木彫り陳列館を見たり、最後は昔の薬屋だったという店を覗いた。
白壁と黒瓦という独特の雰囲気を残す烏鎮も、ボートが浮かぶ古い街並みの保存を計画しているのだという。

 ④ ⑤ ⑥

観光が終わり、杭州迄の100kmを1時間ほどで走る途中、道路工事をしている場所で、無錫の女性ガイドの話を思い出した。
この時期に都市で工事に携わっている人たちの大半は、農閑期の農民たちなのだという。
その話をした後、彼女は続けて、『結婚相手に求める中国女性の条件 』を教えてくれた。
牛の様に働く事、犬のように忠実な事、羊の様におとなしい事、豚のように何でも食べる事、もう一つあったが忘れた。
私はその言い方のエゲツナサに驚いたが、中国女性の本音なのだろうと思った。

ホテルに着いたのは4時前だったので、5時半の夕食までホテルの近くを3人で散策した。
傍に4階建ての衣料品のデパートがあったので、入って見た。数年前迄の中国の衣料品とは明らかに違うモダンな感覚にデザインされた衣料品やスポーツ用品、バッグ類、靴などが沢山並んでいた。
考えて見たら不思議な事ではないのだ。中国は今や、日本を始めとする世界中の国々から生産を請け負って輸出する国になったのだから、デザインも生地も縫製も、その全部をすでに自分たちの物にしてしまったのだ。

果物を綺麗に並べた屋台が並んでいた。しかし私たちは、安心して買いたかったので横の果物屋に入って金柑とぶんたんを買った。どちらも新鮮でとても美味しかった。⑦
柑橘類は寒い北海道にはないので、検疫がなければぶんたんを2~3個買って帰りたいくらいだった。
軽食店に入りコーヒーを頼んだ。出てきたのは砂糖がたっぷり入ったミルクコーヒーだった。

                     ⑦



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中国江南の旅(5)

2010年12月23日 | 海外旅行「中国Ⅱ」江南・黄山・香港、マカオ
3日目の12月13日は、蘇州の市内観光だった。この日もやはり朝から雨で、気温も低かった。
私達3人は前日に続き、雨合羽を着用し、中に重ね着をして暖かくしていたが、他の人から「どうして合羽なんか持って来たの?」と聞かれた。「ネットで上海の1週間の天気予報を調べて来たら雨続きだったから。」と答えたら、驚いていた。

この日は、先ず唐詩に詠われた「寒山寺」へ行った。
この寺は6世紀初めに創建された臨済宗の寺だが、火災等で現存するものは清代のだそうだ。①②
日本でも知られている張継の詩『楓橋夜泊』は、この寺を詠んだそうだ。詩が刻まれている石碑を見た従妹が、詩吟を詠い出したので驚いた。③

 ① ② ③

次に江南随一の名園と言われる「留園」を観光した。④⑤
太湖の底から取り上げた穴が沢山開いている白い独特の太湖石で飾られている庭もあった。⑥

 ④ ⑤



それから「虎丘斜塔」に行った。小高い丘の上に建つ高さ47mの塔は丁度工事中だったが、宋代の961年に建てられたそうだ。
400年前から地盤沈下の影響で傾き始め、現在は15度も傾いているらしいが、ガイドの説明では、後400年は持つという。雨が降りしきる中で写真を撮った。⑦

その後、「中国蘇州刺繍研究所」を訪れ、両面刺繍の作業と作品、それを張った額縁や衝立の商品を見せられた。
どれも恐ろしく高価(数十万円~百数十万円)なものだったが、私たちの生活様式には合わないようなものだった。
誰一人として関心を示さなかったので、説明、販売をした男性は、「中国人は今、沢山日本に行って、みんな高額なお金を使い、品物を買って帰るが、日本人は中国に来ても、見るだけで何も買わずに行ってしまう。みんな年金生活者なんだろう。」という言葉を吐いた。とても聞き難かった。

蘇州は昔から桑畑が多く、養蚕が盛んな地域だという事で、続いてシルクの寝具や衣料品、服飾品を売る店に行って見学と買い物をした。
店の一部に、まゆから絹糸を取り出す作業が見学できるようにしてあった。⑧ 
蘇州の繭は、日本のよりも大型で黄色い種類だ。ほどいて絹糸を取るよりは、繭を熱湯で潤かしたらそのまま3~4人で引っ張って広げて行くのだ。だからそこの1番の商品は、そうして取った絹の真綿の布団だったが、私たちは別の場所に行って、手ごろな価格のシルクのスカーフを買った。

 ⑦ ⑧

帰路、バスはガソリンスタンドに立ちよって給油した。ガイドの説明では、近年、経済成長が続いているので大型トラックが増え、国内のガソリンが足りなくなってきたため、バスには1度の給油で300元(約4000円)分しか入れてくれないのだと言っていた。ガソリンの値段は、1L100円だそうだ。
また、高速道路の料金は、農産物を輸送する車は無料なのだといったいた。
これを聞いて私は、日本も生活必需品の税金や輸送経費をもっと安くして欲しいなと思った。

夕方、蘇州のホテルに着いたが果物が食べたくなったので、ホテルのフロントに、「水果店」と書いた紙を見せて果物屋が近くにあるか聞いた。
教えられた方角に歩いて見たがなかなか見つからない。途中に菓子屋や饅頭屋があった。覗いて見たが、とても食品を扱っている環境とは思えなかった。中国の郡部の商業事情は、まだまだだった。
やっと小さな水果店を見つけ、ミニトマトと金柑を買って部屋で食べた。安くて新鮮で美味しかった。
この経験から、今回、旅行会話・中国語を持って行って良かったと思った。
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中国江南の旅(4)

2010年12月21日 | 海外旅行「中国Ⅱ」江南・黄山・香港、マカオ
2日目は、予報通り朝から雨だったが、無錫の市内観光からスタートした。
現地ガイドの40代の女性がバスに乗り込み自己紹介した。
自分は如何にベテランガイドか、今はお金のためではなく全くの趣味で時々ガイドをしている、普段は毎日エステに4~5時間通っているなどと話し、私たちの反発を買った。

まず「三国志」のドラマのロケ地だというセットを見学した。①
次に、琵琶湖の3倍の面積だという太湖の遊覧船乗り場に行った。
雨が降っていたので、船着き場まではほろの付いた軽トラックに乗った。往復で1人20元(280円)だった。「赤壁の戦い」のロケで使ったという木造の遊覧船は、中国人で混雑していたが、雨にけぶる太湖を30分程遊覧した。②

その後、現地ガイドに太湖で烏貝に核を植えつけて淡水真珠を養殖販売している店に案内され、店長から真珠を取り出すところを見せられた。③ 淡水真珠は1個の貝から20~30個も採れるが、形がいびつな真珠だった。
誰も真珠は買わなかったが、私達女性は真珠を粉にしてから作ったという高価な真珠クリームを少しずつ分け合って買った。
 
 ① ② ③

午後は水郷の里「同里」の見学だった。
雨が止まないので、バスの駐車場からは、また20元でほろ付きの軽トラックに乗って、明・清時代の古い街並みが残る「明清街」迄往復した。
中国では、400年前に建てられた木造の街並みが良く保存されていた。
中でも世界遺産に指定されている「退思園」は、清代の庭園形式の邸宅で、中庭を中心に2階建ての回廊が巡らされ、庭も中国風の東屋が建つ豪華な家だった。④⑤

 ④ ⑤

同里の水路にはたくさんの石橋がかかっていて⑥、運河の船から直接荷物を各家々に荷揚げできるようになっていた。
狭い道路を挟んだ両側には土産物店が並んでいた。私には、大きいガチョウの卵が珍しかった。⑦ 
食事に中華風茶碗蒸しが出る度に、私は多分大きいガチョウの卵を使っているのだろうと想像した。

 ⑥ ⑦

そこからさらに西塘に行き、「西塘古鎮」を散策する頃には夕闇が迫って来た。
運河沿いに数百年~千年前の低い木造家屋がぎっしりと並んでいて、そこで今も人々が生活していた。
日が沈んだ古鎮で、赤い提灯に電気が灯されると、何か懐かしい光景に出会ったような感じがした。⑧

 ⑧


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