≪「アルバニア」観光≫⑥
その後バスで「ティラナ」に戻り、市内観光をした。「スカンデルベルグ広場」には彼の騎馬像が立っていた。
アルバニアの国旗には「双頭の鷲」が描かれているが、そのモニュメントが広場にあった。夜になると赤くライトアップされるらしい。
(国 旗) (首相府)
月曜日は「国立歴史博物館」は閉館されていたが、私達のためだけに1時間ほど開館してくれて、女性博物館員が展示物を丁寧に説明してくれた。私の経験上、この様な待遇を受けたのは初めての事だった。
その後、公共建築物が立っている大通りを散策した。
(下院議事堂)
(大統領府)
(オペラハウス)
公園の一角にかって東ドイツが築いた「ベルリンの壁」の一部が展示されていた。その傍には、昔国中に築いた「トーチカ」が1つ残されていた。入って見た人は『中は臭かった。』と言っていた。
道路脇にヨーロッパの国々で多く見かけた小型車が、横向きに駐車していた。この車は駐車する向きが好きにできるので、市街地では便利だと思っていた。
(町のトヨタ店でこの車の話をしたら、『雪国ではスリップした場合、回転しやすいから駄目だ。』と言われてしまったが)
また、出会った男児小学生のヘアースタイルがお洒落だったので、写真を撮らせてもらった。
観光後、空港に向かい、「ティラナ」発20;45のターキッシュエアラインズで「イスタンブール」に行き、「成田空港行き」に乗り換えて予定通り3月3日19;30着で帰国した。塔乗時間は2回のトータルで13時間になった。
その日は北海道に帰る航空機はなかったので成田のホテルに一泊し、翌日の昼に新千歳空港に帰って来た。
先日は北アフリカの「チュニジア」でイスラム教過激派から外国人観光客が狙われ、21人内日本人3にんが死亡するという傷ましい事件があった。
「チュニジア」は、アラブの春の民主化運動が最初に起きた国なので、私は2年4ヶ月前に訪れている。かって「カルタゴ」があった国だが、一時は地中海の覇権を握る力を持った。やがてギリシャの影響やローマに支配されたため、国中にローマ時代の世界遺産があった。
今回の事件で、犠牲になった多数の人々に思いを寄せると共に、一般人の海外旅行が危険と隣り合わせになって来ている事が残念でならない。
今回の旅行もトルコで乗り換えをしたりイスラム教信者も多い国なので、行く前には一抹の不安があったが、実際に行って見ると旅行中何の問題も無く、私にとっていつも通りに7日間の旅行を楽しみ、旅の経験を広げられた。また三カ国共、これからの発展を期待し見守りたい国々だった。
訪れてくれた皆さんには、長くなった報告記事を読んで頂き有難うございました。
(完)
≪「アルバニア」観光≫⑤
旅の5日目、バスは首都「ティラナ」を出て47km北の小さな町「クルヤ」に向かった。
「クルヤ」はこの国の英雄「スカンデルベルグ」(1405~1468年)が活躍した町だ。
彼は中世アルバニアの君主として、オスマントルコ軍の司令官だったにも拘わらずトルコに背を向け、1450年と1466年の戦いで山間に建つ「クルヤ城」を守りオスマン軍を撃退し、アルバ二アを独立させ、25年間の独立を維持した。
しかし、1468年彼が病死、その後、1480年にオスマン帝国に併合された。
アルバニアの民族運動の高まりの中で彼の活躍が見直されると共に、オスマントルコ軍のヨーロッパ侵攻を遅らせることになったことも評価されている。
バスは曲がりくねった急な坂道を上ったが、途中に彼の像が立っていた。
「スカンデルベルグ博物館」の近くの狭い駐車場に着き、そこから歩いて土産屋が並ぶ小道をさらに上ると見晴らしが良い所に博物館があった。
前庭は美しく植栽が整備され、横には大砲が備えられていた。館内は入り口の群像レリーフ以外の撮影は禁止されていた。
昼食後、30分程、「オールドバザール」を覗いて楽しんだ。
≪「アルバニア」観光≫④
「ベラート城」を後にし、バスで丘を下りてから「オスム川」沿いの道を「マンダリア地区」に戻った。
この地区は「千の窓を持つ街」として有名なのだ。バスを降りて15分程散策した。
「オスム川」を挟んで渓谷になっていて、その両側の傾斜地に家が重なるように建てられていた。立派な橋が掛かっているのでその中程まで行って写真を撮った。
この橋は唯一の交通手段らしく、市民が次々とやって来た。ミモザを手にした中年の女性に『写真を取って良いか』と聞くとOKされた。撮影後、ミモザを少し分けてくれた。
また女子中学生2人が来たので、カメラを渡して私の写真を撮ってもらった。世界遺産の町の人々は、観光客に優しかった。
バスに戻ってから「千の窓」になった理由が説明された。
山側に窓を作れないため、できるだけ開放できる側の窓を多くして明り取りにした事、また、災害に対して家の中から外部の状況を早く知るためだという。成る程、洪水や敵の侵入に対する知恵なのだと思った。
かって中国と関係が深かった時代に建てられた中国系の工場が、今は廃墟となっているのを2~3見かけた。
「ベラート」を出発してからバスは北北西に向けて2時間半走ったが、途中の民家の庭には、葡萄、オレンジ、オリーブなどの果樹が植えられていて、我が家の花一杯の庭とは違った。土地があるなら、できるだけ口に入るものを植えるという考え方は、この国の経済状況の厳しさを物語っているように思えた。
首都「ティラナ」のホテルに着いた頃は日が暮れかかっていた。
≪「アルバニア」観光≫③
ここで添乗員氏が解説した内容を紹介する。
『「アルバニア」の労働者の平均月収は200€(27,000円)程度と西欧の他国より低い。物価は安く、消費税は18%で内税である。隣国ギリシャから大勢の人が買い物にやって来る。
家1軒は200万円程で建つ。家の1階か2階は開放して、車庫、物置、洗濯物干し場などとして使用する。居住階の天井を低く建てる。車は中古車が多い。ガソリン価格は、日本とほぼ同額だ。日本とは1981年に国交を樹立した。』
昨年、「バルト三国」に行った時、高物価の「フィンランド」から家族全員でフェリーに乗って「エストニア」まで買い物に来る人達を見たが、「ギリシャ」人達も隣国「アルバニア」に買い物に来ることが理解できた。
また、労働者の平均月収は日本の1/10以下なのに、ガソリン代が日本と同じなら、車の燃料費は日本の10倍と物凄く高い計算になる訳で、私はそれでもよく車を持つ人がいるなと思った。
バスは、「ベラート」の「マンダリア地区」に向かった。
渓谷に入って川沿いを走っていると、途中に墓地があり、丁度葬式で墓地内に入る人々に出会った。墓地を見ると土葬らしかった。
この地区は「千の窓を持つ町」と言われているが、その報告は後にする。
バスは墓地の傍の急な坂道を上に登って行った。「ベラート城」の駐車場で下り、立て看板の前で「ベラート城」全体の説明を受けてから、門の中に入った。
この城の基礎は、紀元前4世紀に「アルバニア人」の祖先になる「イリリア人」が築いたもので、広大な面積の中に13世紀に建てられた42の教会と1417年から支配したオスマン朝時代のモスクとミナレットがある。
城壁内には民家もあって、生活している人がいた。水仙とアーモンドの木に花が咲き始めていた。
(古代ローマ帝国皇帝「コンスタンティヌス一世」の頭像(306~337年在位)があった。彼はローマを統一し、キリスト教を公認した)
(斜面に建つ三位一体教会)
(廃墟となっているモスクのミナレット)
最も奥にあった古いモスクの一部が展望台になっていて、眼下に「オスム川」と「ベラート」の町並みが見渡せた。
≪「アルバニア」観光≫②
朝8時にホテルを出発したバスは、「アルバニア」の「ベラート」を目指して南西に向かった。間も無く国境に出た。
バスを止め、添乗員氏がパスポートを集めて運転手と共に事務所に向かった。すると小型のギターの様な2弦の楽器を片手にした高齢男性がバスに乗り込んで来て、1分間程その楽器を弾いた。
事務所の壁には手づくりだというその楽器が数個立てかけてあり、1個10€(日本円で1400円)で売るという。ツアー仲間数人が楽器を見に行き、結局7個も売れたのだった。必ずバスが30分近く止められるので、それを利用した観光客相手の商売だった。この楽器は、その後覗いた土産物店でも売っていた。
国境を無事に越えて「アルバニア」に入った。巨大な陸橋があった。また「アルバニア」側の「オフリド湖」が見えて来た。
今までの国と違って道路がひどく悪い。未舗装の所や簡易舗装が傷んだ道路が続いた。インフラ整備が遅れている事が分かった。
10分後にガソリンスタンドでトイレ休憩をした。その前の山の傾斜地に見えたのが、前回写真を載せた「トーチカ」だった。スタンド前から見えたのを数えたら12個あった。
途中の山は、石灰岩でできていた。この国は石灰とセメントが生産されているそうだ。
また促成栽培をしているらしいビニールハウスが建ち並ぶ畑も見えた。「アーモンド」の木が芽吹きだしていた。花は桜に良く似ている。
そして、朝出発してから4時間後に、ようやく世界遺産都市「ベラート」に到着した。
どの建物も屋根に水を入れる「タンク」が備えられていた。聞くと上水道の設備が無いので、水屋から水を買って「タンク」に入れてあるのだそうだ。
また、隣同士の集合住宅の壁がくっ付きあっていた。建て増しをしたのだろうか。
先ず狭い石畳の坂の途中にあるレストランに向かった。向かいに小さい雑貨店があり、そこから出て来た子どもに写真を撮らせてもらってチョコレートを上げた。
昼食後、バスで郊外の「ベラート城」に向かった。
≪「アルバニア」観光≫①
人口354万人の「アルバニア」は、北は「モンテネグロ」、東は「マケドニア」と「コソボ」、南は「ギリシャ」と国の三方を囲まれ、西側が「アドリア海」に接している国だ。
ネットで調べたら、次のような歴史が分かった。
この国は紀元前1000年頃から既に古代ギリシャの影響を受けていたことが分かっている。紀元前2世紀にはローマ帝国の支配を受け、ローマ帝国が東西に分かれると、東ローマ帝国の傘下に入った。
14世紀になって「オスマン帝国」が侵攻するが、国の英雄となっている「スカンデルベルク」が阻止。しかし1478年、遂に「オスマン朝」に支配され、その支配は400年間も続いた。その間、地主などの階層の多くが「イスラム教」に改宗した事により、「アルバニア」の風俗が変わって行ったという。
1914年「ドイツ帝国」のヴィルヘルム公を迎えて「アルバニア公国」としたが、公は第一次大戦で姿を消した。
1928年にアフメド・ゾグーが王になって「アルバニア王国」を築いた。
1939年にはイタリアが、1940年にはギリシャが、1943年にはドイツがと、次々と他国に侵攻され続けた。
1944年末に自国のバルチザンとソ連軍によって全土が解放され、社会主義政権が誕生するが、1946年ユーゴスラビアがコミンテルンから脱退するとユーゴスラビアと断交する。
1961年からはソ連を批判、1968年にはワルシャワ条約機構を脱退して、孤立を深めた。そのため経済的に困窮を極めて行き、細々と中国との貿易は続けていたが、1967年に中国に文化大革命が起きると「無神国家」を宣言して、一切の宗教活動を禁じた。
1980年代には「欧州の最貧国」と言われる様になった。
1970年代には核戦争を想定して106の「核シェルター」を建設、1976年からは全国50万個のコンクリート製「トーチカ」を造った。
1989年から反政府デモが起き、1990年から開放路線を取った。
1991年「アルバニア共和国」と改めた。
1992年の総選挙で、共産党政権が敗北した。
1990年には「信教の自由」が認められた。(2004年の信教調査では、「特になし」70%、「東方正教会」10%、「イスラム教」9%、「カトリック教」8%だという)
1990年代に国中で「ねずみ講」が流行した。
「ねずみ講投資会社」は集めたお金を紛争中の「ボスニア・ヘルツゴビナ」に投資したが、紛争が終結すると1997年に投資会社は破綻。その結果、国民の1/3が財産を失くした。
国民を守れなかった政府に批判が起きて、政権を「アルバニア社会党」が握ったという。
この歴史を見ると、国民は時々の権力に翻弄され続けたことが分かる。運命とは言え、過酷過ぎると思った。
≪「マケドニア」観光≫④
「スコピエ」から「オフリド」に行く途中、バスは「ストジャサ峠」の最高地点(標高1234m)にある店で休憩した。前夜降ったらしい雪が残る中、国際色豊かな人達がコーヒーを飲んでいた。
峠を下りる途中に、小さな村があった。羊を放牧している人も見かけた。
「マケドニア」の南西にある「オフリド」は、348k㎡の大きさの「オフリド湖」の湖畔の町だ。しかし「オフリド湖」の真ん中に隣国「アルバニア」との国境線が引かれていて、面積の1/4は「アルバニア」領となっている湖である。
湖は4万年も前にできたといわれ、湖水の水は周囲の高山から流れ落ちたり、地下を通って湧き出す水のために水質が良く透明度が高い。最深部は284mもあり、鱒が生息し、水鳥が遊ぶ湖だ。
また、中世には多くの教会が建てられ、「スラブ世界のキリスト教中心地」となった歴史があり、今でも教会が多い町だ。
それで早くから町全体がユネスコの「自然遺産」「文化遺産」に登録されている。
先ず町の西北にある小高い丘の上までバスを下り「サミュエル要塞」まで登って行った。
ここは10~11世紀「ブルガリア帝国王サミュエル」が、「オフリド」を首都と定めて建造した要塞だ。
石を積み上げた要塞は、1000年の月日をあまり感じさせない程しっかりとしていて、門の傍の急な階段を上って上に上がると、遠くの雪を被る山、眼下に広がる町と湖が見渡せ、曇天の下だったが美しかった。
要塞を出て、来た時とは反対側の山道を下ると、急に「聖ヨハネ・カネヨ教会」が下に見える場所に出た。
この教会は10世紀頃建てられ、ギリシャ正十字の形をした小さな教会だが、湖を背景にして佇む姿が美しく、「オフリド」観光のスポットになっている。内部には1€で入れるのだが、私が0.7€しか持ち合わせていないと言うと、それで入れて貰えた。内部は狭く、古い額に入った「イコン」が沢山飾られていた。
それから湖畔に沿って設けられている遊歩道を東に向かって少し歩くと、11世紀に建てられたが、オスマン朝時代にモスクになった際、フレスコ画が塗りつぶされてしまったのを、第二次世界大戦後キリスト教会に戻され、フレスコ画を復旧したという「聖ソフィア大聖堂」があった。残念ながら、この日は入場できなかった。
さらに進んで広場に出て、そこのスーパーマーケットで1時間程時間を潰してから、湖畔のホテルまで歩いた。
くじ引きで当てたホテルのトリプル用の部屋からは、翌朝、静かに広がる「オフリド湖」が臨めた。
夜が明けたばかりの時間、小雨模様だったがホテルの前を散策した。写真には、右側に突き出た半島の先に「聖ヨハネ・カネヨ教会」が写っていた。
≪「マケドニア」観光≫③
「マザーテレサ」の家を見てから後ろを振り帰ると、「スコピエ城門」が建っていた。何でも首都「スコピエ」を、数年前からパリやロンドンの様な魅力的な都市に造り変える街づくりを始めていると言うのだ。
中心を流れる「ヴァルダル川」に掛かる15世紀の石橋の両側に新しい公共施設が建ち並び、国のシンボルである巨大な「アレクサンダー大王像」の噴水が聳え立っていた。
川岸は公園風になっていて、「美術館」「ホロコーストメモリアル」「独立記念館」「博物館」など、どれもデザイン的に素敵な建造物だった。
また、新たに建築中の建物も目に付いた。
市内には21もの大学があるのだそうだ。2010年の調査によると、高等学校卒業者は80%、国民の識字率は95%と高い。
旅行前にTVの旅番組で「マケドニア」を見たら、1962年に起きたMG6.1の大地震で80%の建物が破壊され12万人が家を失くし、1000人以上が犠牲になったスコピエの再建計画は、日本人建築家「丹下健三氏」が中心になって立案したと報じていた。ここにも日本との繋がりを発見したのだった。
この後、80km離れた次の観光地「オフリド」を目指して、バスは2時間走り続けた。
≪「マケドニア」観光≫②
旅行3日目は、朝から「マケドニア」観光だった。
首都「スコピエ」は、古くから「トルコ」のイスタンブールと「セルビア」のベオグラードを結ぶ交易の中継地として栄え、色々な民族が行き交った歴史を持つため、東方正教会とイスラムのモスクが多くある所だ。
先ずバスは、「コソボ」との国境になっている山を見渡せる丘に行った。その丘には11世紀のオスマン帝国時代の城砦が残っていた。曇っていてはっきりとは見えなかったが、遠くの山の上には、高さが16mあるという大きい十字架が立っていた。
丘の上から「スコピエ」の町を一望した。
そこから下に降りて「ムスターファ・パシャモスク」に行った。このモスクはオスマン朝が支配するようになって間もない1492年に、キリスト教の聖堂を壊して建てられたが、1954年に起こった大地震で破壊され、再建された。靴を脱いで中に入って見ると、簡素なデザインの壁画に飾られたモスクだった。
モスクの傍に各国国旗を掲げたスパ兼ホテルがあった。
さらに先に行くと、オスマントルコ時代の18世紀後半に建てられた東方正教会の「聖スパス教会」があった。
イスラム教が支配的だった時代だったので、建築を申請して与えられた土地は狭く悪い土地だったらしい。聖堂は目立たぬように、土地を一部掘り下げて建てたという。珍しい木製の鐘楼が今も残されていた。内部を見たかったが、鍵が掛かっていて見られなかった。
教会の横の狭い坂を下りると「オールドバザール」の地区だった。建物が密集していて中世の雰囲気が残っていた。
さらに下って行くと、賑やかな市街地に出た。
まずこの国に生まれ、1931年からインドでカトリック教会の修道女として貧しい人々の救済に力を尽くしたノーベル平和賞の受賞者「マザーテレサ」の生家があった場所に案内された。今は家は無く石碑が建てられ、その横に掲示板が立っていた。
少し離れた街中に新しそうな「マザーテレサ記念館」があり、傍に手を合わせて祈っている彼女の銅像が建てられていた。記念館の周りでは子ども達が走り回って遊んでいた。
彼女が帰国したのは4回だったそうだ。亡くなった時、私物はほとんど無かったという。記念館には入らなかった。
私は、昨年2月にインドの「ムンバイ」の幹線道路沿いでバスの窓から見た彼女が働いていたという孤児院を思い出した。
≪「マケドニア」観光≫①
「プリズレン」を出発してから3時間40分後にバスは「マケドニア」との国境管理事務所に着いた。
添乗員氏が全員のパスポートを「コソボ側管理事務所」に持って行った。30分後に出国印が押されたパスポートがバス内で待っていた私達に戻されて、崇高止めに下りていた竿が上がり、バスが出国した。
20m程進んだ所の「マケドニア側管理事務所」で、また添乗員氏がパスポートを回収し直して届けた。30分後に事務所の係官が1人バスに乗り込んで来て、パスポートの顔写真を確認しながら一人々々に戻して回った。そうしてようやくバスは「マケドニア」に入国した。
「マケドニア」は、道路の舗装が傷んでいたり、未舗装の道路が多かった。
ガイドブックで調べると、「マケドニア」は古代ギリシャ時代にそう呼ばれていた場所だが、1991年、旧ユーゴスラビアから独立した際、かってのマケドニア地方の一部分を含むギリシャが反対。1993年になってようやくEUに承認された国だ。
古代マケドニアは、紀元2~7年頃まで栄えた現在のギリシャ、ブルガリアを含む地域「アレクサンドロ大王」が活躍する王国だった。しかし146年には「ローマ帝国」の属州となった。
395年には「東ローマ帝国」の一部となったものの、9世紀後半には「ブルガリア帝国」が力をつけて来て支配した。
1018年、ブルガリア帝国が衰退すると、「ビザンツ帝国」の支配下に入った。
13世紀には北方の「セルビア王国」に支配されたが、1430年、オスマン帝国がバルカンに侵入して来て、「オスマン朝」の支配を受けた。以後1912年まで500年に渡ってオスマントルコの支配下に置かれた。
1912年「ブルガリア」「セルビア」「ギリシャ」がオスマン朝に戦線を布告して勝つと、「マケドニア」は3国に分割された。
その後1945年「ユーゴスラビア連邦人民共和国」を構成する1カ国となったが、1991年に「ユーゴスラビア」が解体すると「マケドニア」は住民投票で9割の賛成を得て独立したのだった。
途中で警察の検問に引っかかり、私達の国籍も運転手もアルバニア籍のバスは2回も止められた。その都度、運転手が下りていって話を聞いていた。15分程待っていたら、彼はお金を取りに戻って来た。何でも支払ったお金は警察個人の収入になるらしく、少しの事で言いがかりを付けられるのだと話してくれた。
そんな訳で予定より遅い時刻に人口80万人の首都「スコビエ」のホテルに、ようやく着いたのだった。
≪「コソボ」観光≫②
「デチャニ修道院」を後にして、バスは次の観光場所「プリズレン」まで1時間走った。「プリズレン」に近づくと今までのレンガを積み上げただけの建物とは違うしっかりとした建物が目に付き出した。
「プリズレン」の町の旧市街は、「コソボ」で最も美しい町と言われているらしい。
この町は「コソボ」の南にある人口22万人、ローマ時代からあった古都で、歴史的には常に「ブルガリア」「東ローマ帝国」「セルビア」「オスマントルコ」などの周辺国の脅威に晒され、代わる代わる支配を受け続けて来た町で、日本人である私にはその歴史的な過酷さは想像に余りある。
13~14世紀には「セルビア王国」の宮廷が置かれ、絹の生産を中心にセルビアのコンスタンチノーブルと言われる繁栄を見せた。
1545年に「オスマン帝国」の属州となってからは、交易都市として栄え、アルバニア人が多数移民して来た。
20世紀のセルビア軍の攻撃によって「セルビア王国」に組み込まれた際は、アルバニア人が虐殺されたという。
第二次世界大戦後、「ユーゴスラビア」の一部となった後、「ユーゴスラビア」の解体と共に「コソボ共和国」の一部になった。
「コソボ紛争」の被害は少なかったらしいが、アルバニア系の群集によってセルビア正教会などの建造物が破壊された。
2002年の民族の比率は、アルバニア人68.4%、トルコ人31.6%だ。
新市街の市役所前でバスを降りた。市役所の壁に「各国の復興支援に感謝する掲示板」が掲げられていた。日本に対する『ありがとう ございます ジャパン』のローマ字記載もあった。(赤線箇所)
それから40分程、町を散策した。
新市街と旧市街は、ビトリカ川の両側に分かれていて、モスクも沢山あった。16世紀に造られたという川に架かる堅牢な石橋が有名だ。その形は、以前「モンテネグロ」の「コトル」にある世界遺産の石橋にそっくりだった。
町の奥の小高い丘の上には、古い城砦が見えた。
橋を渡って旧市街に入ると、石畳が敷き詰められた広場があり、その中心に山から引いた水飲み場が造られていた。新旧の教会の他、イスラム教のモスクも幾つもあった。
大勢の人が店を覗いたりカフェで談笑していた。「プリズレン」の女性も男性もとてもお洒落で、大人びて見えた。特に男性は独特な髪型の人が多かった。「写真を撮っても良いか。」と聞くと、直ぐにOKしてくれて気軽にポーズを取った。路上でお金を取って体重を量っている男性がいた。
少し離れた所に日本で良く見る「ゴミ収集車」が2台見えた。添乗員氏から「あの収集車は、昨年日本がこの町のために20台贈ったもので、毎日大活躍していますよ。」という説明があり、私達とこの町のつながりを強く感じた瞬間だった。
最後に見たのは「コソボ紛争」で命を落した人達の慰霊碑だった。
≪「コソボ」観光≫①
「デチャニ」に行く手前の町「ペーチ」のレストランで、早めの昼食を摂った。なかなかモダンに造られたレストランだった。
最初に食材の全てを一口サイズに切ったチーズサラダと温かいパンが出た。オリーブの塩漬けは好きではないので食べなかったが、なかなか美味しかった。
外に出ると、隣国「モンテネグロ」との国境になっている「ウルゴバ山」が目の前で雪に覆われていた。この国の今の季節は、晩冬なのだろう。そういえば途中で見た温度計は、6℃だった。
町並みも美しく、集合住宅も新しい建物が目を引いた。今まで見なかった様なデザインの家が建てられていた。
「モンテネグロ」は、数年前に娘と「クロアチア」「スロベニア」「ボスニア・ヘルツゴビナ」「モンテネグロ」4カ国を周遊した際に訪れた国なので懐かしかった。
アドリア海の美しい入り江を持つ「モンテネグロ」は造船業が盛んで、当時は日本の船も多く修理されていると聞いた事を思い出した。
再びバスで「ベーチ」から「デチャニ」に向かい、郊外の山懐に入って行き、「セルビア正教会」世界遺産「デチャニ修道院」を観光した。
外門に向かって左側に小さな建物があり、「イタリア」と「スロベニア」の兵士が駐屯して修道院を守っていた。兵士やその建物の写真は写してはいけないと言われた。
理由は、ここが「セルビア」政府の弾圧・攻撃と「アルバニア系パルチザン」の攻撃から守らなければならない「危機遺産」リストの一つで、NATOが指揮する「コソボ治安維持部隊」が保守しているのだという。
資料で調べて見ると、この修道院は1327年にセルビア王「ステファン・ウロシュ3世」が建設を着手したが翌年死去し、この聖堂に葬られている。王となったむすこが建設を引き継ぎ、1335年に完成したらしい。
この聖堂は、現存するビザンチン美術最大のフレスコ画、イコン(1000人程の肖像画)が残され、バルカン半島最大の聖堂でもある。
私達の他には誰も来ていない。中門にユネスコの世界遺産だという金属板が掲げられていた。
こじんまりした聖堂の中に入ると、牧師さんが丁寧に説明してくれた。その人は、世界中で目にする「イエスキリスト」の絵にとても似ていると思った。
壁と天井一面にフレスコ画がギッシリと描かれていて、厳かな空気に満ちていた。また「キリル文字」で書かれた古く分厚い聖書も見せてくれた。「ステファン・ウロシュ3世王」の石棺が置かれていた。
(フラッシュ撮影は禁じられていたので、暗い聖堂の内部は上手く写せなかった)
見学を終え、外門を出た所に居た迷彩服の兵士に聞くと、「スロベニア」から派遣されたという。私は『北の隣国「モンテネグロ」→「クロアチア」→「スロベニア」ですね。遠い国からの警護、ご苦労様!』と下手な英語で言って握手させてもらった。
≪「イスタンブール」から、初めての「コソボ」へ≫
成田国際空港を2月26日22時半に離陸したターキッシュ航空機は12時間15分後にトルコのイスタンブール空港に着いた。
エコノミー席の座席の前は狭く満席に近かったので、私は背中をほぼ直立にさせたまま寝た。イスタンブールではおよそ4時間の乗り継ぎ時間があったので、ゆっくりと過すことにした。
まず洗面所で歯を磨き、顔を洗った。そこでは日本人の若い女性も洗面していた。同じグループの人かなと思って声をかけた。すると「私はこれからロンドン行きに乗り継ぎ、ロンドンの友人の所に行きます。」と言うのだ。トルコ航空は値段が安く、時間はかかるが、ロンドンなら往復5万円なのだそうだ。急がない人ならそれもありかと納得した。
椅子が置いてある通路に行って男性の隣に座った。男性はピカピカの目立つ時計をしていた。まず時計を褒めてから「お国はどちらですか。」と聞いて見た。「ラエル…」としか聞き取れないので、地図を描いてもらったら「イスラエル」だった。色々な宗教の聖地があり、緊張が続く国の人だったのだ。
イスタンブールを7;40(日本との時差-7時間)に発った小型飛行機の座席が窓側だったので、離陸後の空港やトルコの北側の景観の写真を写した。
雲の中に入った頃、朝食が出された。美味しかった。
1時間40分後の8;20(時差はトルコよりさらに-1時間)に「コソボ」の「プリシュティナ」空港に着いた。スーツケースを受け取り専用バスに乗って「コソボ」の大地を南に向かい、走り出した。
郊外では、家がまばらにしかない。中にはレンガを積んでいる建築中のものも多く見られた。一戸が大きめなのは、2世帯7~8人で暮らす事が当たり前だからだそうだ。
(バスの窓越しに写した写真がぶれてしまい申し訳ない)
路上に車を止めて、野菜や果物を売っている光景も見られた。バスの傍を貧しそうな幼子を抱いた母と子が歩いていた。町中に紙くずやビニール袋のごみが物凄く散乱していた。
添乗員氏の説明では、「アルバニア」人が80%を占める「コソボ」自治州が「セルビア」からの独立運動をした時、1998年、「セルビア警察」と新たに結成された「コソボ解放軍」の武力衝突によって激しい戦闘が起きた。建物の80%が破壊され、避難民は30万人にも上ったと言う。女性や子どもの多くは「ギリシャ」や「ドイツ」に逃れた。
1999年アメリカとNATO軍は「セルビア」を空爆した。
男性は多くが戦死したので、現在の「コソボ」の平均年齢は若い。
「コソボ共和国」の独立宣言は、まだ中国やロシアが認めていないので「分離主義国家」となっている。現在の「コソボ」は、国連の保護領としてNATO諸国の駐留兵に守られている。
NATO軍や国連の関係者が多く来るようになって仕事も増え、今は外に逃れた人々が戻って来て人口が急増し、建築ラッシュが起きているという。
2~3の街を通過したが、建物がまばら、車は結構走っていた。
以前は独自の通貨があったが、人々が国外に出る時に困らないようにという理由で、通貨を「ユーロ」に切り替えたそうだ。私は、途中、トイレ休憩した小型マーケットでユーロでチョコレートを10個買った。安かったが食べて見たら味が馴染めず、日本に持ち帰っても仕方が無いと判断し、出会った人たちや子ども達に上げた。
マーケット前に、建築中の別の建物や公園があった。
国がまだまだ貧しいため、優秀な人材の医者や法律家などは国外に出て行ってしまうという。
≪成田で後泊してから、昨日、無事帰宅した≫
今回旅をした3カ国は、経済事情やふんいきが国によって少し違うのを感じたが、どこも落ち着いていて人々は普通の生活をしていたし、往復乗り継いだトルコの「イスタンブール空港」の雰囲気も平穏だった。
(写真は、バスから見た「コソボ」の街角の光景)
6日間の旅を終え、3月2日ターキッシュエアラインズに乗って20;45に「アルバニア」の「ティラナ」航空を後にした。
途中3日23;25に「トルコ」の「イスタンブール」空港でなりた行きに乗り換え、11時間15分飛び、3日19;30に無事成田空港に着陸した。
私は荷物を受け取った後、空港1階にあるホテルの送迎バス乗り場に行き、予約して置いた「成田〇〇ホテル」に向かって1泊した。
シングルの部屋を頼んであったが、何故かツインの広い部屋に泊まることができて快適だった。温泉が併設されたホテルなので温泉に入ってから寝たら疲労が溜まっていたためか熟睡してしまい、起きたら何と8時。大慌てで着替えをし、荷物をまとめてから朝食のレストランに向かった。
食後、直ぐの送迎バスで成田空港第二ターミナルに行き、地下の京成電鉄切符売り場に向かった。
羽田空港行きの直行便は行ったばかりで、暫く待ってから次の便に乗った。1800円で所用時間は1時間半だった。
今回は12時25分のSKYを予約してあったので、寝坊したが何とか間に合い、新千歳空港まで帰って来た。
温かかった東京と北海道の気温差は10℃位あるのではと思った。一面、降ったばかりの4~5cmの雪で覆われていた。
とに角、今回は一抹の不安を抱えた旅行だったが、全く何事もなく帰宅する事ができたのが何よりで、行って来て良かったと思っている。
昨夜は、旅行中VTRに取り溜めたドラマを見てから寝た。
日にちが短かったのと成田のホテルで熟睡したせいか、今日も余り疲れた感じがしない。
こんにちは♪♪
明日夜22;30、成田空港から「ターキッシュ・エアラインズ」で出発し、イスタンブール経由の旅程で6日間「コソボ・マケドニア・アルバニアの旅」に出かける。
ヨーロッパの最後の秘境と言われているこれらの国々は、東ヨーロッパの最南端にあって、その後かっては「オスマントルコ」に支配され、「アルバニア」を除き、その後は「ユーゴスラビア」という国の一部だったが、「ユーゴスラビア」が崩壊した後、「コソボ紛争」などの内戦を経て独立した歴史的にはまだ新しい国々だ。(「マケドニア共和国」1991年独立)
いつもの様に図書館に行ってガイドブックを探したが見当たらないほど、日本ではまだほとんど情報が少ない国々でもある。
しかし、「マケドニア」と言えば、その昔、広大な領土を手中に収めた「アレキサンダー大王」が誕生した国でもあり、先日TVで放映された旅番組を見ると、歴史的な教会建築も多数残っているらしい。
「アルバニア」は1968年から鎖国政策を敷いた社会主義国で、経済的にもヨーロッパの最貧国と言われていたが、現在は民主化され、開放政策を取っているという。
「コソボ共和国」は1991年に多くのアルバニア人を代表とする平行議会で独立を宣言したが、国際的には承認されていない。しかし政治経済などを独立して行っているため「分離主義国家」とされているという。
また、1月に「IS」の日本人殺害事件が起きて以来、世界中の日本人が彼らの標的になってしまったため、旅行するには治安上かって無い程の不安な状況になっているが、12月に参加を申し込んでいたので行って来る事にした。
世界のどこかに「エボラ」の様な感染症や「IS」の様な理解不能なテロや紛争があれば、たちまち地球市民の私達も何らかの影響を受けざるを得ない訳で、何時でもどこにでも安心して旅ができる日が早く来て欲しいと心から願うばかりである。
昨夜、添乗員氏から出発前の電話があった。気温は現在の札幌に近いと言うので、服装は冬支度で良いだろう。コートだけ少し薄地のものにするつもりだ。(「マケドニア」は標高800m程の高地の場所が多いらしいので、さらに気温が低いのかも知れない)
聞くと25人の参加者の多くが、私と同じ一人参加だと言っていた。
また、買うものは絵葉書位しかないので、ユーロへの両替は最小限で良いのではと言っていた。アルコールを飲まない私なら、お金は少しで良いかも知れない。
3月3日成田に帰国する時刻が19;30と遅いので、私は最後に成田のホテルにもう1泊して、3月4日の昼頃、自宅に戻る予定だ。
また暫く留守にするので、どうか宜しく…。
この所大分、庭の積雪量が少なくなって来たが、留守中、さらに春に近づいていてくれるだろう事を期待しながら行って来る。
さあ、今日はこれから、今年になって初めての旅のために旅支度だ。(1月に「フィリピン」に大雪で行けなかったので…)
今回の旅行が終れば、この地図にある国の中で私がまだ行っていない国は「セルビア」だけになる。