6日目は、第二次世界大戦の激戦地「コレヒドール島」の観光だったが、残念ながら個人的に
不都合な事ができて、行くことができなかった。
参考図書「現代フィリピンを知るための61章」(明石書店)によると、第二次大戦末期の1944年10月20日に米軍が「レイテ島」に上陸してからは、日本と米比の戦闘が激化して、フィリピン全土は焦土となり、111万人の犠牲者と、1950年価格で60億ドルもの物的な損害が生じた。
同時に日本側には、50万人あまりの戦没者が生まれたと書かれている。
最後の日に「マニラ空港」ですれ違った天皇陛下は、この歴史的な事実に基づき、フィリピンと日本の戦没者を慰霊するために訪れたのだ。
最後の夕食には参加でき「フィリピン・ダンスショウ」を見ながら、「海鮮料理」を食べた。
海老、ムール貝、烏賊を焼いた料理は美味しかったが、オーブンで焼いたマグロの大きい切り身は、一層、油が少なくなってパサつき、美味しく感じられなかった。しかし、最後に食べ切れないほど出た数種類の果物は「フィリピン」ならではで、本当に美味しかった。
7日目は、ゆっくりとホテルを出て、東南アジア最大だというショッピングモール「モール オブ アジア」に行った。買い物の時間は2時間だったが、私は「ドライマンゴー」「パパイヤ石鹸」「ココナツオイル」など、買いたいものは決めてあったので素早く買うことができた。
マニラ発の飛行機は1時間遅れて離陸したが、羽田空港にはそれ程遅れずに到着した。
今回フィリピンを訪れた天皇陛下とは、マニラ空港ですれ違う形になったのだろう。
21時過ぎに羽田空港に帰国し、予約してあった第二ターミナルに直結する「羽田エクセルホテル東急」でゆっくり一泊し、翌日帰宅した。
最後になるが、前掲書によると、第二次世界大戦までは多くの貧しい日本人女性が「からゆきさん」として東南アジアに渡った歴史があるが、近年の日本とフィリピンの関係は、東南アジアにおける同じ自由主義国として共存共栄が計られて来ている。
日本の科学技術、工業製品がフィリピンへ多く輸出され、フィリピンからは果物や水産食品、電子部品、電気機器、輸送用機器の輸出が伸びている。
特に2009年の受け入れから日本の高齢者介護や病院の介護と看護の現場で、難しい日本語の試験にもかかわらず、フィリピンの介護師、看護師達の挑戦と就業が少しずつ進み出し、今後の貢献度と期待が高まって来ている。
また、その多くが高学歴で英語を理解する身近なアジア人である彼らは、日本の労働力不足を解決してくれる貴重な人材としても、今後ますます広い分野で活躍が期待されるのではないだろうか。
経済界は2006年9月に調印した「日本フィリピン経済連携協定」に大きく期待しつつあり、2006年の「国交樹立50周年」には「日比NGO協働」2008年には「対フィリピン援助計画」を策定して、現地の状況に応じた支援を行って来ている。
また、2008年の世論調査によれば、フィリピン人の93%が「日本は信頼できる」と答えているという。(「ボホール島」のガイドさんからは、日本の援助に対して私達に感謝の言葉が述べられた)
私は今回の旅行を通して、島によって異なる顔を持つ同じアジアの隣国である「フィリピン」、そして日本との歴史的な関係も決して忘れてはならない「フィリピン」との関係が今後一層深まることを期待し、いつかもう一度行きたいと思った。
これまで長くなった記事を読んで下さった方達に、お礼を申し上げます。
(完 成)
≪「ボホール島」観光≫(2)
③「チョコレート・ヒル」
バスで「ボホール島」の内陸部に向かった。
お椀を伏せたような形の山が沢山見え出した。これが「チョコレート・ヒル」だった。
駐車場からは階段で展望台に登った。私が数えたら215段あった。
頂上には観光客が大勢いた。
高さ30~40mの山が1268個もあるのだという。4月から6月の乾期になると、生えている草の色が褐色に変わることから「チョコレート・ヒル」と呼ばれるようになったらしい。
地質学的には山の大半が珊瑚礁の石灰岩でできているので、大昔は海の底だったのだ。珍しい景色だった。
その日のホテルは、橋を渡って行った「パングラオ島」の海岸に建つリゾートホテルだった。
夕食は星空の下の砂浜で食べた。
④「モーニング・クルーズ」
5日目の朝は「モーニング・クルーズ」だった。
朝7時に浜辺に集まり、浅瀬を自力で歩いて行って、沖合いに停っている木造船に乗った。
腰まで海水が寄せて来たが、用意して行った海水パンツを履き、ガイドが腕を支えてくれたので何とか転ばずに歩けた。
(小柄な人、高齢の人は、自主的に行くのを見合わせたらしい)
船が沖に出た頃、船の周りに野生の黒い「イルカ」の群れが現れ始めた。水面すれすれに泳ぐので、背中が見えるのだ。体長は2m前後らしい。
その内、20~30頭ほどの大群が、次々と速いスピードで船の周りを通り過ぎた。私達はその度に歓声を上げた。
中の2頭の「イルカ」が、船のすぐ前で海面から飛び上がり、コマの様にくるくると2~3回転しながら海に入った。見事だった。しかし、なぜあんなパフォーマンスをしたのだろうか。不思議だ。季節によっては、鯨も見られるという。
私達の船は大きめだったが、3~4人が乗った小さな船も3~4隻近くを通り過ぎた。
帰りは潮が満ちて来て水面が高くなっていた。そのため船底をこすらないぎりぎりの場所で停泊した沖合いの船から「プラスチック製の小型ボート」に私を含めた女性3人が乗って、船員2人が海の中を歩いて岸近くまでボートを引いてくれた。約2時間、本当にとても貴重な体験ができた。
残りの人達は、船のエンジンを外して更に岸に近づけてから、降りて自力で戻ったのだそうだ。
珊瑚が波に砕かれて出きた遠浅なので、ここに桟橋を建造すれば、もっと楽に乗り降りできるのにと思った。その内、できるかも知れない。
(海水に濡れる事が心配で、カメラも時計も持たなかった。残念ながら写真は無い)
シャワーしてからレストランで朝食を採り、12時まで部屋で休憩した。
その後、バスで「ボホール島」に戻り、レストランで「中華料理」を食べた。写真は料理のごく一部だが美味しかった。
「ボホール島」の教会などを見てから、再び夕方の航空機で初日の「マニラ」のホテルに戻った。
≪「ボホール島」観光≫(1)
4日目の朝も早朝起きてバスに乗り、港に向かった。その日は高速船で「セブ島」と「レイテ島」にはさまれた位置の「ボホール島」に向かった。庶民の足になっている船内は前回よりももっと混雑していて、椅子はほぼ満席だった。
2時間後の10;05に島の南西にある「タグビララン港」に着いた。
「ボホール島」は「フィリピン」で10番目に大きな面積の自然豊かな島だ。水田も広がっていた。
この島の観光資源は、世界で最小の原始猿「ターシャ」の存在と、島の中央部にある「チョコレートヒル」そして南西部に小さな橋でくっ付く「パングラオ島」の海岸だ。
上陸した時に全員に「ターシャ」のネックレスをくれた現地ガイドは40歳代の女性。大らかな性格とゆったりとした話し方が魅力的なガイドだった。
走り出したバスで彼女は話した。
「学校では「タガログ語」で教えるが、島民の多くは「ピサヤ語」を話す。英語は幼稚園から教えている。
山道が多いので、この島には「タクシー」は50台程だが「4人乗り三輪車」は3000台もある。
アルコール分4%の「ココナツ椰子酒」は薬として飲まれるし、「バージンココナツオイル」も薬用で、最近、生産工場ができた。
バナナは野生で幾らでも生える。小中高校と9つの大学はあるが、病院がないので出産は自宅でする。
ここでとれる米は、1kg38ペソ(日本円では114円)だが味が良くない。日本の米は美味しいが、1kg195ペソと5倍も高い。」
①「ターシャ・サンクチュアリー」
入り口を入るとそこは自然のジャングルだった。
ガイドに導かれて木々の中を進むと、ガイドが小さな声で「ここ!ここ!」と言って指を指した。細い小枝にしっかりと掴っていたのは、人のこぶし大しかない「ターシャ」だ。
大きな目は動かないので、横を見る時は首を180度回すのだそうだ。ストロボ撮影は禁じられていた。
餌はこおろぎ、バッタ、ゴキブリ、虫動物を食べるとか。全部で3匹の「ターシャ」と出会えた。骨だけの様な長めの指が珍しかった。
このセンターでは、8.1k㎡の敷地で100頭程を保護していて、職員の主な仕事は「ターシャ」の食べ物を捕獲する事なのだとか。
「ターシャ」の頭部はとても弱いので、檻に入れると頭部をぶつけて自死してしまうらしい。それで他へ移動させることができないという。
また、一度に生まれる子どもは1匹で、2年で大人になるという。天敵は山猫や大鼠で、平均寿命は20年だと話してくれた。
②「ロボック川のリバークルーズ」
「ボホール島」の南部を流れる「ロボック川」に行くと、川に大きな屋形船を浮かべたレストランになっていた。そこで昼食を食べてからリバークルーズの木造船に乗った。この船も、ボートを2艘並べた上に板を張って作った簡素なものだった。
ギターで弾き語りをする中年男性が、ずっと一人で演奏していた。
川辺には、ジャングルの中で自給自足で生活する人達の家々が点在していた。
上流へ登って行く途中、歌と踊り、バンブーダンスを披露する小屋があった。
その日は土曜日だったためか、前部で小中学生達が踊り、横や後ろで大人や高齢者が楽器を演奏していた。まさに村人が総出で観光に携わっているのだった。
気づくと船めがけて3人の男の子が泳いで来て船につかまるパフォーマンスをして、チップを求めるのだ。
こんな村人総出で観光客を持て成す光景は、私が今まで経験した事がなかったので、とても心が温まったし、子どもたちの逞しさにも触れられた。
≪「セブ島」観光≫
3日目は5;45に起床して7時にはホテル前から「トライシクル」に乗り「オルモック港」に行った。
まだ暗い早朝にも関らず、ホテル前の公園では賑やかな曲を大きな音で鳴らしながらダンス風の体操をしていた。暑い国だから日の出前にするのだと思った。
港から出る高速船に乗って「レイテ島」の西側にある「セブ島」を目指した。3時間弱乗った船内は満席に近かった。
「セブ島」に着くと、和食レストランで昼食を食べてから観光をした。
ガイドの説明では、かって海の底にあったサンゴ礁が隆起してできた島が「セブ島」だという。岩だらけで山も多いため、植物が育ち難いという。
椰子油の産地として、華僑が訪れる交易の町だった。
1521年にスペインの「フェルディナンド・マゼラン」が上陸した事が、その後1556年からの「スペイン統治」のきっかけになった。(「マゼラン」は、マクタン島で戦闘中に死亡した)
その後は、宗教のカトリック化、生活や文化、教会他の建築様式など様々な面で「スペイン」の影響が強まった。「スペイン」の統治は「アメリカ」が入って来て、お金で「フィリピン」を買い取る1898年まで342年間続いた。
①「マゼラン・クロス」
ここは「フィリピン」の「フマボン王」と「ファナ王女」そして臣下が洗礼を受けて初めてキリスト教徒になった場所で「サント・ニーニョ教会」に隣接していた。
「マゼラン」が「セブ島」上陸に当たって建てた木の十字架が洗礼の様子を描いた天井画に描かれていた。
②「サント・ニーニョ教会」
1565年に建てられた「フィリピン」最古の教会である。「サント・ニーニョ」とは「幼きイエス・キリスト」という意味だそうだ。
その日は揃って礼拝をする日らしく、教会や「マゼラン・クロス」の周りは敬虔な信者達でごった返していた。教会からはバック音楽と礼拝の言葉が大音響で流されていた。
私達が教会の中を見学して出て来たら、10歳前後の女児が手を差し出して付いて来た。誰もお金は上げなかった。私は菓子や飴を持っていたら上げたのにと思った。
③「サン・ペドロ要塞」
外敵の侵入を防ぐために海岸に建設された「フィリピン」最古の要塞だという。1565年に木造で建造が始り、1738年に堅牢な珊瑚石で改修されたらしい。
要塞の上部から見た「セブ島」の町は、「マニラ」第二の町に見えた。
また上部には、日本軍が置いたという「大砲」が、町に向けて設置してあった。
併設されている博物館には、古い「マゼラン」の似顔絵や1521年4月14日に「マゼラン・クロス」を上陸後初めて建てた当時の様子が描かれていた。
観光を終えて、「フィリピン料理」の夕食に向かった。ウエートレスの着ていたブラウスのデザイン、特に盛り上げた袖が独特だったので聞いて見た。 「イメルダファッション」だと教えてくれた。
また、舞台でピアニカとギターで演奏する中年の男性は、二人とも盲目らしかった。日本の曲をリクエストしたら、2曲ほど演奏してくれた。
翌々日も飛行場の待合室でもっと若い4人組の盲人演奏家が演奏していた。その案内役は足が悪い男性だった。
ガイドに聞くと、障害者の雇用を国で促進しているのだという。日本では空港の待合室などという閉鎖された場所では絶対に見られない光景なので、とても良いなと思った。勿論私は前の箱にチップを入れたが、演奏中、何人もの人達、中には子どももがチップを入れていた。
その日はセブ島のホテルに行って泊まった。
≪「レイテ島」観光≫(2)
③「マッカーサー上陸記念碑」
日本軍は侵略中「タクロバン」に臨時政府を置いてフィリピンを支配していた時、「抗日ゲリラ」が作られ抵抗を続けたという。
1944年10月20日に島に上陸した「マッカーサー」と米軍兵士7人が最初に上陸し、その後レイテ島を日本軍の手から奪還した。その時の様子を忠実に表す像が「レッドビーチ」の上陸地点に造られていた。
④「日本兵の記念碑」
バスが「リモン峠」に向かう途中、道路沿いにある碑の前で止まった。
降りると、それはある「日本兵」の記念碑だった。私達はその碑にお参りをした。
上下は同じ碑文だった。カメラに収めたのでそのまま紹介したい。〇は判読不明な字
『 記 念 碑
第2次大戦の傷跡が今なを残り 住民の半日感情も根強いレイテ島ドラグ市を日本軍が占領中に 公平で友好的な態度を貫き市民の信望を集めた日本兵陸軍大尉 山添勇夫 並びに勇士の遺徳を偲び 地元市民の手で記念碑が建立された
1943年4月18日 この地点で戦死されました
出身地 京都府与謝郡岩滝町〇田
寄贈者 坂本喜計 河野アメ〇ア 』
⑤「静岡県レイテ碑」
次にトイレ休憩でバスから降りた際、バスの後方にこの碑があった。
静岡県が建てた慰霊碑なのだろう。50坪程あると思われた碑の土地の草が綺麗に刈られていた。傍に男性が立っていたので「この草はあなたが刈っているの」と聞くと「イエス」と答えた。彼に「フェルナンド」というサインをしてもらってから、私は感謝の気持のチップを渡し、握手してバスに戻った。
⑥「リモン峠小学校訪問」
山道をバスが1時間半も登っただろうか。やっと目的の小学校に着いたのは17時を過ぎていた。
大勢の子ども達が私達を出迎えてくれた。教室が3つしかない山奥の公立小学校だ。
説明してくれた40代の女性校長の話では、8時~12時半の幼稚園と1時~5時の学校には5~17歳の子ども256人が在籍し、教員は7名である。
家庭事情があって昼通えない子どものためと補修授業のために5時半からのクラスもあるという。
途中退学者もいるが、70%は卒業後、高校に進学する。30%は小学校止まりであり、家事労働や牧畜などの山でする仕事に就くという。
私達はそれぞれ日本から持参した学用品などを校長先生に渡した。
最後に子ども達が合唱してくれ、急な坂の下で待機していたバスの所まで下りて来て、私達を見送ってくれた。
子ども達や先生との交流は50分程だったが、「フィリピン」の貧しい家の子ども達が通う山の小学校の実情を知る事ができた。私は子ども達の純真な輝く瞳を胸に、その夜のホテルの町「オルモック」まで降りたのだった。
≪「レイテ島」観光≫(1)
旅の2日目は、北部「ルソン島」の「マニラ」から南部にある「レイテ島」の「タクロバン」まで直線距離で600km余りを航空機で向かう予定で、私達はホテルをバスで6;20に出て8;20の国内線航空機に乗り込んだ。
この際、大きいスーツケースはホテルに預け、3泊4日の島巡りに必要な荷物だけを持参するように言われていたので、私はリュックサック、ショルダーバックの他に中位の手提げバッグを持った。
この航空機は混んでいたが、1時間25分の飛行時間で「タクロバン」に到着した。
「タクロバン」は人口18万人の都市で、木材の積出し港として栄えて来たが、2013年11月8日台風30号に直撃され、多くの犠牲者(死者3637人行方不明者1186人)を出し、その時「タクロバン」の町が壊滅状態になった事を記憶している方が多いと思う。
町の中心部に進むに連れ、台風の被害から立ち直ってない生活がなめこトタンとベニヤ板で作った住居に見て取れた。
途中の道路縁に台風で陸上まで流された船の先の部分が置かれていた。住民が再建材料として切り取って持ち去り、残ったのを展示する事にしたのだそうだ。
途中、バスは2回の検問を受けた。入り込んで欲しくない車輌をストップさせるためだそうだ。警察官の中に女性もいた。
「レイテ島」は、第二次世界大戦中、大勢の日本軍が侵略、駐留し、最終的に米軍との激戦地となり、日本兵の多数が命を落した島でもある。
また、現地ガイドの話によると「イメルダ・マルコス」の出身地でもあるそうだ。(彼女は、その年の美人コンテストで優勝し、「マルコス大統領」と知り合い、結婚したらしい)
「中華料理」の昼食を採り、午後からレイテ島の「戦跡」を訪ねた。
①日本軍の「トーチカ」
「トーチカ」は、浜辺に残されていた。地面から2m程低い場所にレイテ島で取れる硬い珊瑚の石を積み重ね、コンクリートで補強した厚い壁の造りで、「トーチカ」の中には、兵隊が4~5人入れる広さがあった。浜辺に向けて機関銃を撃つ横長の穴が開いていた。
②「アルハンドルホテル」
島で最古のこのホテルは、旧日本軍も利用していたという。二階に登ると古い写真が沢山展示されている中に、日本兵の写真もあった。
≪「マニラ市内」観光≫(4)
④「サン・オーガスチン教会」
ここもスペイン統治時代に狭い「イントラムロス」内に12もあったという教会の一つで、1606年に建てられた。珊瑚石で造られた堅牢さから、幾度もの大地震や第二次世界大戦の爆撃にも耐えた。
入り口の扉は木製で、左右に日本の「狛犬」風の飾りが置いてあり、珍しかった。
教会内部はバロック風に造られ、祭壇左側にはスペインの初代総督「レガスピ」が眠る礼拝堂がある。
⑤「バハイ・チノイ」
④の道路を挟む向かいにあるのが「フィリッピン華僑の歴史博物館」だったが、この日は結婚式があるらしく公開されていなかったので、入り口から見える建物を写して来た。
スペイン統治時代には華僑は迫害を受けるなどしたため、自衛組織ができていたという。1904年には「中華商会」ができた。
狭い通りの石畳も古そうだった。
朝羽田を発ち、午後には観光したので、初日だったが疲れた。ホテルに着き、宿泊客は19時まで無料だという19階のラウンジに行って飲食して寛いだ。
その後、レストランで夕食を食べた。メニュウが豊富で食材が新鮮、おまけに香辛料があまり使われていないため私には美味しかった。中でも完熟している「パパイヤ、パイナップル」が特に美味しく、巻き寿司、刺身などもあって満足した。
≪「マニラ市内」観光≫(3)
②「サンチャゴ要塞」
この要塞は前回も少し書いたが、「イントラムロス」の北端にあり、北側がマニラ湾に続く「パッシグ川」に面している。
スペイン時代に中国人はスペインから敵視され、川向こうに居住させられたという。その地域には高層ビルが立ち並んでいた。
日本軍が「マニラ」を占領していた3年間には、周囲600m程の城壁に囲まれた要塞は日本軍の刑務所として使われ、ここで多くのフィリピン人(石碑によるとおよそ600人)が命を落したという。
水面下の地下牢に閉じ込められた「囚人」は満潮時に水死した。
珊瑚のレンガで造った要塞の入り口が壊れていたが、アメリカ軍の戦車が突撃した時にできたという。その際に大半が爆撃によって破壊された。
前庭には芝生が植えられ南国で見られる「プルメリア」の木が沢山の花を咲かせていた。近くには日本軍が設置したという「大砲」が残っていた。
現在はスペインによってここに収監されていた「ホセ リサール記念館」になっていて、彼の着ていた服や描いた絵などが展示されていた。
また「ホセ リサール」が、出口から歩かされて処刑場まで連れて行かれた時の足跡がペンキで書き記してあった。
③「マニラ大聖堂」
「イントラムロス」内にあるカトリック教会の大聖堂でスペイン時代の1571年に造られた。しかし、大二次世界大戦で破壊され、1958年に再建された。
「オランダ製のパイプオルガン」がある。ミサ中で中には入れなかったが、大勢の人が訪れていた。
≪「マニラ市内」観光≫(2)
先ず「フィリピン」の歴史を「ガイドブック」を参考に簡単にまとめて見ると…
1571年、スペイン軍がマニラを陥落し統治し出すと、それまでイスラム教が支配していた国内にスペイン人は「キリスト教」を広めるため「宣教師」を送って教えを説いた。
「初代総督レガスピ」は、マニラ首都圏の北部に城砦を張り巡らした「イントラムロス」を造ったが、 「サンチャゴ砦」はその北端、「パシグ川」が「マニラ湾」に流れ込む付近で当時の港湾管理の要所に造られた。
「ホセ リサール」はスペイン軍に処刑されるまで、ここに収監されていたので、一部が彼の記念館になっていた。
1898年、アメリカが大艦隊でマニラ港に入った。
その後スペインは2000万ドルでアメリカにフィリピンを売り渡したという。
その後アメリカの「ルーズベルト大統領」は「フィリピン・コモンウエルス」を樹立して、固有の政府と大統領を認めた。
1941年、日本軍がフィリピンに上陸し、「マニラ」を占領した。1944年に入ると日本軍は弱体化した。
1945年にはアメリカがフィリピンを奪還し、1946年には「フィリピン共和国」が発足した。その後20年間、アメリカ主導の政権が続いた。
1965年には、自由党の「フェルナンド・E・マルコス」が大統領となり、独裁政治を行った。
1983年8月、「マルコス」大統領の政敵「ベニグノ・アキノ」元上院議員が暗殺される。
1986年2月25日、マルコス大統領の不正選挙が明るみに出た事で、不満を募らせた民衆は大統領を国外に追放した。
暗殺された「ベニグノ・アキノ」の娘「コラソン・アキノ」が選挙で大統領に選出される。
その後、数人大統領が変わり、2010年5月、「ベニグノ・アキノ三世」が多くの民衆の支持を得て政権を握り、現在も担っている。
①「リサール公園」
最初に行った場所はマニラ首都圏の中央にある「リサール公園」だった。
ここには国の英雄「ホセ リサール」(1861年~1896年)を取り囲む群像があったが、30m程手前にロープが張られていて私達はその像に近づく事ができなかった。
「ホセ リサール」は頭が切れた上に大変な努力家で、農学、測量学を学んだ後、母親が失明する病気に見舞われると医学を勉強した。
やがて宗主国「スペイン」の「マドリッド」に留学をし、医学と哲文学を学びながら、26歳までにスペイン語、フランス語、イタリア語、ポルトガル語、英語、ドイツ語、オランダ語、ロシア語、中国語、ギリシャ語など多くの言語を習得したという。
1888年2月28日には横浜に来て、その後1ヶ月間東京に滞在している。
1892年に帰国すると「フィリピン同盟」を組織して、スペインの植民地下で暴力を用いずに改革を進める運動をした。その際、政府に逮捕されている。
1896年7月、「軍医」として採用され、スペイン海軍の巡洋艦に乗ったが、「バルセロナ」でスペインの官憲に逮捕された。「マニラ」に送致された後、12月30日、大勢の大衆が見守る中で「リサール公園」で銃殺刑にされたのだ。僅か35歳の若さだった。
地下に彼の遺体が葬られている碑は、2人の衛兵が守っていた。
ロープの前にはひっきりなしに市民や観光客が訪れていた。
≪「マニラ市内」観光≫(1)
羽田空港を9;35に飛び立ったANA機は、5時間後の13;35に「フィリピン」の首都にある「マニラ国際空港」に着陸した。ヨーロッパの半分の時間で着いてしまったので、改めて近い国だと実感した。(日本との時差は-1時間である)
飛行機から降りた途端、ムッとする熱気に包まれた。気温は30度はあっただろう。
スーツケースを専用バスに積み込んでバスに乗ると、クーラーで冷えた空気が気持ち良かった。
現地の「スルーガイド」は、年配男性のTさん。物静かな話し方をするので、話が長くなると寝てしまいそうだった。
「マニラ首都圏」は、「フィリピン」の人口9234万人(2010年)の8%に当たる1186万人が住む大都会であり、島の中で面積が最大の「ルソン島」に位置する。
空港の傍に建設中の高層ビルが続いた。Tさんに聞くと、「ショッピングモール」や「映画館」「銀行」「ホテル」「カジノ」などが揃った新たな複合エリアを建設中なのだとか。
幹線道路なのに近年車の数が急増しているらしく、物凄く渋滞していた。バスから見ると「トヨタ車」が多かった。
「高速道路」は川に沿って建設中だった。また、建設中の「跨線橋」も見かけた。
中に派手なデザインの乗り合いバス「ジプニー」が多数走っていた。
米軍が使っていたジープを改造したもので、定員は10~15人。行き先の地名が車体に書いてあり、料金は9ペソ(現在は日本円で27円)中長距離の庶民の足だという。
またオートバイが無数に走っていた。横にサイドカーを取り付け、それぞれのデザインを誇った「トライシクル」も、多数走っていた。料金は交渉によるらしい。乗用車が増えて渋滞する市内で、狭い路地にも入り込める「トライシクル」が近年増えているらしい。
この他、余り見かけなかったが、自転車にサイドカーを取り付けた「ペディキャブ」もあり、観光客に利用されているという。
気温が低い寒中なので温かな場所に旅行したいと思い、19~27日迄「フィリピン」に行って来た。
昨年1月7日は新千歳空港が大雪で閉鎖されて成田空港に行く事ができず、泣く泣く「フィリピン」行きをキャンセルした事がある。それで1年後に再挑戦したという訳だ。
今回、事前に記事にしなかったのは防犯のためで、私の留守を知って空き巣に入る犯罪を防ぐためだった事を了解して欲しい。
20日朝に羽田空港から出発するツアーだったので、私は19日午後から羽田に行き前泊した。27日の帰国時間も夜遅かったので、羽田空港に直結しているホテルに後泊して、昨日昼、帰宅した。
向こうで西日本や台湾の寒波のニュースがあったので、北海道の我が家はどうかと心配だったが、帰宅して見ると留守中の積雪量は余り増えていなかったので安堵した。
昨日は、「フィリピン」を訪問する天皇陛下が「マニラ空港」に16時前に到着したらしい。私達の乗るANAの14;45発の帰国便が1時間遅れたのは、天皇陛下の特別機のためだったのかも知れない。
ニュースによると天皇陛下は、戦後70年の今、戦死した日本兵の1/3がフィリピンで亡くなった事に対する慰霊と、フィリピンの人達が大勢「マニラ市街戦」などの巻き添えになって亡くなったことへの慰霊のために訪れたという。
「フィリピン」は7000以上の島を抱える国だが、今回私が参加したのは「フィリピン7島巡りツアー」だった。
今回訪れた島々には、それぞれ特徴があって良かった。
また、近くて遠い国だった「フィリピン」に行き、本当に楽しめた。
赤道に近い地域なので、1月とは言え、平均気温は30度だったが、ホテルの室内やレストラン、観光バス内はクーラーが効いているので、寒い程の事もあった。
今朝の当地は-5℃で「フィリピン」との気温差が30℃以上もあるので、身体が寒さに慣れるのに数日掛かりそうだ。
食事は香辛料がそれ程使われていなく、新鮮な魚介類が多く出されたので、日本人の口に合いとても美味しかった。ただ、暑い国のために中には味付けが塩辛いメニューもあった。
旅行中の洗濯は今朝済ませたが、まだスーツケースの片づけが終っていない。これからしたい。
写真は「マニラ」で最初に訪れた「リサール公園」のスナップ。
ここはフィリピンの英雄「ホセ・リサール」が1896年12月30日にスペイン統治下の植民地政府により大勢の大衆の面前で35歳の若さで銃殺刑に処された場所である。韓国の学生達が旅行で来ていた。
今回の旅行では、出発2日前に「当日は荒れそうだ」と言う天気予報が出ていたので、私から旅行社に「もしも飛行機が飛ばなかった場合はどういう取り扱いになるか」を問い合わせていた。
旅行社には、全行程の航空券の取得を依頼し、代金も支払い済みで、事前に郵送されていた『日程表』にも、新千歳から羽田で乗り継ぎ、復路も羽田から新千歳までとなっていた。
従ってこの場合に限っては、「出発空港で飛ばなかった場合は、そこから旅行が中止になったと考えられる」という事になるので、昨日旅行社から、払い込んであったツアー代金全額を返済するという連絡が来た。
今朝も雪が断続的に降り続いているが、戻される29万円弱は次の旅行費用に当てたいと思っている。
たまたま今回は良かったが、いずれにしても無くなってしまった「旅行キャンセル保険」を何処かの保険会社で復活して欲しいものである。
お早う。
昨日は散々だった。
午後から大荒れと言う天気予報が出ていたので、1便でも早い飛行機に乗ろうと思い午前中に新千歳空港に行った。
所が誰も彼も同じ考えのため、チェックインカウンターは長蛇の列だ。やっと40分位並んで番が来たが、「予約していた15;35発のANAの振り替えはできません。」と言われてしまう。
仕方なく搭乗券を発行してもらい、預ける荷物の安全検査に回った所、ここも長蛇の列だ。30~40分かかっただろうか。ようやく荷物を預けた。
まだ2時間以上時間があるので、初めて空港内の店舗をぶらぶらと探索した。
小樽の蒲鉾店「かま栄」を見つけたので、「ミックス天麩羅」を1個買い、家から持参した果物や菓子などと一緒に軽食を摂った。
安全検査を済ませてゲート前の座席で待っていたが、14:30頃から次々と欠航の放送が入り始め、遂に私が乗る便も欠航するという放送。
全員がまたカウンターに戻ったので、振り替えチケットや払い戻しの場所は、また何時終るか分からない様な長蛇の列だ。
その内、遂に「本日中の飛行機は全て欠航になった」という放送。
私は今日中に羽田に行く事ができれば明日朝のツアーに参加できるのだが、それが叶わなくなった。荷物を後ろの人に頼んで旅行社に状況を電話した。
私だけが参加できなくなった旅行は、「キャンセル」した事になり、「キャンセル料」が発生するのだ。
3日前までなら3%、前日なら7%だ。
(昨年までは12~3月の旅行の際、「旅行キャンセル保険」に加入して行っていたが、今年、その保険が無くなってしまったのだ。また今回の様な天候不順による航空機欠航によって「自分だけキャンセル」するのは、私にとって初めての事である)
さて一旦預けた荷物を受け取ってJRの「快速エアポート」で帰る時も、空港地下のJR駅は長蛇の列。
駅を降りたらやはり猛吹雪なので、タクシーに乗って帰宅する。結局、家に辿り着いたら19時だった。
凄く疲れた1日だった。ブログに事の顛末を書こうとしたが、力が出てこず、夕食を食べて、TVを見て寝てしまった。
今朝、外を見ると吹雪は収まっている。7時過ぎにまだ寒い外に出て除雪開始。
先ず玄関前を道路まで30分かけて除雪した。雪が硬く締まっていて重い。25~30cm、所によっては40cmの深さに吹き溜まって積もった雪だからだろう。
道路際は、除雪車が車道を削って置いていった塊状の雪なので硬くて物凄く重い。近所の方は家庭用除雪機で作業をしている。
私は今冬初めての本格的な除雪で疲れたので、車を出すための車庫前の除雪は後にした。
もうこの時間は、羽田では皆さん、9;35発の「マニラ行き」塔乗口に居ることだろう。
今回は残念だが「フィリピン」は無くならないので、また次のチャンスを待ちたいと思う。
(車道から玄関に向かって撮って見た)
車庫前の雪は、「ママさんダンプ」を使って、先程40分掛けて除雪を終えた。心臓バクバクで汗だらけになった。また雪が降りだして来た。
寒い北海道を抜け出して、明日から「フィリピン」に出かける。
ツアーの出発は8日からだが、羽田空港出発が9;35の予定なので、明日家を出て羽田に前泊するのだ。
所が天気予報が問題で、今日は予報どおりの雨だが、明日から2日間は猛吹雪になると言うのだ。
新千歳空港は雪に弱い空港なので、行くことができるかどうか気を揉んでいる。
旅行は7日間だが、最終日の帰国時刻が19;55なので、帰りも私は後泊して、北海道に戻るのは翌日15日午前中になる。
北海道に住む私には、日程だけでも今回も一番余計な時間とホテル代がかかる旅行になるが、止むを得ない。
今回「フィリピン」に行く事にしたのは、この時期は北海道が寒いので、暖かい所に行きたいというのが第一の理由。「フィリピン」の平均気温は25~30度というから、11月に行った「メキシコ」の気候に近い。「メキシコ」旅行の時に用意した真夏の服装をほぼそのまま持参するつもりだ。
それと近隣国の中で、まだ行っていない国の一つであることがもう一つの理由だ。
日本の南に位置する近隣国なのだが、政情が安定していなかったり、治安が余り良くない国という思いがあって今まで避けて来た。しかし、一度は実際に自分の目で見てみたいと思う。
首都「マニラ」までは飛行機で僅か5時間しかかからない。時差も-1時間なので、体の負担は少ない筈だ。
日程を見ると「ルソン島」「レイテ島」「セブ島」「ボホール島」を高速船や飛行機で周遊し、「レイテ島戦跡巡り」や「小学校訪問」も予定されている。
先日TVのBSドキュメンタリーで見た「憎しみと許しーマニラ市街戦その後」は、やはり衝撃的だった。
第二次世界大戦末期に1942年から日本が支配していた「マニラ」に1945年2月9日アメリカ軍が進駐して来て市街戦になった際、日本軍は多くの市民を殺戮したのだった。
その後、200人を超す日本兵が米軍に捕らえられて「モンテンルパ」刑務所に収監され「死刑」判決を受けた。
フィリピンが独立した後は、刑務所の日本軍の処置はフィリピン側にゆだねられた。大統領が死刑の執行にサインして死刑が執行された人は1951年1月までに計17人だった。
自らの妻や子どもを日本兵に殺された「キリノ大統領」であったが、彼の「許し」の決断による「特赦」により1953年6月23日108人全員が日本に戻された。
帰国後引き続き「巣鴨」の刑務所に最後まで収監されていた死刑囚も、その年の12月30日、「キリノ大統領」の「恩赦」命令で最終的に罪を許されたのだった。(その後の選挙で彼は国民の反発を受けて落選し、2年後に病死したという)
東南アジアには、こうした戦争の生々しい歴史が残っていて、住民感情も日本に必ずしも好意的とは言えないから、やはり安易な気持では行けないと思っている。加害者は忘れていることでも、被害者の側の傷は深く消え難いのだから。
先ずは明日、新千歳空港から飛行機が無事に飛ぶ事を願っている。
旅行中、ブログを休むのでどうぞ宜しく!
(寒い玄関に置いてある「茶花椿」が開花した)
≪ヒンズー教総本山・ブサキ寺院≫
4日目「平和記念館」見学の後、ヒンズー教総本山「ブサキ寺院」に向かった。
この寺院はバリ島の東部、最高峰「アグン山」(3142m)の麓にあり、バス停から寺院に向かって急勾配の坂道を500m上った所にあった。
バイクの男性が「上までバイクに乗らないか?」と誘って来るが、「5000で良い」と言われた人が、5000ルピアなら60円位かなと思って乗ると、最後に「5000円だ。」と言われたとかガイドに聞かされたので、皆頑張って自力で徒歩で上った。
私は杖を用意していたが、グループの女性が「腰が痛くて歩けない。」と辛そうにしているのを知り、杖を彼女に貸した。とても楽だと喜ばれたが、結局私は杖なしで頑張る事になった。
坂の両側には、似たような安物の生地や服を売る店がぎっしりと並んでいた。
この寺院は30もの寺院で構成された複合施設だ。一番大きい寺院が「風の神」を祀った寺院だが、その傍に「火の神」「水の神」を祀った寺院もあった。
ここで行われる祭礼は、1年が210日の「サカ暦」で行われ、年間55回もの祭礼があるそうだ。
ここでもちょっとした事があった。
どの寺院にも許可が無ければ入れないのだが、私一人でグループと少し離れたところで写真を撮っていたら、「ここまで来て写していいよ。」と手招きする若い男性がいた。5m程階段を上ると寺院の正面が見えたので写真を写した。するとその男性が「あなたをここで写して上げる。」と言い出した。不審に思ったので断って階段を下りた。すると上からその男性が、「お布施!お布施!」と言って来た。私はちゃんと寺院の賽銭箱に入れるならOKなのだが、彼のポケットに入るならNOだと判断して、「ご免、小さいお金を持っていないから。」と言って走って去った。危ない、危ない。
その時写した1枚が下の写真だ。
階段下の広場でバナナ売りの女性に会った。インドネシアの女性は、頭の上に乗せて物を運ぶ様だ。
最後の日、マッサージに行った。マッサージは初めての体験だったが、疲れて肩がこっていた体が楽になったような気がした。
午後からは買い物をし、夜、バリ空港から帰国の航空機に乗った。
最後に田舎のレストラン傍の棚田風景を載せてインドネシア旅行記を終る。
長かった記事を読んで頂いた皆さん、コメントを下さった方々に感謝します。 (完)