花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

薔薇の季節がやって来た

2016年06月30日 | ガーデニング・家庭菜園
この数日は、毎朝、庭に出るのが楽しい。新たに開花し出した薔薇を発見できるからだ。
昨秋以来8か月ぶりに出会う薔薇の花は、瑞々しく美しい。
この時期は、根からたっぷりと水分と養分を枝から葉、枝先に付いた蕾まで吸い上げてくれるからだ。
その養分や水分を分けて欲しくて、小さなアブラムシが何処からとも無く飛んで来る。そのアブラムシは樹液を吸い、ウイルスを振り撒いて薔薇を弱らせる。私は見つけたら、ゴム手袋を履いた手で潰してしまう。
てんとう虫はアブラムシの天敵で、好んで食べるのだそうだ。時々てんとう虫の姿も見る。

昨日、通りがかった高齢女性は、旦那さんが亡くなってからは自分が花の世話をしているが、どうしても薔薇のアブラムシだけは気持が悪く、スプレー薬を撒いてしまうと話していた。

今日は同じ薔薇を2枚ずつ写して見た。蕾が開き始めた時と全部開いた時では、表情がかなり違う薔薇もある。
 

    

 

 

 

 

 


       
         
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海外旅行「ピレネー山脈横断の旅」(5)

2016年06月30日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅣ」ドイツ・ピレネー山脈縦断
≪モリエリス渓谷のハイキング≫
3日目午後は、「ボイ渓谷」の村の散策を終えてから「モリエリス渓谷」に移動した。
昔、氷河が削ったU字谷の底を片道30分程、のんびりとハイキングをして、渓谷の奥にある滝を見に行った。途中の平原に咲く高山植物の幾つかは、私の庭にある草花だった。
まだ残雪がある石灰岩の山からは、雪解け水が流れ、その水が集まって作られる滝の水量は多かった。





 

      


その後、ピレネー山脈のスペイン側にある「アラン渓谷」の町「ヴィエリャ」に行ってホテルに投宿した。




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海外旅行「ピレネー山脈横断の旅」(4)

2016年06月26日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅣ」ドイツ・ピレネー山脈縦断
≪「ボイ渓谷」の村の教会≫

3日目は「アンドラ公国」から3時間半、山を下った所にある「ボイ渓谷」に向った。


         


何でも10~12世紀、アンダルシア地方のイスラム教徒がフランスを侵略しつつあったために、フランス国王は軍事目的でピレネー山脈南部に新たに領地を建設して領地国を造ったという。
やがてここを統治していたバルセロナの公爵は、人口が増えるように村や城、教会、修道院などを沢山造った。
オリバ修道院長という人は、イタリアに行き、建築家や画家をカタルーニャに招いてロマネスク様式の教会を沢山造らせたのだそうだ。
2000年、「ボイ渓谷」にあるこうした古い教会9箇所が、ユネスコの世界遺産に登録された。
私達は、二つの村の教会を訪ねた。

①「タウル村」の「サン・クレメンテ教会」
小さな教会だった。祭壇周りの壁画はかなり傷みが激しかった。祭壇に置かれていたキリスト像は木造だった。
所が5~6分後に入り口が閉められ、中が暗くなると映像が流れ始めた。祭壇周囲の壁画が以前はどんなものだったかが映し出された。800年以上前の画家達の仕事に感動した。



 

 

教会には6階建ての鐘楼があった。鐘楼に登る階段は、梯子を立てかけただけのもので勾配が急だったが、何とか最上階まで登った。
鐘は鳴らさなかったが、そこから見たピレネーの景色はすばらしかった。


          

教会にほど近いレストランで、「ウズラ鳥の料理」を食べた。美味しかった。
②「ポイ村」の「サン・ジョアン教会」
村に入ると一軒の家に旗が立っていて、共同の水場があった。人は多くは住んでいないようだったが、住んでいる家には花が飾られていた。村からはピレネーの景色が美しかった。
 

 
教会の中には入れなかったが、入り口に当時の壁画が残されていた。また、裏にある岩を利用して、羊飼いの様子が再現されいた。キリスト教に関係するのかも知れない。
 

        
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海外旅行「ピレネー山脈横断の旅」(3)

2016年06月26日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅣ」ドイツ・ピレネー山脈縦断
≪「アンドラ公国」という国≫

「カルカソンヌ」の観光を終え、バスは18時半に1日目の宿泊地「アンドラ公国」の「ラ・ベリャ」を目指した。
暫く田園風景が続いた。温泉が湧くという「テルメ」の町の駅で一度トイレ休憩をしてからは石灰岩がむき出しになった山岳地帯に入った。


      

やがて道は急なツヅラ折りの山道を登って行った。ピレネー山脈に来たのだ。
3時間走って山脈の中の盆地になっている標高1000mの場所が「アンドラ公国」だった。
険しい山間部にもかかわらず、観光客用のホテルが沢山建ち並んでいて、高給ブランド店がならんでいた。

添乗員の説明では、フランスとスペインに共同統治を受けていた時代が長かったが、1993年3月に独立国となり、その後国連にも加盟した。
2011年までは「タックス・ヘイブン」(租税回避地)の国として知られていた。2012年までは消費税がなかったが、今は4%だ。消費税が20%近いスペインやフランスから、沢山の買い物客が来る。彼らはここで電化製品や耐久消費財などの高額の買い物をするという。また、高原リゾートを目的に来る家族連れも多い。
郵便局や裁判所、軍隊はなく、独自の切手もないが、学校はあり、民族毎の生徒にその民族の言語で教育をしているという。郵便事業はフランスとスペインが行っているので、町には両国のポストが並んで立っている。国内の郵送料は無料だ。
治安は警察が行い、国防はフランスとスペインに委ねている。鉄道、飛行場はないが、道路は整備され、ヘリポートがあるらしい。
議会は一院制で、国家収入の大半はEUからの物資の輸入税だという。
2011年現在、「アンドラ公国」に住む日本人は、4人だという。

今回の旅の初めての宿は「アンドラ公国」のホテルだった。部屋は小さめだったが、水周りは清潔で、食事も美味しかった。

翌朝は少し遅い出発だったので、朝食後にホテルの近辺を散策した。
路線バスが走行していた。見ると運転手は女性だった。
高い山あいの狭い平地に、小さいが瀟洒な教会があった。お洒落な窓の飲食店や小物店が並んでいた。また、トレッキング用品店が多かった。
 


 


 
          
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海外旅行「ピレネー山脈横断の旅」(2)

2016年06月26日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅣ」ドイツ・ピレネー山脈縦断
≪世界遺産「カルカソンヌ」観光≫

成田国際空港から22時に離陸したトルコ航空機は、12時間後の現地時間4時15分(日本との時差は-6時間)にトルコの「イスタンブール」に到着。
前回書いたように、当日「イスタンブール」でISによるらしいテロ事件が起きたという事で、広い空港内でフランスの「トゥールーズ空港」行きに乗り換える11時まで、何処にも行かずに待機した。
この空港はヨーロッパ、西アジア、アフリカ方面に乗り継ぐ「ハブ空港」で、国籍や民族が異なる大勢の人達が行き交っていた。

椅子に座っていた時、隣に座った体格が良く、大きな目をしたお洒落な女性はイラン人だった。私が昨年10月にイランに行ったと言うと、急に彼女との距離が近まり、片言の英語でイランの思い出などを少し話した。私が驚いたのは、イラン国内では全ての女性はスカーフを被らなければならないのに、彼女は派手な色柄の服装で化粧もバッチリ、香水がひどくキツイ。そしてスカーフは被らず、イラン人だと聞かなければ全くそれとは分からない外観だった事だった。

隣席に次に座った女性はイスラエル人だった。彼女は黒っぽい服装をし、夫と子どもを連れていた。英語が話せないので会話ができなかった。

昼の飛行なので飛行機の座席を窓側に取った。飛行機はトルコからギリシャ上空を横切り、地中海に入り、フランス国土に向った。
目的地のフランスは、日本との時差は夏時間で-7時間なので、機内でまた時計の時刻を直した。
フランス上空に来た時、下を見ると地中海が見えた。海辺に大きな町があったが、どこかは判らなかった。

 
              

「トゥルーズ空港」には3時間40分後の13時40分に着いた。

          
     

飛行機に預けたスーツケースの内、一人のメンバーのが壊れていたらしく、その手続きのために1時間待った。空港側は、同じ様な大きさのスーツケースを持って来て交換してくれたそうだ。

現地ガイドは中年の女性だった。
バスは気温25度ほどある「トゥルーズ」市内は通過して「カルカソンヌ」に向った。
見ると空港の傍に「エアバス社」があった。この町はフランスが世界に誇る「エアバス社」の町だったのだ。
バスで1時間半ほど移動しながら窓外を見ると、何処までも緑豊かな田園風景が続いていた。
小麦、大麦、トウモロコシ、じゃが芋、葡萄などの畑が広がり、時々牛や羊の姿も見えた。実にのどかな南フランスの光景だった。
フランスがヨーロッパの穀倉地帯だという事は、都市にいると分からないが、今回はそれが良く分かった。


         

やがて「カルカソンヌ」に着いた。
今この町は、人口4.7万人の「オード県」の県庁所在地である。
ここは古くからフランスのモンターニュ・ロワールとピレネー山脈の間にあり、また地中海と大西洋を結ぶ交通の要所だった所として重要視されて来た。
「オード川」を挟んだ向こう側に、二重の城壁で囲まれた城塞都市が造られていて、中に中世の城「コンタル城」が立っている。
内側の城壁がローマ時代の3~4世紀に建造され、外側は13世紀に造られたという。
川の反対側には、旧市街が造られた。



1659年の「ピレネー条約」によりフランスとスペインの国境が定められてからは、「カクカソンヌ」の戦略的な意味が失われると城は荒廃したが、19世紀の中頃、修復の機運が盛り上がって修復され今日に至っている。
1997年、世界遺産に指定され、集客数では「モンサンミッシェル」に次ぐフランス第二位の観光地になっている。
入り口の門の上には、敵を攻撃する仕掛けの穴が開けられ、城内の道は曲がっていた。今では観光客相手の店が幾つもあり、一番奥にはステンドグラスが美しい教会があった。
内壁と外壁の間を歩いたら、保育所の子ども達が内壁の木陰で遊んでいた。


          

 

            



 

    






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薔薇が咲き始めた

2016年06月24日 | ガーデニング・家庭菜園
ピレネーの旅行から帰って来て1週間になる。
この間、庭や農園の草取り、間引き、追肥、そして、芽を出して伸びだした豆類に竹の支えを立てたりと作業に追われていた。
旅行前に植えて行った小玉スイカの様子がおかしいのでビニールを取って見たら、蟻の巣で根がやられていた。
仕方なく除去して、代わりに私が育てたミニカボチャの苗を植えた。上手く育つといいけれど…

薔薇は昨年よりも2~3日遅いが、次々と開花して来た。

 



 



 

 

 

芍薬の赤色は終ったが、今白色芍薬が満開だ。ジギタリスもすっかり背が高くなった。

  
昨日は、強風が吹いても薔薇が倒れたり折れたりしないように、竹の支柱をした。
竹も5年も使うと次第に劣化して駄目になって来るので、不足分として金属製の支柱を買おうかと思っている。
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海外旅行「ピレネー山脈横断の旅」(1)

2016年06月17日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅣ」ドイツ・ピレネー山脈縦断
≪昨夜帰国した≫

先月22日に中国から帰国した後、庭の整備と豆類の植え付けを全て終わらせてまた旅に出た。
今回の旅は、トルコの「イスタンブール」空港で乗り継ぎをして、フランス南部の町「トゥールーズ」に降り立ち、南西フランスの町や村を散策やハイキングをしながら、ピレネー山脈を南のスペイン側に越え、スペインの海の町「ビルバオ」から帰国した9日間の旅だった。
山や自然が好きな上、この時期、特にテロの不安が少ない大都会を避けて決めたツアー参加だった。
(下の地図上に書き込んだ⇒は、飛行機の到着地と帰国日の搭乗地。また白線は、この地図に出ていた訪問地である。その他訪れた小さい町はこれには載っていないので悪しからず…)



7日の夜、成田を出発し、翌日、「イスタンブール」で6時間以上の待ち合わせ時間があった。
しかし、7日に「イスタンブール」でテロ事件が起きたという事で、主催旅行社からの指示で空港の外へ出ることを控えさせられ、残念だった。

実質的に航空機に乗っていた時間は、トルコまでが12時間、次いで旅行の基点地南フランスの「トゥルーズ」までは3時間40分だったから、合計で15時間40分だった。やはり隣国「中国」に比べるとヨーロッパは遠い。今回のフランスとスペインの日本との時差は、マイナス7時間だった。

地図で確認するとこの地域の緯度は「札幌」とほぼ同緯度なので、気候も植栽も北海道にとても良く似ていたが、草花の開花状況や小麦、トウモロコシ、じゃが芋、トマトなどの野菜の生育状況を見ると北海道よりも2週間ほど進んでいると思った。この差は多分、ドーバー海峡に暖流が流れているからではないかと思った。

山道をハイキングしている時に見た白樺や松、高山植物は、本当に北海道を思い起こさせてくれるものが多かったし、我が家の庭に植えてある植物もあった。また、湖沼や残雪があるこの時期の山の風景は素晴らしかった。ピレネー山脈の雪解け水も水量が多く、その流れは豪快だった。

ただヨーロッパアルプスは、草木が生えない石灰岩質の山が多いため、水道水は石灰分が多いアルカリ性で、日本の軟水とは異なっていた。
ミネラルウオーターは毎日1本付いていたが、ある日の夕食でテーブルの上にあった「水道水」を知らずに飲んで、案の定、翌朝から下痢をした。1日絶食をし、下痢止め薬を飲んで回復した。

ところが今回の旅行ルートのガイドブックが無く、事前予習をしないまま出かけたが、山奥の小さな町や村にも歴史や独特の文化遺産があった。
中でも世界一小さな国「アンドラ公国」に一泊したのは良い経験になった。
 
帰宅して見ると、9日振りに見た我が家の庭は大いに変化していた。
この時期は植物の生育が大盛で、大きくなったホウレン草や青梗菜、小松菜を、今朝は間引くように収穫して近所2軒に届けた。まだスーパーでは野菜が高いが、これからは私の庭で収穫する野菜で十分間に合いそうだ。
ニンニクの芽も伸びて来たので先ほど摘み、知人に届けたり、自家用で食べたりした。

10日前に満開だった「ツツジ」「ボタン」「ジャーマンアイリス」の花が終り、「芍薬」「かきつばた」「サツキ」が開花して来た。薔薇もポツポツ咲き始めた。ようやく北海道にも本格的な花の季節が到来したと思うと本当に嬉しい。

昨日も今日も雨だが、明日晴れたら庭の草取りと「とまと」や「隠元豆」に支えをし、農園の見回りに行きたいと思っている。
庭仕事をしながら、旅のまとめも頑張りたいので、また、訪れていただければ嬉しい。

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海外旅行「中国シルクロードの旅」(10)

2016年06月07日 | 海外旅行「中国Ⅲ」西安、シルクロード、七彩山・武陵源

≪「西寧」市内・市外観光≫(2)

街中を移動中に芋を売っている人や将棋?をしている人たちを見た。
 
③「青海省博物館」
ここには「青海省」の古代~現代の陶器、金細工、絵画などが展示され、村々に伝わる行事が泥人形で再現されていた。

(唐時代618~907年)
 
(清時代1616~1911年 仏像) (明時代1436~1449年 仏像と掛け軸)
 
(清時代1616~1911年 壷)


           
      (現代民間絵画 1988年栄誉授与された作品)

(ある村の古老の遊戯)

7日目は午後15時40分の国内線飛行機で「西寧」から「上海」に2時間40分で飛び、その日は「上海」のホテルに泊まった。
「上海」は雨が降っていて蒸し暑く、日本の梅雨の様だった。

8日目、「上海」発8時15分の国際線で「新千歳」空港に戻った。所要時間は3時間15分だった。
今回も得るものが多かった中国シルクロードの旅を楽しみ、無事に終える事ができて本当に良かった。
長くなったこの旅行記に同行していただいた方々は、どのような感想を抱いただろうか。
現在、国の内外に様々な社会問題を抱えている中国だが、雄大な自然と長い歴史の上に、今、14億人の人々が生活している。
私には、まだ広い中国で行き残している地域がある。次にまた中国に行くのは、何時になるだろうか。
                             (完

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海外旅行「中国シルクロードの旅」(9)

2016年06月06日 | 海外旅行「中国Ⅲ」西安、シルクロード、七彩山・武陵源

≪「西寧」市内・市外観光≫(1)

「西寧」は「青海省」の省都で人口196万人、周囲を山に囲まれた盆地にできた町だ。
町自体が標高2275mという高地にあるため、年間平均気温が5.6度と涼しく、周辺から多くの人々が避暑ができるこの町に次々と転入して来る。(実際、朝の気温は6~7度位だった)
そのため、30階建てのマンションが林立し、今も建築ラッシュが続いていた。私は数段階段を登るだけで息が切れるのに、高層ビルの上には住めないと思ったが。(ガイドに聞くと、価格は中層階が最も高く、低層階、高層階は安いのだそうだ)
町の北東には「湟水」川、中心には「南川河」が流れていて、車も多く、町の中心部は片道6車線だった。
また「西寧」は、ラサまで走る「青海高速鉄道」の基点の駅もある。



 



①「南禅寺」
ここは町の南西の山の斜面を利用して建てられている中国の寺院だった。急な坂と階段を登って本殿に辿り着いた。
信者が線香を奉納しながら祈っていた。チベット仏教の「タルチョ」がはためいていた。蛙の形に加工した石が置いてあった。


       



 

       

②「タール寺」
ここはチベット仏教の「ゲルク派」寺院として1560年に創建され、学問センターとして今でも500人以上の修行僧が生活しているという。
広場に立つ「如来八塔」は、仏の八大功徳を表すらしい。



       

「大経堂」の傍の「大金瓦殿」には、開祖ツォンカパの大銀塔があった。ガラス越しにしか見られなかったが、宝石を散りばめた高さ11mの塔だった。


「五体投地」をしている若い修行僧や信者が沢山いた。私には何か痛々しく感じられた。また1度回すと1冊の経典を唱えた事になるという「マニ車」がここにもあった。
       
また現在、中国政府は観光客を「タール寺」に呼び込むために建物を次々と新築していた。少し前まで宗教を阻害していた政府が何故と疑問に思った。

丁度「仮面祭り」が行われる時間になったので、広場に行き、階段に座って待った。
動物や仏、悪魔の仮面をつけた僧達が、打楽器の演奏に合わせて優雅な動きが遅い踊りを踊った。小さな少年の僧は猿の仮面を被って踊った。
幾つかの踊りがあったが、説明がないので意味が分からなかった。信者は分かるのかもしれない。


 

「タンカ開帳」という行事が翌日あるというので再度出直したが、雨が降って中止になった。

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海外旅行「中国シルクロードの旅」(8)

2016年06月06日 | 海外旅行「中国Ⅲ」西安、シルクロード、七彩山・武陵源

≪黄土高原をバスで「西寧」へ≫

「七彩丹霞(カ)国家地質公園」を観光した午後は、4000mの峠を2つ越えて、340kmの行程を8時間ひた走り、「青海省」の省都「西寧」まで行った。
峠の3400mの所で青空トイレを使った時、空気が薄く呼吸が苦しかった。
山の雪解け水が川になっているところを暫く進むと、ダムが造られていた。その周辺では、ポプラの苗を沢山育てていた。


         



         



         



所々に5月15日から1ヶ月間、採取が解禁された「冬虫夏草」を取る人達のテントが点在していた。ある場所では数十人もの人達が一斉に「冬虫夏草」を取っていた。
自身がチベット族だというガイドは、「冬虫夏草」は3500m以上の所に生える万能薬で、とても貴重なものだ。1本50元はするので、遊牧民や農民は解禁のこの時期、1ヶ月ほど一斉に山に入るのだと説明してくれた。
バスの中で実物を見せてくれた。3~4cmの幼虫の先に草が生えたものに見えた。(下の写真は、西寧のスーパーの売り場で写したもの)


             

またガイドは時々窓外に見える遊牧民が放牧している「ヤク」について、干し肉にして食べたり、毛でテントを作ったりするのだと説明してくれた。


このあたりに住む「チベット族」の子どもは、7歳から小学校に入るが、10日間学校に寄宿し、休みの4日間は家にもどるという生活をするので可哀相だと話してくれた。
小学校では中国語の他にチベット語も学ぶ。中学、高校、大学では、英語、日本語も学ぶそうだ。そうしないと仕事に就き、自立できないのだという。

バスは景色が変化する山道を走り終わり、10時近くにやっと「西寧」の町に着いた。

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海外旅行「中国シルクロードの旅」(7)

2016年06月03日 | 海外旅行「中国Ⅲ」西安、シルクロード、七彩山・武陵源

≪「七彩丹霞(カ)国家地質公園」観光≫

5日目の朝、早く起きて「張エキ」のホテル近辺を散策した。
13世紀に「東方見聞録」を表した「マルコポーロ」が滞在した事があり、その石膏像が立っていた。
           

また「張エキ第一中学校」もあった。生徒達はジャージー姿で登校していた。女生徒に声を掛けて写真を撮らせてもらった。
  

「昔の町並み保護区」という一画があった。



現代の建物の屋根の多くに、太陽熱で温水をつくる装置が設置されていた。
      

8時半にホテルを出発して、南西40kmの地域にある「七彩丹霞(カ)国家地質公園」を目指した。
途中の道路の街路樹は、背が高いポプラが大半だった。その幹には地上1m程の高さに石灰が塗られていて真っ白だった。虫除け効果があるそうだ。
ポプラと柳は乾燥と寒さに強いため、砂漠に適しているとガイドが説明した。
また、この地域では、小麦、トウモロコシ、じゃが芋、とまと、葉菜類が植えられていた。
バスから発芽して間もないじゃが芋畑とトウモロコシ畑が見えた。
ピンク色の花が咲いている木があったので、聞くと「ザクロ」の木だそうだ。


「七彩丹霞(カ)国家地質公園」に着いた。この公園は、東西45km、南北10kmにもわたる広大な地域で、虹色の断層が見られるのである。
バスを降り、展望台に向うリムジンバスに乗り換えた。
 

展望台は5箇所あった。どこもバスを降りてから坂道や階段を数十段上るが、展望台からの景観は絶景だった。
かって海底だったこの地域は、赤色は鉄分、黄色は硫黄分、青色は銅、黒は炭素、白は石灰分の鉱物を多く含む海底の幾重にも重なった地層が隆起して地上に現れたものだ。
その時、水平に隆起しないで斜めになったり縦になったりしゅう曲したりして、この地層ができ上がったらしい。表面に塩が噴き出している所もあった。
私は遠い原始の地球に思いを馳せながら、展望台を回った。軽登山の様に足腰が疲れたが、心が躍る感動的な時間を持てた。


  
           
          

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海外旅行「中国シルクロードの旅」(6)

2016年06月03日 | 海外旅行「中国Ⅲ」西安、シルクロード、七彩山・武陵源

≪高速鉄道で「柳園」から「張掖(エキ)」へ≫
「敦煌」の観光を終えた翌日の4日目午後は、バスで「黒ゴビ砂漠」と言われ≪高速鉄道で「柳園」から「張掖(エキ)」へ≫る地域を北上して、高速鉄道が止まる「柳園南駅」まで200kmの距離を2時間半かけて走った。途中、白い塩が沢山砂漠の表面に浮き出ていた。また風が強いので、アジア一の風車発電を計画中だという。

「柳園南駅」はできたばかりで、周辺地域も次々と建物を建築中だった。駅舎内に小さなコンビニ風の店があって、カップ麺や菓子などが売られていた。別の場所に湧いた湯の給湯器も設置されていた。


 

そこから16時28分の高速鉄道で、530km東の「張掖(エキ)」まで3時間半の旅をした。
座席は指定席だったが、運賃が高額(私達は「張エキ」まで5000円だった)なためか、地元の人たちは少なく空席が多かった。
窓外に広がる景色は、砂漠から次第に農地や放牧地が見え出し、鉄道の右側遠くに連なる「祁(キ)連山脈」を見ながらしばしゆったりとした時間を楽しんだ。
「張掖」に近づいた頃、植えたばかりの田んぼや大型の家畜小屋も見えた。


             


             
                 
「張掖」は「祁連山脈」の北側に位置する町で、漢の武帝の時代に匈奴に勝ち、張掖軍を置いた時からシルクロードの主要な交易の町として発展したという。
現在は人口131万人で、古くは「マルコポーロ」が1ヶ月滞在した事があるという。


             



その日は「張掖」のレストランで夕食を食べてからホテルに入った。
             

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海外旅行「中国シルクロードの旅」(5)

2016年06月03日 | 海外旅行「中国Ⅲ」西安、シルクロード、七彩山・武陵源

≪「敦煌」観光≫

「敦煌」は甘粛省の西にある人口14万人のオアシス都市で、交易の町であり、漢代には西域のに対する最前線の軍事拠点だった。
しかし、中央権力の支配が弱まると、常に異民族が侵入して来て占領された。
郊外15kmの所にある「莫高窟」は、中国三大石窟の一つで、支配者が変わったとしてもいつの時代にも造られ続けたという。
現代の「敦煌」の町は「漢代」に造られたものであるという。

①「鳴沙山」と「月牙泉」観光
「敦煌」の南5kmの所に東西40km、南北50kmの広大な砂漠があるが、それが「鳴沙山」だ。
砂山を人が滑り降りると、大きな音が出る事から名づけられたらしい。
入り口から電気自動車に乗り、砂山の傍まで行った。40分程の自由時間に、思い思いに高さ100m程の砂山を登った。気温は31~32度あり、乾燥した砂が熱気を照り返して来る。結構登った所で休んでいた時、子どもを抱いて登って来た父子に写真を撮らせてもらった。
帰りは好き好きに「ラクダ」に乗ったり、電気自動車で帰るのだが、私は電気自動車にした。


           

「月牙泉」は、谷あいに湧く東西200mの三日月型の泉で、深さが5mある。枯れた事が無いらしい。
「鳴沙山」と「月牙泉」は「敦煌」ならではの景観だった。
         
          

その夜泊まった「敦煌」のホテルと、ホテルの近くの町の様子である。
中国もここまで西に来ると、なかなか日がくれない。本当は国内にもう1~2時間時差を設けても良いのにと思った。



            



            



②世界遺産「莫高窟」観光

4日目はいよいよ「莫高窟」へ行く日だ。
8時半にホテルを出発して、「莫高窟」の前知識を得る場所に行った。そこは凄く混んでいて、私達は9時からの入場を指示されて待った。45分間のビデオは、「敦煌」に人が集まり、交易の中心地になった経緯と「莫高窟」の紹介だった。


その施設からは写真のリムジンバスに10分乗り、「莫高窟」の入り口で降りて橋を渡り、山肌に造られた石窟を見学するのだ。

専門の研究員のガイドで、幾つかの石窟寺院に案内された。写真撮影は外部はOKだったが、内部はNOだった。

「莫高窟」は紀元366年に「楽尊」という僧が造営をし始め、その地の支配者が漢民族、チベット族、モンゴル族などと変わっても造営が続けられたそうだ。
ガイドブックによると石窟の数は734にも登るという。
1600年以上前から、岩を削り、壁に無数の仏の姿を刻み込んで来た数知れない多くの彫刻師たちや画家たちは、この厳しい砂漠で何を思ったり祈ったりして仕事をし続けたのだろう。
見学時間は僅か30分だったが、ガイドの説明が分かり易く、満足した。

 
         



           



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海外旅行「中国シルクロードの旅」(4)

2016年06月02日 | 海外旅行「中国Ⅲ」西安、シルクロード、七彩山・武陵源

≪「西安」観光≫(2)
起きてカーテンを開けると、13階の部屋の窓からは、高層ビルとその下にある古い建物が見えた。
 

 
バスに乗って郊外に向う途中は、新しいビルが沢山建ち並ぶ光景が目に入って来た。
郊外に出ると「火力発電所」があった。
 

             

③「漢陽陵博物館」
「漢陽陵博物館」は3日目ホテルを出て、バスで1時間行った所にあった。
朝の「西安市内」をバスから写した。

「漢陽陵博物館」は、前漢の6代皇帝「景帝」(劉啓)(紀元前188年~141年)とその皇后を祭った合奏墓だった。
「景帝陵」Aと「皇后陵」Cの間に「地下遺跡博物館」BEがあった。Dは「南関門遺跡」だ。
20年間の発掘で、5k㎡に200の陪葬坑と5000の陪葬墓が見つかり、その中に武士や女官などの陶製俑が見つかっている。


          
入り口でビニールの足カバーを履いた。
「地下遺跡博物館」は、全体に照明が暗く、通路の足元に厚いガラスが敷いてあって、地下3mほどにある遺跡を上から見下げる見学の仕方になっていたため、写真が上手く撮れなかった。
手がない小型の人形が沢山あり、馬車の車だと思われる輪も見えた。豚などの動物を形取ったものもあった。


 

 

観光後、「西安空港」から国内線の飛行機に乗り、1400km離れた「敦煌空港」まで2時間半、西に飛んだ。
途中から窓外の景色を見た。まだ残雪を抱いた「祁(キ)連山脈」が続いていた。雄大な光景だった。
その景色もやがて砂地の砂漠に変わって行き、「敦煌」の郊外が見え出した。


             



             



             

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