「近所の女性の庭に行く」
一昨日庭仕事をしていたら、子犬を連れた女性から声をかけられた。庭の薔薇が咲かないという。聞くと直ぐ近くの方だったので,
着いて行って見た。
庭に2本の薔薇の木が立っていた。7月に咲いてから種ができたのだろう。大きい種が3個そのまま付いていた。
私から「花が咲き終わったら、花殻を切ると良いです。そのままにしていたら種ができて、次の蕾ができなくなりますから。」と言うと、「毎年2~3個しか咲かないので、大切にしていたんですよ。」と言う。
剪定バサミを持参していたので、彼女の前で剪定して見せた。
最後に「私は今、薔薇が元気に冬越しできるように、根元に堆肥を施しているんです。」と言うと、彼女も堆肥を買って来て置いて置くと言う。そして「これからも教えて下さい。」と頼まれた。
「来年は沢山花を咲かせましょうね。」と言って別れた。
≪世界遺産「エスファハーン」観光≫(3)
⑥「エマーム広場(ナグシェ・ジャハーン広場))」
この広場も「アッパース一世」が都市計画で立案し、1598年に造成し始め、南北512m、東西159mの長方形の広場が完成するまで数十年かかったという。「ナグシェ・ジャハーン」とは「全世界の図」という意味。
広場の周囲には「アーリー・ガープー宮殿」や世界遺産「マスジュデ・エマーム(王の寺院)」などがある。「エスファハーンは世界の半分」と言われて来たのは、壮大でオープンな美術館、博物館の様相がこの広場にあるからだと言われている。
(広場東側中央に建つ「マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラー」は王室専用の礼拝堂)
⑦世界遺産「アーリー・ガープー宮殿」
広場の西側中央に位置するこの「アーリー・ガープー宮殿」は、7階建ての高層建築である。1~2階は「アッパース1世」、3~7階とバルコニーは「アッパース二世」の時代に造られ、「エマーム広場」で行われたポロの観戦を王はバルコニーから楽しんだそうだ。
私達は狭い階段を7階まで一気に上った。石段のけ上げの高さはまちまちで、中には35cmほどある所もあり苦労した。
7階は「音楽堂」として造られていて、狭いながらもドーム型の天井の造りが独特だった。漆喰が二重になっていて、表のには装飾性が高い楽器の模様の穴が開けられ、演奏時の音の吸収を調節していた。
階段を降りながらバルコニーに寄って、広場の景色を見た。
この「音楽堂」に一人の日本人青年が上がって来た。聞くと一人でトルコからイランを旅行しているという。
そして「昨日トルコでテロ事件があったらしい。」という話をしてくれた。トルコとは一部国境を接しているので、少し不安になった。詳しいことは帰国後に知った。
また今思えば、この宮殿の建物を写せなかったことを残念に思っている。
⑧世界遺産「マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラー」
王室専用の礼拝堂はレバノンの説教師「シェイフ・ロトゥフォッラー」を迎えるために「アッパース一世」の命で400年前に建設された物だという。
中庭やメナーレが無い小規模なものだが、ドーム内部の繊細なモザイクタイルの美しさは特別だった。孔雀が羽を広げた模様を描いてあり、中央の小さな穴から差し込む光が孔雀の身体を表してくれるのだ。
王の妻達は、宮殿から特別な地下道を通って広場を横切り、礼拝堂に通ったそうだ。
(宮殿5階のバルコニーから広場の反対にある礼拝堂を臨んだ)
「エスファハーン」は実に多くの見所があった。最後に1時間半の自由時間があり、思い思いに散策や買い物をした。
私は広場に面した建物内にぎっしりと建ち並ぶ店や工房を見て歩き、一軒の菓子店で名物のピスタチオ入り飴「ギャズ」を買った。
最後に広場の周囲を歩いていたら、夕暮れが近く涼しくなって来た芝生の上でシートを敷いて寛ぐ黒づくめの10人ほどの女性グループに出会った。
近づくと菓子や豆を食べれと言う。「何処から来たか。」と聞かれたので「日本から。」と答えると、「どれ位の時間がかかったか。」「何日いるか。」など口々に聞き、塩味のカボチャの種を1袋くれた。
丁度ハンドバックに折り紙を持っていたので鶴を折って上げたら、数人の女性が欲しいと言う。時間が無いので、3人に作って渡した。
「写真を撮らせて欲しい。」と言われたので、お互いに写真を取り合ってから分かれた。
短時間だったが、日本文化を伝え、交流ができ、「エマーム広場」の思い出が増えた。
(折って上げた折鶴を持って)
昨日は比較的好天だったので、5時間庭仕事をした。メインは葉が茂っているアスパラガスを剪定して根元に堆肥を施すことだった。そのためには生えている草も丁寧に取らねばならないから、時間がかかるのだ。
一番大変なのは、剪定した大量の茎や葉を堆肥にするために5cmほどにカットした事だ。
初めは見るだけでうんざりだった。しかし、3~4本ずつ根元から切っては始末して行ったら、全て完了した。
50代の時に夢中になってしてた軽登山を思い出すと、1歩々々歩いていくその積み重ねで、高過ぎて不可能かもと思っていた頂上に到達できるのだった。
大げさだが、私の庭仕事にも10年前までしていた登山で掴んだことが生かされていると思う。登山は私に、実に多くの事を教えてくれたと思う。
≪「エスファハーン」観光≫(2)
次の観光に行く前に15分程伝統的な喫茶店「チャイハーネ」に入り、休憩した。酒場が無いので、皆ここでくつろいだり社交をするそうだ。
内部は絨毯を敷き詰め、壁にも絨毯が貼り付けてあった。
紅茶には白砂糖かザラメを溶かした飴状の砂糖が出る。最初に砂糖を口に入れておいて、紅茶を飲むというのがイラン式だそうだ。
パン屋が「ナーン」の配達に来た。受け取った店主が、撮影に応じてくれた。
④「世界遺産「金曜のモスク」(マスジェデ・ジャーメ)」
「マスジェデ」は「モスク」、「ジャーメ」は「金曜日」の意味なので「金曜のモスク」となる。「ジャーメ」と名が付くモスクは、各町に1つだけしかない。
このモスクは771年に創建され、15世紀まで改修や増設が繰り返されたらしく、各所に700年間の異なる建築様式が見られた。
広い中庭を挟んで4つの大きなアーチ型空間である「イーワン」が向かい合っていて、それぞれ装飾の仕方が異なっていた。
広場の隅に段ボール箱に入った丸い形のものが2~3個置いてあった。ガイド氏の説明では「モフル」というもので、祈りの時におでこが来る場所に置くものだとか。
メッカの方向を示す「ミフラブ」も色々だった。
(説教台だ)
⑤「アルメニア正教ヴァーンク教会」
国民の90%がイスラム教シーア派だが、イスラーム教スンニ派、キリスト教、ゾロアスター教、ユダヤ教などの宗教の信者が少数いる。
キリスト教野中で幾つもあるのがアルメニア教会だ。その中で最も有名な教会がここで、1655~64年に建設された。ドーム状の屋根と尖塔を持っている。中に「アルメニア博物館」が併設されていた。
家から「小型タライ」を折って行き、私の畑傍の水道を出しながら「洗車ブラシ」で洗った。効率良く洗えて満足した。
大根は重かったが、仲間の家に配達した。
大根の葉は短く刻んで、家のコンポストに入れた。来年できる堆肥が楽しみだ。
≪「エスファハーン」観光≫(1)
6日目は「ヤズド」の西北西300kmにある「エスファハーン」の観光だった。
「エスファハーン」はイラン高原で最も大きな川「ザーヤンデ川」の中流に開けた町だ。
「ウィキペデア」で「エスファハーン」の歴史を調べて見た。
1597年に「サファビー朝」の「アッパース大帝」がここを首都と定めた。
それ以来、壮大な都市計画を立てて首都の造営に着手した。
1629年に「アッパース大帝」が死去すると、孫が即位したが、1638年の「第4次オスマン・サファビー戦争」では「イラク」を失った。
1642年「アッパース二世」即位後の、1648年にはムガル帝国から「カンダーハール」を奪還したが、1666年「サフィー二世」が即位すると、急速に国力が弱体化した。
1700年代に入ると周辺民族が反乱を起すようになり、「カンダーハール」の「ホターキー朝」の自治を認めた。
1722年に「エスファハーン」は「カンダハール」の「ホターキー朝」に攻められて惨敗し、専制国家「サファビー朝」は滅亡した。経済面では養蚕、細密画、タイル美術、陶器造りなどが盛んとなり、絹の輸出で潤ったという。
①「スィー・オ・セ橋(33アーチ橋)」
ホテルを8時に出て、町の中央を東西に流れる「ザーヤンデ川」に向かった。
最初の橋は「アッパース一世」の都市計画によって、町を南北に貫く橋として建造され、1602年に完成した長さ300m、幅14mのこの石橋だ。
この橋の上部にはアーチが33ある。車の乗り入れは禁止されているが、400年以上、人の往来に使われている。
この時期の川は干上がっていた。日陰になっている場所にいる少年2人を発見した。
②「ハージュー橋」
「スィー・オ・セ橋」の2km東にある橋で、1666年「アッパース二世」が完成させた。
長さ133m、幅12mで二層構造。上部は王が宴に使ったテラスになっていて、下には水量を調節する水門がある。
北側のたもとに置かれた小さなライオン像には、またがると直ぐに結婚できると伝えられている。私を含めた30~70代と広範囲のツアーの人達は、次々と跨って写真を撮ったが、さて効力はいかに…
③世界遺産「チェヘルソトーン迎賓館(40柱宮殿)」
1647年に「アッパース二世」が建てた柱が多い迎賓館で、一部修復中だった。入り口の柱は実際は20本だが、正面の池に20本が写ると40本になる事から名づけられたと言う。
壁にはめ込まれた木彫り装飾の窓が美しかった。前庭はペルシャ式庭園として2011年世界遺産に登録された。
内部は博物館になっていた。玉座の間は壁一面に壁画で飾られていて、「アッパース一世」「イスマイール一世」「アッパース二世」が活躍した姿が描かれていた。フラッシュ撮影は禁止されていた。
(アッパース一世が、アシュタルハーン朝のヴァリ・モハンマド・ハーンをもてなす宴)
(アッパース二世が、アシュタルハーン朝のナーデル・モハンマド・ハーンをもてなす宴)
昨日は、予定通り庭仕事を5時間程した後、伐採処分したツツジなどの木を処分場に運んだ。
日没時刻が4時半と早くなったので、帰宅したら暗くなっていた。昨夜は腰が痛んだので湿布をして寝た。
今朝は昨夜からの雨がまだ続いていて、7時半だというのに暗い。
午後からは急速に気温が下がるそうだが、庭仕事ができるだろうか。
≪「ヤズド」の市内観光≫
昨日、バスの中でガイド氏が話してくれたのは「ヤズド」の町についてだ。
「ヤズド」を西洋人として初めて訪れたのは「マルコポーロ」だったという。
この町は犯罪が少なく治安が安定している。また「ペルシャ猫」を世界に広めた町だそうだ。
山岳地帯にあるこの町は、気温が高く、林檎やオレンジ、柑橘類の木が沢山育てられている。
ピスタチオ、ナツメヤシ、バムも沢山採れる。
スイカは、ペルシャ湾地域で4月に取れ始めてから徐々に産地が北に移動するのを食べている。
冬は外国から輸入するパインやバナナも食べる。
一番の心配は、地下水が減って来て、今は200mもの深さに掘らないと水脈が無いことだという。
付近の山の土には鉄分が多く含まれるので、レンガはピンク色のものが多いそうだ。
①「ジャーメモスク」
14~15世紀に建てられた町のシンボルの寺院だ。礼拝の誘いに使う2本の「メナーレ」は、500年間維持されていて、イランで最も高く天に伸びている。
入り口やドーム内部のモザイクタイルの装飾は素晴らしかった。
また、メッカの方向にある「メフラーブ」には、左右に狭い通路に通じる入り口があり、祈りの後、信者の相談事に応じていた。
②「ゾロアスター教徒の墓場・沈黙の塔」
「ゾロアスター教」は、古代ペルシャを起源とする宗教で、紀元前6世紀に「アケメネス朝ペルシャ」が成立した時の王家や王国のより所となった。教祖は「ゾロアスター」、経典は「アヴェスター」である。
紀元前3世紀の「アルサケス朝」でも信仰は継続され、紀元3世紀の「サーサーン朝」では国教となった。その後、ペルシャ商人の交易の広がりと共に中央アジアや中国に伝えられたという。
7世紀の後半以降、「イスラーム」が台頭すると「ゾロアスター教」は衰退し、インドで盛んになった。
「ゾロアスター教」は光(善)の象徴の「火」を尊ぶので「拝火教」ともいわれる。
寺院内には偶像はなく、信者は守っている火に向かって礼拝をするそうだ。
火と同様に水、土、空気も神聖なものだと考える。
そこで死者の葬送は、神聖なものを汚さない「鳥葬(風葬)」を行う。
遺体は野山に放置して風化、または鳥がついばむのに任せるのだ。
やがて「サーサーン朝」が「イスラーム」を迎えると、布教により短時間で広がり、同時に「ゾロアスター教」の信徒は迫害されて行った。そのため「イスラーム」への改宗が増えた。
10世紀には「イラン」を脱出した信徒がインドのグジャラート州に行ったりして、今ではパキスタン、北米、ヨーロッパ、オーストラリアにも信徒がいるが、信徒の子どもでなければ入信を許可していないらしい。
「イラン」では1930年代に「鳥葬」が禁じられ、「イスラーム教」と同じ「土葬」になっているという。
従ってこの施設は、80年ほど前からは使われていない。
山の下の施設は、死者と別れや法事をした施設だ。施設の一つでガイド氏の説明を聞いてから、高さ50m位の山を登り、土壁の中に立った。屋根が無いこの場所に沢山の遺体があったのかと想像した。貴重な体験だった。
③「ゾロアスター寺院」
「ヤズド」には幾つかの「ゾロアスター寺院」があるらしいが、信徒以外にも公開しているのがこの寺院だそうだ。
入り口の上にはマークが掲げられ、中には大切な「聖火」が燃え続けていた。ガラスケースに入っているので、写真は反射してしまった。
その後ろに「祭壇」があった。人ではなく人形が守っていた。
バスで市街に入ると、夏には50度を越える日もあるというこの地の屋根には、「風採り塔(バードギール)」が建ち並んでいた。
屋内の熱気を放出すると、地下室からの自然の冷気が室内に上がって来て涼しくなる自然換気装置だった。
今朝は晴天だが、霜が降りた。外の寒暖計を見ると1度しかない。室内は16度だ。
しかし予報では今夜は雨になる様なので、今日も張り切って庭で冬の準備作業をしたい。
先ずは昨日始めた沢山の薔薇や果樹の木の根元に堆肥を置く作業を、今日は完成させたい。堆肥は、1年間熟成させた自家製のコンポストの堆肥だ。
それが済んだら、剪定したり掘り出して処分した木を、市の処分場まで捨てに行きたいと思っている。
≪「ペルセポリス」の近郊見学≫
昼食後、再び専用バスで近郊の観光に向かった。その途中、バスの中から郊外の景色を写した。
木が全く生えていない赤茶けた剥き出しの山が続いた。「ザーグロス山脈」の中の高地を走っているらしかった。
所々にトウモロコシが栽培されていた。遠くに集団で仕事をしている人達がいた。どうやら蜂蜜を取る仕事をしているらしかった。イランの蜂蜜は、濃厚で美味しい。
①「ナグシェ・ロスタム」
やがてバスは「ぺリスポリス」の北東6kmの山肌に掘って造られた4つの「アケメネス朝の王墓」に立ち寄った。
岩山に向い、右から「クセルクセス一世」「ダレイオス一世」「アルタクセルクセス一世」「ダレイオス二世」の墓とされている。
崖の側面が「ギリシャ十字型」に掘ってあり、上部には臣民が玉座を支える姿と「ゾロアスター教」の最高神のレリーフがある。
「ダレイオス一世」の墓には、サーサン朝の「シャープール一世」が馬上から「ローマ帝国皇帝ヴァレリアヌス」の手を掴んでいる「騎馬戦勝図」が彫られている。
「ダイオレス二世」の墓の向かいに「ゾロアスター教神殿」がある。
②「世界遺産「パサルガダエ」の「キュロス二世」の墓」
紀元前546年頃、「アケメネス朝」の初めての首都が「アサルガダエ」に置かれた。小型ピラミッド型の自らの墓を建設し始めたが、彼の死後、「ダイオレス一世」が引き継いだという。2004年に世界遺産に登録された。
ガイド氏の説明では、この町の人たちは何か行事があると来て、お参りするそうだ。
その後バスで「シーラーズ」の北北東300kmの「ヤズド」目指して、途中休憩を取りながら5時間を走った。
途中2回程、運転手がバスから降りて「検問所」に行った。ガイド氏は、「長距離の車両はスピードを出し過ぎないかの通過時刻で検問を受け、違反したら罰金を取られるのだ。」と説明してくれた。
ホテルに着いた時刻は、20時半近かった。
特に午後4時頃に降りだした霙は、一瞬で庭を白くした。霙の大きさは直径3~4mmと大きくて驚いた。
作物がほとんど無くなった菜園も真っ白だ。まだ咲いている薔薇の花が寒そうに見えた。
今朝7時の気温は3.5℃だった。3日振りに晴れたので、洗濯機を回した。
伯母の洗濯ものを干して、朝食を済ませたら、いよいよ薔薇の冬囲いに着手する積もりだ。
≪世界遺産「ペルセポリス」観光≫
4日目はいよいよ「イラン」古代遺跡のハイライト「ペルセポリス」に向かって、8時にホテルを出発した。57kmを1時間強で到着した。
ガイドブックによると、「ペルセポリス」は「ペルシャ人の都」という意味のギリシャ語が語源の名だそうだが、「イラン」では普通「タフテ・ジャムシード(ジャムシード王の玉座)」と呼ばれているという。
紀元前520年、アケメネス朝ペルシャの「ダイオレス一世」が「ラフマト山」から切り出した石材で造成に着手、その子どもの「クセルクセス一世」の時に125,000㎡の都が完成した。ここでは即位式や重要な儀式を行ったという。
当時のアケメネス朝は、西はエジプト、東はインドまで支配権を有していたが、紀元前331年に「アレクサンダー大王」が陥落させた。その後は廃墟のまま今に至っている。
駐車場から暫く歩いたら左右に大きな階段があった。上り切ると目に入って来たのが「クセルクセス門」だ。本来は東西南の三方に門があったが、この門は西の門で、入り口は「牡牛像」反対側は「人頭有翼獣身像」だ。偶像崇拝を禁じるイスラーム教の信者の手で破壊された。
かっては百本の柱が並んでいたという「百柱の間(玉座の間)」。当時は70㎡の部屋に財宝を展示して、朝貢者に帝国の力を見せ付けていたという。
「謁見の間(アバダーナ)」は、2.6mの高さに造られていて、「ダイオレス一世」はこの部屋に高さ19mにレバノン杉の屋根を葺き、36本の石柱で支えていた。
北側と東側の階段に彫られているレリーフが見事だった。「牡牛を襲うライオン」の解釈の一つは、ライオンが夏、牡牛が冬を表していて、季節の移り変わりを示すという。また、ライオンを王、牡牛が敵と見る見方もある。
同じく階段のレリーフだが、朝貢に来た人々の色々な服装を表している。また羊、馬などの貢物も描かれている。
「ダイオレス一世」の「冬の宮殿(タチャラ)」には、所々に黒大理石が使われて黒光りしている。
「アルタクセルクセス二世王墓」(在位は紀元前404~358年)は、東側のラフマト山の岩肌に高さ12m、横6mのファサードが浮き彫りにされていて、「ペルセポリス」のあちこちから見ることができる様になっていた。
ここまで登って振り返ると広い「ペルセポリス」が一望できた。
王墓から降りたところで写したこの部分は、多分「三十二柱の間」だったと思う。
バスへの集合時刻に間に合うように「ペルセポリス」を後にした。
2時間見学した古代遺跡は、2500年前のこの国の人々の建築と彫刻の素晴らしい技術と王家の生活の一部を今に伝えてくれていた。
≪「シーラーズ」市内観光≫(3)
⑤「ヴァキールの市場」
城砦前を横切ると人々で賑わうレンガ造りの市場に案内された。一つ一つの店の占有面積は小さいが、日用品、衣料品、食品、特産物、絨毯、銀細工など多様な商品が売られていた。
市場の奥は中庭になっていた。30分程自由時間があったが、結局店を覗いただけだった。
⑥「ハーフェズ廟」
イランでもっとも親しまれている詩人が「シーラーズ」で生まれ、ここで生活した「ハーフェズ」(1325~1389年)だ。棺には彼が詠んだ詩が刻まれていて、訪れる人が朗読していた。
⑦「アリー・エブネ・ハムゼ聖廟」
この聖廟に着いたのは最も気温が高い(多分32度位はあったと思う)午後3時頃だった。入り口を入ると女性だけに「チャドル」が用意されていた。しかも保温性の高いアクリル製だった。私達は「スカーフ」の上にさらにこれを纏う事になり、汗が滲んだ。
中庭には足元に墓が沢山造られていて、墓石を踏みながら聖廟に向かった
靴を脱いで中に入ると、何と内部は眩しいほどの総ガラスモザイク貼りだったので驚いた。
⑧「クルアーン門」
かっては町の東西南北に門があったが、今残っている唯一の門がこれ。市から北東のイスファハーン、ペルセポリス方面に行く際に通る門で、18世紀に「キャリ・ハーン」が建立した。門の上に「コーラン」が置いてあったという。
行ったのは、夕闇が迫る頃だった。今は門の横に道路ができていて、門の内側は公園になっていた。静かに下を向いている老人の像は、14世紀の詩人「ハージュ・ケルマーニー」だそう。
③世界遺産「エラム・ガーデン」
砂漠地帯では、水が流れていて植物が育てられている場所は人々の憩いの場所なのだろう。
「エラム」とはペルシャ語で「楽園」の意味だという。ガージャル朝(1779~1925年)を興した「モハンマド・ゴリー・ハーン」の手で作られ、2011年に「ペルシャ式庭園」として世界遺産に指定された。
5~6月にはローズガーデンの一斉に咲いた花を楽しめるそうだが、10月は疎らだった。その代わりに入り口に鉢植えの「ブーゲンビレア」を並べて迎えていた。庭師たちが土を運んでいた。
④「キャリーム・ハーン城砦」
広場に面して四隅の円塔が目立つ大きな城砦があった。「キャリーム・ハーン城砦」だ。中には入らなかったが、「ザンド朝」(1757~94年)時代に造られたキャリーム・ハーンの居城だったという。
前の広場では下校時なのか、16歳の女子中学生が朗らかにお喋りをしていた。彼女達は制服を着ていた。
昼食のレストランで出た「チェロウ・キャバーブ」は美味しかった。
3日目は3時のモーニングコールで起き、軽食を採ってから4時15分にバスで「テヘラン空港」に向かった。6時10分発の「シーラーズ」行きの国内線に乗るためだ。
「シーラーズ」は「テヘラン」の南方700kmの所にある高原の町だ。
途中、窓外に見えた景色は、赤茶けた山脈が延々と続くものだった。地図を見るとイラクの西側に連なる「ザーグロス山脈」だった。
「シーラーズ」は、標高1600mにあるため気候は穏やかで、緑と薔薇の町と言われている。
230年前に一時首都になった事があり、近郊には世界遺産「ペルセポリス」がある。
「チャドル」の下にカラフルな衣装を着る遊牧民が多いという。
こじんまりとした「シーラーズ空港」に着き外に出ると、噴水と花壇が迎えてくれた。高原にある比較的爽やかな町らしかった。
スーツケースをバスに積み込むと、早速市内観光に出発した。
①「ローズモスク(マスジェデ・ナスィーロル・モスク)」
この寺院は、池を挟んで南北に向いあった2つの「エイヴァーン」があり、その天井は鍾乳石状の飾り天井になっていた。また壁面は花や木などの植物を模様にした細かなタイルで装飾されていて美しかった。
西の絨毯が敷いてある礼拝堂は、中庭に面した壁にステンドグラスをはめ込んであって、太陽光に照らされた光が礼拝堂に差し込む時に作る模様が独特の雰囲気を作り出していた。見学は日が低い午前中が良いのだろう。
②「サアディー廟」
1921年に亡くなった叙情詩人「サアディー」の廟だ。30年間北アフリカやインドを放浪後「シーラーズ」に戻り、「バラ園」「果樹園」などの代表作を書いた人だ。
ペルシャ様式の庭園に多く見られる「糸杉」が多く植えられ、前庭はマリーゴールドやダリアなどの花で美しく飾られていた。
③「宝石博物館」
ここは王家に伝えられ、今は国の財産になっている膨大な数の宝石が展示してある場所だが、ハンドバッグ、カメラの所持は禁止、金属探知機で身体検査をされて入館した。
無数のダイヤモンドがはめ込まれた玉座や王冠の他、短剣、長剣、衣服、アクセサリーなどが世界中から集めたという大中小の貴金属で眩いばかりに埋め尽くされていた。エメラルド、ダイヤモンド、ルビーなどを並べて作った大きな地球儀もあったが、王家が独占していた富の凄さを思い知らされた。
④「アザディ・タワー」
この高さ45mある塔は、ペルシャ建国2500年の記念として1971年に建てられたという。頂上に上がってテヘラン市街を一望することもできるらしいが、バスはロータリーになっている周りをぐるりと回っただけだった。丁度夕暮れが迫っていた時刻で、夕日に照らされた姿も写すことができた。
「アザディ・タワー」に向かう途中、電気製品を売る店が建ち並ぶ場所を通過したら、沢山の人で溢れていた。
また、町のあちこちに「エマーム・ホメイニー」の顔の写真や絵(右側)が大きな壁や看板に貼られていた。彼は「イスラーム革命」の指導者として、また、「イラン・イスラーム共和国」の建設者として今でも国民にとって大事な人とされているらしかった。
彼の顔の絵は、他の町に行っても必ず見かけた。
その隣の写真は「ハサン・ローハニー大統領」(真ん中)だ。彼は選挙で国民の多数から支持され、2013年8月3日より第7代イラン大統領に就任している。
2日目、テヘラン市内のホテルに着いたのは6時を過ぎていた。テヘラン到着後、暑い中、午後はびっしりと観光したので疲れ果てた。
昼食後、市内観光をした。観光客用のバスが走っていた。日本人は見かけなかったが、ヨーロッパ各国から来た観光客が大勢いた。
①世界遺産「ゴレスタン宮殿」
「ガージャール朝」が「テヘラン」を首都にしたのは1795年。この宮殿は1828年に建てられた煌びやかな宮殿で、伝統的なペルシャ建築と西洋建築が統合していた。ペルシャ式前庭には噴水が出る長方形の池が造られていたが、この時は水は無かった。
玉座がある中央の建物の内部には無数の鏡が貼り付けてあって、光を反射して眩いばかりだった。
長く続いた王制は、オイルマネーによる繁栄と専制政治が引き金になった「イスラーム革命」によって1979年に終結した。
②「イラン民俗学博物館」
「ゴレスタン宮殿」に隣接するこの博物館では、昔の人々の生活や民族ごとの服装などが展示されていた。(フラッシュ無しなら撮影できたが、ガラスケースに入っている場合は一部反射している)
(伝統的な暮らし方)
(臼で小麦をひく姑) (赤ちゃんを守する若い嫁)
(多民族国家なので、民族毎に服装に特徴がある)
③「イラン国立考古学博物館」
ここには紀元前6000年から19世紀までの歴史的に重要な発掘物や美術品が展示してあった。4日目に行った「ペルセポリス遺跡」から発掘された貴重な文物も集められていた。古代メソピタミア文明の遺物に興味が湧いた。
(ドーム型天井の博物館入り口) (ネアンデルタール人が最初に死者を渓谷に葬った)
(横向きに葬られている)
(土器の焼き方)
(紀元前13世紀~7世紀のエラム王国の遺跡から発見された牛の像。楔形文字が刻まれている)
(右図は紀元前550年~330年 「ペルセポリス」の様子を想像した図)
(謁見の間にあった「謁見図」の一部分。王は一段高く座り、大きく表現されている)
(「ペルセポリス」の「百柱の間」にあった「対になった牡牛の柱頭」)(足が揃っていないのは、生きていた人)
(1993年に塩抗で発見された3世紀のミイラ「ソルトマン」。塩漬け状態だったので、状態が良い)
今朝は快晴の秋空で、気温も8℃近くあったので庭に出た。
遠くの空から「カオー、カオー」と鳴く白鳥の声が聞こえて来た。見上げて姿を探したが見つからなかった。
先週はその声が大きく聞こえたので見上げると、何と滅多にはない低さ、多分100m程の上空と思われた私の真上を、大白鳥が南を目指して飛んでいたのだ。V字型の体型で100羽もいただろうか。シベリアで夏を過ごし、今又南下のために飛行しているのだ。
ほんの一瞬ではあったが大きく羽ばたかせながら飛んで行った姿に、いつもながら野生動物の厳しい営みを見て感動させられた。
「イラン」の旅行記に戻って…
最初の昼食に入った店でテーブルに付くと、イランのパン「ナーン」が出された。石の上で生地を丸く薄く伸ばして焼いたらしく、両面に焦げ目が付き、穴だらけのパンだったが、塩味は少なく美味しかった。
次いで野菜の盛り合わせとドレッシングソースが出された。旅行中は毎食この様なサラダがたっぷりと出されたので、野菜不足を感じる事がなかった。
更に赤茶色のイラン風スープが出された。店員がそのスープの作り方を実演してくれた。
肉と野菜、トマト、レンズ豆などを良く煮込んだら、スープと具に分ける。取り出した具を小さなマグカップ風の容器に入れてすりこ木で潰す。
スープには「ナーン」をちぎって入れてスプーンで食べる。
潰した具は、それだけか、または「ナーン」に乗せて食べるのが一般的だそうだ。
スープは色々な材料の成分が出て美味しかったし、潰した具も味が良かった。このスープには旅行中毎日出あったが、この店のが一番美味しかった。
最後にアイスクリームが出たが、胃腸が弱い私は食べなかった。
こじんまりとした店だったが、天井がドーム型になっていてモスクの様にタイルで装飾がされていた。
またその店では、絨毯が敷かれている高床の場所に座って、男性2人で水タバコを吸っている人たちや、家族で食事に来て、父親らしき人が水タバコを吸っている姿が見られた。
女性はかなり濃い化粧、特に目の化粧が決まっていて美しかったので、了解を得て写真を撮らせてもらった。ガイド氏によると、一般的に未婚の女性は薄化粧だが、結婚すると濃くなるのだという。
今回は成田空港発22;20の「カタール航空」で飛び立ち、11時間55分後に「ドーハ」に着いた。
機内のエコノミー席は30%程度が空席だったので、私は後部の窓側3席の空席に移動し、身体を伸ばして寝ることができ幸いだった。
日本と「カタール」の時差は6時間なので、到着の現地時刻は翌朝の4;15。
早朝にも係わらず「ドーハ」は、ヨーロッパや西アジア、アフリカの各国に行く乗り継ぎ客で溢れていて、ターミナルビルのセンターに置かれている黄色の巨大な熊のまわりも写真を写したり、待ち合わせたりする色々な国の人々が一杯だった。
「イラン」の首都「テヘラン」行きは7;20発なので、洗面したり、夜中も休まず営業している免税店などを1時間ほど覗いたりして過した。店には西アジアらしい雑貨や食品が溢れていた。
新たな飛行機に乗るために再度、安全検査を受けて飛行機の塔乗口に向かった。
私のリュックの外ポケットには、成田からの機内で貰った1Lのペットボトルに1/3程入った水を入れて置いたが、安全検査をパスした。
飛行機は定員120程の小さなものだった。「イラン」と日本との時差は5時間半なので、まず機内で時計の時刻を30分早く合わせ直した。
所用時間は2時間5分だったが、着陸する15分程前に、「女性はスカーフを被って下さい。」という機内放送があり、私も手荷物に入れて置いたスカーフを被った。
予定通り9;55に「テヘラン」に降り立つと、ムッとする暑さだった。前日の私の町の朝の気温は8℃だったので、凄い差だ。しかもこれからずっと「スカーフ」を被らなければならないと思うと、何だか女性であることが恨めしく感じられた。
スーツケースを受け取り、迎えに来た年配の現地ガイド氏の案内で大型バスに乗り込んだ。バスの中は冷房が効いていた。
バス内でガイド氏が「20ドル」を現地通貨「600,000リアル」に交換してくれた。「1ドル」は「30、000リアル」なのだ。
次いでガイド氏は、「会社から皆様へのプレゼントがあります。」と言って、「薔薇水」が入ったペットボトルをくれた。砂漠の国「イラン」では薔薇の栽培が盛んで、薔薇の花びらを蒸留して香料を抽出しているのだ。良い香りがする「薔薇水」は、化粧水として使ったり、お菓子作りの材料として用いても良いと言われた。
帰宅後香りを嗅いで見た。豊かな薔薇の濃厚な香りがする水だった。化粧水に少し加えて使っている。
間も無く凄い渋滞となったが、その中を昼食のレストランに向かった。
正味6日間のイランの旅から帰国した。
行く前に若干の安全性に対する不安を抱いたし、旅行中、近隣国「トルコ」で自爆テロが起きたと知って、家族などは心配しているのでは無かろうかと案じたが、イランは全く安全な国だった。(勿論、幾つもの国と国境を接しているので、外務省の危険情報では国境近辺は注意する様にとされている)
それに何処に行ってもゴミはほとんど落ちていないし、ヨーロッパやアジア、アフリカで見かける乞食や浮浪者の様な人にも会わなかった。
ただ(1)にも書いたが、厳格な「イスラム教」の国家なので、イランの女性には自宅、あるいは旅行者ならホテルの自室以外は常時「スカーフ」と、体の線を隠す「腰までの上着」の着用が義務付けられていたのが何とも暑苦しくて不愉快だった。
気温は10月でも33~35℃あったので、私が持参した薄手の木綿の「スカーフ」は、ホテルの自室で取ると、毎日汗で湿っていた。
イランの女性は、45℃以上になる夏も「髪の毛1本出さずに」黒いスカーフを被り、おまけに黒い「チャドル」という足首まである外套を着ている女性も多く、それも見ると吸湿性が無いポリエステルの繊維でできている様だった。
(バスの中から「テヘラン」の街角を写す)
また、「アルコール」は売られていないばかりか、国外からの持ち込み、ホテルの自室内飲酒も禁じられていたので、レストランでは皆「ノンアルコールビール」を注文していた。面白い事にレモン味などの種類が色々あったようだ。
現地ガイド氏の話に拠ると、外国人に対しては規制を緩くしようという動きもあるらしい。
それに首都「テヘラン」や「シラーズ」「イスファハン」などの都市では、交通事情が最悪だった。
車両が過密状態なのに信号機が少ない。バイクも車を縫うように近接で走る。おまけに運転手のほとんどはヘルメットを被っていない。
歩行者が道路を横断する時は、バンバン車が走っている道路に踏み出して車に止まって貰うのだから命がけなのだ。
おまけに排出ガスによる大気汚染が酷いのだ。
ガイド氏は、「曜日によって、偶数ナンバーの車は市内の乗り入れができないなどと規制をしているが、自動車会社の製造販売を野放しにしているし、駐車場を作らないので路上駐車が多いのが原因です。」と話していた。
(「テヘラン市内」でバスの中から写す)
12日夜に新千歳空港に着いた時、機内アナウンスで「気温は8℃です。」とあった。
外に出たらブルッと震える様な寒さを感じ、慌ててリュックからカーデガンを出して着込んだ。自宅に戻って室内温度計を見たら16℃だった。
昨日の朝の気温は6℃、今朝は2℃。イランとの温度差が余りにも大きいので、風邪を引かないように注意している。
そんな中だが、旅行中2日間暴風雨に見舞われたそうで、薔薇の花がちぎれたり支えが倒れたりしていたので、昨日は午前中4時間、今日は2時間半、庭仕事をした。
また、昨日、伯母に会いに行ったが、寂しかったらしく私の手を握って離そうとしない。
それと、今までの伯母の部屋にちょっとした難点があったので「部屋が空いたら移動させて欲しい」と頼んであったのだが、旅行中に希望通りの部屋に引越ししていた。
帰りには伯母の9日分の洗濯物を預かり、今朝、洗濯した。
これからは庭や農園の冬支度もあって結構忙しいけれど、時間を見て「イラン」の旅日記を書こうと思う。