≪「マニラ市内」観光≫(2)
先ず「フィリピン」の歴史を「ガイドブック」を参考に簡単にまとめて見ると…
1571年、スペイン軍がマニラを陥落し統治し出すと、それまでイスラム教が支配していた国内にスペイン人は「キリスト教」を広めるため「宣教師」を送って教えを説いた。
「初代総督レガスピ」は、マニラ首都圏の北部に城砦を張り巡らした「イントラムロス」を造ったが、 「サンチャゴ砦」はその北端、「パシグ川」が「マニラ湾」に流れ込む付近で当時の港湾管理の要所に造られた。
「ホセ リサール」はスペイン軍に処刑されるまで、ここに収監されていたので、一部が彼の記念館になっていた。
1898年、アメリカが大艦隊でマニラ港に入った。
その後スペインは2000万ドルでアメリカにフィリピンを売り渡したという。
その後アメリカの「ルーズベルト大統領」は「フィリピン・コモンウエルス」を樹立して、固有の政府と大統領を認めた。
1941年、日本軍がフィリピンに上陸し、「マニラ」を占領した。1944年に入ると日本軍は弱体化した。
1945年にはアメリカがフィリピンを奪還し、1946年には「フィリピン共和国」が発足した。その後20年間、アメリカ主導の政権が続いた。
1965年には、自由党の「フェルナンド・E・マルコス」が大統領となり、独裁政治を行った。
1983年8月、「マルコス」大統領の政敵「ベニグノ・アキノ」元上院議員が暗殺される。
1986年2月25日、マルコス大統領の不正選挙が明るみに出た事で、不満を募らせた民衆は大統領を国外に追放した。
暗殺された「ベニグノ・アキノ」の娘「コラソン・アキノ」が選挙で大統領に選出される。
その後、数人大統領が変わり、2010年5月、「ベニグノ・アキノ三世」が多くの民衆の支持を得て政権を握り、現在も担っている。
①「リサール公園」
最初に行った場所はマニラ首都圏の中央にある「リサール公園」だった。
ここには国の英雄「ホセ リサール」(1861年~1896年)を取り囲む群像があったが、30m程手前にロープが張られていて私達はその像に近づく事ができなかった。
「ホセ リサール」は頭が切れた上に大変な努力家で、農学、測量学を学んだ後、母親が失明する病気に見舞われると医学を勉強した。
やがて宗主国「スペイン」の「マドリッド」に留学をし、医学と哲文学を学びながら、26歳までにスペイン語、フランス語、イタリア語、ポルトガル語、英語、ドイツ語、オランダ語、ロシア語、中国語、ギリシャ語など多くの言語を習得したという。
1888年2月28日には横浜に来て、その後1ヶ月間東京に滞在している。
1892年に帰国すると「フィリピン同盟」を組織して、スペインの植民地下で暴力を用いずに改革を進める運動をした。その際、政府に逮捕されている。
1896年7月、「軍医」として採用され、スペイン海軍の巡洋艦に乗ったが、「バルセロナ」でスペインの官憲に逮捕された。「マニラ」に送致された後、12月30日、大勢の大衆が見守る中で「リサール公園」で銃殺刑にされたのだ。僅か35歳の若さだった。
地下に彼の遺体が葬られている碑は、2人の衛兵が守っていた。
ロープの前にはひっきりなしに市民や観光客が訪れていた。
≪「マニラ市内」観光≫(1)
羽田空港を9;35に飛び立ったANA機は、5時間後の13;35に「フィリピン」の首都にある「マニラ国際空港」に着陸した。ヨーロッパの半分の時間で着いてしまったので、改めて近い国だと実感した。(日本との時差は-1時間である)
飛行機から降りた途端、ムッとする熱気に包まれた。気温は30度はあっただろう。
スーツケースを専用バスに積み込んでバスに乗ると、クーラーで冷えた空気が気持ち良かった。
現地の「スルーガイド」は、年配男性のTさん。物静かな話し方をするので、話が長くなると寝てしまいそうだった。
「マニラ首都圏」は、「フィリピン」の人口9234万人(2010年)の8%に当たる1186万人が住む大都会であり、島の中で面積が最大の「ルソン島」に位置する。
空港の傍に建設中の高層ビルが続いた。Tさんに聞くと、「ショッピングモール」や「映画館」「銀行」「ホテル」「カジノ」などが揃った新たな複合エリアを建設中なのだとか。
幹線道路なのに近年車の数が急増しているらしく、物凄く渋滞していた。バスから見ると「トヨタ車」が多かった。
「高速道路」は川に沿って建設中だった。また、建設中の「跨線橋」も見かけた。
中に派手なデザインの乗り合いバス「ジプニー」が多数走っていた。
米軍が使っていたジープを改造したもので、定員は10~15人。行き先の地名が車体に書いてあり、料金は9ペソ(現在は日本円で27円)中長距離の庶民の足だという。
またオートバイが無数に走っていた。横にサイドカーを取り付け、それぞれのデザインを誇った「トライシクル」も、多数走っていた。料金は交渉によるらしい。乗用車が増えて渋滞する市内で、狭い路地にも入り込める「トライシクル」が近年増えているらしい。
この他、余り見かけなかったが、自転車にサイドカーを取り付けた「ペディキャブ」もあり、観光客に利用されているという。
気温が低い寒中なので温かな場所に旅行したいと思い、19~27日迄「フィリピン」に行って来た。
昨年1月7日は新千歳空港が大雪で閉鎖されて成田空港に行く事ができず、泣く泣く「フィリピン」行きをキャンセルした事がある。それで1年後に再挑戦したという訳だ。
今回、事前に記事にしなかったのは防犯のためで、私の留守を知って空き巣に入る犯罪を防ぐためだった事を了解して欲しい。
20日朝に羽田空港から出発するツアーだったので、私は19日午後から羽田に行き前泊した。27日の帰国時間も夜遅かったので、羽田空港に直結しているホテルに後泊して、昨日昼、帰宅した。
向こうで西日本や台湾の寒波のニュースがあったので、北海道の我が家はどうかと心配だったが、帰宅して見ると留守中の積雪量は余り増えていなかったので安堵した。
昨日は、「フィリピン」を訪問する天皇陛下が「マニラ空港」に16時前に到着したらしい。私達の乗るANAの14;45発の帰国便が1時間遅れたのは、天皇陛下の特別機のためだったのかも知れない。
ニュースによると天皇陛下は、戦後70年の今、戦死した日本兵の1/3がフィリピンで亡くなった事に対する慰霊と、フィリピンの人達が大勢「マニラ市街戦」などの巻き添えになって亡くなったことへの慰霊のために訪れたという。
「フィリピン」は7000以上の島を抱える国だが、今回私が参加したのは「フィリピン7島巡りツアー」だった。
今回訪れた島々には、それぞれ特徴があって良かった。
また、近くて遠い国だった「フィリピン」に行き、本当に楽しめた。
赤道に近い地域なので、1月とは言え、平均気温は30度だったが、ホテルの室内やレストラン、観光バス内はクーラーが効いているので、寒い程の事もあった。
今朝の当地は-5℃で「フィリピン」との気温差が30℃以上もあるので、身体が寒さに慣れるのに数日掛かりそうだ。
食事は香辛料がそれ程使われていなく、新鮮な魚介類が多く出されたので、日本人の口に合いとても美味しかった。ただ、暑い国のために中には味付けが塩辛いメニューもあった。
旅行中の洗濯は今朝済ませたが、まだスーツケースの片づけが終っていない。これからしたい。
写真は「マニラ」で最初に訪れた「リサール公園」のスナップ。
ここはフィリピンの英雄「ホセ・リサール」が1896年12月30日にスペイン統治下の植民地政府により大勢の大衆の面前で35歳の若さで銃殺刑に処された場所である。韓国の学生達が旅行で来ていた。
北海道が暴風雪に見舞われるのは今日午後からになりそうだが、降雪量は60~100cmという予報が出ている。
すでに羽田空港から飛ぶ国内線飛行機が欠航しているため、新千歳空港の羽田行き飛行機などは既に多くが欠航を決めたという。
今後の天候情報が見逃せない。
今朝、窓辺に置いてある「椿」の蕾が3輪開花した。今までは1輪ずつだったので、一度に咲くと嬉しい。
手前の蕾は、多分、明日には咲き出すだろう。
しかし、この花は6日間程しか持たず、ぱらっと落花してしまう。
僅かな時間しか咲かないが、春から晩秋までは庭土に下ろし、気温が下がってくる10月(去年は22日だった)には鉢上げして室内に取り込むことを3年間繰り返して育てて来た。この間、年々木が成長し、今年は沢山の蕾がついたので育てて来た甲斐があったと思う。
傍の「シクラメン」は「岩見沢農高」が販売したシクラメンを娘が買い、12月19日に持って来てくれた鉢だが、時間が経った花や葉を取り除いて薄い液肥を1~2度やっていたら、蕾が次々と上がって来て元気に咲いてくれている。
先日、老健施設の伯母の友人に「香り椿」の一種の「白椿」を届けた。花は小さめだが桜の様に一箇所に沢山咲き、花が良い香りを放つ。
今日行ったら、友人の部屋にもお邪魔して、ベッドサイドに置いてある鉢の咲き加減を確かめて来たいと思っている。
午後3時に伯母の所に行った。気温は-6℃。日中の気温としては今冬最低の気温で、物凄く寒くて震えた。
伯母に洗濯物を渡してから、数日前に私と伯母で部屋まで行って置かせてもらった「香り椿」を見に、友人の部屋に行った。
その人が、「誰がこの花を持って来てくれたか分からないの。」と伯母に言う。すかさず伯母が私を指して「この人が育てて、持って来てくれたんだよ。」と教えていた。多分、彼女は「認知症」なのだろう。
白い「香り椿」の蕾は、幾つもの直径5cm程ある淡いピンク色の花を開花させていた。花は豊かな香りを漂わせ、無機質な居室のその場所を華やかな雰囲気にしていた。
友人は「家にいた時は、私も色々な花を育てていたんだよ。」と話してくれた。
花と2人の写真を撮って、部屋を後にした。
しかし天気予報通り昨夜雪が降り、今朝見ると降雪量は25cm程だ。本格的な除雪は今冬2回目だろうか。
ふわふわの軽い雪なので、7時から30分間、ショベル1本で玄関前から道路まで除雪した。
除雪車が道路の雪をかき分けて敷地の前に置いて行くので、後ほど通路と車庫前はもう一度、除雪が必要だ。
道路を削ったこの雪は重いので、いつも一番大変な作業となるが止むを得ない。
除雪をしていたら、同じく作業に出て来た近所の人達と久し振りに顔を合わせ、挨拶する事もできた。
(室内から庭を写す)
(道路からざっと除雪した玄関前を写す)
それで昨日、撮り直すことにした。
今度は椅子が置いてある施設の廊下の突き当たりに伯母を連れて行き、部屋から「アザレア」の鉢を持参したのを前のテーブルに置いて写して見た。
伯母の目がパッチリと開かないが、仕方が無い。
まあまあ元気そうな96歳の伯母の写真が撮れた。
私自身は伯母の年齢まで生きられる保障はないから、伯母を見ていると大した生命力だと感心させられる。
しかし私の目から見て、伯母はやはり少しずつ、ゆっくりと、確実に老化して行っている。
1週間前に近くのショッピングモールに連れて行ったが、歩行するのがやっとになって来ている。
それで今の内に、伯母の半生を聞き書きして置きたいとも思っている所だ。
(伯母の部屋の鉢花。「アザレア」の左右の花は「椿」)
風邪を引いたみたいだ。
でも、伯母に洗濯物を届けなければならないので、マスクをして行った。
伯母に移したら困るので、直ぐに辞した。
それから真っ直ぐに帰宅しようかと思ったが、正月に来た娘から
「お母さんの髪は、山姥みたいだね。」と言われたことを思い出した。
それでいつもの店に行き、「短く、軽く、切ってください。」と頼んだ。
「終りました。」と言われて見たら、相当切ったらしく、どっさりと床に髪が散乱していた。
その日は真冬日で、午後2時頃でも気温は-1℃。何だか髪が薄くなった頭に冷たい風が吹きぬけて、寒気が増した。
風邪の薬を切らしたので、昨日は近くの内科医院に行った。
受付で問診表を書いて出したのを医者が見て、「熱は無いようですね。鼻水と頭痛に寒気ですか。」
そして、喉を見られた。シャツを自分で持ち上げたところに聴診器を当てられた。「薬を出しますね。いいですよ」と2分位。
受付で待たされること30分、やっと薬が渡された。1日3回5日分だ。
昼食後に飲んだら眠たくなった。TVを着けっ放しにしてソファーで2時間ほど寝てしまった。
チャイムが鳴ったので飛び起きた。見ると男性が戸口に立っている。
「どなたですか。」と聞いたが、「ご近所に挨拶に回っています。」と言う。町内会の新役員さんでも来たのかと思って、体調が悪かったけれど玄関を開けた。
すると何やら新聞の拡張員らしいのだ。
「これを置いていくので、受け取ってください。」などと言って品物を押し付けようとたので、「要りません。帰ってください。」と言って戸を閉めた。
全く油断も隙もあった物ではない。親しげに「ご近所に挨拶に回っています。」だって。
今日は、体調が大分良くなって来た。早く風邪を撃退して、また伯母の慰問に行きたい。
そういえば年末に「小豆の餡」を差し上げた仲間から先ほど電話があった。お汁粉にして食べたら美味しかったという。
「今年は小豆をもっと多く植えつけようと思うので、採れたら又…」と話した。
その人は伯母より数歳若いらしい。
話をしている分には、全く違和感は感じられない人なのだそうだ。
彼女には札幌に住む息子が3人いて、それぞれの息子に孫もいるらしいが、老健施設に入って1年半、誰も1度も来てくれないと言っているらしい。
私が花好きの伯母のために、「アザレア」や「ゼラニューム」の鉢花を伯母の部屋に持参して飾っているのを見て、「私も花が好きで、一人で暮らしていた時は沢山育てていたけれど、息子は何も持って来てくれない。」と寂しそうに言ったという。
それを伯母から聞いた私は、彼女のベッドサイドに置く「アザレア」を1鉢持参した。
早速、伯母が彼女の部屋に届けに行った。友人は喜んでいたという。
ところがその3日後に行った時、「友人が、この花がどうしてここにあるのか判らない、と言うので説明して上げたけど不思議だね。」と伯母が言う。
私は「彼女は多分、認知症なんだね。忘れてしまったんでしょう。」と話して置いた。
昨日伯母の所に行くと、「息子さんが迎えに来て、年末から3日間程息子さんの家で過して帰って来たのに、そのことを全く言わないよ。」と伯母が不思議がる。
私は、「認知症の人の多くは、昔の事は覚えているけれど、最近の事や直前にあった事は忘れてしまうらしいよ。」と話したが、伯母には納得できないようだった。
彼女のベッドサイドの「アザレア」がすっかり満開になったらしいので、明日にでも咲き出した別の鉢を届けて上げたいと思っている。
(花が大方咲き終わったので、伯母の部屋から持ち帰った「アザレア」)
まず私の場合、季節品は定価では買わずに、こうしたセールを利用する事が多い。
残念ながら私の体型が少し変わって来たので(どう変わったのかはご想像にお任せしたい)、昨日、Gパンを色違いで2本と綿100%の長袖シャツを2枚購入した。勿論半額だった。
決して身長は高い方ではないので、Gパンは裾を詰めなければ履く事ができないし、丈が少し長めの長袖シャツもだ。
それで今朝から、食卓テーブルに電動ミシンを出して、全部の補修を仕上げた。
今回は袖丈を直す事はいらなかったので、比較的楽に早くできた。
袖丈を直す場合は、カフスと明きの布を外して袖丈を私に合わせて短く切って、明きも短くした分を下げ、またカフスも明き布も付け直している。
この場合は、はっきり言って結構時間がかかるが、サイズが合わない服は着たくないので、苦労でも皆、自分で直して着る事にしている。
また、寝室の一つに付いているカーテンの丈が少し短いのが、前から気になっていた。
夜、カーテンの裾をパネルヒーターの後ろ側に押し込むようにすると、熱が冷たいガラス窓の方に行かなくなる。それでミシンを出したついでに丈を伸ばす事にした。
家を建てた時に全ての窓に合わせて業者に作ってもらったカーテンだが、余分のカーテンが1枚残っていた。見ると生地が同じだったのでそれを必要なだけ切り取って下に足した。
アイロンを掛けて吊るした。20cm程長くなったので良かった。これで省エネ対策の一つになる。
収入は限られた身だが、時間はたっぷりあるので、自分の手でできる事はなるべく自分でしたいと思っている所だ。
今朝は3日目なのでお汁粉を作り、余りものの料理を食べた。
昨日あたりからは、料理が入った数々の鍋が、一つずつ片付いて行くのが気分が良い。
昨日の未明に登別で若者3人が死亡する交通事故があったという。
夜中の凍結路面で猛スピードを出していて、電柱に激突したのだろうか。ニュースの画面で見る大破した車の画像が痛々しい。
無謀な運転は、大事故の元だという事を改めて肝に命じたい。
新千歳空港では、昨日の午前中、降雪のために滑走路が閉鎖されたらしい。
北海道の空港では、冬場の滑走路閉鎖はたまたまある事だが、新年早々なので困った人も多かっただろう。
TVを見ていたら、1日、皇居で開かれた新年祝賀行事の天皇、皇后の姿がニュースで流れた。
参列していた多くの人々の前で、3段ほどの階段を先に上がった天皇が、後ろを振り向いて皇后に手を差し伸べ、ケアーした姿に胸が打たれたのは私だけだっただろうか。
周囲の人々を省みず、自分一人の力で生きていると思っている男性が日本には多いので、若い時にイギリスで教育を受けた天皇陛下が自然に見せてくれる姿が実に新鮮に感じられた。
天皇陛下は、今月26日には第二次世界大戦の激戦地だったフィリピンを訪問すると言う。
皆様にとって、健康で良い一年となりますように願っています
同時に今年もどうぞ宜しくお願いいたします
神社に初詣をする人達が我が家の前を行き交っています。
昨年を振り返ると、私の一番のできごとは、
家族がいなくなってしまった95歳の伯母を引き取ったことでした。
高齢者賃貸住宅での一人暮らしが難しくなり、
私に今後の世話をして欲しいと依頼されました。
それで5月に、市の介護保険課に再認定をお願いした所、
6月に「要支援2」から「要介護2」の認定が認められました。
「要介護」となって介護施設への入所ができるようになったので、
今後の世話がしやすい様に、私の家から車で5分の「老人保健施設」に
申し込み、空きができたので7月末に入所のために引っ越しさせました。
それ以来、お陰で一日おきに伯母を訪ね、
何か問題があれば直ぐにその都度、対処する事ができました。
12月に伯母は満96歳の誕生日を迎えましたが、
5ヶ月経ったので施設の職員達にも慣れ、
精神的にも安定して元気で過しています。
今年も私は、そんな伯母を見守り続けようと思います。
また更に今年も、薔薇の世話と市民農園を借りて野菜作りに励みたい
と思っています。
昨年は伯母の引越し手伝いなどで忙しく、
外国旅行は「コソボ」「マケドニア」「アルバニア」・「西カナダ」・
「イラン」・「キプロス」「マルタ」と4回7カ国でした。
今、過激派の脅威が世界に不安を与えていますが、
平和を求める世界の人々と心を一つにして、
今年も数回の旅行を無事に楽しめたら良いなと思っています。
勿論、伯母の体調次第になりますが…