出発の日になった。
一番心配していた天気だが、昨日から今日まで「雪」という予報が外れて、今日は「曇り後小雨」だ。最低気温は0℃、最高気温は7℃だという。
これなら無事飛行機が飛んで、成田のホテルに行くことができそう。ホッとしている。
今回初めて成田行きの16;40発、格安航空機に乗る予定だ。
今朝のニュースで、新千歳空港からの搭乗客が凄く増えたそうだが、格安航空機が就航して若い人たちの利用が増えたことが大きな原因だと報じていた。私も増えた若い人?に入れて貰えるかな…。(そんな訳ないか)
若い人の車離れが言われだしてから大分経つが、低価格航空機の登場によって、欧米と違い、まとまった休日が少ない日本で、余暇を広範囲に求めるようになったのは良い事だと思う。
(先日も、娘が友人と3泊4日で、台湾に行って来たと言っていた)
おかゆや粉のポカリスエット、薬は高血圧の薬、胃腸の薬、下痢止め、抗生物質、虫さされの薬、風邪薬などを昨日の内に詰めて旅支度が済んだので、後は冷蔵庫と台所の掃除、戸締りの確認をして出かけることにしよう。前の様に下着の忘れ物が無いように再点検をして…
11月23日11;30 成田国際空港出発のエアーインディア機で首都「デリー」に向かう。所用時間は8時間50分の予定である。(時差は3時間半ある)
私は新千歳空港から出発するので、当日朝の航空機でも間に合うが、もしも当日、新千歳空港が雪害で閉鎖されたり、航空機が遅れたりすると間に合わなくなるので、安全のため前日から成田に飛び、前泊する。
しかし、ハタと気がついた。前日のが飛ばなかったらどうなるか。また翌日の朝もそうなら、絶体絶命になってしまう。
前日のキャンセルなら旅費の30%、当日集合時間前のキャンセルなら50%、集合時間後なら100%のキャンセル料が発生するので、北海道に住む者にとって、冬場の成田空港発着のツアーを申し込むのは、ギャンブルをするのに近いのだ。
北海道発着のツアーも幾つもあるが、私が希望する旅行が少ない。しかも、私がのんびり旅行できるのは庭仕事ができない冬場なのだから、こんな矛盾が起きてしまうのである。
そんな訳で、出発当日、とにかく予定通り飛行機が飛ぶことを祈るしかないのである。
現在、海外旅行保険で急な航空機トラブルを保障してくれるのが無いかどうかを調べている。
「インド」へは、15年程前に一度、大学生だった娘とツアー旅行で行っている。
その時は西の「ムンバイ(ボンベイ)」から入国し、「デリー」から出国するまでの間にある「タージマハール」などの主要な世界遺産を観光した。
今回は、北の「デリー」に入国した後、広大なインドの北東部、「ベナレス」「コルカタ(カルカッタ)」そしてヒマラヤ山脈の麓に近い高級紅茶の産地「ダージリン」を巡るツアーだ。都市間は全て国内線の航空機を利用して移動するツアーだ。
「デリー」や「アグラ」の観光は前回とダブルが、2回目となると仕方が無い。
今回一番期待しているのは、世界遺産『ダージリン・ヒマラヤ鉄道』に乗って「ダージリン」に行く事。「ダージリン」では、インドの最高峰「カンチェンジュンガ」(8,586m)を臨むことができれば最高だ。(写真は旅行会社のパンフレットから借用した)
前回は、日本の人口に匹敵する程の人たちが「ホームレス」で、老人や乳児も含めた家族ぐるみで路上生活をしている姿に、衝撃を受けた。
憲法で身分差別が禁止されていながら、しかし実際には2700もの「カースト」があるという。
生まれながらに先祖から受け継がれて来た「カースト」制度に縛られ、職業選択、結婚、社会的身分などが決まってしまうのだ。
近年、経済格差はますます拡大し、未だに下層階級の人たちは経済的に自立した生活をすることができないらしい。
民族、宗教、言語なども多様さを極め、治安も良いとは言えず、混沌としている国が人口12億5,000万人の「インド」なのだ。
近年、政府は教育に力を入れ、IT産業が急成長して、今や世界中でインドの技術者が活躍するようになっているが、生活実態はどうなのだろうか。
今回の準備で大変なのは、一番寒い「ダージリン」の最高気温が12度位、しかし、一番暑い「コルカタ」は29度らしいので、冬と真夏の両方の服装が必要な事だ。
いつもの様に気温が低ければ重ね着をする積もりだが、どうしても衣類が多くなりそうだ。何度か乗る国内線に預けるスーツケースの重量制限が15kgらしいので、毎度の事ながら着替えを減らすために何度か洗濯をしながら行く事にしよう。
今回も事故無く、体調に気をつけて行って来たい。帰国は12月1日の予定である。
今日は、行った事のある国を書き出して見た昨年3月以来、さらに尋ねた国を足して見た。足したのが赤字だ。また( )内は、その国に複数回行った旅行回数である。
≪アジア≫ 〇大韓民国(6) 〇中華人民共和国(6) 〇ベトナム社会主義共和国 〇カンボジャ王国 〇ネパール連邦民主共和国 〇インド 〇タイ王国 〇マレーシア 〇トルコ共和国 〇スリランカ 〇インドネシア
小計11か国
≪アフリカ≫ 〇モロッコ王国 〇ジンバブエ共和国 〇ザンビア共和国 〇ボツワナ共和国 〇南アフリカ共和国 〇チュニジア共和国 〇エジプト・アラブ共和国
小計7か国
≪ヨーロッパ≫ 〇ロシア連邦 〇イギリス(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)(3) 〇ポルトガル共和国 〇スペイン 〇フランス共和国(4) 〇イタリア共和国(5) 〇バチカン市国(3) 〇ドイツ連邦共和国(3) 〇スイス連邦(2) 〇オランダ王国 〇デンマーク王国 〇オーストリア共和国 〇ハンガリー共和国 〇チェコ共和国 〇ギリシャ共和国 〇スロベニア共和国 〇クロアチア共和国 〇ボスニア・ヘルツェゴビナ 〇モンテネグロ 〇ブルガリア共和国 〇ルーマニア 〇ポーランド共和国
小計22か国
≪北アメリカ≫ 〇アメリカ合衆国(3) 〇カナダ
小計2か国
≪南アメリカ≫ 〇ペルー共和国 〇ブラジル連邦共和国 〇アルゼンチン 小計3か国
≪オセアニア≫ 〇オーストラリア連邦 〇ニュージーランド
小計2か国
≪その他≫ 〇台湾(正式には独立国ではないが) 小計1か国
合計48か国 ;">(延べ訪問国数74)に上ることが分かった。
私の場合は、初めから「日本百名山」を制覇するように国の数を増やそうという考えは全く無く、その時々の興味関心の赴くままに旅をして来たが、いつの間にか訪問国数が多くなっていた。
旅全体に言えるが、特に外国旅行は、気力、体力、その時の健康状態、家族等の理解と協力、必要な日程、そして経済力と全てが揃わなければ行くことは無理なので、最近は体力的な自信が次第に無くなり、「これで最後かな?」と弱気になることもある。
しかし、前回も81歳の女性の方が1人で参加していたのを見ると、「私も、もう少し頑張れるかも知れない。」という気持ちになって来る。そして、また旅行会社から送られて来るパンフレットを見てしまうのだ。
次は「北インド」だ。どんな発見や感動があるか楽しみにしている。
ニュースに拠ると、積雪が50cmに達した地域が幾つかあるらしい。急な降雪に除雪をしている人たちの、苦労が想像できる。
私の所は、今朝7時の外気温はー4度、無暖房だった室温は14度と冷え込んだので、仕方なく暖房のスイッチを入れた。(ネットで調べたら、最低気温は午前3時で、ー5度だったらしい)
今朝の積雪量2cm程だが、一面の銀世界だ。最高気温は+4度の予報なので、昼頃には溶けるかも知れない。
今日の午前中に出かける用事があるので、今冬最初の雪道走行をする。
1ヶ月前に冬用のスタッドレスタイヤに換えてあるので安心だが、これからは急ハンドル、急ブレーキを掛けないよう注意したい。
11月に入ると、随分寒くなった。今まで氷点下になった日が2日あるが、今朝6時半の外気温は0.5℃、室内は16℃。
雨だった昨日とは違い陽が出ているので、外で作業しても気持ちが良く、室内も次第に暖かくなって来た。
実は先月末からの晴れた日は、「ポーランドの旅日記」を書きながら庭木の冬支度をしていた。
北海道では、雪が積もると、その重さで枝や幹が折れたり、曲がったりするからだ。
大きい木なら余り心配は無いのだが、私の庭の木はまだ小さいのが多いし、薔薇の幹は弱いので囲わなければならないのだ。
先ずどの木も枝をまとめて縄で縛り、周りに竹3本を立ててから、また、縄やビニールテープで縛る。
寒さに弱い木には、竹の上にさらに麻布を巻き付けて縛るのだ。
薔薇の木が多いので、数えて見たら今年は全部で80本程囲った。
その時間は、3~5時間×4日間だった。(写真はわざとぼかしてあるが、お許しを)
昨日、顔がすっかり日焼けしたのと、荒縄を使った手がすごく荒れてしまったことに気がついた。まあ、これも庭仕事を頑張った勲章である。
今夜から冬型の気圧配置になって、雪が降り出すそうだ。完成して安心した。(と思っていたら、もう白いものが降り出して来た)
≪ワルシャワ市内観光⑤≫
「ワルシャワ」最後の日の朝、出発までに少し時間があったのでホテル界隈を散歩した。
スーパーがあったので、土産のチョコレートやミルクキャンデー、菓子などを買って、ポーランドのお金を使い果たした。
朝から濃霧が出て、何もかも霞んで見えたが、「ワルシャワ」の街の様子を数枚の写真に収めた。
その後、帰国するため、バスで「ワルシャワ・ショパン空港」に行った。
搭乗券を受け取り、荷物を預け、安全検査を受けて、12;35オランダ「アムステルダム空港」目指して飛び立った。所要時間は2時間。
「アムステルダム空港」で待ち時間が2時間あったが、空港内に国立美術館のちょっとした分館があったので寄った。オランダ出身画家の複製画やマグネットが売られていたので、フェルメールの「真珠の耳飾の少女」のマグネットを3個10ユーロで購入した。娘と木彫りのブローチを作ってくれた人、それに私用の記念の土産だ。
「成田」行きのオランダ航空機に乗り換え、成田まで賞味11時間強。合わせて13時間も乗ったが、疲れが出て食事以外はほとんど寝ていた。
「成田」には、予定通り翌日11;55に着陸できたので、その後国内線に乗り換えて「新千歳空港」まで順調に帰って来た。
ポーランドは、フランスやドイツ、イギリスなどと違い、遠い東欧にある国なので、普段は余り情報を耳にすることが少ない。
複雑な歴史も、その国の有名人も今までは少ししか知らなかった。
しかし、出かける前の1ヶ月間、いつもの様に図書館から色々な本を借りて来て読み、一通りの予備知識を得て置いたのは良かった。
(ナチスが行ったユダヤ人に対する恐ろしい絶滅作戦については、『アンネフランクは、なぜ死ななければならなかったか』という本が一番詳しかった)
そして自由行動で、ショパンにまつわる幾つかの場所を尋ねることができたのは、私の一生の財産になった。
最後に長い私の旅日記を読んでくれた皆さんに感謝したい。今は完成した安堵感と共に、ポーランドの歴史と現在について、皆さんにはどのような印象を持ってもらえただろうかと少し気になっている。(完)
≪ワルシャワ市内観光④≫
さて、いよいよ次は『ショパン博物館』に行く事になった。
しかし地図を見ながらコペルニクスの科学センターの向こう側にある階段を下ったのだが、どの建物がそうか分からず7~8分迷った。結局、中年の女性に聞き、着くことができた。
この博物館の建物は、貴族オストログスキが17世紀に宮殿として建てたバロック様式の立派な物だった。ショパン協会が第二次大戦後取得して博物館としていたが、2010年3月1日、ショパンの生誕200周年に合わせてリニュウアルオープンしたのだった。
中に入ると、ショパン直筆の楽譜や手紙、ショパンの家族と生涯、彼が最後に使った薄茶色のグランドピアノ、何枚もの肖像画、パリで亡くなった時に取ったデスマスクと石膏で作った片手、毛髪など7000点もの資料が展示されていた。
中にはショパンがパリで出会い、長年彼の生活全般と結核の治療を支えてくれたお陰で、多くの作品を生む事ができた小説家「ジョルジュ・サンド」の肖像画もあった。(結局、彼女とは破局したが…)
この博物館でも日本語のガイドは無かったので、見学しながら私が知っているショパンの生涯を一緒に行った人たちに話した。
ここまでの見学でかなり疲れたが、最後の予定見学場所である『国立博物館』を目指して10分間ほど頑張って歩いた。途中で犬を連れた男性に道を尋ねた。その人は教えた所で私達がちゃんと曲がるか、ずっと見守っていてくれた。あり難かった。
『国立博物館』はポーランドとヨーロッパの美術作品を収蔵していて、古代美術、キリスト教美術、中世美術、ヨーロッパ絵画、ポーランド美術など多くの作品が並んでいて見応えがあった。
自由見学の予定が全て終ったので、ホテルまでタクシーに乗ろうか相談したら、歩くというので、また8分程歩いてホテルに戻った。
多少疲れたが、結局半日の自由行動の交通費は0、入場料が2箇所で1,500円だけと安く済んだ。2人には感謝された。
休憩後、近くのスーパーマーケットに行き、サンドイッチ、飲み物、果物を調達して来て、夕食として部屋で食べた。持参したインスタント味噌汁が美味しかった。
(先程からCDでショパンのピアノ曲「マズルカ、作品33」他を聴きながら書いている。今朝外は0度、室温は15℃である)
≪ワルシャワ市内観光③≫
昼食を食べにレストランに向かったが、たまたま近所に1903年、ノーベル物理学賞を夫と共に受賞した「キューリー夫人」の生家があった。
今は『キューリー夫人博物館』として公開されていた。入り口に「マリア・スクウォドフスカ」博物館という名前が表記されていた。
彼女はこの家で1867年、中学教師の末娘として生まれ、苦学をしてパリのソルボンヌ大学を卒業。卒業後、フランス人科学者ピエール・キューリーと結婚し、夫婦で研究をしてラジウムなどの放射性元素を発見したのだった。
しかし、研究によって白血病になり、1934年66歳で死去した。
昼食後は、『ショパンの生家』を見に行くオプショナルがあったが、私は個人でショパンゆかりの場所と美術館を尋ねることにしていた。ツアーのグループの女性が2人、同行させて欲しいと言うので一緒に行った。
先ず行ったのは、ショパンの心臓が保存されている『聖十字架教会』だ。この心臓はショパンに最初にピアノを教えた姉「ルドヴィカ」が、こっそりとパリからワルシャワに運んだ物だ。しっかりと内部を見て来たくて、再び訪れた。
中に人はほとんど居なかったので、しっかりと見て、正面の祭壇と心臓が埋められている柱の写真を撮って来た。心臓は下の壷の奥らしい。
次にショパンが主席で卒業した『ワルシャワ音楽院』(今はワルシャワ大学)の校門から中に入り、少しだけ雰囲気を味わった。
この大学の一部にショパンの家族は住んでいたこともあるらしい。
大学の近所にショパンがワルシャワにいる間、日曜ミサでパイプオルガンを弾いていた『ヴィジトキ教会』があった。中に入り、祭壇とパイプオルガンの写真を撮った。
こじんまりとした教会だったが、オルガンを下から見上げて、ショパンがそこでオルガンを弾いている姿を想像した。そこにいる時間は短かったが、ショパンの作品が好きな私にとってとても貴重な時間に思えた。
≪ワルシャワ市内観光②≫
『聖十字架教会』『ポーランド科学アカデミー』から『クラフク郊外通り』を北に数百m歩いて行くと『旧王宮』(写真右の建物)と『王宮広場』に出た。
そこには1596年に首都をクラクフからワルシャワに移した『ジグムント三世の碑』が広場を見下ろすように聳えていた。
『旧市街』は、レンガの塀で円形に囲んだ要塞『バルバカン』となっていて、今でも部分的に当時の姿が保存されていた。(写真左の塀)
『旧王宮』は、王の住居だった他、時代によって国会、大統領執務室、士官学校、国立劇場が置かれた所だ。
第二次世界大戦で破壊されたが、その前に貴重な調度品は国外に持ち出されて難を逃れたという。
5~9月は内部を見学することができるが、10~4月は公開されないのでこれも残念だった。
続いて『旧王宮』の北側直ぐ傍の『旧市街広場』まで歩いた。
ここは第二次世界大戦で多くの家屋が破壊消失されたところだが、戦後、市民総出で崩れたレンガや石材に番号をつけて積みなおし、長い時間をかけて以前の町並みを復旧再現したところだと、ガイドが看板の写真を示して説明してくれた。
日本なら壊れた建物は直ぐに取り壊して新築する所だが、ポーランドの人達は歴史的な町並みに強い愛着を持っているのだと感心した。
広場では画家が町並みを描いた作品を並べて売っていた。
路地に入ると『バルバカン』に沿ってワルシャワの風景画を描く人や木の彫刻をしながらできた作品を並べている人など、そこにも市民の生活を感じた。
≪ワルシャワ市内観光①≫
6日目は、午前中がワルシャワ市内観光で、午後が自由行動だった。
ワルシャワ市内観光のスタートは、『ワジェンキ公園』からだった。
丁度黄葉が美しい広大な公園をゆっくりと散策しながら、『ショパン像』の所に行った。
この柳の木の下で自然に耳を澄ましているショパンの銅像は、彼のものとしては最も有名なもので、1926年11月に除幕されたが、1990年3月にドイツ軍によって1度破壊された。しかし、ポーランド国民の愛国心の象徴として1958年、再建されたものだ。
台座には、《炎は絵画を燃やし、盗人は奪い、しかし、歌は残る…》と書かれていた。
どの人もその銅像をバックに写真を撮っていた。
5月から9月の毎週日曜日には、美しく咲く薔薇の前にベンチが並べられ、この前で1日2回、『ショパンコンサート』が開かれているというが、10月中旬だったので薔薇は終わり、ベンチも片付けられていて残念だった。
傍に「ショパンのピアノ曲が流れる石のベンチ」があった。このベンチは、2010年の国際ショパン年の記念として市内15箇所に設置された。
ボタンを押すと場所ごとに違うピアノ曲が短時間流れ出す仕組みだった。この場所の曲は「ポロネーズイ長調」だった。
次いで水上宮殿の『ワジェンキ宮殿』を外から見学した。
次にワルシャワの中心地、「新世界通り」に行った。
フランスで39歳の若さで亡くなったショパンの心臓が納められている『聖十字架教会』に行った。ミサの最中だったので、心臓が埋められている柱に近づくことができなかったので、自由時間にもう一度来ることにした。
『聖十字架教会』と道路を挟んで隣にあるのが『美術アカデミー』の建物だ。実はショパン家族が、かってその一部を借りて住んでいた建物なのだ。
だからショパンの心臓を親しく通った聖十字架教会に預けたのだろう。その家の前にも石のベンチがあった。こちらの曲は『ソナタ変ロ短調』だった。
教会の前には『ポーランド科学アカデミー』の大きな建物が建っていたが、その前庭に地動説を唱えた『コペルニクス』の大きな銅像があった。彼もまたポーランド出身の天文学者だったのだ。
彼の後の『ガリレオ・ガリレイ』が地動説を唱えて宗教裁判にかけられたが、彼は「天体の回転について」の書を死の直前まで公表しなかったので、迫害されなかったという。
≪シンドラー博物館≫
4日目、「ヴィエリチカ岩塩抗」から16時近くにホテルに戻ったが、夕食まで2時間半ほど時間があった。
添乗員はホテルに近いスーパーマーケットに案内すると言っていたが、私は折角「クラフク」に来たので「シンドラー博物館」に行っておきたかった。
ホテルにタクシーを頼んでもらって乗ったが、丁度、金曜日夕方のラッシュ時間にぶつかってしまった。
やっと博物館に着いた。タクシーの料金は、チップを入れて1600円程だった。
ここはドイツ人「オスカー・シンドラー」が、彼が経営するホーロー工場に多くのユダヤ人を雇用して、1200人を強制収容場行きから救った工場跡である。彼はそのために賄賂や買取費、闇の食糧調達費など、今の日本円にすると1億3,000万円を使った事が分っている。
(詳しくは「オスカー・シンドラー - Wikipedia」を検索して欲しい)
2010年6月に博物館としてオープンしてから、ナチス占領下のクラフクを多くの展示物で再現していた。(一昨年ドイツに行った時、「レーゲンスブルグ」で彼が一時住んでいた集合住宅を見た事がある)
入場料は大人19ズルチ=760円程。
資料にはポーランド語と英語の説明が添付されていたが、残念ながら内容が詳しくは分からないのがもどかしかった。
しかし、「アウシュビッツ・ビルケナウ」になかった集団首吊り刑の写真や当時のクラフクの街の様子、新聞や雑誌の記事、シンドラーの工場で使われていた食器類、救われた人々の写真、シンドラーの執務机、電車などがぎっしりと展示されていた。
見て良かった。
帰りは自力で帰る事にして、数人の人が歩いて行く後を付けた。するとやがて電車通りに出た。
男性に持っていた地図を見せて、ホテルに近い停車場に行く電車を聞いた。その電車が来たので2輌目に慌てて飛び乗った。
ところが乗ってから切符を持っていないことに気づいたのだ。(本当は切符は予め買って置き、乗車時に刻印機に入れて刻印を押してもらう仕組みになっている。時々検察官が乗って来て検察があるらしい)
そこで近くの人に、「切符を買わずに乗ってしまいました。どうしたらいいですか。」と尋ねた。するとその人は、「後ろに行きなさい。」と教えてくれた。
慌てて3輌目に移動し、切符売り機や車掌を探したが見つからない。うろうろしている内に、下りる停留場が近づいたので飛び降りた。
そこでは角のキオスクの店員に地図を見せて、ホテルに行く道を聞いた。
「右だ。」と言われたので曲がって歩いたら、2丁先の角がホテルだった。
添乗員にこのことを話すと、「検札官は前から来るので、後ろに行けと言われたのでしょう。もし見つかれば10倍請求されていました。」と言われた。私は何てラッキーなんだろうと思った。
添乗員には、「シンドラー博物館は狭い展示室なので、大勢で行くことは無理ですが、希望者がオプショナルで行けたら展示内容が詳しく分かって良かったと思いました。」と言うと、「私も一度行きたいと思っている。」と話していた。
≪負の世界遺産 アウシュビッツ・ビルケナウ見学②≫
次に直ぐ近くにある『ビルケナウ強制収容所』へ見学に行った。
ここは、第二アウシュビッツで、1941年に造られた。
1.4k㎡の広大な場所に、300棟以上のバラックの収容施設が立ち並んでいたという。1945年に開放されるまで百数十万人が殺された場所だ。
「死の門」をくぐって入り、「死の門」の二階に上がると遠くまで見渡す事ができたが、鉄道の引込み線がかなり奥まで続いていた。毎日大勢のユダヤ人たちが、単なる隔離場所だと信じてここにやって来たのだ。
見学した建物は、床は土間、隙間だらけの薄い板壁で造られていて、入り口にストーブが1つあるが、ほとんど燃やされることがなかったらしい。
蚕棚状の木造簡易ベッドが並んでいたが、1箇所に2人寝ていたという。
冬場はー10℃を越える寒さになる所で、薄いボロボロの衣服を着て、劣悪な食事を与えられていた。
寒さに耐えられずに死亡する人が多く、仲間の遺体は凍土を掘って埋められた。
馬屋だった棟を『公共トイレ』にして使っていた所を見学した。
現地ガイドの話では、トイレの使用時間は決まっていたという。また溜まった汚物を処理する係りはユダヤ人だったが、場所が場所だけにナチスが監督に来ることはほとんど無かったので、ここは最も安全な良い仕事場だったと聞いた。
半世紀前に実際にユダヤ人の絶滅作戦が行われた場所に立っていると思うと、何とも言えない重たい気持ちになった。
世界中から見学者が来ていて、若い人たちも多かった。彼らにはここで見たことを忘れず、今後の世界の歴史を作って欲しいと願うのみだった。
そして私達は、戦争を決して起こさず、人種差別をせず、自由と平和が守られる民主主義社会を守り続けることの大切さを確信した。
同時に、第二次世界大戦で、日本はナチスドイツと同盟を結んで戦ったことを反省する必要があるとも思った。
(元総理大臣が、「日本政府は、国民が知らない内に憲法改正をしたヒットラーのやり方を学んだら良い。」と発言したことを思い出す。全く世界に恥ずべき考え方だし、主権在民の日本国憲法を否定しているとしか言わざるを得ない。)
≪負の世界遺産 アウシュビッツ・ビルケナウ見学①≫
3日目の「クラフク」の午後は、負の世界遺産『アウシュビッツ・ビルケナウ』の見学をするか、自由行動をするかを選べたが、1人を除いてほとんどの参加者が負の世界遺産見学に行った。
バスを下りてから入場券を受け取り、先ず『アウシュビッツ』の敷地に足を踏み入れた。
ここは1940年、ナチス・ヒットラーに支配されていたポーランドで、政治犯を収容するために建てられた施設だが、やがて第二次世界大戦中にナチス・ヒットラーが占領したヨーロッパ中から、ユダヤ人、共産主義者、ナチスに反対する活動家をこの『強制収容所』送り込んだ。合計150万人が収容され、生きて出られた人は僅かだった。
小さく簡単に作られた鉄のゲートがあった。その上部には『働けば自由になれる。』(ARBEIT MACHT FREI)という文字が掲げられていた。
遥か遠くから過酷な旅を強いられてここに到着した大勢のユダヤ教信者(ユダヤ人)達とその子ども達は、このゲートをくぐった所でナチスの監督者に選別された。
健康なものは別の場所に連れて行かれ、女性や老人、病弱に見えた者や子どもたちは、やがて待ち受けている運命めざして、何も知らされずに並ばされたという。
現在は博物館として保存公開されている。
レンガ造りの囚人棟28棟が立ち並んでいた。所々に監視する建物がある。ここには最大で1度に28,000人が収容されていたらしい。
その1つの棟の入り口を入った所から矢印に従って見学コースを回った。
先ず二階に上がって直ぐに目に飛び込んで来た最初の展示は、衝撃的だった。
天井まで届くガラス窓が幾つもあって、中にはおびただしい量の灰色の髪の毛が積み上げられていた。別の場所で知ったのだが、ナチスが降伏してこの場所が開放された時、巻いた灰色のじゅうたんが幾つも出て来たが、髪の毛はその材料として使われたのだった。
次のガラス窓の中には、無数の眼鏡が、またその次には大量の革靴があった。小さな子どもの靴や衣服もあった。さらに進むと、ユダヤ人たちが荷物を入れて来た当時のスーツケースが山積みされていた。その多くには持ち主の住所や名前が書いてあるのだった。
赤ん坊を入れて来たらしい大型の手下げ籠も。当たり前だが、その全てには持ち主がいたのだ。これらの靴を履いて、ここまで辿り着いた人たちも。
再び一階に下りると、沢山の大型拡大写真で当時の状況が分かるように展示していた。
その一箇所に、ガラスケースに入った遺灰の展示があった。
また毒ガスとして使われた『チクロンB』が入っていた缶とその説明もあった。ショウウインドウの中に、『チクロンB』の空き缶が展示されていた。
別の建物に入った。何らかの理由で罰せられた人の独房が並んでいた。4人部屋もあった。その一つに、有名な「コルベ神父」が死亡した部屋があった。
(連帯責任を取らされて10人が餓死刑にされることになった時、「コルベ神父」が自ら申し出て10人目になり、死亡したのである)
一番奥に、狭い「立ち房」があった。畳半畳ほどしかない部屋に4人が入れられ、食事を与えられずに立ったまま死亡して行った部屋だった。
写真撮影ができないという部屋に入った。そこは「ガス室」だった。「シャワーを浴びてもらう」と言って服を脱がせ、次々とその部屋に招き入れたのだ。
天井の真ん中に一辺が15cmも無いように見えた四角い穴が開いていた。そこから有毒ガスを発生させる『チクロンB』の缶を投げ入れ、部屋にガスを充満させ、20分程で死亡させたのだという。
ガス室の隣室には、死体を焼くための2つの焼却炉が備えられていた。当時は3つあり、1日に340人の遺体を焼いていたらしい。
焼却炉やその後の遺体処理作業場で働かされていたのは、ユダヤ人たちなのだった。
再び外に出た。棟と棟の間を利用して処刑場が造られていた。奥の壁に向かって立たせた2人を、入り口の方から銃殺したのだそうだ。
驚いたことに写真右側の建物の窓には目隠しが無く、建物内からその状況を見ることができるようになっていた。見せしめの処刑を行っていたのだった。
最後にゲートのすぐ傍に鉄で造った鉄棒状の『集団絞首刑場』が作られていた。逃亡しようとして捕まった人達が、皆が見ている前でここで絞首刑を執行された。
その写真は、自由時間に個人で行った「クラクフ」の『シンドラー・ファクトリー』の展示場で見た。
6人がぶら下がり、1人が下に倒れているのを、大勢が傍で、ある者は笑いながら見ている写真だった。
≪貴族の館と「ヤスナ・グラ修道院」≫
5日目は、「クラクフ」を出て首都「ワルシャワ」に向かったが、途中で2箇所立ち寄った。
1つ目が、コウノトリの巣がある「ビュスコヴァスカ村」の郊外にある貴族の館だ。
ひっそりとした丘の上に建つ古いが風格が感じられる館だった。工事中で、中には入れなかった。
バスから「ビュスコヴァスカ村」の幹線道路の両側に建つ民家を見ると、この辺はまだ世帯の家族数が多いのか、半地下式で地上二階建ての大きい家が多かった。
農業が中心だと思うが、住宅を見る限り豊かそうに見えた。街中に入ると集合住宅も幾つかあり、ソ連時代に建てられたような古いものもあった。
濃霧が立ち込めていた上に走るバスから写真を写したので、ボケていて申し訳ない。
午後は、もう一つのカトリックの聖地「ヤスナ・グラ修道院」に行った。
この修道院は1655年にポーランドがスエーデン軍に攻められた時、最後まで負けなかったのだ。それは祭壇に置かれた『黒いマドンナ』のお陰だと言われて、信者の信仰を集めたそうだ。
その日のミサに参加する信者の多くが、イエス・キリストが印刷されている赤いマントを羽織って礼拝堂に向かっていた。
礼拝堂に入ると、壁には金や銀、様々な宝石などで作った信者の寄付がギッシリと飾られていた。多くの教会を見て来た私にも、こんな教会を見るのは初めての事だった。
またこの『黒いマドンナ』は、信者から寄付された着替えの服を幾つも持っていて、ミサの度に着替えるのだ。
私達が訪れた日は、大勢の信者で礼拝堂はぎっしりと埋め尽くされていて、『黒いマドンナ』は煌びやかなダイヤの衣服をまとっていた。
おまけに、礼拝堂の横に造られている大きい第二礼拝堂?の華やかさには仰天した。ゴシック様式で、金箔が施されたとても豪華な場所だったからだ。
見学を終えた後、222kmの道のりをバスは4時間かけて1日目の夜着いた「ワルシャワ」に戻った。