花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

フランスの旅(14)

2010年04月16日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅢ」フランス・ギリシャ
《最後はルーブル美術館見学》
7日目は、パリの最終日だ。
シャルル・ドゴール空港の飛行機が19時10分発なので、朝から郊外のホテルに集合する16時までが自由行動だった。
フランスは初めてという友人と相談した結果、ルーブル美術館を見ずに帰国するべきではないと、3度目になる私も同行することにした。

8時半にホテルを出、バスに乗り、美術館前の停留所で降りた。
ルーブル美術館のガラスでできているピラミッドに、中央入り口があった。
そこからエスカレーターで地下に降りると、チケット売り場が3箇所あって、日曜日で混んでいたがすぐに買えた。

美術館はとにかく広く、展示品も2万6000点という多さだが、私たちは1階の古代オリエント・エジプト・ギリシャ・ローマ・アフリカ・アジアと、石像、彫刻などの展示品を発掘年代順に見て行った。
石像はどれも大きく、何度見ても圧巻だった。

3階のヨーロッパ絵画を巡る頃には、次第に疲れが出て来た。
中世の絵画は宗教画が多く、聖書から題材を取って書いた絵が多いため、どれも似ていた。
その頃の画家は、教会や王室、貴族からの求めに応じて絵を描いたからなのだろう。

モナリザやミロのビーナスの前には、以前来た時にはなかったロープが張られていて、その前に大勢の人が詰め掛け、幾重にも人垣ができていた。
私達もその中に入り込んで、フラッシュ無しなら許される写真を撮った。

結局、途中、サロンで軽食を食べた時間を除き、4時間あまりも見学した事になる。
展示の全コースは20kmに及ぶそうなので、私たちは急ぎ足でそのほぼ全部を駆け抜ける様にして見たということになる。
もし、ツアーで来たとしたら、有名な作品だけを1時間で見回って終わるのだから、自分で来た方がチケット代だけでゆっくり楽しめる利点があるのだ。

それにしてもパリの美術館などのチケット代は安い。
オルセー美術館が7ユーロ(900円)、ルーブル美術館9.5ユーロ(1200円)、オペラ座見学9ユーロ(1150円)なのだ。
作品の数から考えると、ルーブル美術館のチケットは破格値だと言っても良いだろう。

(以前にルーブルに来た時は、日曜日は無料だったと記憶している。その頃は、あちこちの展示室にキャンバスを立てた画学生がたくさんいて絵のスケッチなどをする姿があったのだが、今回はそんな姿は見られなかった。混み合う曜日は禁止されたのだろうか。
そう言えばオルセイ美術館では、30人位の子どものグループが3グループ、別々の会場に居た。全員が絵の前に座って、先生らしき人の熱心な説明を聞いていた。(外国でこうした光景に出会うと、子ども達が全く私語をし無い事を私はいつも不思議に思うのである)
土曜日の午後だったので、ひょっとしたら社会教育の絵画グループかも知れない。若い時から本物の芸術に触れられる彼らは幸せだと思った)

  ( ルーブル美術館とオルセイ美術館の間にあるセーヌ川のカルーゼル橋)
    

無事に自由行動を終え、オペラ通りのバス停から予定通りバスでホテルに戻った。
帰国便の航空機は、パリ→ミュンヘン→上海→成田と経由したが、成田に着いたのが20時40分だったので、私たちだけ成田にさらに1泊してから9日目の午後に北海道に帰宅した。
(パリから成田まで航空機に乗っていた実質搭乗時間は15時間弱、乗り継ぎと待ち合わせ時間を合わせると17時間かかった。乗り継ぎの際の待ち時間は少なかった)

今回は、観光客を狙うスリが多いフランスなので、庭仕事用のグレーのジャンバーを引っ掛けて出かけた。お陰で私たちは危ない目には遭わなかったが、ツアーの数人はすられそうになったと聞いた。
そして春の寒くも暑くもない季節に、観光客が少ない田舎の世界遺産と自然をゆったりと見られた旅だった。(旅行費用も、観光シーズンの初めなので比較的安かった)
前回のオーストラリアのように土産屋に連れて行かれることも全く無く、どこでも時間をめい一杯使って観光することができた。
(パリの市内見学以外、現地ガイドを雇わず、ほぼ全日程を添乗員が観光ガイドもしたからかも知れないが‥)
随所で自由時間もあり、そんな時は気心が知れた友人と好きなように行動し、本当に楽しめた良い旅だった。
また機会があったら、今度はまだ行っていない郊外の町へ、さらに足を伸ばしてみたいと思ったりした。

そして、こんなに長く旅行記を書いたのも初めての事だが、私と一緒にブログで今回の旅を辿ってくれた来訪者の方達に、旅の楽しさとフランスを訪れる魅力が伝わったなら幸いである。(完)




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フランスの旅(13)

2010年04月15日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅢ」フランス・ギリシャ
《オルセイ美術館》
6日目の午後、オペラ座見学の後は、友人はベルサイユ宮殿のオプショナルツアーに参加した。
それで1人になった私は、まだ行っていないオルセー美術館に行くことにした。

地図を見るとオペラ座からは2km程なので、歩いて行くことにし、まずルーブル美術館を目指した。
幾つかある門の一つから入り、庭を抜けるとセーヌ川畔に着いた。①
川の向こう岸に見えるのが、目的のオルセイ美術館だ。②
道路脇の公園に植えてある木蓮の蕾がふくらんでいた。③
オペラ座からオルセイ美術館までは30分で着いたが、すでにチケットを買う人が200人以上並んでいて、買うだけでも30分もかかった。その時間を利用して、私はすでに200枚は写したカメラを見ながら、駄目な写真をずっと削除し続けた。

 ① ②

  ③

しかし中に入って見ると、元々は1900年のパリ万博時にオルセー駅舎として建てた建物を、1986年に美術館に模様替えしたものなのに、ドーム型の建物の内装が素晴らしいのにまず感嘆させられた。
(美術館内は写真撮影は禁止されている)

ここには1848~1914年に製作された印象派の絵画、彫刻が収められていて、ルノワール、ドガ、マネ、ルソー、ミレー、セザンヌ、ゴーギャンなど、美術の教科書に出てくる絵のまさに本物が目の前に所狭しと展示されていた。
ただ、ゴッホの部屋は閉鎖されていた。多分、ゴッホは稼ぎ人だから、どこか外国に行っているんだろうなと思った。
「晩鐘」などのミレーの作品の実物を今回初めて見て、その静寂に満ちた農民の祈りに感動した。
私が好きなセザンヌの作品も多く、どれにも見入ってしまった。
私は疲れると椅子にかけて時々休みながら、2時間余りもたっぷりと楽しんだ。
外に出て入り口を見たら、相変わらず大勢の人が並んでいた。

オペラ座の近くまでまた歩いて戻ったが、途中でスーパーマーケットを見つけた。
調味料売り場に、醤油が数種類並べられていた。「キッコーマン・すし、さしみ」「醤油」と書いてあるのが500円していた。また「豆腐みそスープ」というのもあり、600円していた。④
私はチョコレートに包まれているキャンデー、コニャックチョコレートを少し買い、友人との待ち合わせ場所に戻った。
                                   
 ④

友人とフランス料理でも食べようとしてレストランに入ったが、とても混んでいた。やっと席に案内されたが全く落ち着かない場所だった。それでそこは諦めた。
今度は、近くにあったピザ屋に入った。
ところがそこも混んでいて、50分位では無理だと言われ、添乗員と一緒にホテルに帰るのに待ち合わせた時刻には間に合いそうにない。仕方なくそこも出た。
結局、テイクアウトの寿司店を見つけて生寿司のパックを買い、ホテルに持ち帰って食べたのだ。(この寿司には、別パックでサラダが組み合わされていたのに驚いた。得をした気分だった)
土曜の夜のパリ中心部では、たっぷりと時間が取れなければ、レストランは無理だと言う事が分った。




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フランスの旅(12)

2010年04月14日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅢ」フランス・ギリシャ
《オペラ座》
全体のツアーはオペラ座の傍にある「三越」で解散したので、早速友人と2人でまだ見ていないオペラ座の見学をする事にした。
オペラ座は、公募で選ばれた35歳のシャルル・ガルニエが設計し、1860~75年の15年間に及ぶ工事で完成した建物だが、途中、普仏戦争、帝政の崩壊、パリコンミューンなどで度々工事は中断されたという。
土曜日だったせいか、見学者の入り口から入ると、チケットを買う人達が大勢列をなしていた。私は少し躊躇したが、見たい気持ちが勝って並んだ。

メインファサード(出入り口)は2000年に改修されたらしいが、訪れた人に上演されるオペラへの期待を掻き立てるかの様に、美術品のような美しい広間と階段、そして天井絵で飾られていた。①(フラッシュが禁止されていたので、写真はどれも良くない)

2階のグラン・フォワイエ(ロビー)は長さ54m、幅13m、高さ18mと広く、柱、壁、天井のいずれもが、ルイ14世のベルサイユ宮殿・鏡の間とは比べ物にならないほど芸術的に飾り立てられ、贅が尽くされていて驚いた。②
その外側には、オペラ通りの賑わいを見渡せるロッジア(回廊)が巡らされていた。

 ① ②

1階の舞台では、丁度、舞台造りが行なわれている最中で、幕が開いていた。
パンフレットには、幅48.5m、舞台開口部16m、高さ60m、奥行き27mと書かれているが、2階側面の貴賓席から見た舞台は小さく見えた。
1900席あるという客席の20m上にある天井は、シャガールの美しい天井画で飾られていた。③(この写真だけ、こっそり違反してフラッシュをたいた)

オペラ座は、当時のフランスの政治力、経済力と、建築家、芸術家達の総力を結集した舞台芸術の拠点として作られ、今なおその価値が高い文化財なのだった。
何時の日にかまたパリを訪れる機会があれば、是非ここでオペラを鑑賞したいと思った。
最後の写真は、オペラ座の前のオペラ通りから建物の全景を撮影したものだ。正面2階がロッジアである。④

 ③ ④


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フランスの旅(11)

2010年04月13日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅢ」フランス・ギリシャ
《パリ市内観光》
今回の地中海沿岸の町ニースから少しずつ北上したフランス旅行も、5日目の夜、ついにパリに到着した。
私がパリを訪れるのは3回目。
前回は28年も前の事だが、ツアーでノートルダム寺院とベルサイユ宮殿、ルーブル美術館を見学し、オプショナルで素晴らしいリドのショーを見た。
また自分でエッフェル塔と凱旋門に上り、サクレクール寺院とその周辺を散策、シャンゼリゼ通りやオペラ座界隈でウインドウショッピングをした経験がある。
それで今回は、オプショナルツアーは申し込まず、自分で見て歩くことにした。

6日目の午前中2時間は、バスでパリの市内観光があったが、バスが市内を余りに早く駆け抜けたので、多分、初めての人には、対峙するシャイヨー宮殿で降りて写真を写し、眺めたエッフェル塔以外は、それ程記憶に残らなかったのではと思った。

曇り空の下、動くバス内から写した写真なので、ピントや明るさが今一つなのだが、①1900年のパリ万博記念館・グランパレー 
②1779年に作られてルイ15世に捧げられ、パリ市民革命時はルイ16世や王妃マリーアントワネット達がギロチンにかけられたコンコルド広場、その中に立つ高さ23mのオベリスクは、1831年にエジプトのモハメド・アリが贈った。(象形文字でラムゼス2世の功績を書いてある)

 ① ② 

③コンコルド広場の豪華な噴水 
④ナポレオンがフランス軍に掲げるために建立を命じ、1836年に完成した凱旋門。
高さ50m、幅45m。アーチ下では1920年以来、無名戦士の墓が作られ、慰霊の火が焚かれている。9ユーロ(1150円)払って展望台まで階段を上る事ができる。
ドゴール広場に立つ凱旋門からは、12本の道路が放射状に延び、市の区画が整備されている。
(石造りの町は、建物が建ってからではその撤去が難しい。そのためだと思うが、道路や公園、鉄道などの町造りを予め計画的に設計したと思われる)

 ③ ④ 

⑤バスを降りたシャイヨー宮殿から、セーヌ川を挟んで800m程向こうに聳えるパリのシンボル、高さ320mのエッフェル塔を臨む。1889年のパリ万博時に建造された。
第2展望台に行くには、4.5ユーロ(580円)払って自力で階段を上がるか、8ユーロ(1000円)払ってエレベーターに乗るかである。エレベーターは、途中で乗り継ぎをし、第3展望台まで行っているが、13ユーロ(1650円)かかる。
見ると結構自力で登る人たちの姿があった。
⑥傍を2階建ての観光バスが走っていた。

 ⑤ ⑥




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フランスの旅(10)

2010年04月12日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅢ」フランス・ギリシャ
《ノルマンデイ地方-モン・サン・ミッシェル》
ロワールの城を見学した後、その日はトゥールで宿泊をした。
翌朝、トゥールから291km北北西のモン・サン・ミッシェルに向ってバスは走った。
休憩を入れて4時間半かかって到着した。
先ず近郊のレストランで昼食を食べてから、世界遺産、モン・サン・ミッシェルに向った。
モン・サン・ミッシェルは、708年にノルマンディの大司教が「この島の頂上に礼拝堂を作れ」という大天使ミカエルのお告げを受け、イギリス海峡に面した小島の岩山の上に作った修道院だと言われている。
巨大な建造物なので、数百メートル手前で全員バスを降り、全景をカメラに収めてから傍の駐車場に行った。①

駐車場でバスを降り、入り口から中へ入った。
入り口の門は、砦のように堅固にできていた。②
門に続く通りの両側には、みやげ物店やレストランが並んでいた。③

 ① ② ③

やがて上へ上る狭く急な階段を260段ほど上り詰めると、④ 高さ80mの岩の上に教会が建てられていた。
その尖塔を見上げると、大天使ミカエル(フランス語ではミッシェル)の像が点のように小さく見えた。⑤
その姿は、教会の中の実物大のレプリカで見る事ができた。その3mの高さの像は、貴公子のような雰囲気の天使が悪魔の化身、龍を退治する姿だった。⑥

 ④ ⑤ ⑥

私たちは教会の中に入り、上層から中間層、そして下層と見学した。
上層には列柱に囲まれた中庭があり、その回廊は修道僧の祈りと瞑想の場所だった。⑦
60人も入れる大きな食堂があったが、近年は修道僧が十数人と激減し、別の小部屋を使っているという話だった。
世界的に有名なこの教会にも、今や後継者不足という現代的な問題が起きているらしかった。

門を出てから、モン・サン・ミッシェルを振り返って見た。⑧
こんなところに堅固な修道院を建てた当時の建築技術の素晴らしさと、教会の権力に私は改めて思いを馳せた。
ただ、「神のお告げ」にはどう考えても疑問が残る。
多分、大司教自身がこの地を見て礼拝堂の建設を思いつき、その記憶が基で夢を見たが、膨大な建築費、労力がかかる事でもあり、周りを納得させる方法として「神のお告げがあった」と言ったのではと、私は勝手に想像するのである。

 ⑦ ⑧

見学後、360kmの距離を5時間かけて首都パリに行った。
ホテルに着いた時は20時半で夕食も遅かったが、その夜は遠いモン・サン・ミッシェル迄行って来たという満足感に浸ったのだった。








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フランスの旅(9)

2010年04月10日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅢ」フランス・ギリシャ
《ロワール川周辺の城》
ロワール地方は、全長1020kmものロワール川が東西に流れ、美しい渓谷と森がおりなす景観が古くから王族や貴族たちに愛され、幾つもの城が建設されて来たところである。
パリにも近く、オルレアン、ナントといった歴史上有名な町もこの地方にある。
今でも城の幾つかが世界遺産に指定され、公開されている。
私は二十数年前にパリから1日がかりで城の幾つかを見学した事があるが、今回は「6人の女性の城」とも言われているシュノンソー城を観光し、その後、アンボワーズ城には写真撮影に立ち寄っただけだった。

シュノンソー城に着いた時に、初めて雨が振り出した。
この城は、シュール川をまたいで建てられていて、外観が白鳥に例えられる程優美な美しさで人気があるためか、入場券売り場の周辺は観光客で溢れていた。

この城は、1521年に財政出納官ボイエの妻が完成させた。
その後1547年に当時の王、アンリ2世が愛人ディアーヌ・ド・ポアチエに贈ったとされている。
王が暗殺された後、正妻カトリーヌ・ド・メディシスが愛人から取り上げて3人目の城主となった。
その後も引き続き女性が持ち主となり、今は個人の所有になっているという。
(日本では女性が経済的な所有権や取引の権利を持ったのは、第二次世界大戦後の事だと思われるが、フランスでは早くから、女性にも男性と同じ経済的な権利が与えられていた事が分かる。
日本では現在もなお、生きるための裏づけである財産権が女性にも必要だ、と言う事が十分に認識されているとは言い難いと思う。)

しかし残念なことに、丁度、外壁の一部が工事用のシートで覆われていて、今回はその美しい全景を見る事はできなかったが、内部の調度品は以前来た時とあまり変わっていなかった。ただ、地下の台所の炊事用具は、新しく充実していた。
地下は川の流れの中に建っているため、夏でも涼しい天然の冷蔵庫となり、食品の保存に適する建て方がされているのだ。
①全景 ②1階の礼拝堂 ③2階のガブリエル・デストレ居室 ④⑤地下の台所の一部
(室内はフラッシュが禁止されているので、どれも暗い写真となっている)

 ① ② ③

 ④ ⑤ 

私は以前に見学した事があるのだが、今回は遠くからの写真撮影だけだったアンボワーズ城である。⑥
ガイドブックによると、この城は15世紀末、古代ローマ時代の砦をもとにシャルル8世が造り、ルイ12世、フランソワ1世が増築した。
1519年にここで死んだレオナルド・ダ・ビンチは、建築に多大な貢献をしていて、傍の礼拝堂に埋葬されているといわれている。
1560年には、新教徒1500人がここで虐殺されたという歴史も持っているとのこと。
権力者の栄光と血で染められた歴史を見て来た城なのである。

 ⑥




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フランスの旅(8)

2010年04月09日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅢ」フランス・ギリシャ
《プールジュ》
リヨンから北西380kmのところにあるロワール地方の町プールジュまでは、3回の休憩を挟みながら約5時間のバスの旅となった。
窓外には牧草地と農地がどこまでも広がっていて、フランスがヨーロッパの農作物生産国だということを改めて確認させられた。

面白い事に、のんびりと草を食べている牛の大半は、真っ白い毛の肉牛だった。山羊や綿羊も見かけた。
本当にのどかな田園風景だったが、不思議なことに北海道で見かけるような立派な牛舎はなかった。(走るバスの窓越しに写した写真①を拡大すると、左側に白い牛がいる)
多分、気候が温暖なので、家畜を年中、草地で放し飼いにしているのかも知れないと思った。それなら経営コストが低く済み、製品を安く供給できるに違いないのだ。
日本にもフランスからチーズ他の乳製品が輸入されているが、パリのスーパーで見たカマンベールチーズは、日本の半額で売られていた。

 ①

プールジュは、ロワール川の支流のイエーヴル川に沿って発展した町で、古代ローマ時代、カエサルがガリア戦記に書いた紀元前50年頃の時代に開かれたようである。
この町では、世界遺産、サン・テチエンヌ(プールジュ)大聖堂を訪れた。
1198年に着工された大聖堂はゴシック様式で作られ、37.1mもの高さの天井と多くが13世紀に作られたという繊細なステンドグラスが見事で、誰でもが厳かな気持ちにさせられる空間だった。②③
イエスキリストを抱く聖母マリアの座像の後ろにあるステンドグラスからは、柔らかな明るい光が射しこんでいた。④

 ② ③ 


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フランスの旅(7)

2010年04月08日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅢ」フランス・ギリシャ
《リヨン》
ポン・ジュ・ガールから240km北のリヨンまでは、バスで3時間の旅だった。
途中、休憩が2回あった。
添乗員の説明では、「フランスの労働法では、バスの運転手は1日最大10時間労働と決められていて、10時間以上走らなければならない場合は、途中で運転手を交替させなければならない。
続けて4時間半乗る時は、15分と30分の休憩が必要。時々、警察の検察があって、タコメーターを調べられるので違反できない。」と言っていた。
運転手の労働条件を守る事は安全運転につながり、それは結局、乗客の命を守る事になるので、フランスのこうした厳しい規制は好ましい事だと思った。この点、日本はどうなのだろうか。長距離トラック運転手の過労による事故は多いらしいが‥。

リヨンには夕方着いた。
まずフルビエールの丘に行き、ローヌ・アルプ地方の中心都市、リヨンの町を一望した。
この町は、丘の下を流れるソーヌ川と、その向こうを流れるローヌ川に沿って発展した町だが、丘とその麓の旧市街地区には、14~15世紀に建てられたままの赤い屋根と石造りの家がぎっしりと立ち並んでいた。①
人々は数百年前作られた石作りの建物に、設備や内装を変えながら今も住み続けているのである。
ローマでは、コロッセオに今でも住んでいる人がいる。
それに引き換え日本の家は、木材と紙、藁で作られて来たので火災に弱く、今でも家は25~30年保てばいいという考え方になり、余り長期の財産にはならなかった。
近年は建築材、建築工法が進歩したので、日本でもこれからはせめて50~100年住み続ける事ができるような資産価値のある家を建て、代々そこに住むという住み方の変化が私は必要だと思っている。

フルビエールの丘には、壮大なノートルダム寺院が聳えていた。
1896年に創建されたマリアを祀る寺院であり、尖塔上の黄金に輝くマリア像はリヨンの町を見下ろしていた。
中に入ると、派手で絢爛豪華な金色の装飾が施されているのに驚かされた。無宗教の私から見ても、祈りの場でもある教会に相応しい雰囲気なのか疑問を感じた。②③

 ① ② ③

丘の麓に下りて世界遺産になっている歴史地区を散策した。
小さい児童公園があった。夕方のせいか、子どもの数より親の数が多く、しかも、日本では見かけない父親の姿が目立った。
フランスも日本と同じく近年少子化に悩んだが、国の政策によって数年前から子どもの出生率が上向きに転じた国である。そうした市民生活の一端を見た思いがした。④

歴史地区の路上に駐車している車である。車間距離は10~20cmしかないのに驚いた。どうやって抜け出すのだろうか。
車の中に長さが1.5m位しかない極小カーが横向きに止めてあった。これなら直ぐに出られると思った。やはり小型車が多いようだった。⑤
交通警察が検察をしているのも見た。

 ④ ⑤ 
 
この地区の中心が12世紀に建築が始められたというゴシック様式のサン・ジャン大聖堂だ。⑥
中に16世紀に作られ、今も時を刻み続ける立派な天文時計があった。⑦

 ⑥ ⑦







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フランスの旅(6)

2010年04月06日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅢ」フランス・ギリシャ
《ポン・ジュ・ガール》
アヴィニヨンの西方25kmにあるポン・ジュ・ガールには、世界遺産の水道橋がある。
バスで向う途中の道路沿いに、ぶどう畑が広がっていた。これから新芽が生き生きと芽吹くように、短く剪定された状態で並んでいた。この辺りの南仏は、古くからぶどう酒造りが盛んに行なわれて来たのである。①
夕食時、ポリフェノールが含まれる赤ワインを飲んでみたが、辛口で美味しかった。

ポン・ジュ・ガールに着き、バスを降りて5分ほど歩いて行くと、やがて水道橋が見えてきた。
この橋は紀元40~100年に渡り、60年間を費やして作られた全長50kmの水道の一部として造られたものだ。
丁度、ガルドン川が流れるこの地が谷状になっているために、高さ50mの巨大な水道橋を建設して上部に水を流したのだ。
当時の人達にとって水を得る事がいかに大切だったかを物語る橋だが、建築デザイン上も見るものを圧倒する美しさと当時のローマ帝国の力を1900年後の今に誇っている。

橋の手前には、春風を受けてアーモンドが満開の花を咲かせていた。
私と友人は、橋の2階部分を通ってガルドン川の向こう岸に渡り、写真を撮ってから戻って来た。
写真には橋を渡っている人が小さく写っているのだが、分るだろうか。
近づいて見ると、無数の石を一つ一つ積み上げて造り上げた事が良く分かった。上の4階部分に遠くから引いた水を通したのだ。
人類の祖先の知恵と創造力、工事に加わった多くの人たちの労苦を思って感動し、何時までも見ていたいと思った。②③④⑤

 ① ② 

 ③ ④

 ⑤

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フランスの旅(5)

2010年04月05日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅢ」フランス・ギリシャ
《アヴィニヨン》
アルルの観光を終えてから、36km離れたプロバンス地方のもう一つの町、アヴィニヨンに向った。
この町は、1309年に当時のローマ法王クレメンス5世が、ローマでの派閥争いを嫌い、ここにカトリックの法王庁を建設した町なのだった。
ガイドブックによると、その後7代、70年間に渡って世界の教会の頂点に立った町なのである。
(ご存知のように、現在は、イタリア・ローマの中のバチカン市国に法王庁がある)

自由行動時間があったので、他の人は行かなかったが、私と友人は早速、法王庁を見学した。
15000㎡ある建物は、中庭を囲んで3階まで多くの部屋が造られていて、どの部屋も天井が高く、要塞の様に強固で壮大な造りとなっていたのには驚かされた。
しかし、1789年のフランス革命時に、権力の象徴と見られて攻撃され、内部の調度品や美術品の多くが破壊、略奪されたのだという。
かって私が、パリ郊外にある世界遺産、ベルサイユ宮殿を見た時、最高権力者ルイ王族達の想像を絶する絢爛豪華な生活振りを知り、フランス革命が起きた理由の1つが理解できた様に思ったことがあった。
しかし今回、この世界遺産を見て、私は、全ての文化遺産は人類の英知を結集した遺産なのだし、人類のかけがえのない歴史の語り部なのだから、例えそれが勝利者にとっては敵の財産であったとしても、決して破壊するべきではないと思ったのだった。
革命後、アヴィニヨンはフランスに統一されたのだという。

写真①法王庁入り口 ②階段下から中庭を見る ③大広間 ④小部屋に置かれていた石棺の台座 ⑤扉上部の聖人のレリーフからは、首が全て失われていた

 ① ② ③

 ④ ⑤

次にこの町で有名なサン・ベネゼ橋(アヴィニヨンの橋)に行った。
12世紀、羊飼いベネゼが「ローヌ川に橋を架けよ。」という神のお告げを聞いて、とうとう建設した橋がこの橋の始まりなのだそうだ。
その後何度も川の増水で流されるたびに再建されたが、12世紀に崩壊した後は橋脚を4つ残してそのままになっているのである。
「♪ 橋の上で踊ろうよ踊ろうよ ♪♪ 橋の上で輪になって踊ろう ♪」の歌が聞こえて来た様に思った。⑥

 ⑥

30分程の自由時間に時計台広場を散策した。
時計台は市庁舎の屋根にあった。15世紀に作られた古い物だが、残念ながらからくり人形が動く仕掛けは見られなかった。
市庁舎の前にあるメリーゴーランドは、子ども達に大人気のようだ。⑦⑧
その隣にはオペラ座があった。⑨
アヴィニヨンは古い町だが、市民は精神的にも豊かな生活を営なんで来た町なのだった。

 ⑦ ⑧ ⑨
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フランスの旅(4)

2010年04月03日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅢ」フランス・ギリシャ
《エクス・アン・プロバンス》
バスはマルセイユの町を越え、画家セザンヌが誕生し暮らした町、エクス・アン・プロバンスに向った。
防風林には糸杉が多く、椰子、しゅろ、オリーブ、ヒバの木も多かったが、道路沿いの農園には桜の花と見間違う様な花が満開に咲いている木がずらりと植えられていた。聞くとそれはアーモンドの木だった。

途中、石灰岩でできた山々が続いた。ガイドがその1つを指して、「このセントビクトワール山がセザンヌが大好きな山でした。」といった。絵にも描いているそうだ。①
ポール・セザンヌは小説家のエミール・ゾラと親しかったが、ゾラが失敗した画家を主人公に書いた小説がセザンヌ自身だったと知り、仲たがいしたというエピソードを聞いた。

 ①、

エクス・アン・プロバンスの旧市街②で昼食を摂った後、巨大なサン・ソーブル教会を見学した。③

 ② ③

それから樹齢500年を越すプラタナスの並木が美しい古いミラボー通りを散策した。④⑤
町の名のエクスは、ラテン語の水を表す言葉だというが、ミラボー通りでも美しい噴水が迎えてくれた。⑥
2階の喫茶店の窓に面白い飾りを見つけた。⑦

 ④ ⑤ 

 ⑥ ⑦

《アルル》
次にバスでこの町から80km離れたアルルの町へ向った。
アルルは、カエサルが築いた植民都市だが、古代ローマ時代に作られた円形闘技場が保存されている。⑧
ローマの闘技場とは異なり、娯楽として牛を戦わせたが殺すことは無かったという。中世には要塞に使われたり、その後は内部に人の住む家が立ち並び、城壁のようにも使われたという。

またアルルは、画家ゴッホが愛した町でもある。彼はローヌ川の支流に作られた跳ね橋を気に入り、描いている。バスで当時のように復元されている跳ね橋を訪れたが、絵が描かれた看板と跳ね橋がぽつんとあるだけののどかさだった。ゴッホは実際に見える色とは全く違う色を使い、独創的に描いたのではないだろうか。アルルの明るい陽光が、ゴッホに情熱的な色使いをさせたのかも知れない。⑨
町の古代劇場の傍に、左耳を削いだゴッホのレリーフがあった。⑩
町の一角に、ゴッホが好きで描いたという花壇も保存されていた。そこには色とりどりの花が植えられていた。⑪
その傍の土産屋で、私はゴッホの絵の今年のカレンダーを2つ買った。

 ⑧ ⑨

 ⑪
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フランスの旅(3)

2010年04月02日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅢ」フランス・ギリシャ
《カンヌ》
2日目は6時半に起床して、洗面、食事、荷物整理を済ませ、友人とホテルの近所を散策した。
傍に食料品店があり、ホテルで出されたクロワッサンやチョコレートパンなどが、ずらりとショーケースに並べられていた。
隅ではおじさんが、オーブンでチキンの丸焼きを作っていた。「メイ、アイ、テイク、ユアピクチャー?」と聞くと、仕事中の手を止めてニコニコとポーズを取ってくれた。①

  ①

《ニース》
8時にスーツケースをバスに積み込み、昨日飛行機から降りたニースに向った。
晴れた青空の下に見える地中海沿岸の自然と町の景色は、正に南国そのものだった。
年中、最低気温が10度以上だという町の街路樹には背の高い椰子の木が並び、プロムナード・デ・ザングレと呼ばれる砂浜ではすでに遊泳を楽しむ人の姿もあって驚いた。② 海水温は何度くらいなのだろうか。
ふと遥か東、遠方に目を移すと、隣国イタリアとの国境に雪を抱いたアルプス連山が神々しく輝いていた。
海岸に面した目抜き通りには、高級ホテルがずらりと並んでいた。③

  ② ③

私たちはバスから降りて、海岸とニースの市場を散策した。
市場には各種の果物や野菜、オリーブ、ジャム、蜂蜜などが豊かに並べられ、賑わっていた。
春休みなのか、子ども達の姿もあった。
市場の店員さんにカメラを向けると、気さくに応じてくれた。「ボンジュール」などと覚えたてのちょとした会話を交し合うのが楽しかった。
④オリーブの専門店 ⑤山積みの乾燥トマトが売られていた ⑥ポーズをとる花屋のおじさん

  ④ ⑤ 

  ⑥

画家シャガールやマティスが好んだコートダジュールの町に別れを告げて、隣のプロバンスに向った。

 
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フランスの旅(2)

2010年04月01日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅢ」フランス・ギリシャ
《我が家からフランスへ》
30日、フランスから無事に帰国したが、今回はパソコンが不調で、旅の記録が思うようにできないかも知れない事をお断りしておきたい。

出発日の22日早朝、外を見たら、道路に7~8cmの積雪があった。
その状態ではスーツケースが雪に埋まり、引っ張れないので、歩いて数分で行ける距離をタクシーを呼んでJR駅迄行き、新千歳空港で友人と合流。
旅行会社の担当者から成田までのチケットを受け取り、8時10分発のJAL成田行きの飛行機に乗った。

成田では11時20分に南ウイングの○カウンターで添乗員さんに会い、ルフトハンザ航空のミュンヘン行きと、さらにスイスのニースまでの乗り継ぎチケットを受け取った。
ルフトハンザはANAと共同運航しているらしく、ANAカードを出してポイントを入れてもらった。
その後、搭乗の安全検査を受け、13時20分発の機上の人となった。

今回は昼の飛行だったので、離陸後12時間25分、広大なロシア上空を通って地球の回転と逆方向に飛ぶので、何処まで行っても日が暮れず、はるか下の景色をたっぷりと楽しむ事ができた。
ロシアの大地は、まだ雪で閉ざされ、幻想的な雰囲気を漂わせていた。(写真①②)
(かって東西冷戦時代には、日本からヨーロッパに行くには、アラスカのアンカレッジ経由か、南回り経由で行くしかなかった。今ではロシア上空を飛行できるようになり、しかも昼間の明るい時間に飛ぶ事ができるのはとても感慨深いものがある)

 ① ②

ミュンヘン時間17時45分に着陸。ようやく夕闇が降りて来たところだった。
そこから中型の飛行機に乗り換え、20時50分発でフランスのニースに向った。
1時間25分飛んで地中海に面したニースの町の空港に到着した。
スーツケースを受け取ってバスに乗り、ホテルのある隣町カンヌに着いた時には既に23時になっていた。
(カンヌは、毎年カンヌ国際映画祭が開催される町である。若い頃の私はアランドロンが好きだったが、彼はかってこの町でスカウトされたという。彼の人間関係を知る内に、私は次第に嫌いになったのだが)

フランスは日本との時差がマイナス8時間なので、この日は1日が24+8=32時間という長さとなり、やはり疲れた。
家を出てからカンヌのホテルまで20時間弱かかったが、その内、3つの航空機に乗っていた時間は、合わせて16時間を越えた。
ホテルで汗を流し、明日着る衣類と手荷物を整えてからベッドに入った時には、翌日の1時を過ぎていた。

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フランスの旅 (1)

2010年03月19日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅢ」フランス・ギリシャ
22~30日の予定で、フランスに行ってくる。
私にとっては3度目のフランスだが、今まではパリと古城が多いロワール地方周辺の旅だったので、今回のコース(写真)を歩いて見たくて、昨年、オーストラリアに同行した友人と一緒に出かけることにしたのだ。

今回のツアー主催会社は東京の会社だが、直前になって会社から、飛行機の座席が100席も予約オーバーが生じ、使う飛行機と経路が変わった、という連絡が入った。
結局、私たちは新千歳→成田→中国上海→ドイツ・ミュンヘン→フランス・ニースと乗り換えて行き、復路は観光最後のパリから→ミュンヘン→上海→成田とこの逆を辿る事となった。
旅行社は、出発の3日前までキャンセルを無料で受け付けるそうなので、多分キャンセルする人も出るのだろう。

結果的には、当初の予定よりパリでの帰国便が遅くなったので、半日、パリの自由行動時間が増えた。
しかし、成田到着時間が夜になったため、私たちは北海道に帰る便がなくなって成田で後泊せざるを得なくなった。
予め旅行社には、北海道から東京までの往復チケットを頼んでおいたので、交渉したら、ホテルを旅行社が手配、負担してくれる事になった。後泊が必要になったのは旅行社の責任なのだから、当然だ。

今回は治安の悪い国に行くので、地味な服装で行くことにしている。
暫く留守にするけど、無事、帰国したらブログで報告するので、また宜しく。



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《4》 研修で見たフランス

2007年02月23日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅢ」フランス・ギリシャ
 当時、私が住んでいた町は、毎年、町民を2人ずつ、自己負担は少額で、残りを町が助成し、海外研修に派遣していました。(その年は、周辺町村から派遣された17人が集まり、グループを作って研修に出掛けました) これに私も応募し、11月の中旬にフランス、イギリス、ドイツ、スイス、オランダで、2週間研修する貴重な機会を得たのです。

 フランスのルーブル美術館では、日曜日の観覧が無料である事、また、世界的に貴重な美術品の大半が、ロープ一本張られることなく展示されていた事に驚きました。(ただし、何かあれば一斉に全部の扉が自動的に閉鎖される仕掛けになっていました。他の美術館の事情は解りませんでした)
 また、凱旋門とエッフェル塔の上に登って、パリの放射状の街作りを確認しました。
 
 フランスの学校事情はガイドの説明で知っただけです。
 当時の高校では、教師は生活指導教師と教科指導教師に別れていました。クラス担任は生活指導の責任が済めば帰宅します。
 日本と違って学校で部活動はありませんから、教師に指導の負担もありません。部活動は全て、社会教育として別な施設で指導されていました。
 ガイドの話では、フランスの文部省は、給料を高くするから全員の教師が、生活指導も教科指導もやって欲しいと教員組合に対して提案したのですが、組合は反対しているそうです。その後どうなったのかは知りませんが、考えさせられる話しでした。

 公的な学校の生徒達には日本の様な制服は無く、思い思いの服装と髪型、化粧やピアスも自由な様子で通学していました。ガイドの話では、極端にふさわしくない生徒には注意するとの事でした。

 夕方、ある社会教育施設を見学しました。便利の良い町の中心にあるビルの中でしたが、一般人に混じって若い学生らしき人も見えました。当時のパリでは柔道が人気だということでした。私達は、丁度活動していたエアロビクスを見学しました。
 
 パリ郊外のベルサイユ宮殿の見学では、余りに豪華な贅の限りを尽くした建物に、王侯貴族達の生活振りが想像できました。私は、だからやっぱり、必然的に、フランス革命が起きたのだろうと思いました。
 革命当時のフランスでは、広大な土地や建物を持っていた貴族や王侯達は納税を免れ、苦しい労働に明け暮れていた多くの農民と商工業者だけに税が課せられていたといいます。その税金も農作物が不作続きでも安くはならなかったのですから。

 その夜、夕食を終えてから仲間3人(一人は男性)で、シャンソンを聴きながらお酒が飲める「シャンソニエ」に行く事にしました。そこに行きたいと言い出したのは、シャンソンが好きな私でした。ガイドブックの地図を見ると、昼間行ったノートルダム大聖堂の近くでした。
 ある建物にその店の入り口を見つけて入って行くと、階段を下りた地下に案内されたのです。そこは天井がむき出しのコンクリートで、低いドーム状に作られている30㎡位の狭い場所でした。粗末な木製の椅子と机がわずかな数置かれていて、私達は後方の席に案内されました。
 ウエイターが来て、壁の落書きを示し、ここはフランス革命の時の牢獄で、落書きは囚われ人が爪でひっかいて残したものだとそれとなく言いました。女性と男性の歌手が歌った何曲かのシャンソンを聞いてから、時計が10時を回ったので出ることにしました。
 すると席を立った私達にウエートレスの様な女性が「ちょっとした展示物があるけど見ませんか」と声を掛けて来たのです。
 折角来たのだからと、私達が付いて行くと、裸電球で照らされた暗い通路の突き当たりに10㎡位の部屋がありました。そこには裸電球の明かりの下に、革命当時、実際に使われたという色々な武器や道具が並べられていました。ギロチン台の前では「切り落とされた首は、この下の籠にごろんと落ちたのさ」と恐ろしい顔を作り、ゼスチャーをしながら説明します。また、十字軍の遠征時に妻に与えたという鉄製の貞操帯の前では、「ちゃんと合い鍵があったのよ」などと言います。
 気分が悪くなったので三人で顔を見合わせて出る事にしました。
 その時初めて気づいたのですが、入り口の扉はロックされていて、男の人がその前に立っているのです。すると女性は「金を払わないとここから出さないよ」と低い声で私達に言ったのです。私達はすっかり動揺し、慌ててそれぞれの財布からお金を渡しました。いくら渡したのか思い出そうとしても思い出せないのです。
 やっと解放されて地上に出た私達が見たのは、月明かりの下で異様な威圧感を持ったノートルダム大聖堂の姿でした。心臓をどきどきさせながらタクシーを拾い、勇んでホテルに戻りました。
私が初めて、見知らぬ外国で個人の夜間外出の怖さを知った日でした。
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