韓国は4回目だが、今回はまだ行っていない仁川、水原、扶余、鎮安、全州、光州、南原など、韓国と中国を挟む海・黄海沿いの西側を巡る旅になる。
百済時代や高句麗時代などの古い遺跡がどの位残っているのか、そして、古代から中世、近現代まで、戦争と植民地時代を含め、日本との様々な交流の跡を見て来たいなと思っている。
丁度、紅葉のシーズンでもあるらしいので、韓国の歴史スポットを美しい自然の中で発見してくる積りだ。
帰国は11月2日。
それまでブログを休みます。
5月6日、初めてさつま芋の苗を隣町まで行って5本買い、畑に植えつけて見た。
そろそろ霜が降りる時期になったので、植えてから5ヶ月半後の昨夕、友人達と暗くなった畑に行き、懐中電灯の明かりの下で掘った。
じゃが芋は日照不足と低温で全く駄目だったので、温かい地方で育つさつま芋はなお更のこと、未熟な芋が土の中から出てくるに違いないと誰もが予想して、恐る恐るつるを引っ張り、スコップで掘って見た。
何と30cmもある大きくて太い芋が10本も出て来た。
全く思いがけない事だったので、3人とも暗い畑で歓声を上げ、小躍りしてしまった。
3人で分けて持ち帰ったが、写真は私が貰った芋だ。
5日位乾燥させてから、まず茹でて食べてみたい。
それにしても今年のような気候の中で、ここ北国で、どうしてさつま芋がこんなに育ったのだろうか。
二重に掛けたビニールが効いたのかも知れないな。
今日、農業をやって来た伯母に1本持っていったら、北海道で取れるとは思わなかったと目を丸くして驚いていた。
これだから畑仕事は面白い!来年も頑張ろうという気持ちが湧いて来た。
彼は日本の文字については、
「西洋の文字はやさしいけれど、日本の子どもは四十八種のかなを習い、その後五百の漢字を墨と筆で書いて頭に叩き込む。アルファベットを日本でも取り入れたら、どんなに国語の授業が楽になることか」と。
また「逆さまの国」のところでは、「日本では水平に行を連ねて書くのではなく、垂直方向に書かれ、印刷されたものを、右から左に向って読む。」と、書いている。
その後、ローマ字を日本の文字にすることを考えた人もいたらしい。
私は、漢字というのは象形文字から発展してきて、1字の中に物の存在や様子、人間の感情まであらわす事ができる凄い力を持った文字だと思う。
だから今、人口13億人になろうとしている中国で、漢字の簡略化を進めていることを、私は一面では理解できても、せめて常用漢字は簡略化して欲しくないと思う。
3月に行った台湾でも、漢字を守ろうとしている事を知り、嬉しかった。
先月行った東ヨーロッパでは、どの国も幾多の戦争を乗り越えて来た歴史があるが、言語や文字は、民族の文化であり、存在そのものだと思った。
その意味でも私は、今後も日本語と漢字が大切に受け継がれて行く事を願いたいと思う。
また、植物学者の彼は、実に細かく日本の植物分布や農業、果樹栽培を観察して記録に残している。
次は「庭について」の中の一文である。
「日本の庭は、いかなるヨーロッパの庭とも本質的に趣を異にする。」
「ヒノキは日本の庭で大変重きをなす木であるが、庭では自然とは全く別の習性が与えられ、側枝がクッションのような形になるよう剪定されている。」
「松の木などは、今年出た新しい葉だけを残して後は全て切り落としてしまう。凝り性にも程があるというもので、こんな木はまるで散髪屋にでも行ったような顔をしている。」
「植物生理学の立場からすると、こんなお化粧ごっこは止めにするべきである。」
とまあ、日本人が樹木に施す自然とはかけ離れた剪定に驚き、ユーモアを交えながら苦言を呈している。
果樹の剪定は明治期に欧米から伝わった技術らしいが、庭木を剪定したり、盆栽にして楽しむのは日本人特有だと聞く。
私は、西洋やインドの公園で動物の姿に刈り込んでトピアリー仕立てにした木を見た事があるが、モーリッシュは見てなかったのだろうか。
私も生垣の剪定ならまだ判るが、余りにも極端に散髪された木には、違和感を感じる。
さらに彼の観察は続く。
「日本人は自然を愛するのに大変熱心である。彼らの熱狂振りは世界中に知れ渡っている。
彼らは例え一握の砂ほどの土地しかなくても、猫の額ほどの土地すら持たない場合でも、小さくてかわいらしい盆栽の樹木や岩や池や橋、石灯籠を陶器の盆に詰め込んで、庭のミニチュアを作る。」
その結果彼は、こうした日本人に特有な庭作りの原因を、小さくて狭い家、狭い庭がなせる事だと理解したようだ。
また、全ての植物には命が宿っているとして敬う日本人の自然観にも、その原因を見ていたようだ。
まだまだこの本には、研究熱心で、ジャーナリズムの精神に溢れた彼の異国日本に対する観察が続く。
私はこの本を読んで、関東大震災、伊勢神宮、宮中行事、サハリン紀行、富士登山などの記述から、当時の状況を細かく知る事ができたし、異国の彼の目を通して当時の生き生きとした日本人の生き様を知った。
また後書きを読んで、彼の偉大さも改めて知らされた。
今は、大変興味が持てる良い本に出会った事を亡きモーリッシュに感謝している。
「贈り物」
彼は繰り返し日本で体験したプレゼントについて、次のように述べている。
「日本人の贈り物の渡し方は洗練されている。人を訪ねても直ぐに贈り物の事を言わない。最後の最後になってから、どうでも良いことのように言う。
立派で高価な品物でも、つまらないものをお渡しする無礼をお許し下さいと言って詫びる。小奇麗な包装の右側にはのしと呼ばれる紙片がつけられ、大したものではないという事を伝えるのに粗品と書き入れる。」
「日本では色々な機会に贈り物を貰う。学生が研究室に来て帰る時に、さもホンのついでであるかのように贈り物を渡される。それは故郷の絵葉書、漆の箱、日本人形、風呂敷、もぎたての柿が入った小箱、有名な魚の燻製などである」と書いている。
観察の仕方が細かい事に驚くが、日本人が一寸した機会にするこのような贈り物の習慣を、彼は「感謝の気持ちを表す行為」と結論づけている。私も彼の見方に同感する。
また、私が思うには日本人の贈り物の仕方も、戦後、日本にアメリカ文化が入って来てから大分変わったと思う。
訪ねた人は、贈り物を早めに渡す。貰った側もその場で直ぐ開き、一緒に喜んだり食べたりするようになった。
そして最近は、送り手が「粗末なものですが‥」等と言ういい方をする事は、少ないのではないだろうか。
日本では、『粗末なもの』だと言って差し上げるのは、贈り物に対して相手に負担感を持って欲しくないと言う思いやりの心なのだが、西洋人の考え方に立つと、粗末だと判っているものを差し上げる事は、相手に大変失礼な事だ、となるのだ。
それにしても、日本人には贈り物癖があると言ってもいい位、現代は一層贈り物の機会が増えた。
古くからの歳暮、中元などの他、、各種の祝い事、果ては外国の習慣に同調した誕生日、クリスマス、バレンタインデー、結婚記念日などだ。
数え上げたら年中、何がしかの贈り物をしたり貰ったりしているが、それは今では人間関係を良くする潤滑油なのかも知れないと私は思う。
(実際にはバレンタインデーのように、商業者の販売戦略から始まり、あっという間に日本の文化となった不思議な事も多いのだが)
「国民教育」の章には、次のように書いてある。
彼が勤めた仙台の東北帝国大学の生物実験室の隣に、大きな国民学校があった。部屋からは手に取るように校庭で遊ぶ子ども達の姿が見られたらしい。
「子ども達は、1時間に1回、校庭に出て来て、のびのび身体を動かす。そしてこの事は1日に何度も繰り返される。だから子ども達は学校嫌いにならないのだ。」
「子ども達には、落ち着きは全く見られない。日本の大人の見事な落ち着き振りは、年のせいではなくて克己心を叩き込まれたためなのだ。」と、彼は結論づけている。
26年も前の事になるが、私は1度、イギリスの小学校を見学した事がある。
その時、授業中ずっと、小学校低学年の子ども達が全く私語をしない事が不思議だった。
(その小学校は、ロンドンの低所得者が多い町にあった。1クラスに生徒十数人、教師1人、助手1人がいた。
生徒は自分の学習計画に基づいた勉強をするので、1人1人バラバラな科目を黙々と静かに勉強している。教師は全体に黒板前で説明をすることは1度も無く、子どもが小声で質問したら、答えを言わずに勉強方法を教えていた。)
私は、学校生活もそうだが、多分小さい頃から日曜日に行く教会のミサで、必要な時はじっとする教育を受けて来て、それが習慣となって身についているのだろうし、また家庭生活は大人が中心で、子どもの我侭な行動は厳しくしつけるのではと考えたのだが、本当はどうなのだろうか。
それに比べて日本の子ども達の落ち着きの無さは、彼をきっと驚かせたのだろうし、彼と出会う紳士達の振る舞いとの格差が不思議だったのだろう。
私も帰国後、子どもの父母参観で小学校に行った時、落ち着きの無い子ども達の姿が改めて強く目に写った。またそれよりももっと衝撃的だったのは、授業中教室の後ろに立っている母親達の遠慮が無い私語だった。私語をしていい時かどうかの判断ができない親に、落ち着いた子どもを育てる事は期待できないかも知れない。
「日本の大学は、ヨーロッパやアメリカの大学と十分張り合う事ができる。
現在5つの国立大学があるが、6つめの大学が朝鮮の首都ソウルに建設中である。」と当時の状況を書いている。
さらに「日本の大学の目的は、天皇が布告し、『国家にとって有益な学問の理論と実践を教え、各分野で独創的な研究を推し進める事、さらに学生の個性を発展させ、国家にとって健全な思想を育成すること』だ。」と書いている。
それに続いて、「教える側の自由はあるが、国の始まりについて紀元前660年からという事に批判的な意見を述べる事ができない奇妙な制約がある。」と言っている。
そして、「教わる側の自由は無いに等しい。」とも。
また、面白いことも見抜いている。
それは、「残念な事に眼鏡をかけている学生が多いが、中にはインテリ、学者を装うために眼鏡をかけている者がいることも確かだ。」と。
続けて、「こんなに近視が多いのは、小学校の頃から小さな込み入った文字を読み書きさせられるからだ。」と結論付けている。
確かに日本人は近視の人が多い。かって外国人は、カメラを持ち眼鏡をかけた人は日本人だ、と思ったそうである。
でも、彼が言うように文字(漢字)が原因なのだろうか。私は当時の照明や姿勢も大きいと思っているのだが、いかがだろうか。
彼が書いている西洋と逆な日本の生活習慣についてもう少し‥‥
日本では帰宅すると家に上がる前に靴を脱ぐが、西洋では家の中で初めて靴を脱ぐ。
その理由として彼が考えた事は、日本には家具がなく、畳の上で食べ、書き、寝るから、畳の床は西洋の机の上と同じだという結論なのだ。
もう少し踏み込んで彼が考えたら、気候風土、床材の違いに気づいたのではと、私は残念に思う。
雨が多い日本では玄関で汚れた履物を脱いでから、湿気や汚れに弱い畳の部屋(西洋の床は、木か石やタイル、レンガ、モルタルなどで極めて丈夫にできている)に入るのが合理的だと判ったはずだ。
さらに、湿度が高い日本でずっと靴を履いていたら、足が蒸れて不潔になりやすい。(だから和服の時は、下駄やぞうりを愛用したのだと思う)
西洋では湿度が低いし、弾力がある温かい畳と違い、床は硬い材質なので、靴をはかなかったら足が冷えるし、歩くときの衝撃がじかに脳に伝わるから、家の中でも履いて来たのだと私は思う。(気温が高いエジプトや南欧では、夏の間、日本の草履にそっくりなスリッパを履いて来たみたいだが)
「女性の扱い」の章には、次のように書いてある。
奇妙な事に、日本の男性は女性に服従を求める。
娘は父に従い、妻は夫に従う。寡婦になったら息子に従う。
彼女は人に命令する事ができないし権力も、家族から尊敬されることもない。客が来たら食卓に一緒に座らず、給仕だけする。
そして常に、女は男より下なのだと思い込まされる。
夫が妻に好意を感じなくなって別の美人の所へ行ってしまっても、じっと耐え忍ぶ必要があるのだろうか。
これは西洋人には理解できない事だ、と言っているのだ。
きっとこの時代の日本女性の家庭内、社会における立場を見た彼は、さぞかし驚いたのだろうと推察できる。
しかし、これも残念なことに、彼は当時の家父長制家族制度のことには目を向けていないのだ。
嫁した女性は夫の家の嫁であり、その家の跡継ぎとなる男子を産み、その家の家風を受け継ぐ事だけが妻の存在価値だったことには気づいていないのだ。
特別な場合を除き、家や夫の遺産の相続権も子どもの親権すら持っていなかった事を知ったら、彼は何と思っただろうか。
そしてこうした女性への人権無視がなくなるのに、法律ではさらに20年以上後、第2次世界大戦終結後の新憲法成立、民法改正を待たなければならなかった。
しかし、例え法律が変わっても、社会的な習慣が変わるのには可なりの時間が必要である。
敗戦から64年後の今日でも、日本の人々の女性観はまだまだ遅れている面が多い事を、彼が知ったらどう思うだろうか。
今回、婚姻時の選択的夫婦別制を含む民法の懸案事項を、法務大臣が来春成立させたいと言った事に対して、民主党の総理大臣さえ時期尚早だと暗に反対している事に、私は落胆している。
この本のタイトルは「植物学者モーリッシュの大正日本観察記」だが、私は前から比較文化論に関心があったので、図書館で見つけたのを借りて来た。
ハンス・モーリッシュは1856年、当時のオーストリア帝国(現在のチェコ共和国)に生まれ、ウイーン大学を卒業後、1909年、ウイーン大学の植物生理学主任教授となった。
1922(大正11)年9月から1925(大正14)年3月までの2年半、東北帝国大学に招かれて日本の学生達を指導した。
その間、日本のあちこちを旅行し、自然や気候風土を体験し、植生を調べ、当時の人々と交流しているが、その中で西洋と違う日本の独自な文化に大いなる関心を抱いたのだった。
そして帰国の1年半後にこの本を出版している。
帰国後はウイーン大学総長も務め、1937年81歳で死去している。
この本は、日本語に翻訳されて2003年に草思社から出版された。421ページの分厚い本である。
まだ半分しか読んでいないが、仕事の傍ら、当時の日本の社会、風俗、芸術などを細かく鋭く観察し、日本人の生活観、思想を理解しようとした大作である。
確か前に朝日新聞でこどもの日の特集記事が載っていた中に、「日本の国ほど子どもを大切に見守り、育てている国は無い。」というような事を、昔、言った外国人がいると書かれていたが、その人がこのモーリッシュだったのだ。
先ず、「逆さまの国」に書いてある事を紹介したい。
カンナの刃のつけ方、使い方が西洋と逆。のこぎりの刃先が後ろに向いているので、自分の身に引き寄せて仕事をするのが日本人だ。鉛筆の芯を研ぐ時、刃先を向こうに向けて持って削るのも逆だ。濡れた傘を閉じたら握りを下にしておくのが逆。売り子はつりの計算を引き算するが、西洋では足し算で出す。
手招きの仕方も逆だ、と続くが、日本の大工は先に屋根を仕上げてから壁や中を作るが、西洋では土台を作ったらその上に壁を積み上げて、最後に屋根をのせる、という下りについては、私は日本の材木と西洋の石材やレンガとの違いに触れていないのが不思議だった。建材の違い、降雨量の違いを見れば、なぜ逆なのかが判るはずなのにと思った。
日本の酒飲みを「左利き」と言うように、日本人は酒盃は左手で持つし、靴を履く時は左足から履く、と彼が言うのに至っては、私は彼の思い込みだと思うがどうだろうか。
また、日記を書く時、日本人は年→月→日と書くが、西洋では反対である。
手紙の宛名書きも、日本では町名→通り名→番地→受取人名だが、西洋は逆だ。
客をもてなす時、日本では1番上等な床の間の近くに主賓が座り、その家の主人は反対側の目立たない場所に座る。西洋では最も良い席に主人か主婦が座り、その隣に客を座らせるというように、実に細かく観察して彼なりの結論を出している。
今で言えば、彼は社会学者の目を持っていたのだと思う。
前に「ボスニアヘルツェゴビナ」が「クロアチア」の領土内に一部入り込んでいる話をしたが、この日は朝「ドブロヴニク」を出発して海岸線の道から内陸へと進路を変え、別の国境から「ボスニアヘルツェゴビナ」の古都「モスタル」に向った。
「ディナルアルプス」を越えると緑豊かな平野が表れて、広い葡萄畑も見られ、それまでの光景と変わった。
約2時間半走って「モスタル」に着いた。
「ボスニアヘルツェゴビナ」は、面積51,100k㎡で「クロアチア」より少し狭い。首都は「サラエボ」。
人口も438万人と少しだけ少ないが、ボスニア語、セルビア語、クロアチア語が公用語であり、イスラム教徒45%、セルビア正教徒30%、カトリック教徒20%と複雑である。
今までの3つの国と違うのは、オスマントルコに支配された時に正教徒とカトリック教徒以外の多くの人がイスラム教に改宗し、1878年にはオーストリア・ハンガリー領、第1次世界大戦後はユーゴスラビア王国領となったのだが、その後もずっとトルコ風の生活をし続けていることだという。
2005年に世界遺産に指定された古都「モスタル」は、町の真ん中を「ネレトヴァ川」が流れる渓谷にあった。
駐車場から歩く途中の教会や家の壁、古都内部にも、沢山生々しい銃弾の跡があった。①
①
オールドバザールの真ん中に作られていたオスマン・トルコ時代の石橋は、1993年からの「ボツニア」内戦時にクロアチア人達に破壊された。
この時、長さ40mの橋の両側に分かれて住んでいる西側のクロアチア人と東側のムスリム(ボスニア)人が血みどろの戦いを繰り広げたのだ。
1995年、NATOが仲介して戦争が終結した後、ユネスコ、世界銀行、民間の寄付によって1200万ユーロという巨費により2004年に修復された。復元記念式典にはチャールズ皇太子他の来賓が多数出席して行なわれたという。
今、橋を西側から東側に渡ると、急に軒先が低いトルコ風のみやげ物屋が立ち並ぶ。
そしてその手前に真新しい木造の歴史資料館があった。覗くと内戦時の悲惨な写真や石橋の復元記念式典の写真が展示されていた。
石橋の中央の欄干では、水泳パンツ姿の男性が2人立っていて、下の川に飛び込むパフォーマンスをしようとしていた。1人がポケットから袋を出して群がる観光客からチップを集めだした。私は通り過ぎたが、振り向くと1人が飛び込んだところだった。
調べたら水面まで24m以上あるこの飛び込みは橋ができた当時からの伝統で、毎年夏には大会も開かれているという。しかし水が冷たいため、危険であるらしい。
②は西側の川岸に下りて写した石橋。イスラム寺院の祈りの集まりを報せる尖塔が見える。③は東側に渡ってから人が群がる橋を写す。
② ③
④⑤は橋の東側、観光客が溢れている旧市街の光景。⑥は橋を再建する時に先ず作って見たという小さな仮橋と西側の町の光景。
⑦は昼食に出たひき肉のトルコ風ボスニア料理チェバブチッチ。少し油っぽく、胸焼けした。
④ ⑤
⑥⑦
「ボスニアヘルツェゴビナ」を訪れたことで、私は宗教、民族による対立がもたらす悲惨な結果と、互いに違いを認め合い共生して暮らす新しい可能性を見る事ができた。それゆえにこの地は、後世の人々に残すべき世界遺産として認められたのだろう。
最後になるが、「クロアチア」中部の自然遺産・プリトビツェ国立公園の記事は割愛し、これで(1)~(8)までと続いたバルカン地方の旅を終わりたい。
実は最初、今回の報告記事は凄く簡単なものにしたいと思ったのだが、書いている内に、時間をかけて見て来たものの内容が、自分にとって良く判るものにしておきたいと考え直した。そのため、少ししつこい文になってしまった。
まとめた結果、陸続きで他国と国境を接し、「アドリア海」に面するこの地域は、古くから覇権争いが絶えず、どの国にも複雑な歴史がある事がわかった。
それだけにその歴史が残した多くの遺産は、世界中の未来に向う人々にとって極めて貴重なのだと思った。
拙文を飽きずに読んでくださった皆さんが何を感じたのか気になるが、最後までのお付き合い、ありがとうございました。
クロアチアの最南端の町、ドブロヴニクの観光を昼で終え、食事をしてからバスに乗って南の隣国モンテネグロに足を伸ばした。世界遺産コトルを観光するためだ。
1時に出発したバスは40分で国境に着いた。出国と入国の手続きに20分かかった。
実は入国の際、運転手はミネラルウオーターを1本、管理員に渡していた。賄ろだという。渡さなければいじ悪されて、なかなか通してくれないらしい。こんな光景は初めて見た。
入国後間もなく、運転手の休憩と私たちのトイレタイムのために小さな店に入った。
そこには女性のトイレと洗面所は1つしかなかったが、先に使っていたスカーフを被った数人の女性達がなかなか洗面所から出て来ないのだ。私たちは仕方なく15分くらいも待った。
彼女達が出て行った後の洗面所やトイレは、水だらけだった。
後で知ったのだが、彼女達はイスラム教の信者で、お祈りをするに当たって口、耳、鼻など穴を全て清めていたらしいのだ。
外で敷物を敷いて祈っていたと言う。ある人が「何処の人か。」と聞いたら、マケドニアから来たと言っていたらしい。
こんな場面に出会ったも初めてだった。
モンテネグロの正式名はモンテネグロ、ガイドの説明によると国名は「黒い山」という意味なのだとか。
首都はボドゴリツァ、面積は福島県とほぼ同じ13,812㎡と小さいが、海岸線が長く、アドリア海の自然港として重要な位置を占め、工芸と商業が盛んで、古くから造船業も盛んであった。
14世紀に作られた造船所では、今でも世界中の船を安く修理したり、海運業を請け負ったりしているという。
人口は僅か62万人であり、モンテネグロ語、セルビア語、ボスニア語が公用語だ。
モンテネグロは第1次世界大戦でオーストリア、ハンガリー帝国に占領されたが、1918年にはセルビア、クロアチア、スロヴェニア王国に取り込まれた。後にユーゴスラビア王国の一部となったが、1997年頃から分離独立の動きが強まった。
2006年に行なわれた国民投票では欧州連合の要求通り、投票率86.5%、賛成55.5%という高結果でEUへの加盟を果たし、同時にセルビアから独立し、国連にも192番目の国として加盟、通貨をユーロとした。
しかし、ガイドによれば、現在、失業率が30%もあり、平均月収は270ユーロ(日本円では36000円程度)と貧しい国のようだ。
相変わらず石灰岩の山脈が海にせり出すように続いたが、やがてバスは深く入り込んだ入り江の3/4に当たる距離をぐるりと40分も回ってコトルに着いた。
コトルは昔ローマの属州だったが、535年ユスティニアヌス1世の時に要塞都市として建築されたらしい。
その後、サラセン人の略奪にあったり、ブルガリアに占領されたりしたが、1003年セルビアに併合された。その後もモンテネグロの一部として宗主国が次々と変わった。
1979年の地震により、町は大きく損傷したが、ユネスコの援助で復旧した町である。
城壁に囲まれた小さい古都・コトルは、高く険しい山の中腹にも城壁を巡らせているという特徴があり、規模は比べようも無いが、それは中国の万里の長城に似ていた。① (写真を拡大したら、山の城壁がわかるかも知れない)
他国の支配を受けながらも自由都市として認められて来た町で、門から城内に入る人は税金を払わなければならなかったそうである。②
広場に山を背負って古い教会があった。③
① ② ③
城内の小さなスーパーでビールとミネラルウオーターを買ったが、クロアチアより1~2割ほど物価が安いと感じた。
帰りは入り江を来た方向と反対方向に1/4の距離を走り、入り江を挟んだ南北の岸が最も接近しているレペタニからバスごとフェリーに乗って対岸のカメナリに渡った。7~8分しかかからなかった。
しかし、また国境の2つの事務所で手続きをしてドブロヴニクのホテルに着いたら8時になっていた。
今思えば、この半日のオプショナルツアーは、モンテネグロが他国に翻弄させられた長い歴史と、現在の姿に少しだけ触れることができた胸に残る旅となった。
昼食後、スプリットから200km南にあるクロアチア最南端の町、ドブロヴニクまではバスで4時間かかった。
左手にずっと続いている石灰岩のディナルアルプスは、いよいよ海岸近くに迫って来て、クロアチアが先細りした地形になっている事が良くわかった。
実は行って見て初めて知ったことだったが、海岸線の道路をバスで南下している途中、突如ボスニア・ヘルツェゴビナの国境が現れたのだ。入国手続き後、僅か10分走るとまた国境が現れて、再びクロアチアの国になったのである。
ガイドの説明では、海岸線を持たないボスニアがネウムという町がある9kmの海岸線を領土として買い取ったというのである。
調べたらかってドブロヴニクの領土だったネウムがオスマントルコに占領されていた17世紀、オーストリアが奪い返した時に、ヴェネチアと対立していたドブロヴニクはオスマントルコに返還を要求しなかったという歴史的な因縁があるらしいのだ。
しかし、現実にはクロアチアはネウムのために飛び地になっているわけで、私には初めての体験だった。
ともかくやっとドブロヴニクに着き、ホテルに入ったら、日が暮れていた。
翌日も良く晴れていた。
朝食後早速、「アドリア海の真珠」とたたえられて来た世界遺産・ドブロヴニクの観光に向った。
まず展望台から旧市街の全体像を見た。遠くに海に突き出している白い城壁に囲まれたあかねいろの町が見えた。①
来た道をバスで戻り、駐車場から歩いて城壁内に入った。
門に入り城壁を見ると圧倒させられた。②
昔、ローマの植民地だった近くの町にクロアチア人(スラヴ人)が入ってきたため、追い出されたローマ人達が小島の岩礁に住み着いたのが町の始まりだと言う。
やがて海峡を挟んだスルジ山の麓にクロアチア人が住み着いたので、島のローマ人はクロアチア人達にお金を払って土地の耕作権などを得ていたという。
やがて両者の融和が深まり、小島を隔てていた狭い海峡を埋め立てて1つの町を作ったというのだ。それがドブロヴニクなのである。
その後ここは、東西文化・交易の中継地として大いに発展して行ったのだ。
この町の人たちは、ヴェネチア、ハンガリー、オスマン・トルコなど、その時々の脅威から自由な交易を守るために、貢物をしたり上納金を納めたりし続け、実質的な自治権を決して離さなかったのだという。私はこの町がたどった歴史を、多くの国が改めて学ぶべきではないかと感じた。
この町には長い間水源が無かったので、雨水を溜めたりして暮らしていたが、15世紀、議会が上水道建設を決議し、10km遠くのスルジ山の水源から水を引く工事をした。これによってオノフリオの泉が作られ、市民に無料で使用させる事としたのだ。今も16のレリーフから常に湧き出るその水が使われていた。私も飲んだが美味しかった。③
① ②
③
2つの民族が仲良くなって埋め立てた海峡は、プラッツア通りとなり、町のメインストリートになっている。④
歴史的な建物や遺跡も良く保存されていた。
1時間余りの自由時間に私は町を2kmにわたってぐるりと囲む城壁の上の遊歩道を歩いた。30℃近い晩夏の太陽に照らされた城壁巡りで汗だくになったが、多くの観光客が歩く毎に変わる景色を楽しみながら散策していた。⑤⑥
この城壁は、9世紀にはすでに基礎が作られていたらしいが、本格的には13世紀に30年の歳月をかけて最高高さ25m、厚さ3~6mの城壁を強固に造ったのだと言う。そして14世紀には堅固な要塞も加えられた。
1時、ナポレオンの侵攻により破壊され、また1991年の内戦で大きな傷を負った町だったが、今また逞しく蘇えっているように感じた。
最後の写真は今も賑わう旧港である。⑦
④ ⑤
⑥ ⑦