今日、図書館から借りた五木寛之著「新・幸福論ー青い鳥の去ったあと」を読んだ。
誰しも人生の主たる目的は、「幸福になりたい」ということだろう。「幸福追求権」は、基本的人権の1つで、日本国憲法にも規定されている。
しかし、「幸福とは何か」と考えると、人それぞれに異なる幸福があるのも確かだし、また、長い人生の中で、目標とする幸福が、その時々で変わることも事実だろう。
まずは「人間的な最低生活」が確保されている状態である事には、誰も異論が無いだろう。
つまり、「経済生活」が安定していて衣食住が確保され、「安全」「精神的な余裕」「人間らしい趣味」の1つも持っていることが基本だろう。
しかし「健康」はどうだろうか。望まずして病気になる人は数え切れないほどいる。私もそうだが、大抵の高齢者は毎日幾つかの薬を飲んでいると思われる。服薬は病気を治したいか、治らないにしても悪化させたくないためだ。体力を維持しようと毎日きついトレーニングをする人もいる。し過ぎて不健康になる人もいる。
生活習慣病と言われる幾つかの病気を避けるために、毎日の食事に注意している人も多い。沢山の人が健康に関心があるから、健康に関するTV番組は多いし、サプリメントのCMもひっきりなしだ。だが、健康を維持することは簡単では無いし、もし病気が先祖から受け継いだ遺伝子が原因だとしたら、その変換はそう上手くは行かない。
長寿だった伯母にその理由と思われることを尋ねたことがあったが、伯母は「親が元気で生きる身体に生んでくれたからで、親のお陰だと思う。」と答えた。伯母の姉妹も90才代まで生きた。
その他、満足できる「家族関係や人間関係」「地域との関わり」などを築く事も大切だろう。しかし、どうにもならないこともある。
また、身体が自由に動かない高齢になると,、自ずと人間関係は狭く限定され、人との会話や触れ合いが少なくなる。そうなると「認知症」にもなりやすいとも言われている。
ここまでは私でも分かる幸福のための一般論だ。次にこの本に書かれている2つの事について、私が考えて見た事を書きたい。
1つめは、本の題にも書かれている「青い鳥」の話についてだ。
「青い鳥」の内容は大半の人が知っていると思うが、改めてこの本から抜き書きすると、ベルギーの作家「メーテルリンク」が書いた戯曲だ。貧しい木こりの子供であった兄妹「チルチル」と「ミチル」が、魔女に誘われ、鳥かごを持って幸福になるための「青い鳥」を探す旅をする。苦難に満ちた旅を続けたが「青い鳥」を捕まえることはできなかった。
我が家に帰ると、自分の家の部屋の隅で二人が飼っていた「キジバト」が、何と青い色に変色したのだった。
ここで五木氏は、「幸福は遠くにあるのでは無く、日常生活の直ぐ傍にある事を示唆している。」話だという。
しかし、原作では、何と「青い鳥」はちょっとした弾みにバタバタと羽ばたいて、窓から外へと飛んで行ってしまうのだ。
五木氏は、「幸福は、身近な直ぐ傍にある。それに気づいた時、「青い鳥」は飛び去ってしまう。二人は「青い鳥」がいなくなった世界で生きて行かねばならないのだ。まさに絶望的である。」と言っている。
しかし私は思う。「幸福は身近な所にあるが、それを見つけて大切に捕まえておかない限り、ちょとした事で壊れて無くなってしまうもろさを持っている」。そのことを作者のメーテルリンクは示唆しているのではないだろうかと。だから、身近な幸福を守る日々の意識的な努力こそが、必要なのだと。
もう一つ、五木氏が書いてあった事で考えさせられたのは、「高齢化社会の老人」の事だ。
平均寿命が世界一になった日本の高齢者は、かって経験したことが無い生活を余儀なくされているというのだ。
少子化で子供や孫と賑やかに暮らす高齢者は減り、今では独居生活や「老老介護」の高齢者が増えるばかりだ。それにかってよりも長寿化が進み、筋力が衰えて体調が悪化、認知症になる。一人で歩行や排泄、入浴ができない。食事にも介助が必要な高齢者が増えたのだ。平均70~100才までの20~30年間、「高齢者の幸福な生活のあり方」を再構築する必要があると強くいう。そして彼は最後に、「どのように最後の自分の死を迎えたいか」を考えることも大きな課題だと言っている。
この意見に、私は同感だ。長年農業をして来たが、夫(私の亡き母の兄だった人)と息子に先立たれた伯母を、一昨年、満99才で看取って、多くの事を学んだ。
高齢期の望ましい生活のあり方も、一人一人違うはずだ。最後にどこでどのように暮らすのか、誰の世話になるのか、必要な生活費や医療費、社会福祉との関わり方やその費用、葬儀や墓の問題など、より良い自分の最後の生活を真剣に考えなければならないのだと思う。
コロナ禍、高齢者施設や病院で、家族にも見守られずに亡くなる高齢者を思いながら、また考えさせられた良い本だった。