花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

庭仕事開始

2009年03月28日 | ガーデニング・家庭菜園
今朝の気温は-4℃。晴れてはいるが、最高気温も+4~5℃の感じだった。
庭の雪が9割方消え、チューリップや水仙が芽を出し始めた。
天気の週間予報を見ると、来週は低くても-2度程度、しかも雪は降らないらしい。
まあ降ったとしても、気温がプラスになって来るから、余程の大雪で無い限り直ぐ融けるに違いない。
そこで今日は、庭木の冬囲いを解くことにした。

男結びにしてあった荒縄を、一つ一つほどいて、木を支えていた竹を抜き取って片付けた。
時折、吹いてくる風がぞっとする程冷たい。
でも、小さな庭なので2時間で終了する。

一旦、家で休んでから、気合を入れて次の仕事に取り掛かった。斜めに寝かせてあった薔薇を元の姿に起こすのだ。
土がまだぐじゃぐじゃなので、長靴が泥だらけになった。
それから剪定をした。北海道では積雪で枝が傷むので、剪定はこの時期になるのだ。
今年は、かなり思い切って剪定して見た。これも栽培実験である。

散歩から戻って来た近所の80代のおばさんと、道端で久し振りに会話した。
1月前に会った時は、食欲が無いと言って元気がなかったが、今日は割合元気そうでホットした。
おばさんに、「仕事は楽しみながら、少しずつした方が良いよ。」と忠告された。
「おばさんは、今年も野菜を植えるんでしょ。」と聞くと、「年で体がきつくてできなくなった。」と言っていた。寂しい。

明日でも風が無ければ、石灰硫黄合剤で薔薇の木を消毒しようと思う。
ツツジが新芽を付けているが、1番早く開花する蝦夷紫ツツジの花でも、後20日位待つことになるだろう。
半年ぶりに庭仕事ができる季節が来て、嬉しい。
冬囲いを解いた庭が、明るくなったように感じられる。


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台湾の旅 (9)

2009年03月25日 | 海外旅行「台湾」

⑨禁煙について
台湾に着いてホテルに行く前に、バスの中でガイドから喫煙の注意を告げられた。
今では台湾全土で「法律で、屋根がある場所では、全面的な禁煙が義務づけられました。」と言われた。
バス、観光する建物内、飲食店、各種の店、トイレ、ホテル内などの全てだという。違反すれば罰金が課せられるのだ。
「ただし」とガイドは続けた。「ホテルの私室内は誰も見ていないので、窓から煙を出さない状態なら、皆さんの良識にお任せします。」と言った。
私は長い間、職場で受動喫煙に悩まされて来た経験があるが、今回の旅では、嫌な思いをすることは1度も無く、幸いだった。

⑩最南端のガランピ灯台のこと
最南端のガランピ岬に白亜の灯台が立っていた。
この岬周辺には昔からパイワン族という原住民が住んでいた。彼らには首狩の風習があったらしい。

1867年、アメリカの商船が沖合いで座礁し、上陸しようとしたが原住民に襲撃され、助かったのはたった1人の中国人水夫だけだったという。
さらに1871年12月、琉球・宮古島船が嵐で遭難、69人の船員が上陸しようとした時、原住民の襲撃で54人が斬首された事件が起きた。住民に救出された12人が翌年那覇に生還した。
2年後、明治政府は3600人を初めて海外派兵し、パイワン族の首長父子を殺害した。(その時、戦闘による死者12人に対してマラリアなどによる病死者が500人を上回ったらしい)
この後、明治政府は琉球を日本の支配化に置いた。

これらの事件を契機に、イギリス(デザイン)、日本(資金)、アメリカ、中国清政府が協力して、軍隊が駐留するガランピ灯台を作ったのだという。
日清戦争の後始末が行われた1895年の下関条約で、台湾が日本の領土に決まると、駐留していた清軍は灯台を破壊して引き上げたが、1898年、日本が修復。
第2次大戦中は米軍の空襲を受けたが修復されて、高さ21.4mの灯台が維持されているという。

この灯台1つに、実に深い歴史があった。今ではこの岬は台湾八景の一つに選ばれている。
私達が訪れた日は28度と暑かった。傍にみやげ物の出店を出していた人たちを見て、ガイドが「この人達が野蛮人の子孫です。」と囁いた。これには私も驚いた。少なくても今は同じ台湾人なのにと思った。


 

これで台湾の旅日記を終える。
この旅で、台湾は近く、50年間も日本の植民地だった所なのに、私には今までほとんど知らないことばかりだった事が分かった。また何処でもそうだが、実際に行ってみて、初めて実感できることも多かった。
雪が降る北海道は、台湾人の好きな観光地だが、もし今後、どこかで彼らに出会ったら、「ニーハオ!」位の言葉を掛けたいと思っている。

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台湾の旅 (8)

2009年03月24日 | 海外旅行「台湾」

最後に旅行中、ガイドが細切れに話したことや、私が目にしたものの中で印象に残った事を幾つか書いて置くことにしたい。

①定額給付金のこと
ガイドは、台湾では既に昨年末に、1人3、600元(日本円に換算すると10、800円)の定額給付金が商品券で支給されたという話をしてくれた。金額は日本を参考にしたらしい。
私はこの金額は日本と比べて高いなと思った。何故なら平均して台湾人家庭の収入は日本の半分なのだ。だから物価も半額といった所からだ。

②ビンロウのこと
山岳地帯がほとんどの面積を占めている南投県にバスが入ると、ガラス窓で囲われた小屋に、シースルーで透け透けの服装をした若いお姉さん達が座っていた。実はこれ、ビンロウ(売り)娘なのだ。
ビンロウは椰子に似た高い木から取れる実だが、口に入れて長時間噛んでいると眠気が無くなったり、神経が興奮する作用があって、長距離トラックの運転手などに好まれて来たらしい。ただし、唾液は真っ赤になる。
しかし最近、ビンロウを噛んでいると口に癌ができる比率が高まると発表され、表向きは売買が禁止されたようなのだが、相変わらず馴染みのビンロウ娘を求める運転手がいるらしいのだ。軽い麻薬というところだろうか。
今では高いビンロウの木の根元に、低いバナナの木が植えられていた。

③台湾の墳墓
台湾でも立派な墓が多く見られた。
聞くと、全て個々人の墓で、死後、土葬にするか火葬にするかは個人の自由意志に任されているそうだ。
最近では、国が奨励している事もあって「樹木葬」を選ぶ人が増えたのだそうだ。これは木箱に骨を入れて埋め、自然に風化させるのだという。ガイドも「人は自然に生まれて、自然に死ぬ」のだから、樹木葬が良いのではと話していた。
キリスト教の信者が多い町では、十字架が付いた墓も見られた。(下写真は線路の傍に作られていたキリスト教の墓)
日本では、まだまだ死後について口にすることはタブー視されているが、少子化、核家族化、都市化の流れ中で、早急に考えなければならない問題の1つだと思った。

④台湾の温泉
実は台湾にも温泉が沢山ある。しかしこれまでの台湾人は、他人と一緒に風呂に入る習慣が無かった。
ところが最近、北海道に旅行した人達が、温泉旅館の良さを知るようになったのだそうだ。
知本という東南の町で日系企業が経営する温泉に寄ることになっていた。内湯の人は要らないが、スパに行く人には水着が必要だった。私はその朝、ホテルの売店で急遽、適当な水着を買った。(日本の半額で買えた)
そこは95度もの湧水が出るのだという。
フロントや建物、スパ、庭もリゾート風に立派に作られていた。
金魚(熱帯魚かも)が泳いでいる浅い浴槽に足を入れると、一斉に20匹以上が足に吸い付いてくる仕掛けもあった。変な気分だった。
バイキング形式の昼食もその温泉のレストランだったが、料理の種類、味付け、見た目など、どれを取っても今回の旅行の中では最高だった。やはり日系企業だと納得した。

   

 写真は温泉の庭の木に寄生していたランの花 


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台湾の旅 (7)

2009年03月23日 | 海外旅行「台湾」

今日は、帰国する前日に行った台北市の「忠烈祠」と「故宮博物院」の事に触れたい。

「忠烈祠」は、台湾のために今までに亡くなった人々を、宗教に関係なく祀ってある場所である。
9時から17時まで公開されているが、各正時に衛兵が儀式を行って交代するのだ。
私たちは9時の交代式を見ようと行ったら、門の前には既に沢山の観光客で溢れていた。

ガイドの説明では、忠烈祠の衛兵になる人は、海軍、海兵隊、陸軍、空軍の隊員の中から、身長180cm、体重70kgの20歳前後の若者が選ばれるという。ちなみに台湾の男性は18歳で全員が身体検査を受け、どの部隊に所属するかはくじ引きなのだそうだ。制服の色は所属により異なる。(海軍は黒、空軍は紺、陸軍は緑)

いよいよ9時になると、私が居た門の左側から7人の衛兵が並んで出て来た。
号令を掛けながら正面に行き、それから建物までの結構な道のりを一糸乱れぬ動作をしながら建物まで進んだ。
大勢の見学者は、管理する衛兵に「その人の前に出ないように、帽子は脱ぐように」指示されながら、徐々に行進する7人の衛兵の後を追った。
建物の階段を登ったところで、彼らは独特なパフォーマンスをして中の衛兵と交代した。
任務が終わる衛兵が出て行った後、入り口から建物内を見ることや、衛兵の前で写真を撮ることも認められた。

ガイドは「瞬きも最小限にし、40度近い真夏の炎天下でも自分で流れる汗を拭うこともできず、ひたすらジッと台の上に立ち続けなければならない過酷な任務は、親にしたら見ているだけで泣ける。」と何度も言っていた。
しかしここは台湾の外部への大切な顔の一つなのだろうと私は思った。

  

   

「故宮博物院」に収蔵されている歴史的にも文化的にも貴重な655,000点の文物は、かっては北京の紫禁城のコレクションだったものだ。
それを蒋介石が密かに台湾に持ち込んだのだが、その内、常設展で公開されているのは僅か8,000点だけで、残りは高山に掘られたトンネル内に保管されていて、3ヶ月ごとに交換されるのだという。

内部の照明はどこもかなり薄暗くしてあり、カメラ撮影は禁止されている。
私たちは各々、グループ内だけに聞こえる様に調整されたトランシーバーを渡され、中に入った。

ガイドは、台湾の全史を簡単に説明してから、1時間半にわたり実に効率良く、目玉の展示品を紹介・説明してくれた。
私は日本でガイドブックを見て行ったので、小さい「翠玉白菜」や「雕象牙九層塔」などの実物を見て、細部を自分の目で良く確かめる事ができたのは良かった。
台湾は、この文物の時価だけで、国際的な紛争があっても、これからも長い間経済的には生き延びられるだろうと思ったが、良く考えて見たら、みんな「人類の貴重な遺産」なのだった。

写真は2階のベランダで撮ったものだ。

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台湾の旅 (6)

2009年03月22日 | 海外旅行「台湾」

2日目、西側を南下して間もなく台中市に着いた。
真っ先に向った所は「宝覚(禅)寺」だった。
ここは日本が統治していた1928年に建てられた寺で、戦前に台中周辺で無くなった14.000人に及ぶ日本人移民の遺骨が奉納されている寺だった。神の使いか1対の大きい白象に守られた建物もあった。
境内には花が供えられた日本人墓地もあった。
墓地の掃除などの世話をボランテアでしているらしい老婦人が、日本語で声をかけて来たので、写真を撮らせてもらった。

 

さらに敷地の奥に進むと、驚いた事に黄金色に輝く高さ30mもあるらしい弥勒菩薩(布袋)が台座の上に安置されているのを見た時だ。ネットで調べたら、腹部の中が台湾民族文物館になっていて、へそが窓なのだそうだ。
弥勒菩薩の耳と腹に触った人は一生、金持ちになれるらしいが、実物は大き過ぎて触れないので、傍に小さな弥勒菩薩が作られていた。
ガイドの言った、「人間多少のことは気にせずに、この菩薩さまのようにニコニコと笑っていれば、一生幸せでいられます。」という言葉が耳に残った。
また、台湾人には、来世のことよりも現世に利益をもたらす神仏に人気があるのだと思った。

 

ついでに、台湾人の美意識を見せ付けられた高雄の「蓮池潭」のことを書く。
この池には名前の通り、以前は多くの蓮が植えられていたが、枯れた後の悪臭がひどいという地元住民の陳情を受けて、今では蓮は始末されてしまったそうである。
その大きい池に、巨大な龍と虎の派手に彩色された造形物が作られていた。
龍の口から体内に入り、尻から出て、次には横に並ぶ虎の尻に入る。虎の体内を抜けて、口から出ると、その人のそれまで犯した罪の全てが消され、幸せになれるそうなのだ。ガイドには、順番を決して間違わないように注意された。

おまけに池に掛けられている橋は、魔よけのためにジグザグに作られていたし、入り口には石で作った亀の彫刻が設置されていて、頭から尻尾まで手で触ると大金持ちになれるとされていた。

この場所は大勢の人で混みあっていた。いやはや、これではほとんどの台湾人は、幸せで大金持ちの人生になれる筈だと思った。そして、実に逞しい信仰心だなとも思ったのだった。
(実は私も、亀の背中も撫でたし、龍と虎にも間違いなく入ったので、ちょっぴり残された人生が楽しみになって来たのである。)
動物の体内には多数の天女が舞っている天国と、炎で焼かれるおどろおどろしい地獄の絵などがぎっしりと描かれていた。

池の前には3箇所程の寺が建てられていたが、それもまさに台湾様式のものだった。

 

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台湾の旅 (5)

2009年03月22日 | 海外旅行「台湾」

台湾の夜市は有名である。大きい町には幾つかの夜市が作られていて、現地の人たちに食事の場などを提供して親しまれている。
3日目、高雄で観光を終えた夕方、夜市に案内された。
僅か数メートル幅の道路の両側に、色々な出店が販売の準備をしていた。あまり衛生的とは言えない感じだが、珍しいので店の写真を撮らせてもらった。その中の幾つかを紹介する。
①蛇料理の店 ②果物屋 ③肉入りパン屋 ④餃子屋 ⑤海鮮料理屋 ⑥味付け肉屋 

 ①

 ③ ④

 ⑤ ⑥

ざっと見た後、ホテルに入り、食事をした。

別な日に、ガイドから私達に季節の果物「釈迦頭」がプレゼントされた。大きさはりんごの1.5倍位あり、緑色の皮で覆われ、頭部が釈迦の巻き毛の形をした果物だ。初めて熟したものを食べたが、乳白色の果肉は柔らかく、濃いミルク味がして美味しかった。
デザートに良く出た「蓮霧」という果物は、りんごとナシが合わさったような味がした。

また、高山地帯では霧が多く発生するので、柔らかい茶の葉の栽培に適し、阿里山で採れる阿里山茶が有名である。

ところで日本でも有名だと聞く点心料理の「県泰豊」に昼を食べに行った。
日曜日ということもあって、店先の歩道には100人位の人が並んで居た。
予約していた私たちも歩道で40~50分待ってから、ようやく店内に通された。
真ん中のガラス張りの調理室では、数十人の人がトンポウロウなどを作っていて、蒸篭で次々と蒸し上げて行く。
その周りの数十机以上のテーブルには、4~8人の客が料理を待ち、食べていた。
すごい熱気と騒々しさに満ち溢れ、落ち着いて味わっては食べられなかった。
余り有名になりすぎた店は、だめだと思った。(写真は店の前で諦め顔で待つ人たち)

 

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台湾の旅 (4)

2009年03月21日 | 海外旅行「台湾」

4日目に南端の墾丁を出て間もなく、西側に原子力発電所が見えた。ガイドは、発電所ができてから廃液により海水温が上がって、海の生態系が破壊されてしまったのだと説明した。

やがてバスは、山道を通って太平洋側に出ることになった。
ガイドの説明では、その山岳地帯には台湾族の住まいが多いらしい。(台湾に古くから住む少数民族は、12民族に上ると言われている)
水が無い枯れた石ころだらけの川沿いで、彼らはスイカを栽培しているのだという。見ると小さな家の前に売り物らしい細長いスイカが積んであった。ホテルやレストランで毎食出されるデザートのスイカだと思った。
ガイドは、原住民の所有する土地は、土地以外の人の売買が禁止されている、また、原住民の商売には税金を掛けないし、原住民の子どもには学校給食が無料なのだと、色々な保護政策の説明をした。国会議員の議席も2~3議席が予め確保されているのだという。

山を越えて太平洋側の台東県に入ると、バスは海側の道を少し行った所で山側の道に反れた。
関山から玉里までの道沿いには、青々とした水稲が豊かに実っていた。
この辺りは台湾でも有数の穀倉地帯で、1年に3~4期作も可能なのだそうだ。
日本のジャポニカと台湾米を掛け合わせた「宝来米」という品種を生み出して、生産に励んでいると言う。
日本より遥かに有利な気候条件を生かして作付けしていることを聞き、改めて日本の米作りも何とかしたいと思ったのだった。

 

   

また今回、台湾に行って見て初めて分かったことの一つが、海岸近くに広がる平地を除いて、内部には標高2000m級の険しい山岳地帯が広がっていたということだ。
その山岳地帯の一部が、硬い大理石でできた石山なので、本当に台湾には「宝の山」があるのだ。

台東の花蓮という町に宿泊した翌日、バスで「タロコ渓谷国家公園」に向った。
この辺りは大理石でできた山が連なっていて、道路を開くのに苦労した場所なのだ。
日本人が居た当時、交通の便を良くするために、東の花蓮県から西の台中県に通じる山道を、アミ族(台湾に古くから居る少数民族)の手引きで切り開いたのだという。
その細道を、後に来た蒋介石の100万人の軍隊が太くし、現在の全長192kmもの道路を作ったらしい。犠牲者も多く212人に上ったという。
正に断崖絶壁が聳え立つ渓谷が20kmにも渡り、続いていた。
バスを降りて見た対岸の大理石は、赤や青、緑など、色々な色が混ざり合っていた。

その後、私たちは花蓮に戻り、大理石加工場を見学した。
掘り出した巨大な大理石を、建築材料として薄板状に切ったり、各種工芸品に加工していた。
重いという欠点はあるが、今や台湾の大理石は主要な輸出産業の一つになっているのだった。
良く聞くと加工は重労働なので、今はマレーシア、インドネシア、フィリピンから労働者を雇っているのだと言う。やはりと思った。

   



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台湾の旅 (3)

2009年03月21日 | 海外旅行「台湾」

台湾人の不安感を少し知った。
それは台北に戻ってから「中正紀念堂」に行って、ガイドの話を聞いた時に感じたものだ。

ここは、故蒋介石総統を偲ぶ目的で27年前に高い位置に建てられた壮大な建造物で、中に蒋介石の巨大な坐像が置かれ、衛兵が左右で守っている所だ。蒋介石の名が「中正」なので最近まで「中正紀念堂」とされている所だ。
その周りにはコンサートホ-ルや京劇のオペラハウスを有する蒋介石記念公園となっている。

入り口の高い場所に掲げられている「台湾民主記念館」の額縁をガイドは説明しながら、「この中の民主の字が無くなれば、台湾は再び個人の独裁政権になりますから、なくなって欲しくないです。」と言った。

台湾に古くから住んでいた人たちにとっては、第2次世界大戦終結後、国共内戦が起こって、敗れた蒋介石率いる多くの軍隊が1949年にやって来てから、彼らに虐殺や弾圧された歴史があるらしい。
何と戒厳令も1987年まで敷かれていたという。

蒋介石とその息子が死んだ1988年、初めて副総裁だった台湾人の李登輝が総裁に就任してから、少しずつ民主化政策が行われるようになったらしい。

ガイドが私たちに何度も「台湾は今、自由の土地です。」と言っていたのが印象に残った。


   

民主紀念館から町を見た写真 

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台湾の旅 (2)

2009年03月20日 | 海外旅行「台湾」

台湾で1番印象的だったのは、歴史ある仏教・道教寺院「龍山寺」で見た光景だ。
「龍山寺」は、台北市で最古の1738年に建立された寺院である。

丁度その日はお釈迦様の誕生日ということで、黄色い提灯で飾られた余り広くない境内は、お参りをする大勢の人でごった返していた。
長さ40cmはある線香に人々が次々と火を点けて幾つかの焚き台に差すのだが、台から立ち上がる大量の煙に、私は目と喉を刺激されてむせ返り、苦しかった。線香は1本よりも2~3本の方がご利益があるらしい。

供え物を置く台も用意されていて、その上には各自が持参したお供えが平ざるに載せてある。大根、団子風の物、菓子類、果物類、飲み物などだ。
そしてその横に願い事と名前を書いた紙も置いてあった。時期的に就職や受験の合格祈願が目立った。
ガイドの説明では、お供えは帰る時に持ち帰るのが原則なのだという。

どうしてこんなに沢山の人達が、真剣な表情でお願いに来るのだろうと不思議な気がした。「苦しい時の神頼み」と良く言われるが、それにしてもすごい。
この古い寺が、未だに国際的には身分が安定していない台湾人の心の依り所なのかも知れないと思ったのは、間違いだろうか。

   


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台湾の旅 (1)

2009年03月19日 | 海外旅行「台湾」

今回は天候に恵まれ、予定通り10日、新千歳空港を15:35に飛び立った飛行機は、時差1時間、実質4時間半で台北へ着陸した。当日朝の我が家の外気温は2度だったが、夜の台北の気温は20℃あったから、私にすれば急に冬から初夏の場所に行った事になる。

2日目からは台湾の西側海岸線近くを南北に走っている道路を、バスで2日かけて南下した。最南端のガランピ岬に着いた3日目午後は28℃だった。まるで真夏だ。
4日目からは台湾の東側を南北に走る道路を北上し、途中、5日目の午後には、花蓮から2時間半かけて列車に乗車、台北に戻った。

九州よりも面積が小さい台湾だが、南部の約2/5に当たる地域は北回帰線の南になるので熱帯地域であり、中北部は亜熱帯になる。写真は北回帰線の通る場所にあったモニュメント

  

冬の北海道から行った私の体は、最後の夜、台北のクーラーが効いたホテルの部屋で不調を告げた。夜中に喉が痛み出したのだ。起きて、バスタブにお湯を張って寝なおしたが間に合わなかったのだろう。

しかし、大したことないと思って帰国したが、翌日から、今まで経験した事のない様な鼻と喉の症状と38℃を越す熱が出た。外国の風邪なので、昨日、念のために病院へ行った。
医者はインフルエンザの検査をしたいと言うのでしてもらった。綿棒で鼻の奥の粘液を採取して検査された。瞬間的だが痛かった。結果が出るまで、この間に会った人たちの顔が浮かんだ。もしも移してしまっていたとしたら申し訳ないからだ。
結果は陰性。近くの香港の型と無関係で良かった。

昨夜から処方された薬を飲んだら、今日は熱も下がり大分楽になった。薬が劇的に効いたらしい。
そんな訳で今回の旅日記は明日から書こうと思う。特に印象的だった事や場所に絞って書きたいと思っているので、また宜しく。

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明日からは台湾

2009年03月09日 | 海外旅行「台湾」
雲南の旅日記を書き終えたので、明日からは新たな気持ちで6泊7日の台湾周遊ツアーに行って来る。
新千歳空港15時35分発で台北まで直行し、19時10分着予定の飛行機だ。(時差は1時間だから、実際は4時間半かかるらしい)
2年前に妹と行く予定をして申し込んであったのだが、伯父が危篤になり、出発直前にキャンセルした旅なのだ。
添乗員の話によると、最高気温はすでに30度近い日もあるらしい。緯度では雲南省と同じでも、標高が高くないから台湾は暑い筈だ。
スーツケースはほとんどそのままにしてあるから、後は着替えと薬を詰めるだけだが、その着替えの服に悩んでいる。
やはり半袖の服がいいのかな。しかし急に半袖になると日焼けするし‥まだ決めかねている。

今回の日程は、春の畑仕事の準備を考えて、ぎりぎり間に合う日にした。
7日後に帰国したら、トマト、玉葱の1部の種をポットに蒔いて、窓辺で苗を育てる積りだからだ。

また、先日の中国でカメラを落としてしまい、修理が間に合わないので、昨日、新しく新品のデジカメを買った。と言っても前とメーカーは同じで、バージョンアップしたカメラにしたのだ。今後は予備を兼ねて2台持って行こうと考えたのだ。
昨日は一通りマニュアル書を読んで、今迄との性能、操作の違いを確認したが、メーカーが同じなだけに何とかなりそうだ。

そんな訳で、またしばらく留守にする事を了解ください。
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菜の花が咲く中国雲南省の旅 (11)

2009年03月08日 | 海外旅行「中国Ⅰ」四川省・雲南省

7日目の朝は、最後の見学場所である世界遺産「麗江古城」に行った。
この古城の町は、宋の時代に作られ、チベットの馬と雲南・四川の茶の葉を交換する茶葉街道の拠点として賑わったらしい。
古城の入り口には大きな水車が回っていて、壁にはナシ族の歴史を示すモニュメントが作られていた。
門を入ると石畳の狭い通路や階段、幾つかの水路に沿って建てられた木造2階建ての白壁、瓦屋根の家々、広場など、その独特な雰囲気に昔懐かしい感じが湧いた。
どの屋根の四方にも角の様な飾りがついているが、聞くと鳳凰の羽根を表わしているのだという。
石段を登って展望台に行き写真を撮った。
玉龍雪山がバックにある素敵な写真がガイドブックに載っているが、その日は残念ながら山は見えなかった。
更に上へ登ると高さ33mもあるという「万古楼(ばんころう)」が聳えていた。僧侶が一人、読経をしていた。
この町の小さな店で、私はトンパ文字の入ったTシャツとストールを買った。

   

  

所で、数日前の朝日新聞に、「麗江古城では、世界遺産に指定されてから古い建物の保存が義務づけられ、家賃も上がった。すると次第に昔からのナシ族は古城の外へ出て行き、観光客目当てに商売をするその他の人たちが住み着くようになった」と書かれていた。世界遺産の明暗なのかも知れない。

長くなったが、これで今回の雲南省の旅日記は添えた64枚の写真と共に終わる事になる。
中国3回目の旅となった今回が、気候も良く、内容も1番変化に富んでいて、食事も美味しかった。
何よりも今まで知らなかった少数民族の人たちの暮らしぶりを、少なからず知ることもできた。

それと漢字がどんどん簡略化されている事も知った。
「云南」は「雲南」の事だったし本来の「麗江」の麗という字は、下の鹿が無くなっていた。「国際」の際は卩の右に示のみだ。「衛」はギョウニンベンの右にエとだけ書く。極めつけは「業」が上の冠部分だけなので、初めは北の字の略かと思った。
本当に多くの漢字がすっかり簡略化されて、意味不明の字に変えられていた。こうなるともう1字1字が意味を示す漢字ではない。
やがて本来の漢字を理解できるのは、私達日本人だけになるかも知れないと思った。

また、細切れにガイドが話してくれた話も興味深かった。
その幾つかを書くと、今まで農民は、身分証にもパスポートにも身分が書かれていたが、近々全部が「居民」と言われるようになって身分差別が無くなるという。
また政府は、農民の農業税を無くしたり、TVや洗濯機を買う場合に国が半分補助をするようになったのだという。
昨年からは地方の道路も改修し出したらしい。
今、行われている全国人民代表者会議では、地方の内需拡大が課題の一つになっていると日本でも報じられている。
3月7日のNHKTVでは、今中国では社会保障制度が後回しされているため、教育と医療を受けるのにお金がかかる。北京の公務員の平均月収は2000元(日本円で約2.8万円)だが、その内の48%(現在の日本の2倍)が将来のために貯蓄にまわされているとも報じられていた。かっての日本も生活の不安から貯蓄率が高かった。今は貯蓄したくてもできない家庭が増えているという。
(平均収入からすると、日本の100円の価値は中国では1000円以上になると思う。だから中国で日本円に換算して500円の品物は、実は5000円の価値なのだと私は思っている。田舎ではもっと差が開く)

しかし、ガイドの話では、世界的な不況を受けて、大学を出た学生は1/3しか就職できなかったり、出産後1年休んでも給料を払わなければならない女性の雇用を個人企業が嫌ったりする状況が強まっているという。
また、「国営企業は、重労働で残業代も払わない事がふえたので資本主義的経営をし出しているが、それに対して日本の企業は、残業代をきっちり払うので社会主義的経営だと言える。」などと、面白い比喩を話していた。
しかし、情報を早く知りえる立場の公務員は、うまく立ち回って多額の賄賂などで潤い、公務員と一般の人との収入格差はすごいのだと彼は嘆いていた。一般人の不満も鬱積しているのかも知れない。

バスの車窓からは、桜などの苗木を育てる農園が幾つか見られた。植樹した場所もあった。
世界で最大の人口を抱える多民族国家中国は、今後も少しづつ変わって行くだろう。私たちにとって近くて遠い国の変化を、何時かまた見に行きたいと思いながら今回の旅を終えた。

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菜の花が咲く中国雲南省の旅 (10)

2009年03月08日 | 海外旅行「中国Ⅰ」四川省・雲南省

翌日の午前中は麗江郊外の観光だった。
山間の道を西へ50km下った所に長江が180度迂回する場所があり、そこに古くからチベット族との交易の中継地として発展した町がある。
町の名は石鼓鎮。町の入り口に狛犬?が4匹も鎮座する立派な門が立っていた。
高台に上がると古い町並みや木造つり橋の傍で編み物をしている女性達がいた。

    

    

少し道を戻り、バスは虎跳峡(こちょうきょう)の入り口に停まった。
高低差3000mの大渓谷の下を20kmに渡って流れる長江(金沙江)沿いに、2.5kmの遊歩道が作られていて、終点が展望台になっていた。展望台の下は虎が飛び越えたと伝えられている程、川幅が特に狭くなっている所で、豊かな水量が激流と化していて壮観だった。
川の向こう側は、チベット族が住むシャングリラ(香格里拉)地域だ。そこにも小さな何人もの人影が見えた。
往復1時間半、渓谷美を楽しみながら一生懸命歩いたため、戻った時には汗をかいていた。

バス停の近くにレストランがあり、そこで昼食をとった。私たちを目当てに数人の物売りが来たが、どこから仕入れたのか、お年寄りの女性から買った蜜柑は新鮮で香りが良く、すごく甘かった。

    

その日の夕食は、麗江古城に近い飲食店街でナシ族の民族料理を味わった。
沢山の野菜と豚のばら肉、ソーセージ、麺、ご飯、春雨の火鍋料理だった。ニンニク、ごま油、魚醤などで作ってあると思われるたれが独特で、体も温まって美味しかった。
食事後トイレに行った。女性用の扉を開けてびっくり。清潔な水洗トイレだったが究極の「ニーハオトイレ」だったので、私は使うのを止めた。

その夜8時頃、友人とホテルの近くのアーケード街に行き、色々な果物を買い込んだ。特にレイシー、金柑が新鮮で安く、美味しかった。 
見たことの無い豆を買って来て食べて見た。黒く硬い種の周りに干し柿のような実がついていた。帰りの空港で袋入りで売られていたが、名前を見てこなかった事を反省している。ネットで調べたがまだ分からない。
とても珍しい豆なので種を蒔いて見ようと思っている。

   



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菜の花が咲く中国雲南省の旅 (9)

2009年03月08日 | 海外旅行「中国Ⅰ」四川省・雲南省

山から戻り、晴天なら池に逆さに玉龍雪山を写す「玉泉公園」に行ったが、残念ながら山は望めなかった。しかし、観光客と市民で賑わっていた。
長江(麗江)のシャングリラ(香格里拉)地域から旅行に来たのだろうと思われるチベット族の女性達が数人、民族服で着飾って来ていたので、撮影させて貰った。全員、すらりと背がとても高かった。

ナシ族の楽隊が伝統的な楽器で演奏していた。
麗江の女性ガイドの説明では、ナシ族には母系社会の風習がが残り、男性は働かずに昼間は将棋や麻雀をして過ごすことが多いという。昔、男性は勉強する人が多かったためだそうだ。しかし、今は女性も勉強するのに、この風習は続いているらしい。また、家の中に暖房が無いので、冬でも太陽の当たる外で過ごす人が多いそうだ。

中学生らしい女生徒が、制服のジャージー姿でベンチにかけていた。(昆明でも、ジャージーで登校する子ども達を見かけた)
梅が咲き誇る寺が綺麗だった。

     

   

公園の奥に行くと、「トンパ(東巴)文化博物館」の入り口に繋がっていたので、私たちは改めて見学し直した。
入り口に「ユネスコ世界記憶遺産」に指定されているナシ族の象形文字(トンパ文字)が掲げられていた。
ナシ族が信仰するトンパ教は、太陽、月、星、山、水などの自然物を崇拝し、万物に霊魂が宿ると信じる。
また、明の時代に繁栄し、王朝から「木」という姓を与えられたため、町を囲む城壁を作ると「困」となるので作らなかったため、商業が発展したという。
博物館の日本語ガイドは、「先祖が残してくれた文字のお陰で、今の私たちが生きて行ける。」と繰り返した。
今では文字の多くが人々に忘れ去られ、現在いる継承者は極僅かだと言う。
博物館の奥に行くと、文字の継承者中第一人者というトンパ先生が、手漉きのトンパ紙にトンパ文字を書いていた。
「家内安全、幸福祈願」「安産祈願」などと筆で書き、販売していた。
私は売店で記念の絵葉書を買った。仲間の一人が買ったトンパ文字のトランプも良かった。
(その翌日私は、トンパ文字で「昨日は幸せ、今日も幸せ、これからも幸せ」と書かれてあるTシャツを、娘の土産に買った)

      

夕食後、数人で近くの食品スーパーに行って見た。いつもホテルやレストランで出される野菜やマントウ類、餃子などが冷凍食品として安く売られていたので、私は少しガッカリした。


 

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菜の花が咲く中国雲南省の旅 (8)

2009年03月07日 | 海外旅行「中国Ⅰ」四川省・雲南省

5日目、昆明の空港を8時45分に離陸した国内便は、約600kmを飛んで9時20分に雲南省の北部の都市、麗江に着陸した。
麗江は標高2400mの高さにあり、人口は112万人で、少数民族のナシ(納西)族、リス族、イ族などが多く暮らす町でもある。
空港の外へ出ると、やはり昆明より気温が大分低い。
麗江にはユネスコの世界遺産が3つある。世界自然遺産の「玉龍雪山」と、世界記憶遺産の「トンパ(東巴)文化」、後一つが「世界文化遺産」の「麗江古城」だ。

空港から真っ直ぐレストランに行き、昼食をとった後、「トンパ(東巴)文化博物館」に行った。
所が間もなくガイドが慌てた様子で来て、「玉龍雪山に登るロープウエイが悪天候のため、間もなく運行を中止するという連絡が入ったので、直ぐにそちらへ向うことにしたい。」という話をした。
私たちは直ぐにバスに乗り、「玉龍雪山風景名勝区」へ向った。
玉龍雪山とは、5000m級の13の峰が一列に並んでいる姿が龍に似ているため、そう呼ばれているナシ族の聖山だ。そのため、万年雪の美しい山は人跡未踏なのだという。

途中で観光バスを降り、ロープウエイ乗り場行きの専用バスに乗り換えると、レンタルの赤い防寒着が用意されていた。
同時にガイドが取り寄せた簡易酸素ボンベ(1本40元=600円)が、希望者に販売された。
私はどうしようか迷ったが、考えたらこの数日間、標高2000m位の所にいて、高地に体が大分慣れている筈だから、さらに2500mプラスの場所なら何とか耐えられるのではと思って、思い切って買うのを止めた。

標高3356mのロープウエイ乗り場に着いた時には、すでに雲が厚く、雪も降り出し、風が強まっていた。
私は、下でこの状態なら、上に行っても何も見えないと思ったが、ガイドは明日の天気の保障はないという。
(写真は①ロープウエイ乗り場の入り口 ②順番待ち ③いよいよ乗り込む)

 ①

順番に並んで小型ロープウエイに数人ずつ分乗した。上に行くに連れ外はますます激しく吹雪出し、ガラスに氷が付いて外が見えない。
そうしている内に1150mある高度の差を、僅か15分で昇り、ついに標高4506mの終点・氷河公園に着いた。
そこには大きい建物があり、中に人が沢山いた。飲み物の売店もあった。
空気が薄いので、ゆっくり歩かなければ呼吸が苦しいし、頭も少しふらついた。友人は目の前が真っ白になったらしい。

建物の外は猛吹雪。だが思い切って木の板でできた遊歩道に出て見た。
もし晴れていたら、眼前に玉龍雪山の最高峰、5596mの「扇子トウ」が臨める筈だが、吹雪いていて全く何も見えない。
風雪で体が吹き飛ばされそうだったが、高度標識の所まで行って何とか証拠写真を撮った。そこに居られたのは数分間だけだった。

 ①売店  ②4506m  

 ③下りのロープウエイにて  

建物に戻って少し休んでから下りのロープウエイで下に降りた。グループの中には一時的な高山病になった人もいたが、私は大丈夫でホットした。
また専用バスで来た道を戻り、私たちのバスが待っている駐車場に着いた時、何と玉龍雪山の主峰がその姿を現した。感動して、慌てて写真を撮った。

  

私が今回の旅で最も期待していた玉龍雪山は、翌日、麗江郊外に行った時にも美しい姿を見せてくれた。
しかし、4506mの展望台で、眼前に白く輝く世界自然遺産の姿を確かめられなかったのは実に残念だった。
だが、この日、高血圧症の私でも、富士山よりずっと高い地点に登れたことは、人生の記念すべき出来事の一つになった。


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