花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

香港・マカオの旅(3)

2011年11月23日 | 海外旅行「中国Ⅱ」江南・黄山・香港、マカオ

≪マカオ≫
3日目の朝、ホテルを出てからフェリーターミナルに行き、香港の出国手続きを済ませてからマカオ行の大型高速船に乗った。
約1時間後、マカオに着いた。ターミナルに入り、入国手続きをしてマカオに入国した。入国審査場には人が大勢並んでいるため、この手続きに1時間近くかかった人もいた。(私は65歳以上の人と障害者用窓口に並んだので早く入国できた)
香港もマカオも今では中国なのに、「一国二制度」を採る間は今までと変わらない体制をとっている事が良く分かった。
マカオには別の現地ガイドがいて、私達を案内してくれた。
ガイドブックによると、1887年、中国へのアヘンの密貿易取締りに貢献したポルトガルが、清朝からその報酬として受け取ったのがマカオなのだ。
しかしその後は、この地域の貿易中継地として香港が興隆したためと大型船の入港ができなかったため、マカオは活気を失って行ったらしい。

マカオは1999年12月にポルトガルから中国に返還されたが、やはり50年間は特別行政区として資本主義が認められている。人口は46万人でその95%が漢民族。公用語はポルトガル語と中国語だが、最近は観光業で英語の必要度が高まって来ているそうだ。通貨は『パタカ』だが『香港ドル』も通用するので、私はお金を『パタカ』に変えなかったが、全く不自由はなかった。
ガイドの話では、現在のマカオの90%の土地は、元々湿地帯だった所を埋め立てて町を作った所だという。今では富裕層の中国人がやって来てカジノを楽しむための超豪華なホテルが沢山建つレジャーランドの様相を呈していた。

私達はバスに乗ってポルトガルの影響を受けた街並みを見ながら、世界遺産の「聖ポール天主堂跡」や「聖ドミンゴ教会」、「セナド広場」の観光に向かった。その途中、観覧席が設けられ、人が大勢いる所に出くわした。ガイドは、毎年この時期はスポーツカーの「マカオグランプリ」があるが、今年は今日からなので、とても混雑していると言っていた。一般道路を閉鎖して、カーレースが繰り広げられるらしい。

マカオの顔である高台に建つ世界遺産「聖ポール天主堂跡」に行った。天主堂は17世紀初めにイエズス会が建立したものだが、建設にはポルトガル人と長崎を追われた日本人キリシタンも大勢加わったのだと言う。
全面の壁は堅牢な石造りだが、背後は木造建築だったため、1835年の火災で焼失してしまったのだと言う。正面ファザードには、キリスト像、マリア像、フランシスコザビエル像の他、漢字の表記などが残されている。こんな場所で自国で迫害された日本人が、マカオの歴史を刻んでいたことに胸が熱くなった。

   

次にそこから少し歩いて「セナド広場」に向かった。石畳の広場を囲むように17世紀に建てられた黄色い「聖ドミンゴ教会」①や政府の庁舎②、16世紀に初代司教が建てた慈善活動施設の「仁慈堂」③が建ち、独特な雰囲気を醸し出していた。夕食後に再度来た時は、広場の建物の内側がライトアップされていて綺麗だった。

 ①  ②

 ③  

バイキング式の昼食を食べた後、マカオタワー、カジノが行われている「ベネチアンホテル」に行った。
「ベネチアンホテル」のカジノでは、中国人が大勢、ゲームに興じていた。昨日のニュースでは、大王製紙の元会長もマカオのどこのカジノかは知らないが、VIP客として庶民には到底考えられないような巨額の遊興費を注ぎ込んだらしいが、そんな一握りの人たちによってこうしたホテルの経営が成り立っているのだろう。広い贅沢なエスカレーター室は、豪華なバロック様式の天井画で飾られていて驚いた。
私達はエスカレーターでホテルの最上階に造られているベニスの運河と町並みを模した巨大なテーマパークに行った。そこでは広大な面積の天井にあたかも本物の天と見間違う屋根が張ってあり、その下の有名ブランドショップや大食堂が大勢の人で賑わっていた。

   

   

ホテルを出た後、運河の向こうに中華人民共和国の広東省地域を見ながら、バスで広東料理の店に行って夕食を食べた。それから再度、「セナド広場」の夜景を見てから、再びフェリーで香港に戻った。香港に近づいた時に船の窓越しに見えた夜景が素晴らしかった。




4日目の朝は5時に起き、6時にホテルを出て、飛行場に向かい、9時半の札幌行き航空機に搭乗した。朝食には前日マカオで買った菓子パンを食べた。
帰りは満席ではなかったが、大半の乗客が香港人で、北海道旅行が目的と思われる人達で溢れていた。たまたま私の隣席に香港のツアーガイドが座ったので聞くと、4泊5日で札幌、小樽、洞爺、登別を回るツアーだと言っていた。
香港から多くの人達が初冬の北海道を訪れてくれている事は嬉しかったが、来道後急に気温が下がり、雪景色になった北海道を見て、感激しながらも寒さに震えているのではと案じている。案外、洞爺や登別の大きな温泉にゆったりとつかって、北海道旅行を満喫したのかも知れないが。

新千歳空港に到着したら15時になっていた。行った日より気温は高めで、小雨が降っている中を帰宅した。
今回は正味2日間の観光だったし、時差は1時間だったのでほとんど疲れなかった。そして香港もマカオも実際に行って見て、初めて現地の様子や歴史が分かり、本当に良かった。(完)


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香港・マカオの旅(2)

2011年11月22日 | 海外旅行「中国Ⅱ」江南・黄山・香港、マカオ

また香港は「100万ドルの夜景」で有名だが、日没後、高層ビルに一斉に明かりがつくのを高台のビクトリアピークや海上のスターフェリーの船内から見ると、まるで丈の長い光のカーテンが張り巡らされているように見えるからなのだ。
クリスマスが近づいた今頃からは、ビクトリア湾に面したビルが思い思いにデザインしたイルミネーションを揃ってつけるのも人気を呼んでいた。
しかし、今回は小雨が降る中での見物だったので、私達は残念ながら両方ともすっきりとした夜景を見られなかった。

      

          

中国本土と違って屋台はほとんど見当たらなかった。ガイドの話によると政府が不衛生だとして禁止したらしい。
その代り、食堂は朝4時頃から営業しているそうで、7時過ぎに散歩をした時、幾つもの飲茶料理店に客が入っていた。また、蒸し饅頭を売る店に立ち寄って、私たちが菓子パンを買う様に朝食用に買って行く人も多いようだった。



私達が飲食に使ったレストランの食事は、どこも中国本土に比べて全然脂っこくなく、塩味も薄くて美味しく食べられた。イギリスの影響を受けたためだろうと思う。中国旅行ではいつも胃腸を壊し、1~2日間絶食を余儀なくされるのに、今回はたった4日間で私の体重は1kgも増えてしまった。暫くダイエットしなければならないが、増えた体重を同じ日数で戻せるだろうか。

免税店に案内された時、ブランド品には関心が無いので、ガイドから聞いた近くの「ペニンシュラホテル」に案内してもらった。
このホテルは1928年に創業した香港のトップホテルだ。しかし、実は日本との関係が深い場所でもあった。

1941年12月8日、日本軍はアメリカの真珠湾を攻撃した日に、香港への侵略も始めていたのだ。
ガイドブックによると日本軍は中国深センから国境を越えて九龍市街地を占拠し、香港島へと迫った。香港島にいたイギリス軍と戦闘に入り、25日に日本軍が勝利した。その後、敗戦までの3年8か月間、ペニンシュラホテルを接収して軍政庁にし、香港を南方侵略の基地として占領したという。
その間、香港では食料不足が激化して餓死者が続出、100万人の人々が香港を脱出したらしい。
1945年8月15日、日本が無条件降伏するとイギリス軍がやって来て、香港を支配下に置いたのである。
今でも8月の最終月曜日を「香港解放記念日」として祝っているのである。
日本が戦争をした責任は私には直接無いが、こうした歴史的な事実を踏まえた上で旅行をする必要は絶対にあると思う。

今、ホテルの1階レストランでのアフタヌーンティーが人気で、私が行った時にも20人以上の人達が並んで待っていた。2階の隅では丁度「カルメン」の曲を小楽団が生で演奏していて、ロビー全体が素敵な雰囲気に包まれていた。席が空いていれば私もお茶を飲みたかったが、次回訪れることがあれば、また来たいと思った。

       




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香港・マカオの旅(1)

2011年11月21日 | 海外旅行「中国Ⅱ」江南・黄山・香港、マカオ

庭木の冬囲いを済ませ、先の16~19日の4日間、香港とマカオに行って来た。
今までトランジットで立ち寄った事があるものの、香港がどんな町か知らなかったし、札幌(新千歳)空港から香港空港までのキャセイ航空の直行便を利用したツアーがあったので出かけたのだ。
今回のツアーは4日間といっても、初日は午後4時札幌発の航空機で行き、中2日間だけ観光して、4日目の最終日は早朝に飛行場に行き、9時半発で帰国するという忙しい旅だった。それに私は同行者がいなかったので、1人室の追加料金を払っての旅だった。

事前に現地の気温を調べたら、最高気温は28度になるという予報だったので、北海道と温度差があり過ぎて心配したが、観光した2日間共曇り、時々雨だったため、最高気温も26度と低くラッキーだったが、雨で太陽が出ていないので写真には最悪の天候だった。
今回は観光した場所の様子を1つ1つ書くことは止めて、心に残った事を中心にまとめて見たい。

≪香港≫
札幌からの添乗員はいなかったが、香港空港で迎えてくれた現地ガイドは、香港に30年以上暮らしている日本人女性だったので、現地の生活事情に詳しかった。
1997年にイギリスから返還された香港は、その後も社会主義国の中国から特別行政区として50年間の自治権が認められている資本主義の場所だ。繁華街には世界中のブランドショップが立ち並んでいるが、ビルの地下通路ではホームレスと身障者が物乞いをしていた。
香港は日本と同じアジアの金融の中心地でもあり、中国の元とは異なる香港ドルが通貨だ。最近の円高の影響で、1香港ドルは10円だった。香港島には香港の3つの銀行の他、世界中の銀行が集まっていた。また多くの世界的な企業のビルは、どれも立派だった。

  

現在、多くの島の集合体香港には人口710万人が住むが、土地が狭いために一戸建ての家を建てる事ができない。幸い地震が無いために高層の集合住宅を建てて、その中でほとんどの人が暮らしているという。
ガイドの話によると、低所得者は数十年前に建てられたエレベーターの無い6階建て以上の1~2室のアパートに家族5~6人で住んでいる事が多いらしい。新しい高層マンションも次々と建っているが、100㎡程度だと1億円を下らないので、日本円で1~2万円の月給で暮らす普通の労働者は買う事ができないという。それに失業者も6%以上いて、香港は酷い格差社会だとガイドは言う。
バスから見えたあるビルは、窓にはガラスが無く、安全のために鉄格子だけが入っている古いアパートだったが、ガイドがこれは「難民アパート」と言われていると説明した。
また、窓にガラスが入っている一般向けアパートは狭く、2畳程の広さの台所と6畳程の居間、それに3畳程度の寝室が2室ある位だそうだ。しかし天井は比較的高く造られていて、3段ベッドを置いて生活しているのだという。ガイドは香港の一般住宅は「ネズミ小屋」だと言っていた。
しかし、多くの古い汚いビルが立ち並ぶ背後に、真新しい高層マンションが天にそびえる様に建っていて、それが今の香港の普通の街並みだった。
香港島の高級住宅街を通った時、塀の上にバラセンを設置した所もあった。



 

庶民の足は2階建ての路面電車やバス、島を渡るフェリーだった。路面電車とフェリーには乗った。

   

 








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今年のパークゴルフ

2011年11月14日 | 軽登山・登山・軽スポーツ
私より5歳年上の従妹は、時々札幌からパークゴルフをするために我が家にやってくる。
何故なら札幌のほとんどのパークゴルフ場は、バスや地下鉄の駅からは遠く、車でやっと行ける場所にあるから、車の無い従妹は行く事ができないのだ。
JRで我が家に来れば、従妹専用の用具を用意してあるし、私の車でぱっと行く事ができるからだ。
そんな訳で、従妹が時々来るようになってから数年になる。

先程カレンダーのメモ書きを見たら、今年従妹とは5月から先日まで9回したことになった。こんなに少ない回数では技術が向上する筈はないのだが、2日前にした時、私の成績が良かったのでその翌日にも一人でやりに行った。
ところが相棒がいないと緊張感が持てず、成績は悪化した。おまけに1人なら次々とプレイして進むので休む間がない。それで2時間もしたらすっかり疲れてしまった。やはり従妹と一緒にああだこうだと言いながらするのがいいのだ。
市のパークゴルフ場は11月末で営業を止めるので、それまでに後1回は従妹と一緒にしたいと思っている。
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堆肥作り

2011年11月12日 | ガーデニング・家庭菜園
園芸には堆肥が必要だ。栽培した野菜の残渣、花や木の剪定ごみ、そして生ごみも有料の市の燃えるごみに出す事もできるが、これらで堆肥を作ると数か月でできるので3年ほど前からコンポストを買って利用している。
現在は市から費用を一部助成してもらって買った大きいコンポストと、今春、自分で買った少し小さめのを使っている。
生ごみはそのままで、剪定した葉や小枝、残渣は小さく刻んで入れ、時々土と米ぬかを投入する。昨日は、物置を片づけた時に出てきたもみ殻も、邪魔なので混ぜた。
最近は薔薇を剪定したごみが沢山あり、また昨日は強い霜で駄目になった秋明菊3株を投入したら2つとも一杯になった。そこで片方のコンポストを外し、熟成した下の方の堆肥を薔薇の根基に施したが、冬の間の空きが少なくなったので、急遽、傍に穴を掘り、後でこの穴にコンポストの中身を移す事にした。これでコンポストがまた春まで使えそうだが、しかし穴掘りには疲れた。
                  
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庭木の冬囲い完了

2011年11月09日 | ガーデニング・家庭菜園
10月29日から開始した冬囲いの作業が、やっと本日終了した。
雨が降ってできなかった日を除き、1日2~3時間平均作業して7日間位かかったかな。

本日は最低気温が-1℃、最高気温が9℃。今朝、2度目の霜が降って6株のダリヤが全て萎れてしまったので、地上部を切って片づけ、球根を掘って段ボールにしまった。後で床下にしまう。
最後まで花が咲いていたバラのつぼみや花を切り、花束にしてご近所に配った。そして全ての冬囲いを済ませた。
今年は長さ「中」の竹を5束(50本)買ったのだが、最後は竹や園芸用の金属棒が足りなくなり、何とかやりくりをした。
作業を済ませてからした数を数えて見た。何と100箇所だった。
1か所に3本の竹を使ったとしたら300本だが、大きいツツジなどは長い竹を4~5本使ったので、狭い庭がすっかり竹林になってしまった。
この状態で3月末まで置くことになる。こうしておけばそれまで降った雪が2月に固く絞まり、春に向けて徐々に下に下がって行っても枝が引っ張られて折れたりしないのだ。これで一安心した。

                              
いよいよ来週月曜には雪が降るらしい。今度は車の冬支度だ。
一昨年までは年2回のタイヤ交換を自分でしていたが、だんだんタイヤ脱着時の力が足りなくなって来たので、明日にでもガソリンスタンドに行って冬タイヤに交換しようと思っている。


       
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晩秋の庭(3)

2011年11月04日 | ガーデニング・家庭菜園
今朝起きてカーテンを開けると、庭が白い。遂に氷点下の気温になり霜が降りたのだ。
覚悟していたとは言え、花々がまだ綺麗に咲いていたのに残念だが致し方ない。
明日から3日間ほど雨が続くそうなので、今日の内に残った庭仕事をできるだけしたいが、午前中は病院の予約の日だった。

昨日まで咲いていた花の写真である。

   

   
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晩秋の庭(2)

2011年11月03日 | ガーデニング・家庭菜園
今日、明日まで秋晴れが続き暖かそうだが、土日曜日は雨の予報が出ている。
昨日はマーガレットの茎を折って小さな鉢に挿し芽して見た。
アルストロメリアの球根を分けて上げた家の方が、一昨日、エンジェルストランペットの挿し芽した小さな鉢を届けてくれた。室内で大事に育てたい。

来週、もし気温が下がり、霜が降りたら、真っ先にダリアが全滅する。そうなれば花や茎を片づけ、球根を掘り上げて室内で(床下なのだが)保管しなければならない。(グラジオウラスは既に球根を掘り上げて保管した。チューリップや水仙などは寒さに強いので、今年は堀り上げずにそのままにする)

また、薔薇が駄目になったら、茎を縄で縛り冬囲いをする。(花を駄目にしない内に、切り取ってドライフラワーにして見るのも良いかも)
薔薇だけで50株あるので、結構、時間がかかるが、来年また綺麗に咲いて欲しいので頑張るつもりだ。
菊も花が終われば茎を切って始末したい。(先日から菊やダリアを切って、近所にも差し上げている)
花の種も採っておきたいし、北国の庭仕事は、もうしばらく忙しい。

    

         

    
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ドイツの旅(18)

2011年11月02日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅣ」ドイツ・ピレネー山脈縦断

最終日の午後、再びフランクフルトに戻り、先ず旧市街にある4階建ての贅沢な「ゲーテハウス」に入った。
ここはゲーテが1749年8月に生まれた家で、父は皇帝顧問官、母はフランクフルト市長の娘で、一家はこの町の屈指の名家だったという。第二次世界大戦で建物は破壊されたが、市民の強い要望で復元したものなのだ。
一室ごとに壁紙が異なり、調度品も豪華だった。この家にはゲーテが青年時代を送った場所というばかりではなく、18世紀の名家の様子が窺えた。
ここでゲーテは「若きウエルテルの悩み」「ファウスト」などを書いたと言う。

  

最後にフランクフルトの旧市街に案内され、旧市庁舎「レーマーハウス」の前のレーマー広場で解散して、それぞれ1時間ほど自由に散策した。
見ると市庁舎前に大勢の人が集まっていた。どこかの国の指導者が来ると言うのだ。私もカメラを構えて待つこと4~5分。10台程の大型バイクを先頭にして、大型の黒い車から中年夫妻が降り立った。市庁舎の入り口に出迎えたのは、多分市長夫妻? 早速シャッターを切ったが、最後まで誰が来たのかは分からなかった。 

  

広場を挟んで市庁舎の反対側の建物も写して置いた。

      

「フランクフルト」とは、「フランク族の浅瀬」という意味で、フランク族が戦いの時にマイン川の浅瀬を越えた事に由来しているらしい。彼らは漁業と水運で財をなし、中世には帝国自由都市として認められ、ますます商業活動を発展させたという。
現在の人口は70万人。EUが統合してからは400以上の銀行が出店していて、欧州中央銀行もあり、EUの経済の中心地なのだ。高層ビルと中世の建物がすぐ傍で共存している面白い町だった。
自由時間の残りをマイン河畔に行ったり、賑やかな通りの店を覗いている内に時間が経った。ゾーリンゲンの刃物店や写真のハーゲンダッツのアイスクリーム店もあったが、15分程立ち寄った文房具店の豊富で珍しい品揃えに魅力を感じた。

  

集合後、ドイツ第一のフランクフルト空港に行き、搭乗手続き後、20;45発の全日空機で成田に帰国した。
私はさすがに長旅で疲れたらしく、飛行機が離陸すると機内食の夕食が出る前に寝込んでしまったらしい。(友人はその夕食が美味しかったと言っていたので、私は何故起こしてくれなかったのか残念だった) 11時間15分かかった飛行中、多分8時間以上は窮屈な姿勢のまま熟睡していたのだろうと思う。
成田に翌日の15時に着いたが、札幌行きに乗り換えて帰宅したら22時を回っていた。今回は遠いヨーロッパの往復はやはり疲れると特に強く実感した。




こうして旅日記を書き終えて強く思った事は、①ドイツ人は過去の歴史や遺跡、古い記憶や建物に誇りを持ち、大切にする国民だったという事だ。
石の建造物が多い事からも、長く残りやすいとも言えるが、戦争で破壊された建物を何年もかけて復元する強い意思には見習いたいと感じた。
やはり歴史は、実物が残っていて初めてリアルに子孫に伝わる。また、権力者が建てた豪勢な建物も、当時の建築家や芸術家の技術を集めたものだと考えると、皆、人類の大切な遺産なのである。

②食事はじゃが芋と肉やソーセージが中心で、ホテルではパンは朝だけ出た。レストランの昼夜の主食は、付け合せのじゃが芋だけ。写真左は、茹でたビーフの薄切り肉に添えられたじゃが芋だ。右はチキンに添えられたじゃが芋。じゃが芋も肉も茹でただけでほとんど味がつけられていなく、ソースが掛かっていた。

      

私も帰国後は、ドイツに習って自分で収穫したじゃが芋を一生懸命食べている所だ。じゃが芋は調理しても壊れにくいビタミンCを含み、高血圧を抑制するカリウムも多い。また味が淡泊なので調理法を工夫すれば美味しく飽きずに食べられるのだから。

③またバスで移動中、あちこちで風車を見た。
ドイツはエネルギーの9.3%(2004年 出典: VDEW 2005, estimated; BMU 2005, preliminary)を再生可能エネルギーで賄っていて、その内訳はバイオマスが1.6%、水力が3.4%、風力が4.2%、太陽光0.1%だ。いずれも発電した電力を近場の発電所が買い取らなければならないことになっていて、実際に家庭が買う電気の料金は値下がりして来ているという。
ドイツは風力による自然エネルギー先進国だったのだ。しかし、風車を建てる場所がもう飽和状態なため、今後は海上に建設することも検討されているらしい。

  

今回、歴史が色濃く残るドイツの街々を訪ねて、多くの事を学び、楽しかった。いつかもう一度、ベルリンには行きたいと思っている。
この記事を読んでいただいた方々には、長く拙い「ドイツの旅」の報告にお付き合いいただき、またコメントを寄せていただいた事に感謝している。
私が撮った写真と書いた文が分かりにくかったのではと心配している。(完)





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ドイツの旅(17)

2011年11月01日 | 海外旅行「西ヨーロッパⅣ」ドイツ・ピレネー山脈縦断

≪マインツ・フランクフルト市内≫
ドイツの旅も最終日、9日目になった。3泊したフランクフルトのホテルで朝、スーツケースを廊下に出してから3回目の豪華なバイキング式朝食を食べ、9;30にバスで西方45kmの町、マインツに向かって出発した。

先ず、シャガールの描いたステンドグラスで有名な「シュテファン教会」に行った。
住宅街の静かな場所に立つ小さな教会だったが、ここは14世紀に建立され、戦災後修復されたらしい。
シャガールが1978年にユダヤとキリスト教の協調を表すものとして正面のステンドグラスをデザインしたと言う。シャガールに依頼したのは、ロシア生まれで自身が東洋系ユヤダ人だったからだ。
中は青色のステンドグラスを通して入ってくる青い光に満たされていた。ここでシャガールの絵の小さな来年用カレンダーを土産に2つ買った。

   

その後、モダンな住宅街を抜けて、旧市街の「マインツ大聖堂」まで歩いた。その途中の住宅街で素敵な像の噴水を見つけた。雨の日はさらに傘から多くの雨が流れ落ちてリアルさが増すのだろうと思った。
「マインツ大聖堂」はドイツの三大聖堂に入るそうで、起工は975年だと言う。大きな主祭壇には、とても荘厳な印象を受けた。
大聖堂前の広場では、丁度週3回開かれると言う朝市が開かれていて、野菜、果物、パスタ、ワイン、蜂蜜など多彩な商品が並べられていたが、パスタを袋に入れて人形にして売っている店が珍しかった。また大きなマンゴーなども珍しかった。

   

   


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