とにあえず切り取った我が家分の花を花瓶2つに分けて挿した。まだ蕾の状態のは花瓶の中では咲かないと思うが、一緒に飾って見た。
種類が凄く沢山で格好が付かない。
けれども薔薇の花の芳醇さは現れているように思うが、如何だろうか。
今年の庭の最後の花なので、涼しい玄関に置いて花が駄目になるまで少しの間、眺めようと思う。
今朝のニュースで、世界経済フォーラムが28日発表した「各国の男女格差指数」を報じていた。
日本は142カ国中104位だというのだ。それでも昨年よりは1位上がったらしい。
新聞を開いて記事を読んだ。
日本の分野別男女平等順位が出ていた。
「政治への参加」129位(他国の女性議員の比率が上がったので、11位下がった)
「職場への進出」102位(女性の収入が上がったので、2位上がった)
「教 育」 93位(大学に進む女性の比率が先進国より少ないので、2位下がった)
「健康度」 37位(3位下がったが、健康寿命の長さは1位)
「総 合」 104位
安倍内閣が「女性の活躍」を掲げて9月の内閣改造で5人の女性議員を入閣させたが、ご存知の通り、2人が辞職した。
毎日のニュースで、妊娠、出産を理由に、解雇、昇進差別を受けたという女性の事が報じられている。
「マタニティ・ハラスメント」(妊娠を理由にした嫌がらせ)も、まだまだ多いのだ。
40数年前になるが、私自身、最初の妊娠を上司に報告した際、「だんだんみっともない体型になるのだから、仕事を辞めなさい。」と言われた事に強く傷付いた経験がある。そういわれた事で逆に強い気持を持つことができ、厳しい仕事を何とか停年まで勤め上げる事ができたのだが。
また、同僚男性達の言葉にも何度も傷付いた。
一番多かったのは、給料日に「いいなあ。君の家は2倍の収入があるんだから…」と言われることだった。働き続けることの大変さには思いを巡らさずに、良い点だけを羨ましがるので、「そう思うなら、あなたも奥様に働いてもらったら?」と言い返すしかなかった。
経験的に私が一番の問題に思うことは、明治以来続いて来て、未だにある「男尊女卑の社会風潮」だ。
女性を人生の対等なパートナーとは考えないで、「家長(大黒柱)である働き手の男性を、家事、育児、親の介護もしながら陰で支える『家内(内助の功)』の役割」を期待して来たのだ。
その考え方は、一方で税制や年金制度の基調となる「モデル家族」にも適用されて来た。それは「1人の主人と専業主婦、2人の子ども」で構成される家族をモデルとして来たのである。
逆にその伝統的な男女の役割分担は、結果的に男性には、経済的責任、家族の責任を押し付けて来たし、逆に専業主婦には年金受給の「優遇税制」を用いて来た。
専業主婦は1円も年金の原資を払わずとも、夫死亡後は約75%の年金受給引継ぎ権を持っているが、その財源は、働く女性と独身男性達が払っているのである。
専業主婦の雇用の105万円の枠とか130万円の壁とかいう現実も、女性から働く自由度を奪い、女性を伝統的な男女役割分担に閉じ込めて来たといえる。
しかし今は、共働きしなければ生活して行けない家族が多くなり、また、結婚しない、したがらない若い男女が増加している。少子高齢化が急速に進行し、将来の日本の労働力不足、年金、税金の担い手不足の問題も直面した現実である。
日本も本腰を入れて、女性が生き生きと社会でも活躍できる社会、それを良しとして積極的、現実的に働く女性を支える男性や企業の存在が当たり前の社会を作り出さなければならないと思うのだが、いかがだろうか。
≪首都「ウイーン」にて≫③
午後は約5時間の自由行動だった。解散したのは「オペラ座」の前だった。
私は同じ1人参加の気が合う人と2人で、「ウイーン中央墓地」と「オペラ座見学」の2箇所に決めた。「オペラ座見学」の時刻は3時からだったので、先ず17番電車に飛び乗って「中央墓地」に向かった。
切符は電車内で買うと高いので、予め「キオスク」から1枚2.2€のを往復分買って置いた。それを乗車後直ぐに電車中央の青色刻印機に入れて刻印した。そうしておかないと、検札の人が来た場合、罰金を取られるのだ。
電車は高層ビルが建て込む市内から、徐々に郊外の住宅地に向かった。30分程乗って「中央墓地前」で下車した。
門の横には大きい花屋があった。中に入ると街路樹が生い茂った広い道路があり、その両側に墓標が立てられていた。
以前市内5箇所にあった墓地を、1874年にここに1つにまとめたのだそうだ。良く手入れがされた公園の様な墓地だった。
草刈をしていた男性にに聞くと、ウイーンで活躍した楽聖たちが眠っている左側の32A区に案内された。
クラシック好きの私にとっては、有名な作曲家が一同に眠っている墓地は、まさに聖地だった。
(べートーベン)
(シューベルト) (モーツアルト)※遺骨が無いので「モニュメント」である。
(マーラー) (ヨハン・シュトラウス 父?)
(ヨハン・シュトラウス 子?) (フランツ・スッペ)
雨が落ちて来たので、それ以上探索するのを止めて、電車で「オペラ座」前に戻った。
2時45分になっていたので、急いで館内見学の受付に行った。既に大勢の人が並んでいた。
並びながら途中に2箇所置いてあった立て看板を見ると「一般料金は7.5€、65歳以上のシニアー料金は6€」と書かれていた。私は窓口にパスポートを見せて「シニアー」と言って買った。
私以外は誰もそれに気付かなかったらしく、僅か1.5€の事でも皆残念がっていた。
説明員男性の案内で入り口階段周辺、待合場所、貴賓室、劇場などを回った。パリのオペラ座を見学しているので、余り驚かなかったが、日常的に本物の音楽やオペラ、バレーなどに接することができる環境のウイーン市民が実に羨ましかった。
館内の写真は、フラッシュが禁止されていた。
これで「オーストリア12日間」の観光が全て終った。
最後の夕食は、居酒屋「ホイリゲ」で熟成がまだ若い今年のワインを飲みながら食べる食事だった。私達が行った所は、世界的な有名人も訪れた時の写真が飾られていた。
翌日は午後13;20発のオーストリア航空成田直行便で帰国した。機内は満席で、機体がかなり揺れたが、予定通り無事に帰国できた。
これで長かった「オーストリアの旅」19回を、何とか完成させる事ができた。歴史、文化、芸術、自然のどれもが豊かな「オーストリア」は、予想通りの素敵な国だった。今回も私の旅に付き合ってくれた皆さんには感謝を申しあげる。皆さんは記事からこの国をどう思っただろうか。 (完成)
≪首都「ウイーン」にて≫②
いよいよ旅も終りの日が近づいて来て、10日目は午前中が「ウイーン市内の観光」、そして午後は自由行動だった。
朝9時にホテルを出て、最初に「シェーンブルン宮殿」に向かった。
私自身は2回目だったので、グループの人たちに写真を撮って上げたりした。
この宮殿は17世紀の初めに狩猟用の森だった所から美味しい水が発見された。その後1696年に「レオポルド一世」の命で起工。フランスの「ベルサイユ宮殿」に負けない美しい宮殿を建てることになったが、財政難で計画は縮小された。
1743年、女帝「マリア・テレジア」が大改築を命じ、今日の様な壮大な規模の宮殿になったという。
1805年、「ナポレオン」がウイーンを占領した時は、この宮殿が宿舎として使われた。
また、1918年、「カール一世」が皇帝の退位文書の署名をし、ハプスブルグ家最後の皇帝となった。翌日、宮殿は「オーストリア共和国」の所有となった。
宮殿の部屋数は1441室あり、一般には2階部分が公開されている。写真撮影は禁止だった。
私は、今回初めてグループとして「ベルグルの間」を観光した。夏涼しい一階部分に「マリア・テレジア」の希望によってしつらえられた彼女専用の部屋が幾つも並んでいた。居間、食堂、寝室など、どれも自然や南方の動植物を愛したという彼女の好みで豪華に飾られていた。隠し扉もあって、興味が持て、満足した。
外に出てから小高い丘に建つ軍事的な記念碑の「グロリエッテ」を眺めた。歩くと片道20分はかかるそうだ。
この時期はまだ草花が沢山咲いていて彩りに溢れていたが、10月半ばになると冬景色になってしまうのだろうなと思いながら眺めた。
次にバスで「シュテファン寺院」に向い、傍で降りた。
「国立オペラ座」から「シュテファン寺院」までの500m程は「ケルントナー通り」と言われ、歩行者天国だった。
「シュテファン寺院」の尖塔は137mあるとか。近くからは写真に入らなかった。
ここにはハプスブルグ家の歴代君主の墓がある。また、モーツアルトが結婚式をし、葬儀を挙げた教会でもある。外観はゴシック様式だが、内部の祭壇はバロック様式で建てられている。
地下室の「カタコンベ」には、猛威を振るったペストの死者2000人の遺骨が納められている。
寺院内は豪華ではあるが歴史を感じさせる落ち着きもあった。
≪首都「ウイーン」にて≫①
「バッハウ渓谷」をクルーズし、「デルンシュタイン」で自由散策後、バスで1時間半かけて初日に泊まった「ウイーン」に戻った。
ホテルに行く途中、「オーストリアのガウディ」と言われている「フンダートヴァッサー」(1928~2000年)が建てた代表的な建築である「市営住宅」を見に行った。華やかな色彩と曲線で造られた建物だったが、私自身は見るなり混乱してしまった。
夜は「楽友教会」で行われる「モーツアルト・コンサート」に行く事になっていた。会場が市民公園の傍だったので、そこにある「ヨハンシュトラウス像」を見に寄った。軽く華やかなダンス曲を多く作曲している彼に相応しく像は金色だった。
少し離れた所に大きな花時計があった。
公園から「楽友教会」のコンサートホールは近かった。この黄金のホールは、ウイーン・フィルが毎年行う「ニューイヤーコンサート」の会場なのだ。
席は全て指定席で空席は少なかった。舞台の左右に客席を向いて座る席もあるのには驚いた。指揮者も演奏する人たちも皆、カツラをかぶってモーツアルトの時代の衣装をしていた。
私達は舞台の直前席だったので、首が少し痛くなったが、約2時間の演奏と歌曲を十分に楽しむ事ができた。
(演奏中以外は写真撮影ができた)
≪「バッハウ渓谷」をクルーズ≫
「ドイツ」から流れて来た「ドナウ川」は、オーストリアの北部を潤しながら「ウイーン」を越えて隣国「スロバキア」に流れていく大河だ。
「メルク」から「クレムス」にかけての渓谷には古城が多く、また、川岸の斜面にはワイン用の葡萄が栽培されている景色に人気があるらしい。私達は「メルク」の船着場からクルーズ船に乗り込み、東側に30km離れた「デュルンシュタイン」までの1時間半クルーズを楽しんだ。甲板にいると、景色は良いが風が冷たくて寒いくらいだった。
船内は、ドイツ、フランス、ロシアなどから来た観光客で一杯だった。途中の駅からは小学生も乗船して来たので、船内は大賑わいだった。小学生の男児は甲板の上の階から顔を出し、茶目っ気振りを披露していた。
人口1000人に満たない小さな町「デュルンシュタイン」が見えた。下船して1時間余りの自由時間を思い思いに楽しんだ。
ワインの名産地という事で酒屋で試飲もできた。私はここで93歳の伯母に小瓶の「杏のリキュール」を求めた。
伯母からは「何とも言えないような味の美味しいお酒でびっくりしたよ。」という電話が来た。
川沿いの道路を走って迎えに来たバスに乗り、再び90km離れた首都「ウイーン」に戻った。
≪メルク修道院≫
旅の9日目は「ザルツブルグ」を後にして、バスで2時間半かけ、東北東に213kmの距離を「メルク」に向かった。距離的には「ウイーン」に近い場所にある町なのだ。
30分走った所で雲が低く漂う景色が見えた。湖から立ち上った水蒸気が、冷えて雲になったらしい。幻想的で美しい景色だった。
山側の丘の上には農家が見えたが、屋根に太陽光発電パネルをつけていた。
「メルク」の町に入った。ここは現在、人口僅か5200人ほどの田園光景が広がる町だが、この町の特徴は「メルク修道院」の存在だ。
最初は11世紀にベネディクト派の修道院として建てられたが、18世紀に改築されて、現在のような「バロックの宝石」といわれる豪華な姿になったという。
またこの修道院を有名にした出来事は、「マリー・アントワネット」が1770年にフランスへ嫁ぐ途中、ここで一泊したことである。
バスを降りて小さな階段を下りると門が見えた。
正門を抜けると広い中庭に出た。
中庭の奥の入り口から修道院の建物に入った。内部はフラッシュ撮影が禁じられていた。
「大理石の広間」の天井画は、まるで宮殿の大広間と間違えてしまうような豪華さだった。
「付属教会」を外から見てから、内部を見学した。ここも華麗な装飾が施されていた。
10万冊の蔵書を誇るという付属図書館も教会に隣接していた。豪華だったが、内部は撮影できなかった。付属教会を出て空を見上げたら、秋の鰯雲が出ていた。
≪「ザンクト・オルフガング」という町≫
この町は、「ザルツブルグ」からバスで1時間40分程のところにある人口2800人の小さな町だ。
「オーストリアの旅」(7)に書いたように「ヴォルフガング湖」の湖畔にあって、標高1783mの「シャーフベルク」山に登る登山鉄道が出ている。
今回は、5日目と6日目にこの町で連泊したが、町の散策は出発する7日目の朝に、各自で1時間ほどしただけだった。こじんまりとした町だったが、とても美しかった。
まず出発の準備をしてから「地区教会」に行った。15世紀に書かれたという祭壇画が重厚な雰囲気を醸し出していた。
次に小さな船着場に降りて見た。船着場の傍にはホテルやレストランがあり、花で素敵に飾られていた。この辺りが映画の撮影舞台として使われたことがあるそうだ。
≪チロルの伝統的な木造建築のある町≫
5日目に立ち寄った町「ハル」「アルプバッハ」には、歩道の面白い絵や花で美しく飾られた家々、「牛祭り」の行列、湖畔に立ち並ぶ風光明媚な町があり、見るだけで心が癒された。
日本では敷地も家も塀や生垣などで囲って、外部の人には見えない様にすることが多い。
ヨーロッパを旅行すると、いつも行きずりの人を意識して住まいを表現する。「おもてなし」とは何かを教えられるのだ。
≪「ザルツブルグ」という街≫②
「シュターツ橋」を越えた南側一帯は旧市街だった。
最初に「モーツアルトの生家」が建つ場所へ行った。独特の黄色い色をした建物の4階部分に1747年からモーツアルトの父母が住んでいたという。
父「レオポルト」と母「マリア・アンナ」の間には7人の子どもが生まれたが、成人したのは4番目の女児ナンネルと末子のモーツアルト(1756年1月27日生まれ)の二人だけだったという。
音楽教育者でありバイオリンニストで、当時、ザルツブルグの宮廷音楽家だった父は、早くからモーツアルトに天才振りを見出した。
大司教の理解を得て「ミュンヘン」での演奏旅行を初め、6歳の時にはウイーンのマリア・テレジアの御前でもその才能振りを披露した。
以降、父と一緒にヨーロッパ各地で演奏旅行を成功させた。その傍ら、作曲も手がけて行った。
この「生家」には、彼が使った「クラビーア」(当時の小型ピアノ)や直筆の楽譜、生活用具、肖像画などが展示されていたが、撮影は禁じられていた。
しかし、22歳で母が死去、26歳で結婚した後に父も亡くなった。35歳の12月にモーツアルトは死去したが、死亡原因の特定や遺体や遺骨は、未だどこにあるのか確認されていないのだという。一説によると、当時の社会の黒幕の手で暗殺されたのではとも言われている。
次いで「ゲトライデガッセ通り」に出た。この通りはとても狭いが、両側に商店がぎっしりと立ち並んでいて、それぞれの店が出している鉄細工の看板がユニークだった。(文字が読めない人が多かった時代でも、看板を見れば何の店か分かるのである)
傍に「大聖堂」があり、その付近が広場になっていた。広場ではテントを張って屋台が軒を並べ、賑わっていた。私はその一つの店でモーツアルトの絵葉書を買った。
また人形店では、温か味がある手作りの人形が売られていた。
「塩専門店」に行ったが、色々なハーブを混ぜ込んで付加価値を高くした塩が沢山売られていた。一昨年、チュニジアの塩湖で取って来た塩がまだある私は、何も買わなかった。
自由時間に知人と「大聖堂」に入ってみたが、「モーツアルト」が洗礼を受けた洗礼盤があった。また、5つものパイプオルガンが設備されていたが、その1つ(前の右手)がモーツアルト専用のものだったことを知った。
≪「ザルツブルグ」という街≫①
旅の8日目は、午前中に世界遺産「ザルツブルグ」の市内を観光した。
「ザルツブルグ」は、オーストリアの中央部北側に位置する人口14万人の町で、「ドイツ」との国境に近い。町の名は「塩の城」に由来する。この街の周辺から岩塩が沢山取れ、その販売によって大きな利益を得、発展した町なのだ。
バスは電気で動く「トロリーバス」だった。
一方でこの町は、作曲家「モーツアルト」の故郷としても知られている。
私達は先ずバスで新市街の「ミラベル宮殿」に行った。
ここは1606年に大司教ヴォルフ・ディードリヒが愛人サロメ・アルトと過すために作った大きな館だ。現在は市役所、結婚式場として使われていて、日本からもカップルが来るという。広大な庭園では、ギリシャ神話の神々の彫像や幾何学模様に草花が飾られていた。
立ち上がろうとして後ろ足だけで固定されている馬と噴水など、財力を欲しいままに使った当時の大司教の権力の大きさを表わしていた。
またこの庭園のあちこちにアメリカ映画「サウンド・オブ・ミュージック」が撮影された場所が幾つも残されていた。
庭園を出て「ザルツァッハ川」に架かる「シュターツ橋」を目指した。川を前にした角の家が指揮者「ヘルヴェルト・カラヤン」が住んでいた家で、もう一方の角の建物が最高級ホテル「シュタインホテル」だった。
「シュターツ橋」の欄干には、もう珍しくは無いが、愛を誓う錠前が多数掛けられていた。
橋から高台に目をやると、そこには「ホーエン・ザルクブルグ城砦」が聳えていた。
この城砦は、1077年当時、神聖ローマ帝国皇帝とローマ教皇の争いが起こり、教皇側だったザルツブルグの大司教が建造を始めたという。ここは見学しなかった。