新千歳空港から3時間弱で韓国へ行ける直通の飛行機の旅があったので、行くことにした。
韓国映画やドラマの撮影舞台として多く使われる済州島に3泊と、ソウル1泊のツアーだ。
韓国は2回行っているが、今回はやはり韓流ドラマが好きな妹と行く。
野菜が一杯で美味しい韓国料理も楽しみだ。
数日留守にするので、今朝、ほとんど雪が溶けた庭木の冬囲いを外したり、根本に保温のため置いてあった枯れ草を片づけた。
見ると今冬は積雪量が多かったせいか去年よりも傷んだ木が多い。しかし、チューリップやヒヤシンスなど秋に植えて置いた球根類が一斉に発芽しているので、留守の間に伸びると思うと帰ってくるのが楽しみだ。厳しい冬を乗り越えた草木がこれから半年、生き生きと伸びていって欲しい。
実は、一週間前に娘からメールがあり、春の異動の内示があったと報せて来た。娘は今までの3年間、車で1時間の町で働いて来たが、4月からは車で3時間半かかる遠くの町での勤務となるのだ。
現在なら、いざ何かという時には駆けつけて貰えたが、今度はそうはいかない。私にとっては、やはりちょっとショックだった。
でも考えて見たら、娘の職業人生はこの先30年もあるのだから、親の都合でその足を引っ張ってはいけないのだ。そう思い直したら、私ももっと強くならなければと思った。
昨日は法事の行きと帰りに寄って、引っ越しの手伝いをした。1週間前だというのにもう7割方、生活用品が段ボールに入っていて、流石、転勤慣れしたなと頼もしく思った。
今日も行こうかと思ってメールしたが、遠いから来なくて良いと言われた。なので今日は、明後日出発する旅の準備をする事にした。
一年前の今日、伯父が早朝に亡くなったので駆けつける途中、田圃にいる沢山の大白鳥に出逢ったが、今日も伯父の一周忌の法事に参列するため同じ道を通った。
私の家からは大白鳥の渡りを見る事は滅多にないが、その道は丁度、水鳥の生息地である苫小牧のウトナイ湖からシベリアへ帰る鳥たちの飛行コースに一致しているのだろう。
車で15分位行くと大きなV字型を三重にして北へ向かう群に出逢った。白さが際立ち、首が長い大白鳥が4羽、100羽以上の黒っぽいまがんの群に混じって一緒に飛んでいるのだ。
そういえば去年は、田圃で一緒になって餌をついばんでいたことを思い出した。その田圃を見ると、雪が多かった今年はまだ雪で覆われていて一羽の鳥もいなかった。
20分位車で走っている間に、次々と別な群に出逢った。25羽位のこじんまりした一団もいた。
V字型の先頭がリーダーだとしたら、去年とは違ってまだ雪で覆われた田圃の光景にガッカリしているだろうなと思った。今年はどこで餌を食べ、体力をつけたら良いか、飛びながら考えているのだろうか。
日没間近の5時半頃、同じ道を戻ったのだが、途中、こんどは北へ向かう幾つかの大白鳥だけの群に出逢った。
今日は、明るい昼間に渡る群と、暗くなる寸前に渡る群を見たが、それぞれに何か理由があるのだろうか。
昨日の新聞に、春になると花を咲かせる植物のホルモンが見つかったと書いてあった。渡り鳥もホルモンの影響で渡りをするのだろうか。
私から考えると、わざわざ数千キロもの過酷な渡りをしないで、一番気に入った場所に住み着けば楽なのにと思ってしまうのだが。
春分の日なので、旦那さんを亡くされている友人のAさん家へ行ってみた。
案の定、昼にお寺さんがお参りに来るので、事前の手伝いにもうすぐ札幌から娘さんが来るのだという。「じゃあ、私はこのまま失礼するからね。」と言ったのだが、「是非、お茶を一杯飲んで欲しい。」と言われて家に上がった。
居間はいつもよりは片づいていたが、床はまだ掃除をしていないらしく、小さなゴミがあちこちに落ちていた。
居間の隣室の戸が開いていたので、初めて大きな仏壇が置いてある部屋だということが分かった。既に左右の「ぼんぼり」に火が灯されていた。
大学病院の「脳神経科」に行っている事を聞いていたので、その後どうなったのか聞いた。すると2ヶ月程前から薬を飲んでいるが、3回も薬が変わったのだという。
どんな薬か見せて貰ったら、認知症の進行を抑える「アリセプト」の5mgの薬だった。薬の強さが1mgから2mg、そして5mgへと変わったらしい。この薬は副作用もあるので、様子を見ながら少しずつ強くしているのだろうと思った。
私は「Aさん、もうそろそろこれからの生活を考え直す時だと思うよ。」と言ったら、「一人の娘が同居しても良いというけど、物が溢れていて同居できないの。」と言う。
「それなら、いらない物を処分したらどうなの。」と言うと、「みんな大事で捨てられないの。」と言う返事が返って来た。
そこで私が、「これからは物よりもスペースが大事でしょ。私も2年前に引っ越した時、数百冊の本や家財道具を処分したよ。本は図書館に行けば、自分が持っていないもっと色々な本も読めるしね。」と言った。
するとAさんが、急にパット反対側の部屋を開けた。狭い6畳間の和室に大きなベットが置いてあり、その横の壁一面に天井近くまである二つの書棚が置いてあって、古い全集物の本がぎっしりと入っていた。世界と日本の文学全集、万葉集、世界美術全集などだ。部屋を書棚が塞いでいるので、歩く隙間がやっとある状態になっているのだ。
「この本も処分できないの。」と聞くと、「いや、今決心した。無くしてしまいたい。」と言う。
そこで私は「それなら図書館に引き取って貰えるかどうか聞いてもいいかい。引き取ってくれるなら私が手伝うよ。」と言うと、「お願いします。」と言われた。
さらに聞くと、二階にもそれ以上の量の本があるのだそうだ。数十年間買い込んで読んだ雑誌も、今まで一度も捨てた事が無いのだという。私のお節介の性格がまた出て来て、来月になったらそれらの片づけを手伝ってやろうと思った。
「娘さんが来る前に掃除機をかけようか。」と二回言ったが、「私がするからいいよ。」と言うので、お茶を一杯頂いて帰って来た。
確かに戦中・戦後の物のない時代を生きてきた人達は、私も含めて物がなかなか捨てられないのだ。それにどんな物にも1つ1つの思い出があるので、考え方を変えなければ捨てることができないのは良く分かる。
でも、多過ぎる物のために逆に生活が不便になったり、精神的にストレスが溜まるのは決して良い事ではない。
ましてAさんのように高齢になれば、後の人に迷惑をかけてしまう事にもなる。さらに重たい書籍の始末は、もうAさん一人では無理なのだ。そう考えると私の出番もあるということになる。
早速明日、図書館に聞いて見たいと思っている。
前回の会合で、新入りの私と先輩の二人で、ある女性を取材して来て欲しいと頼まれた。いよいよ活動開始だ。
早速翌日お宅に伺い、88才になっているご本人に昔の事を聞いた。
年のせいで忘れていることが多かったが、同居している息子さんと近くに住む甥の方が、アルバムを出してきて協力して話してくれた。古い写真には、彼女が書いた説明文がついていて驚いた。
彼女は第二次大戦中に結婚し、4人の子どもに恵まれたが、事故と病気で二人の息子を亡くしてしまう。その心の傷を抱えながら仏教に救いを見出し、写経したりお経を訳したりして心の平安を取り戻して行ったのだという。
夫と二人でやって来た商売は、経済的にはなかなか厳しかった様だが、几帳面さと体力で乗り越え、今は息子さんが継いでいた。
今日は、私がまとめた一回目の文を見て貰いに行った。一部の勘違いを訂正して貰い、先程完成させた。
ほとんどの人は、社会の陰で目立たずに生きているが、子育てや仕事などの様々な経験を重ね、苦労を乗り越えながら、やがて人生の終末期を迎える。そんな無数の人々の生き様が、家族の歴史を作り、社会を支えて行くのだ。
今回の取材で、人は皆、時を重ねると共に、大きな悲しみも喜びも、記憶の中に僅かに残るだけになるのだろうかという疑問を感じた。それでなければ、きっと生きていけないのかも知れないとも思った。だとすると、人の生きる強さは、人の弱さにあるのかも知れない。