≪スイスから帰国した≫
この度、薔薇が開花する直前の6月20日から27日迄の日程でスイス連邦に旅行していた。
この時期のスイスアルプスは、きっとまだ高山には残雪があって美しいに違いないのではと考えたこともある。
出発前日、伯母を昼近くに「特養ホーム」の「ショートステイ」に預けてからスーツケースを出し、大急ぎで旅支度をした。
また菜園に行き、小松菜、青梗菜、ほうれん草が沢山採れたので、近所にお裾分けした。
それから人参の種が買ってあったので、蒔いて不織布をかけて来た。
スイスの6月の最高気温は、「チューリッヒ」で21度、「ツェルマット」で16度だという資料が旅行社から送られて来ていた。
おまけに「ツェルマット」の最低気温は5度と書いてあったので、「マッターホルン」の見学に2000mの展望台に登ればさぞ寒かろうと予想して、長袖の下着やスパッツ、セーターに冬のマフラーなどをスーツケースに詰めた。
しかし気温の予想は見事に外れた。
今年の中央ヨーロッパの気温は、例年よりも高い日が続いていて、連日日中の気温は30度前後、山の展望台でもジャンパーを着たら暑いほどだった。
お陰で毎日汗だくになりながら観光をして来た。
そして全く雨らしい雨は降らなかったので、持参した傘は町歩きの観光中一度も開く事無く、雨天時の登山用に持参したゴアテックスの上下もスパッツも無用だった。
今回のスイスは私にとっては確か3度目の訪問になる。
以前「ユングフラウ山」の「スフインクス展望台」には登った事があるものの、まだ一度も「マッターホルン」を見ていなかった。
それで歩ける内にと決意して、今回の旅に参加したのだった。
実際にこの季節に行ったスイスの山々は、天候にも恵まれて、私の想像をはるかに超えた素晴らしいものだった。
27日は夜遅く帰宅したので、翌朝見た庭は、何本もの薔薇の花が開花して私を迎えてくれた。いよいよワクワクする様な毎日が始った。
この2日間は、留守中伸びた雑草取りと畑の手入れを頑張ったが、今後はまた、庭と菜園の管理、そして伯母の介護と多忙な日々が続く。
しかし、美しい薔薇を愛でながら、楽しい気持ちで秋まで過したいと思っている
帰宅した伯母も庭に出て、「綺麗だね!」と言って見てくれている。
また今朝は、既に3人の方が庭に立ち寄ってくれた。
スイス旅行の行程表(旅行社のパンフレットにあった原本を少し修正した)と地図を下に転載した。
また、少しずつ、報告記を書いて行くので宜しく。
(「ツェルマット」から登山鉄道とゴンドラで行った標高2300mの「スネガ展望台」より「マッターホルン」を写す)
≪世界遺産「テルチ旧市街」観光≫
「テルチ」は「プラハ」の南南東130kmのボヘミア・モラビア高地に位置し「オーストリア」との国境近くにある12世紀に作られた町だ。二つの池に挟まれた地形が、天然の要塞になったらしい。現在その一つは、干上がっていた。
16世紀に交易路として繁栄したが、そのままの姿が現在も保たれていて、1992年世界遺産に登録された。
旧市街の中心「ザハリアーシュ広場」に建つ建物は、皆ルネッサンス様式か初期のバロック様式で、下がアーケード状に通路になっていた。これは当時の領主「ザハリアーシュ」が住民に協力を求めたためだという。
広場の中央に立っている「聖母マリアの柱像」は18世紀初頭にペストの終焉を記念して市民の寄付で建てられたものだという。
この地方で生まれ育った犬を連れていた男性が、写真に応じてくれた。
その他の世界遺産2箇所ほどは割愛する。ガイドが来なかったり、施設が閉鎖されていたりした所だ。
その代わりに見られた場所があったり、スーパーに立ち寄る時間もあった。
「チェコ」の歴史的文化的世界遺産は、大国に取り囲まれた位置のために歴史に翻弄されながら、幸いに第二次世界大戦の破壊を免れたためどれも保存状態が良く、その価値が現在も良く保存されていた。
石造りの建物がほとんどなので、数百年建ち続けて来た物は、今後も世界遺産として更に数百年保存できるに違いないと思う。今回、再訪した値があった。 (完 成)
≪「チェスキー・クルムロフ城」≫
この町は、山に囲まれた盆地の様な地形の所に、山の裾を流れる「ヴルタヴァ川」が大きく折れ曲がっている。
丘の上に13世紀、南ボヘミアの貴族「ヴィートコフ家」が城を建設し、川の内側の場所に町ができた。
城は14世紀から次々と幾つかの貴族の支配が変ったが、16世紀に現在の形ができ上がったという。
その後この街は衰退したため、中世の姿が残されたのだ。
初めて着いた日は、バスを下りると駐車場から傾斜した坂道を350m程登らされた。暑い日だったので、私はかなり汗をかいた。20年前には、いきなりこんな坂道を登らなかったのにと思っている内に「チェスキー・クルムロフ城」の西側に出た。
展望台があったので、下を流れる「ヴルタヴァ川」と赤い屋根の家々がぎっしりと建ち並ぶ城下町を眺めた。
その後坂を少し下りて「チェスキー・クルムロフ城」の中を通り抜け、さらに下って橋を渡り、少し歩いたら市庁舎やホテルがある町の広場に着いた。その日のホテルは、その中の1軒だった。
古い旧市街の建物なので、エレベーターはない。スーツケースを各自が運び上げなければならず、本当に大変だった。わざわざ、この場所の不便なホテルを選ぶ必要があったのかどうか、私には大いに疑問が残った。
(この町の観光は翌日の午後だったので、翌朝は他の町に行くため、もう一度丘の上の城まで上り、坂を下りて30分近く歩いて駐車場に行った。私にとっては朝からすっかり疲れてしまった)
(旧市街の展望台から丘の上の「チェスキー・クルムロフ城」を臨む)
(下から城の塔を写す) (市街地の入り口にある門)
(城の第一の広場。だまし絵の壁面装飾)
(旧市街広場の一角)
(城の西側展望台から下の市街地を写す)
(最後の朝、ホテルを出て他の町に向うに当たり添乗員が案内した駐車場までの道は、城のある丘を越えない平坦な道だった。つまり彼女はその道を知らなかっただけだったのだ)
≪「ホラショビッツェ」の「フルボカ城」≫
「フルボカ城」は「プラハ」の南方約125kmの所にある世界遺産である。
ボヘミア王プジェミスル・オタカル2世が所有していた頃からの記録はあるが、この城を誰が建てたのか不明だ。やがてドイツの貴族「シュバルチェンベルク家」の所有になり、膨大な経済力でこの城を豪華なものにして行ったという。
19世紀には、イギリスの「ウインザー城」をモデルにネオゴシック様式に改装された。
この城には広いフランス様式庭園と広大なイギリス様式の自然庭園があり、立派な温室では熱帯植物が育てられていた。
≪「トゥシェビーチ」の「ユダヤ人街」と「聖プロコビウス大聖堂」≫
「プラハ」の南東180kmにある「トゥシェビーチ」は、かって12世紀にモラヴィアの中心だった都市だというが、1468年ハンガリー軍が侵攻してから衰退し、18世紀に復興した。
またこの街は、チェコで最も大きいユダヤ人街があった事でも知られる。町を東西に流れる「イフラヴァ川」をはさんで北側にユダヤ人達が町を作り、第二次世界大戦前は1700人に上ったが、ナチスドイツの迫害が始ると多くは他の地域に移住、300人居た人達も収容所に送られ、戦争終了後は僅か3人が残っただけだったという。
現在でも約123棟の建物、学校、病院、工場、ユダヤ人墓地などが残されいて、「ユダヤ人集落の全機能が残る場所」として2003年に世界遺産に指定された。
ユダヤ人街の端にある「聖プロコビウス大聖堂」は、1290年ベネディクト修道院の一部に建てられたが、ハンガリー軍の侵攻後破壊された。18世紀に現在のゴシック様式に修復された。
ここからは「プラハ」以外に訪れた世界遺産の中から幾つかを記録することにする。
≪「カルロヴィ・ヴァリ」のコロナーダ≫
「プラハ」の西100km、ドイツとの国境に近いこの町は、伝説によれば14世紀に神聖ローマ皇帝「カルロス4世」が鹿狩りの最中に偶然、この温泉を発見した。12の源泉を有する「チェコ」一番の保養地となった。日本の「草津温泉」と姉妹提携をしている。
テプラー川とオフジェ川の浸食作用でできた谷合の場所に温泉街が造られていた。
温泉水の利用は日本とは違い飲泉「コロナーダ」が中心で、幾つかの飲泉場所がある。湯を汲むコップは独特の形をしていて、売られていた。
入浴やマッサージを希望する場合は、公共温泉施設がある。
駐車場近くの公園の石畳に、ここを訪れた歴代の有名人の名前と年を書いたプレートが多数はめ込まれていた。
私たちが訪れた時期は早春で、ツツジや西洋とちの木の花が咲いていた。
≪「ブルゼニュ」の「ピルスナービール醸造所」見学≫
この日は「カルロヴィ・ヴァリ」の観光後、南南東65kmの距離をバスで1時間半かけて「ブルゼニュ」に向った。
4本の川が流れるこの町では、良い水と生産されるホップ、麦から作り出す「ピルスナービール」が、700年以上前から造り続けられて来たと言う。
またこの町の地下には、20kmにも渡る地下道が作られていて、ビールの熟成保管庫として活用されていた。
その一つ、ヴィジターセンター傍のビール醸造所に行った。ビールの製造工程が説明され、そのご醸造釜を見てから、地下道に案内された。地下道の気温は12~13度しかなかった。
そこで貯蔵されている大きな樽から直接グラスに注がれたピルスナービールを試飲することができた。モルトの風味がしっかりしていて飲みやすく美味しかった。
因みにビールの国別消費量は、1位がチェコ、2位アイルランド、3位ドイツで、日本は38位だそうだ。
昼食はビヤホールで食べたが、ポークだけではなくご飯にも塩味をつけてあって、私には塩辛すぎて食べられなかった。ビールを沢山飲ませる工夫だったのかも…と思った。
≪首都「プラハ」の観光≫(6)
⑩「ヴェルトゥルジュニー宮殿」で近代絵画・彫刻を鑑賞
「聖ヴァーツラフ騎馬像」傍の地下鉄「ミューゼアム駅」からC線に乗って、北に移動。下りてトラムに乗り換え、最後の自由行動場所の「ヴェレトルジュニー宮殿」を目指した。
前に来た時は「プラハ城」内の美術館を見ていたので、今回は近代絵画が沢山展示されているというここを見たかったのだ。
ガイドブックに小さな字で午後4時以降の入館は安くなると書いてあったので、20分程近くの公園で休んだ。
その時、公園の角に犬の糞を始末するゴミ箱を発見した。紙の袋も用意されている。多分ビニール袋は環境に不可をもたらすからだろうと思った。なかなか良い対策だ。
4時きっかりにチケットを買った。250コルナの所150コルナ(約800円)で入館し、5階建ての美術館の上から下に降りながら見て行った。
3階には良く知っているミュッシャ、ピカソやゴッホ、ゴーギャン、モネ、マチスなどの画家の作品もあったが、チェコ出身の画家や彫刻家の作品が印象的だった。
6時の閉館まで鑑賞後、トラムと地下鉄でC線でホテルの傍の「パンクラック駅」に戻った。
駅の地下2階にスーパーマーケットがあり、そこで手持ちのチェココルナを使って土産を買った。
物価は物にもよるが、日本よりも1~2割安いように感じた。特に主食のパンなどは、消費税が掛けられていないのではと思うほど安かった。
色々買ったが、8個入りの「クリームチーズ」を12個買って来たのが一番良かった。
ホテルに戻り、夕飯を食べた。疲れたが、これで1日半のプラハの自由行動を満喫し終えたのだった。
≪首都「プラハ」の観光≫(5)
「チェコ」滞在最終日は一日自由行動だった。旅行社のオプショナルツアーもあったが、それよりも私と知人の二人で自由に「プラハ」を楽しもうと自由見学を選んだ。
添乗員から24時間有効な「交通チケット」を貰っていたので、朝9時過ぎにホテルを出て、直ぐ傍の地下鉄C線「パンクラック」駅に行って乗り、途中でA線に乗り換え、さらに「プラハ城」の傾斜が緩い「東門」近くまでトラムを利用して、昨日見られなかった城内の「聖イジー教会」を目指した。
前日「プラハ城」に入っているので、場所の検討は付いていたが、門に入る時と教会に入る時、並んで手荷物検査を受けた。
⑦「聖イジー教会」
この教会は、920年に創建されたという城内最古の教会だが、火事の後、1142年に再建されたバロック様式のものだった。
音響効果が良いとして、「プラハの春」国際音楽祭のコンサート会場にもなっているという。
この後、チケットでまだ見学していない「黄金の小路」の奥にある牢獄だった「ダリボルカ」に行きたかったが、すでに前日入場した「黄金の小路」でチケットが切られていたために入場できなく、残念だった。
⑧「スメタナ博物館」
「プラハ城」の東門を出てまたトラムに乗り継ぎ、「カレル橋」の東の袂にある「スメタナ博物館」に行った。
確か入館料は、パスポートを示してシルバー料金で70コルナ(約370円)だったと記憶している。
内部の展示は、「我が祖国」他の作曲をしたチェコを代表する「ベドルジハ・スメタナ」の若かった頃から没するまでの資料が幾つかの年代に分けて展示されていた。日本語の展示解説書も渡された。
彼の学生時代の成績表や自筆の楽譜、結婚後の家族の写真なども展示されていて、分かりやすく興味が持てた。
博物館の前に小さな庭があり、「スメタナ」が「ヴルタヴァ川」を眺めているような像が立てられていた。
その前にベンチがあったので、そこでランチのサンドイッチを食べた。
傍に座っていた2人は台湾の女子大生で、色々話をしたり写真を撮ったりして交流した。
⑨「ヴァーツラフ広場」
トラムを乗り継ぎ、「ヴァーツラフ広場」で下りて散歩した。幅60m長さ750もある広場だ。メトロのムゼーム駅側にボヘミアの最初の王だった「聖ヴァーツラフの騎馬像」が設置されていた。
≪首都「プラハ」の観光≫(4)
⑦「旧市街広場」
「市民会館」から「天文時計」がある「旧市街広場」に戻ると、中国人などの観光客が多く、観光用の馬車、ストリートパフォーマーもいて凄い賑わいだった。
(最初の写真に写っている2本の塔の教会は「テイーン教会」だ。
丁度閉鎖している時間で入れなかったが、ガイドブックに因ると塔の高さは80m、1135年にゴシック様式で外国商人の宿泊施設に付属して建てられたという。税関をテイーンと言うのに因み、税関前の教会ということから名づけられたらしい。15世紀前半にはフス派の本拠地だったらしい)
広場の片隅に一際目を引く大きな台の彫像があった。「ヤン・フス像」だ。
ガイドブックによると、彼は15世紀「チェコ」の宗教改革の先駆者だった人だ。
彼(1370年頃~1415年)はプラハの「ベツレヘム礼拝堂」で説教師をしていたが、カトリック教会の堕落を批判し、教皇と教会の権威を否定した。そのため1415年、火あぶりの刑に処せられたという。
この像は、「フス」の没後500年に当たる1915年に造られた。フスの像の周りには、フス派の戦士達や国家再生の意味を込めた母の像があった。
広場の北東の角にあった「聖ミクラーシュ教会」に入って見た。中には椅子で休んでいるらしい観光客も大勢いた。
この教会はバロック様式で建てられ何度も改修されたというが、現在の姿は18世紀初頭のもの。今はフス派の教会だが、天井画とシャンデリアが印象的だった。
音響効果が良いためコンサート会場となる事が多いというが、入り内では夜のコンサートのチケットが売られていた。
⑧「ユダヤ人地区」
「ミクラーシュ教会」見学後、横の通りを数丁北へ歩いたところに「ユダヤ人地区」があった。
かってユダヤ人達は、キリスト教徒から迫害を受け、住まいも特定の場所を決められて住んでいた。18世紀後半になると「ヨゼフ二世皇帝」が規制を多少緩めたというが、狭い地域にぎっしりと建ち並んだ家々と不衛生な地域の状態は続いたらしい。
ナチスドイツは、各国からユダヤ人をこの場所に連れて来て、やがて強制収容場へ送った。この地域で生き残ったのは2500人だったという。
残されている祈りの場「シナゴーク」の中で「旧新シナゴーク」、「旧ユダヤ人墓地」の入り口の「儀式の家」を外側から見るだけにして、集合場所に戻った。
(旧新シナゴーク) (儀式の家)
≪首都「プラハ」の観光≫(3)
⑥「火薬塔」
昼食後、自由行動になってから私は親しくなった人と2人で更に「王の道」の東側残り部分を歩き、その起点だったという「火薬塔」に行って登った。
この塔は1475年に建てられ、旧市街に入る門の一つだったと言うが、後に火薬倉庫として使用された。
現在の塔は19世紀末に修復されたもので、高さは65mある。
門の横の小さな入り口から入り、狭い階段を登って行くと二階部分に出た。ここは広間になっていて、チケット売り場があった。
大人70コルナ(約370円)の券を買って、さらに狭い階段を上を目指して登った。
やっと地上から44mの高さだという屋上部に出た。吹く風が心地良かった。
その四角い塔の周りにぐるりと狭い展望通路が造られていたので、市街の写真を写した。
最初の写真のドームは、隣の「市民会館」のものだ。「火薬塔」は「市民会館」と二階部分が通路で繋がっていた。
下りる際、階段の数を数えたら184段だった。何か達成感の様なものを感じた。
⑦「市民会館」
「火薬塔」から下りて隣の「市民会館」に行って見た。
ここはかって歴代王の宮廷が置かれていた場所だったが、17世紀後半の大火で焼け落ちたため、1911年、現在の「市民会館」を建てたという。
装飾が施された建物を見ただけでは、それがとても「市民会館」とは信じられない豪華さで、入り口上部は「ミュッシャ」の絵画で飾られていた。
ガイドブックでは、内部の「スメタナホール」やミュッシャの絵で内装された「市長の間」などが素晴らしいとあったので見たかったが、夜の演奏会の準備が行われていて見学はできないと言われ、残念だった。
仕方なく再び「旧市街広場」に戻り、「聖フランテスク教会」を見学してから、北側にブラブラ歩き、「シナゴーク」「旧ユダヤ人墓地」の外観だけを見て集合場所に戻ったのだった。
③「プラハ城」から見た旧市街
城は小高い丘の上に建っているので、その一画から眼下遠くに旧市街が見渡せた。その光景は懐かしく、20年前と同様に美しかった。
中央には「ヴルタヴァ川」に架かる「カレル橋」が見える。
幾たびの戦火でも破壊を免れた中世さながらの町並みだ。
④「カレル橋」
城から15分程歩いて「カレル橋」に着いた。橋の上は、相変わらず観光客で溢れていた。
今では「ヴルタヴァ川」に架けられた橋は沢山あるが、この橋は14世紀後半~15世紀にかけて「カレル4世」の命によりできた最古の橋だ。
全長520m、幅10mの橋の欄干に聖人や聖母などの30体の彫像が飾られている。その中の一つが日本にも関係する「聖フランシスコ・ザビエル」像だ。彼が布教した日本や東洋人が、下から彼を支えている。
両側に門があるが、写真は旧市街側から見た門だ。
今は車の通行が禁止され、歩行者だけの橋に指定されていて、演奏している人や土産物を売る人、絵を描いて売っている人達が大勢いた。
橋の上から写した景観の写真左端の建物が「スメタナ博物館」だ。(ここには最終日の自由行動で訪れる事になる)
⑤「旧市庁舎と天文時計」
「カレル橋」から東側を目指して7~8分歩いた所で「旧市街広場」に着いた。
「旧市庁舎」の壁を飾る15世紀の終りに作られたらしい「天文時計」の前は、大勢の人々で大混雑していた。
上の大時計は「プラネタリウム」と呼ばれ、地球を中心に回る太陽と月、その他の天体で、1年で1回りする。
下の大時計は「カレンダリウム」と呼ばれ、黄道12宮と農村の四季の農作業を表すと言う。
現在時計は、1948年に取り付けられた電動装置で動いていて、9~21時の毎正時には仕掛けが動く。私達が着いた時刻はすでに12時を過ぎていたので、仕掛けの動きを見る事はできなかった。
≪首都「プラハ」の観光≫(1)
「プラハ」は、私にとって約20年振りに訪れた懐かしい町だった。
なので観光名所の旧市外は、ほぼ全体像を思い出す事ができた。
今回も自由行動時間が1日半あったので、オプショナルツアーに参加せずに一人でも有効な観光をするためにガイドブックの市街地図を1.5倍に拡大したのを持参した。
また、前回行ってないところをガイドブックで下調べし、地下鉄の路線図の基本を頭に入れて出かけた。
先ず、ツアーでの団体観光が午前中、半日あった。
その概略を書くと、ホテルを出て最初に向ったのは「ストラホフ修道院」だった。
そこを出た後、東北東にある「プラハ城」を目指してなだらかな坂道を下りた。
「プラハ城」内に入り、チケットを求めてから「聖ヴィート大聖堂」と「黄金の小路」を観光した。
その後城外に出、急な坂を下って「ヴルタヴァ川」に架けられた最古の橋「カレル橋」に行った。
「ヴルタヴァ川」を渡り、さらに少し曲がりながら15分程歩くと「旧市街広場」に着いた。
広場の一角にある旧市庁舎の壁を飾る有名な「天文時計」を見た。
「プラハ城」からここまでの道は、かっての王様が行進したと言う2.5kmの「王の道」の半分に当たる。
①「ストラホフ修道院」
ここは男性修道師のための修道院として12世紀に作られたが、現在は民族文学博物館として公開されている。17~18世紀のバロック様式の「図書館」が素晴らしかった。
「プラハ城」に着いたので、西側の「マチアス門」から城に入った。
周りを建物に取り囲まれた「第二の中庭」には、大きな「コール噴水」と、その傍にトイレがあった。トイレは10コルナ(1コルナ=5.4円)した。
交代の衛兵が行進していた。
現地ガイドから指定された4箇所を見学できる大人250コルナで2日間有効だというチケットを渡された。(但し一度見た施設は再入場は不可能だった)
②「プラハ城」の「聖ヴィート大聖堂」
早速「第三の中庭」に入った。眼前に高い2本の尖塔を持った「聖ヴィート大聖堂」が凄い迫力で聳え立っていた。写真を撮ろうとしても巨大過ぎて上手く撮れない。
この大聖堂は、元は930年に円筒形のロマネスク様式で建てられたものだというが、14世紀、カレル4世の時代にゴシック様式の建て直しに着手した。フス戦争などがあったため、建設が中断されるなどし、完成したのは20世紀だという。
奥行き124m、幅60m、塔の高さ96.6mという壮大な聖堂である。
チェコのアールヌーボウの代表的な画家「アルフォンス・ミュッシャ(チェコ語ではムハ)」が手がけたステンドグラスもあった。
彼は「オーストリア帝国」領の「モラヴィア」(現在のチェコ)に1860年に生まれた。
1939年3月、ナチスドイツにより「チェコスロバキア共和国」が解体され、ドイツ軍がプラハに入場した時逮捕された。彼の絵は「愛国心」を高めるという理由だった。その後解放されたが4ヵ月後体調を崩し、7月14日78歳で死去した。
外に出て「第三の中庭」を横に回りこんだ所から、大聖堂横の写真を撮った。
(「黄金の小路」は割愛する)
≪「チェコ」という国≫
「プラハ」は、すでに14世紀に「神聖ローマ帝国」及び「ボヘミヤ王国」の首都として「プラハ城」が築かれていた町だ。
都市の中心を流れる「ヴァルタヴァ川(モルダウ川)」は、「スメタナ」作曲「我が祖国」のテーマとなったし、第一次、第二次世界大戦で破壊を免れた町には中世そのままの旧市街や建造物が保存されていて、他のヨーロッパ諸国とは異なる美しい佇まいが見られた。
(写真は、「ヴァルタヴァ川(モルダウ川)」に架かる「カレル橋」から見た「スメタナ博物館」)
①「チェコ」の歴史
ガイドブックを参考に簡単にまとめて見た。
近代史的には1526年、「オーストリア」のハプスブルグ家がボヘミアの国王となり、1627年、ハプスブルグ家の属領となった。
1918年、「オーストリア・ハンガリー二重帝国」が敗れ、「マサリク」が「チェコスロバキア」の独立を宣言した。
しかし1938年、ナチス・ドイツがスデーテン地方を併合、1939年、「チェコ」は「ボヘミア・モラビア保護領」としてドイツに編入された。
1945年の第二次世界大戦終了後、ドイツの敗北により再び「チェコスロバキア」として独立した。
それにもかかわらず1948年にはソ連の干渉を受けた。
1968年1月「チェコスロバキア党第一書記」に「ドプチェク」が就任して「プラハの春」が訪れたかに見えたが、同年8月21日「ワルシャワ条約軍」が侵入して全土を占領した。
1989年11月、ベルリンの壁崩壊により、連日学生等のデモによって保守派議員が退任、憲法から共産党の指導性条項を除去して無血革命に成功した。
「チェコ」はかって「チェコスロバキア」という国だったが、1993年に解体されて「チェコ共和国」と「スロバキア共和国」に別れた。
1999年には、NATOに加盟し、2004年にはEUに加盟した古くて新しい国である。
②現在の国情
このような複雑な歴史を持つが、現在も「ドイツ」「オーストリア」「スロバキア」「ポーランド」の4カ国と国境を接している。
民族構成ではチェコ人が94%であり、宗教はカトリック教徒が26.3%、無宗教が58.3%だという。
他国と異なっていたのは、駅や公衆のトイレの大半が有料だったことだ。場所によったが25円~100円だった。
5月の気候は、最低気温は札幌と同程度だったが、昼近くになると気温が急上昇して暑い位だった。国境が山に囲まれた盆地状だからかも知れないと思った。
水は比較的綺麗だったが、硬水なので一度沸かすか、ミネラルウオーターを買って飲んだ。
物価は、日本より平均して1~2割方安い様に感じた。土産には、クリームチーズやナッツ入りチョコレート、パン、ビールなど、いつもよりも多めに買う事ができた。
先月26日夜に帰国した後は忙しかった。
翌朝、早速伯母を特養ホームに迎えに行き、また介護が始った。
10日間留守にしていたので、庭は草だらけ。ざっと草取りをした。
また、豆類の植え付け時期になったので、小豆、大豆、隠元豆、虎豆の種蒔きをした。
しかし、留守の間に取り溜めたVTRも見なければならないから、毎夜ついつい10時過ぎまで見てしまっていた。
そんな生活をしている内に疲れが溜まってしまったのか、胃腸を壊してしまった。
薬を服用し、今朝は小康状態だが、時差ぼけが直っていないらしく、今朝は3時半に目が覚めてしまった。
そこで夜が明けたばかりの庭に出て、久々に草花の写真を写した。
季節は気がつかぬ間に確実に進んでいる。植物がそれを私に教えてくれる。
(エクスバリューと宿根カスミソウ)
(ブルーベリー) (ジャーマンアイリス)
(さらさドウダンツツジ ピンク)
(さらさドウダンツツジ 赤)
(ボタン)
(芝 桜)
(石楠花)