花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

「チェコ共和国の旅」(6)

2017年06月06日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅢ」スイス・チェコ

≪首都「プラハ」の観光≫(4)

⑦「旧市街広場」
「市民会館」から「天文時計」がある「旧市街広場」に戻ると、中国人などの観光客が多く、観光用の馬車、ストリートパフォーマーもいて凄い賑わいだった。
(最初の写真に写っている2本の塔の教会は「テイーン教会」だ。
丁度閉鎖している時間で入れなかったが、ガイドブックに因ると塔の高さは80m、1135年にゴシック様式で外国商人の宿泊施設に付属して建てられたという。税関をテイーンと言うのに因み、税関前の教会ということから名づけられたらしい。15世紀前半にはフス派の本拠地だったらしい)



   

広場の片隅に一際目を引く大きな台の彫像があった。「ヤン・フス像」だ。
ガイドブックによると、彼は15世紀「チェコ」の宗教改革の先駆者だった人だ。
彼(1370年頃~1415年)はプラハの「ベツレヘム礼拝堂」で説教師をしていたが、カトリック教会の堕落を批判し、教皇と教会の権威を否定した。そのため1415年、火あぶりの刑に処せられたという。
この像は、「フス」の没後500年に当たる1915年に造られた。フスの像の周りには、フス派の戦士達や国家再生の意味を込めた母の像があった。

     

広場の北東の角にあった「聖ミクラーシュ教会」に入って見た。中には椅子で休んでいるらしい観光客も大勢いた。
この教会はバロック様式で建てられ何度も改修されたというが、現在の姿は18世紀初頭のもの。今はフス派の教会だが、天井画とシャンデリアが印象的だった。
音響効果が良いためコンサート会場となる事が多いというが、入り内では夜のコンサートのチケットが売られていた。
            

⑧「ユダヤ人地区」
「ミクラーシュ教会」見学後、横の通りを数丁北へ歩いたところに「ユダヤ人地区」があった。
かってユダヤ人達は、キリスト教徒から迫害を受け、住まいも特定の場所を決められて住んでいた。18世紀後半になると「ヨゼフ二世皇帝」が規制を多少緩めたというが、狭い地域にぎっしりと建ち並んだ家々と不衛生な地域の状態は続いたらしい。
ナチスドイツは、各国からユダヤ人をこの場所に連れて来て、やがて強制収容場へ送った。この地域で生き残ったのは2500人だったという。
残されている祈りの場「シナゴーク」の中で「旧新シナゴーク」、「旧ユダヤ人墓地」の入り口の「儀式の家」を外側から見るだけにして、集合場所に戻った。

 
     (旧新シナゴーク)            (儀式の家)







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「チェコ共和国の旅」(5)

2017年06月05日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅢ」スイス・チェコ

≪首都「プラハ」の観光≫(3)

⑥「火薬塔」
昼食後、自由行動になってから私は親しくなった人と2人で更に「王の道」の東側残り部分を歩き、その起点だったという「火薬塔」に行って登った。
この塔は1475年に建てられ、旧市街に入る門の一つだったと言うが、後に火薬倉庫として使用された。
現在の塔は19世紀末に修復されたもので、高さは65mある。
門の横の小さな入り口から入り、狭い階段を登って行くと二階部分に出た。ここは広間になっていて、チケット売り場があった。
大人70コルナ(約370円)の券を買って、さらに狭い階段を上を目指して登った。
やっと地上から44mの高さだという屋上部に出た。吹く風が心地良かった。
その四角い塔の周りにぐるりと狭い展望通路が造られていたので、市街の写真を写した。
最初の写真のドームは、隣の「市民会館」のものだ。「火薬塔」は「市民会館」と二階部分が通路で繋がっていた。
下りる際、階段の数を数えたら184段だった。何か達成感の様なものを感じた。

          



      



            

⑦「市民会館」
「火薬塔」から下りて隣の「市民会館」に行って見た。
ここはかって歴代王の宮廷が置かれていた場所だったが、17世紀後半の大火で焼け落ちたため、1911年、現在の「市民会館」を建てたという。
装飾が施された建物を見ただけでは、それがとても「市民会館」とは信じられない豪華さで、入り口上部は「ミュッシャ」の絵画で飾られていた。
ガイドブックでは、内部の「スメタナホール」やミュッシャの絵で内装された「市長の間」などが素晴らしいとあったので見たかったが、夜の演奏会の準備が行われていて見学はできないと言われ、残念だった。



           

仕方なく再び「旧市街広場」に戻り、「聖フランテスク教会」を見学してから、北側にブラブラ歩き、「シナゴーク」「旧ユダヤ人墓地」の外観だけを見て集合場所に戻ったのだった。

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「チェコ共和国の旅」(4)

2017年06月04日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅢ」スイス・チェコ
≪首都「プラハ」の観光≫(2)

③「プラハ城」から見た旧市街
城は小高い丘の上に建っているので、その一画から眼下遠くに旧市街が見渡せた。その光景は懐かしく、20年前と同様に美しかった。
中央には「ヴルタヴァ川」に架かる「カレル橋」が見える。
幾たびの戦火でも破壊を免れた中世さながらの町並みだ。



④「カレル橋」
城から15分程歩いて「カレル橋」に着いた。橋の上は、相変わらず観光客で溢れていた。



今では「ヴルタヴァ川」に架けられた橋は沢山あるが、この橋は14世紀後半~15世紀にかけて「カレル4世」の命によりできた最古の橋だ。
全長520m、幅10mの橋の欄干に聖人や聖母などの30体の彫像が飾られている。その中の一つが日本にも関係する「聖フランシスコ・ザビエル」像だ。彼が布教した日本や東洋人が、下から彼を支えている。
両側に門があるが、写真は旧市街側から見た門だ。
今は車の通行が禁止され、歩行者だけの橋に指定されていて、演奏している人や土産物を売る人、絵を描いて売っている人達が大勢いた。

 

橋の上から写した景観の写真左端の建物が「スメタナ博物館」だ。(ここには最終日の自由行動で訪れる事になる)


⑤「旧市庁舎と天文時計」
「カレル橋」から東側を目指して7~8分歩いた所で「旧市街広場」に着いた。
「旧市庁舎」の壁を飾る15世紀の終りに作られたらしい「天文時計」の前は、大勢の人々で大混雑していた。
上の大時計は「プラネタリウム」と呼ばれ、地球を中心に回る太陽と月、その他の天体で、1年で1回りする。
下の大時計は「カレンダリウム」と呼ばれ、黄道12宮と農村の四季の農作業を表すと言う。
現在時計は、1948年に取り付けられた電動装置で動いていて、9~21時の毎正時には仕掛けが動く。私達が着いた時刻はすでに12時を過ぎていたので、仕掛けの動きを見る事はできなかった。

          








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「チェコ共和国の旅」(3)

2017年06月03日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅢ」スイス・チェコ

≪首都「プラハ」の観光≫(1)

「プラハ」は、私にとって約20年振りに訪れた懐かしい町だった。
なので観光名所の旧市外は、ほぼ全体像を思い出す事ができた。
今回も自由行動時間が1日半あったので、オプショナルツアーに参加せずに一人でも有効な観光をするためにガイドブックの市街地図を1.5倍に拡大したのを持参した。
また、前回行ってないところをガイドブックで下調べし、地下鉄の路線図の基本を頭に入れて出かけた。

先ず、ツアーでの団体観光が午前中、半日あった。
その概略を書くと、ホテルを出て最初に向ったのは「ストラホフ修道院」だった。
そこを出た後、東北東にある「プラハ城」を目指してなだらかな坂道を下りた。           

「プラハ城」内に入り、チケットを求めてから「聖ヴィート大聖堂」と「黄金の小路」を観光した。
その後城外に出、急な坂を下って「ヴルタヴァ川」に架けられた最古の橋「カレル橋」に行った。
「ヴルタヴァ川」を渡り、さらに少し曲がりながら15分程歩くと「旧市街広場」に着いた。
広場の一角にある旧市庁舎の壁を飾る有名な「天文時計」を見た。
「プラハ城」からここまでの道は、かっての王様が行進したと言う2.5kmの「王の道」の半分に当たる。

①「ストラホフ修道院」
ここは男性修道師のための修道院として12世紀に作られたが、現在は民族文学博物館として公開されている。17~18世紀のバロック様式の「図書館」が素晴らしかった。

 



     

「プラハ城」に着いたので、西側の「マチアス門」から城に入った。
周りを建物に取り囲まれた「第二の中庭」には、大きな「コール噴水」と、その傍にトイレがあった。トイレは10コルナ(1コルナ=5.4円)した。
交代の衛兵が行進していた。



            

現地ガイドから指定された4箇所を見学できる大人250コルナで2日間有効だというチケットを渡された。(但し一度見た施設は再入場は不可能だった)

②「プラハ城」の「聖ヴィート大聖堂」
早速「第三の中庭」に入った。眼前に高い2本の尖塔を持った「聖ヴィート大聖堂」が凄い迫力で聳え立っていた。写真を撮ろうとしても巨大過ぎて上手く撮れない。
この大聖堂は、元は930年に円筒形のロマネスク様式で建てられたものだというが、14世紀、カレル4世の時代にゴシック様式の建て直しに着手した。フス戦争などがあったため、建設が中断されるなどし、完成したのは20世紀だという。
奥行き124m、幅60m、塔の高さ96.6mという壮大な聖堂である。

                   



チェコのアールヌーボウの代表的な画家「アルフォンス・ミュッシャ(チェコ語ではムハ)」が手がけたステンドグラスもあった。
彼は「オーストリア帝国」領の「モラヴィア」(現在のチェコ)に1860年に生まれた。
1939年3月、ナチスドイツにより「チェコスロバキア共和国」が解体され、ドイツ軍がプラハに入場した時逮捕された。彼の絵は「愛国心」を高めるという理由だった。その後解放されたが4ヵ月後体調を崩し、7月14日78歳で死去した。

            

外に出て「第三の中庭」を横に回りこんだ所から、大聖堂横の写真を撮った。



(「黄金の小路」は割愛する)






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「チェコ共和国の旅」(2)

2017年06月02日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅢ」スイス・チェコ

≪「チェコ」という国≫

「プラハ」は、すでに14世紀に「神聖ローマ帝国」及び「ボヘミヤ王国」の首都として「プラハ城」が築かれていた町だ。
都市の中心を流れる「ヴァルタヴァ川(モルダウ川)」は、「スメタナ」作曲「我が祖国」のテーマとなったし、第一次、第二次世界大戦で破壊を免れた町には中世そのままの旧市街や建造物が保存されていて、他のヨーロッパ諸国とは異なる美しい佇まいが見られた。
(写真は、「ヴァルタヴァ川(モルダウ川)」に架かる「カレル橋」から見た「スメタナ博物館」)



①「チェコ」の歴史
ガイドブックを参考に簡単にまとめて見た。

近代史的には1526年、「オーストリア」のハプスブルグ家がボヘミアの国王となり、1627年、ハプスブルグ家の属領となった。
1918年、「オーストリア・ハンガリー二重帝国」が敗れ、「マサリク」が「チェコスロバキア」の独立を宣言した。
しかし1938年、ナチス・ドイツがスデーテン地方を併合1939年、「チェコ」は「ボヘミア・モラビア保護領」としてドイツに編入された。
1945年の第二次世界大戦終了後、ドイツの敗北により再び「チェコスロバキア」として独立した。

それにもかかわらず1948年にはソ連の干渉を受けた。
1968年1月「チェコスロバキア党第一書記」に「ドプチェク」が就任して「プラハの春」が訪れたかに見えたが、同年8月21日「ワルシャワ条約軍」が侵入して全土を占領した。

1989年11月、ベルリンの壁崩壊により、連日学生等のデモによって保守派議員が退任、憲法から共産党の指導性条項を除去して無血革命に成功した。
「チェコ」はかって「チェコスロバキア」という国だったが、1993年に解体されて「チェコ共和国」と「スロバキア共和国」に別れた。
1999年には、NATOに加盟し、2004年にはEUに加盟した古くて新しい国である。

②現在の国情
このような複雑な歴史を持つが、現在も「ドイツ」「オーストリア」「スロバキア」「ポーランド」の4カ国と国境を接している。
民族構成ではチェコ人が94%であり、宗教はカトリック教徒が26.3%、無宗教が58.3%だという。
他国と異なっていたのは、駅や公衆のトイレの大半が有料だったことだ。場所によったが25円~100円だった。
5月の気候は、最低気温は札幌と同程度だったが、昼近くになると気温が急上昇して暑い位だった。国境が山に囲まれた盆地状だからかも知れないと思った。
水は比較的綺麗だったが、硬水なので一度沸かすか、ミネラルウオーターを買って飲んだ。
物価は、日本より平均して1~2割方安い様に感じた。土産には、クリームチーズやナッツ入りチョコレート、パン、ビールなど、いつもよりも多めに買う事ができた。

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「チェコ共和国の旅」(1)

2017年05月27日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅢ」スイス・チェコ

≪「チェコ」10日間の旅から帰国した≫

畑の種や苗の植え付けを済ませ、取りあえず作業が一段落したので旅に出た。
今回のチェコには、20年程前に1度訪れたことがあったが、「中欧4カ国」の旅だったので「プラハ」と「チェスキークルムロフ」位しか行った事がなかった。
今回はチェコ国内の12の世界遺産を全て見る旅だというので参加したのだった。

出かける前日、伯母を近くの特養ホームの「ショートステイ」にお願いし、今月17日、成田空港から11時に発つANAに乗った。私は朝7;50に新千歳を出たので、参加者が集まる時間には間に合わず、出発ゲートで添乗員氏と出会って打ち合わせをした。
自宅で前日、インターネットで通路側の座席を確保して置いたから良かった。

行きはドイツの「デュッセルドルフ」まで12時間飛び、乗り換えた。
その時の空港の保安検査で引っかかった。肩が凝るので「磁気バン」を1個貼っていたからだと分かった。
更に飛行すること1時間15分、チェコの「プラハ国際空港」に着いた。

チェコとの時差は-7時間。そろそろ白夜が始っていて、日暮れは9時半頃だった。
首都プラハの最初のホテルに着いた時は、夜の11時頃だった、疲れたのでぐっすり寝た。

帰りの25日には、プラハを16;55の飛行機に乗ってデュッセルドルフを経由するという逆コースで帰国。
私の隣席には2人の子供がいる体格が良いドイツ人の夫婦が座っていたが、初めて日本に行くと言って日本食の機内食を食べ、箸の使い方を練習していた。
私は持ちあわせた折り紙で鶴の折り方を教えたり、基本の日本語を教えたら喜ばれた。

成田には14時半過ぎに着いた。それから17時55分発新千歳空港行きに乗り換えて、19時45分に新千歳空港に着陸した。
日暮れが迫っていたが、飛行機が真っ白な一面の雲の上を飛んでいた時には明るかった機内も、下降する際に雲に飛び込むと機内はまたたく間に暗くなった。最初の分厚い雲の層を脱すると、また所々破れた少し薄い雲の層があった。雲の隙間から地上のライトがチラチラと見えた。感動的な雲海の体験をした。

飛行機は「デュッセルドルフ」~「成田」~「新千歳」間はANAだったが、食事が美味しく、サービスも良く、満足した。今「スターウオーズ」のキャラクターの大きな縫いぐるみを乗せていた。

   

チェコは日本の1/5の面積に1050万人の人口が住む国だ。
山岳地帯が少なく、「モルダウ川」が流れ、小麦、大麦、じゃが芋などを栽培し、牧草地では牛、羊を飼っていた。丁度あちこちの広大な畑で、満開の菜の花を目にする事ができた。菜種油を製造するのだろう。






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《6》 スイス、西ドイツ、オランダ

2007年02月23日 | 海外旅行「中央ヨーロッパⅢ」スイス・チェコ
 幾つもの国に国境で囲まれ、周辺国から攻め続けられた歴史を持つスイスでは、国民皆兵政策による国を上げての特異な生き残り戦術を取っています。
 また、有事の時を考え、国民には全家庭で3ヶ月間の食料を備蓄する事も法律的に義務付けられ、国としては常時3年分の食料を備蓄していることなどを知り、国際的な緊張状態の中では国民の命綱である食料の自給率をいつも高く維持することの大切さを教えられました。

 パンの原料の小麦は、天然の冷蔵庫としてアルプスにトンネルを掘り、片方の入り口から今年の小麦を保管し、反対の出口から3年前の小麦を取り出しているそうです。スイスのパンが不味いと言われる理由が分かりました。
 
 西ドイツのミュンヘンでは、商業事情とスポーツなどの社会教育を、オランダでは酪農業と干拓事業を、そしてフランスでも社会教育などの研修をしました。

 ミュンヘンの市庁舎前では、もうクリスマス市が開かれていて大勢の買い物客で賑わっていました。デパートはクリスマス一色に豪華に飾り付けられていました。
 ミュンヘン市は札幌と姉妹都市なので、社会教育委員会の担当者と懇談した時、北海道から行った私達はグリューワインで歓迎を受けました。
 このワインは、赤ワインを温め、熱い紅茶と砂糖を適量加えて作るホットワインです。ドイツでは風邪を引いた時によく飲み、身体が温まって治るのだそうです。私は初めて飲んだのですが、甘くて美味しく、ついおかわりをしてしまいました。
 また、社会教育委員会の人の話では、毎年どちらかの国で行われる少年サッカー交流試合では、札幌のチームを配慮して、ミュンヘン市は2流のチームを出しているという裏話も聞かされました。

 ミュンヘンで私は履いていったローヒールの靴のかがとを傷つけてしまい、仕方なくスーパーマーケットの靴売り場に行きました。サイズを聞かれて、23cmと答えると、「その靴はここにはありません。下の階の子ども靴売り場に行って見て下さい」と言われたのです。
 なるほどと思いながら下に下り、何とか大人っぽく見える靴を見つけて買いました。その靴は内側にもしっかりと皮が張ってあり、とてもがっしりと作られていました。帰ってからよく見るとそれはイタリア製の靴でした。
 この事があってからは、外国に行く時、私はカバンに予備の靴を一足、入れるようになりました。
 
 オランダの酪農家を訪ねたのですが、日本と違ってオランダでは、一頭で肉も牛乳も両方利用する事ができる牛を飼っていました。もの凄く大型の種牛も一頭いました。
 その後、北海の干拓事業の記念館に行ったのですが、海抜の低いオランダの大規模な干拓事業が、実は秋田県八郎潟干拓の技術的な支援を受けて行われた事を知りました。
 またオランダでは、多くの人の交通手段として自転車が使われていました。学生が背中にカバンをしょって自転車を走らせる姿を見て、日本でもこの様な背負える通学カバンが普及するべきだと思いました。

 アムステルダムでダム街の「飾り窓の女性」を視察した夜は、同じ女性の一人として考えさせられ、なかなか寝付けませんでした。
 友人と一緒に覗いた大人のおもちゃ店で、児童ポルノ雑誌が置いてあり、写っていたのは当時のベトナムのボートピープルではないかと思う小学生位の子ども達で、胸が痛みました。
 でも、当時の日本の書店では、そのような本が子どもでも誰でも見られる様な売り方がされているのに比べれば、ヨーロッパの国々では、一つの雑誌に一緒くたに記事を掲載するのではなく、内容によって本が種類分けされ、ポルノグラフィーは、一般書とは別な場所に置かれている点は良いなと思いました。

 また、レストランの昼食に出された揚げ芋は、日本でなら畑で捨てられてしまうような小粒の芋でした。オランダではそういう芋もちゃんと流通していたのです。私は、日本の美術品の様に、大きさ、形、色つやが揃い、虫にも食われずに整然と綺麗に並べられて売られている野菜や果物に、大きな疑問を持ちました。
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