昨日のブログに御馴染みのsunasanさんからコメントが入った。
昭和16年生まれにとっての野球の想い出はちょっと切ないものがある。
疎開していた都下(23区以外はそう呼ばれていた。)で小学4年まで通った分教場では、
唯一の遊びが野球であった。しかし、バットは、木の枝、球は、手縫いで直ぐに形が変形し、
中のアンコが見えてしまう。グローブに至っては、捕手だけが竹籠で他は素手というもので
あった。当然、ルールを知っているものもおらず、適当に遊んでいたような記憶がある。
5年生になって転校した都内の小学校では、軟式ボールに皮のグローブ、木製バットを使って
いたのには、少なからずカルチャーショックを受けた。しかし、素手で遊んでいた為か守備は
直ぐに一番になってショートを任された。
この小学校の近くに読売巨人軍の練習場があったので、いまでも巨人ファンである。

sunasanさんへの返信
今は頻繁に交流のある市野々叔母との60ン年前の貴重なツーショットです。
半世紀前から「運命の赤い糸」で結ばれていたのかもしれません。
それにしても「苦み走ったいい男」ですね。(笑)
小学校入学前から野球をして遊んでいたように思えますが、当時の写真はこの一枚だけです。
グランドは野原か田んぼで、用具なども無かったのですが三人集まればゲームが出来ました。
小学校の野球部では「ショートで五番」でした。
チャンスに強いのを買われた打順でしたが、守備の方はイマイチで初めての練習試合で緊張し、
大きなエラー(トンネル)を二連発した記憶だけが生々しく残っています。
当時の写真が皆無なのが惜しまれますがグロープやバットも六年になって初めて本格的に使える
ようになりました。
今考えたら下手くそな選手だったにもかかわらず「将来は長嶋、広岡の三遊間コンビの一角を!」
と途方もない夢を描いていました。
昭和16年生まれにとっての野球の想い出はちょっと切ないものがある。
疎開していた都下(23区以外はそう呼ばれていた。)で小学4年まで通った分教場では、
唯一の遊びが野球であった。しかし、バットは、木の枝、球は、手縫いで直ぐに形が変形し、
中のアンコが見えてしまう。グローブに至っては、捕手だけが竹籠で他は素手というもので
あった。当然、ルールを知っているものもおらず、適当に遊んでいたような記憶がある。
5年生になって転校した都内の小学校では、軟式ボールに皮のグローブ、木製バットを使って
いたのには、少なからずカルチャーショックを受けた。しかし、素手で遊んでいた為か守備は
直ぐに一番になってショートを任された。
この小学校の近くに読売巨人軍の練習場があったので、いまでも巨人ファンである。

sunasanさんへの返信
今は頻繁に交流のある市野々叔母との60ン年前の貴重なツーショットです。
半世紀前から「運命の赤い糸」で結ばれていたのかもしれません。
それにしても「苦み走ったいい男」ですね。(笑)
小学校入学前から野球をして遊んでいたように思えますが、当時の写真はこの一枚だけです。
グランドは野原か田んぼで、用具なども無かったのですが三人集まればゲームが出来ました。
小学校の野球部では「ショートで五番」でした。
チャンスに強いのを買われた打順でしたが、守備の方はイマイチで初めての練習試合で緊張し、
大きなエラー(トンネル)を二連発した記憶だけが生々しく残っています。
当時の写真が皆無なのが惜しまれますがグロープやバットも六年になって初めて本格的に使える
ようになりました。
今考えたら下手くそな選手だったにもかかわらず「将来は長嶋、広岡の三遊間コンビの一角を!」
と途方もない夢を描いていました。