穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

カント「判断力批判」は労作にして老作である

2016-03-06 09:33:10 | カント

カントが判断力批判の原稿を推敲出来なかった理由

 第一の理由は寄る年波に焦ったことがある。カントが自分で書いている様に純粋理性批判、実践理性批判および判断力批判は予備的な考察であって、その上に面目を一新した形而上学を樹立するのが本来の目的である。

 ようやく、予備部門を終わった時に彼は66歳になっていた。もともと虚弱な体質であった彼は体力、知力の衰えを自覚していたようである。「寄る年波」云々という言葉は彼がその頃書いた手紙の中で述べている。

 実際に彼は判断力批判を出版した後十四年間生きたわけだが、彼自身にも予想外の事だったに違いない。そしてこの残りの十四年間で本来の目的である「形而上学」を上木していない。

 最後の十四年間に膨大な遺稿を残した。それは彼の死後一世紀近く経ってから「オプス・ポストムム」としてまとめられた。メモのタイトルは「自然科学の形而上学的原理から物理学への移行」と題されていた。

 という次第で、判断力批判の原稿を推敲する、あるいは清書するなどという時間の余裕はなかったのである(心理的に)。これが世評で分かりにくいと言われる三批判書のなかでも判断力批判がとりわけ意味のとりにくといわれる所以である。

 文章の推敲はともかく、清書は大体妻がやるのが普通であるが、カントは終生独身であった。

 第二の理由はスピードの問題である。思考するスピード、話すスピード、書くスピードとその速度は幾何級数的に遅くなる。きちんとした文章を書こうと(女子大生の様に)気を配りながら書いていたら、頭の中を飛び跳ねるアイデアは雲散霧消してしまう。従って文章は奔放に飛び跳ね、うっかりした書き違えなど頻出する。

 勿論後で読み返して原稿の上に修正を加えるだろうが、女子大生の様に奇麗に清書するなどということはありえない。また、推敲を加え、意図が間違いなく伝わる様に文章を整序、推敲し、明晰化し、長い文章を論理的に整理してセンテンスを分ける等の作業をする余裕はなかったのであろう。

 このことは、第一批判書、第二批判書でも言えるがとくに「寄る年波」にせかされていた第三批判書執筆の際に顕著に見られる。

 一言此れを覆う、いわく「判断力批判は労作にして老作である」。以上


カントの悪文を弁護する

2016-03-05 08:33:15 | カント

カントの文章が悪文であるというのは共通認識であろう。少なくともエステティシュにいえば「美しくない」ことは間違いない。

 彼の評伝を読むと、一般人(庇護者の貴族等)との会話、座談は非常に巧みであったという。また、講義も学生がついて行けるような物であったそうだ。そうでなければ、あれだけ、学会で勢力をうることなど出来ない相談である。学会で勢力を伸ばすには学生の支持が重要なのは古今東西同じである。

 ではなぜ出版物の文章がちと首を傾げるような物だったのか。

 一つには彼は原稿の清書をしなかったのではないか。彼の文章は非常に長い。これはドイツ語の構文から一般的に言えるようだが、それでも長い。挿入句がやたらに多い。関係代名詞、指示代名詞で受けながら延々と続く。

 これが誤訳、首をひねる日本語訳を読むと頻出する。一体どれを受けた代名詞なのか判然としないことが多い。

 おそらく、印刷所に渡す原稿には後で付け足したこういう追加、修飾、言い訳(弁明)が清書、推敲されずに非常に多くて、あのような長文になったのではなかろうか。また、ドイツ語の文法上の特徴がそれを許しているのであろう。複雑な格関係とか冠飾句、関係代名詞の多用など。

 最初の原稿執筆であれだけ、挿入句が出てくることはあり得そうもない。最初はさらさら要旨を流して書いて、あとで読み返し、弁明、反対意見を想定した防御的条件付け、概念のより明確化など、あるいは例示などをあとで付け加えたのであろう。

 普通なら、原稿を書き直して文脈も整理する。いわゆる第二稿をおこすのが普通である。カントはその整理をしなかったのだろう。

 次は、上記の推測が正しいとして、なぜ文章の明確化や整理をしなかったのかということであるが、以下次回で。



カント「物自体」から「超感性的基体」へ

2016-03-04 07:37:18 | カント

カントは純粋理性批判では物自体といっていたが、後年、自由、倫理道徳、美学、判断力問題に手を広げると「物自体」で押し通すのはアンバイが悪いと思ったのだろう。

 判断力批判あたりでは「超感性的基体」という言葉をひねり出した。同じ概念であることは明らかであろう。

 それも「我々の外にも内にもある」超感性的基体といった言い方をする。純粋理性批判では悟性、感覚の枠組みで捉えられない外界の自然が念頭にあったことは明らかであった。

 しかも、この物自体に人間の方から働きかけることが出来るというアクロバティックな(コペルニクス的な)離れ業を見せている。つまり理性はこの超感性的基体に知性的能力により規定的可能性を提供するというわけである。カントも変幻自在なものだと感心する。



カント翻訳者のセンス2

2016-03-03 07:38:18 | カント

「理説」という言葉だが三省堂大辞林に出ているらしい。理論学説とある。良心的な当ブログだから補足しておく。ただし、前回記事を訂正する必要は認めないのであしからず。

 さて、今回の本題に入る。「超越論的」という言葉がある。昔は『先験的』といった。戦後間もなく九鬼周造氏が先験的という訳語はおかしい、超越論的とすべきだといったらしい。それでおいおい超越論的という妙な訳語が一般的になったという。

 翻訳には言語(原語)の意味通りに無理矢理訳す場合と、より適切に意訳する場合がある。「超越論的」の場合は、もとの言語に忠実に、「先験的」は内容優先のより適切な訳である。

 カントの言語のさらにその先にはスコラ哲学で用いられたラテン語がある。transcendentalという言葉を選んだことが適切かどうか。カントにはアプリオリという言葉もある。transc...とアプリオリは意味がだぶる。ほぼ同じ意味に使われる。カントの用語法には揺れがある。

 アプリオリもラテン語だが、その先にはギリシャのアリストテレスがいる。これも先験的と訳せるだろう。日本の場合、アプリオリ、アポステリオリとカタカナに訳すようである。カタカナに訳す場合はまぎれがないから、それはいい。

 Transcendentalという語は「向こう側、あるいは彼岸」という意味のtransと「昇る」という意味のascendの合成語である。

 A prioriは英語のprior toやpriorityに通じる。経験に先立って(かならずしも時間的な意味でなく)というニュアンスである。純粋理性批判でいっている場合は感官の受け皿として、すでに別の側にあるといったほどの意味である。

 スマホのカメラを考えると良い。外から入っている映像はカメラの仕様でしか捉えることが出来ないという意味である。そうして、客観としての映像を人間はカメラの仕様でしか理解出来ない。解像度しかり、レンズが広角か望遠か、絞りは、シャッタースピードはといったことである。

 次回は物自体という幽霊を巡るカントの揺れについて、、

 


カント翻訳者のセンス1

2016-03-02 07:55:31 | カント

 たまたま手に取ったのが熊野氏の翻訳だったので不運と思って諦めて欲しい。

「判断力批判」の第一序論で「理説」という言葉が何回か出てくる。食べている食物になにか硬い異物が入っている様に感じる。

 理論説明の略なのかね。ちなみに岩波文庫の篠田氏の訳では「積極的,主張的理論」となっている。これなら分かる。日本語である。単語としての意味は明快だし、前後の文脈の中にもしっくりなじんでいる。

 もともとカントには適切な単語をピックアップするセンスがないから時々戸惑うが、翻訳ではカントの意を汲んで意訳でもいいから適切な訳語を選んで欲しい。

 念のためにシナの古典籍に根拠があるかと思って漢和辞典を引いてみたがこういう熟語はないようだ。勿論広辞苑にはない。

 明治時代の西洋哲学移植者にはみなシナ古典の教養があったから、造成した熟語も様(サマ)になっていたが、現代の大学人にはそのような教養がないから時々妙な言葉に出会う。新しい造語には「出典、典拠なからざるべからず」である。



カント「判断力批判」

2016-02-28 18:29:32 | カント

このブログでは「小説ときどき哲学書」となっているが、大分小説ばかりやっていたので久しぶりにカント「判断力批判」。

 カントの最晩年に出されたものだが、そのせいかどうか、くどい繰り返しが多いね。まだ序論と第一序論しか読んでいない。とはいっても全体の四分の一くらいになる。

 翻訳書でしか読めないので、昨年出た熊野純彦氏の訳で読んでいる。いま新刊書店で手に入るのは三種類らしい。熊野氏の訳を選んだ理由は活字が大きいという、それだけである。岩波文庫青帯で上下二巻があるが、細字である。あと、大きな活字では上下二冊になったものがあるようだが、これは書店で上巻だとか下巻だとかだけでそろって入手できない。で熊野氏におちついた。英訳でもいいのだが、インターネットで探したが見つからなかった。

 読んでいて、おかしいなと思う所が結構ある。正しい訳かどうかというのは原文と参照出来ないから分からないが、日本語の文章として妙なところがおおい。また訳語に、これはなんだ、というものがある。

 そう言う時には別の翻訳と参照することにしているので、今回は岩波文庫を買った。これは初版が半世紀前である。細字だから通読するのではなくて、熊野訳で引っかかる所をチェックするためである。いちいち例を挙げると煩雑な思いをさせるだけだろうが、あきらかに岩波文庫の方が抵抗無く読める。

 若い学生諸君でまだ眼のいい人には岩波文庫をすすめる。