穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

155:閉店のお知らせ

2020-11-25 08:19:57 | 破片

 第九がスタッグカフェ「ダウンタウン」の前に行くと店の周りには囲いの板が張り巡らせあった。

『当店は11月23日をもって閉店いたしました。長年のご愛顧を感謝します。店主』

と貼り紙がしてある。そうか、コロナで客がほとんど来なくなっていたからな、とうとう持ちこたえられなくなったのか、と第九は思った。最近は客と言っても我々アウトサイダー的なはぐれものしか見かけなかったものな、無理もないと言える。かといって女店主が店の方針を変えてテイクアウトの弁当屋に変身することは考えられない。オーナーは逆にいい潮時と思ったのかもしれないな。彼女は前から辞めたいと言っていたが、従業員のことを考えると踏んぎれないと言っていた。コロナ騒ぎで客が全然来なくなれば、みんな納得するだろう。

 ここを市中徘徊の途中停泊地としていた第九は、ほかの連中はどうしたのだろうと、ほとんど連日この店にたむろしていた、およそ令和の御代から浮き上がっていた連中のことを考えた。下駄顔、エッグヘッド、クルーケースの男、パチプロの立花とは此処の店で会うだけで、別に連絡先の交換をしたわけではない。

 実は第九には今日はすこし魂胆があったのであるが、あてが外れてしまった。立花が来ていればパチプロに弟子入りしようかと思っていたのである。洋美との主夫雇用契約の破棄通告を受けていたのである。来年一月十五日に契約更改日なのだが、二か月前通告の規定に基づき洋美から契約を更新しないことを言い渡されていたのである。これもコロナの波及効果なのだが、彼女の仕事がほとんどテレワークになってしまい、四六時中マンションで仕事をするようになって、第九の存在がうっとおしくなったらしいのだ。

 それで別に生計の道を探さなければならなくなった。競馬を始めようかと思ったが、いろいろ調べて人に聞いてみると競馬はうまい連中でも好調不調の波が激しいらしい。とても安定的な収入は得られそうもない。それに投入する資金もかなり必要らしい。趣味としてやるなら問題ないが、それで生活しようとするなら相当な資金が必要なようだ。とてもお呼びではない。

 それに比べればパチンコは毎回の資金がさしていらないらしい。パチプロと言う人種がいること、それに立花の話を聞くとかなり安定的なリターンがあるらしい。それで彼の意見を聞くつもりでいたのである。しょうがない、と彼はエスカレーターで一階に降りると外に出た。乾いた銀杏の落ち葉が急に吹き出した風に動かされて、妙に人を脅かすような音を立ててコンクリートの路面を擦りながら走る。秋風も身に染みるようになった。路上を歩きながら背広の前をかき合わせた。ポケットのなかで今日立花に見せようと持ってきた納戸でまとめた「ハイデガー・メモ」がさついた。

 「破片」1ー155完

 


154:ストリッパーとしてのハイデガー 

2020-11-17 08:23:07 | 破片

 ハイデガーはストリッパーである。Stripteaserではない。剥ぐ人である。

 若きユダヤ人女子学生ハンナ・アーレントも剥いでしまった。もちろん彼はそんな言葉を使わない。彼の言葉で言えば、伏蔵性から不伏蔵性にもたらすのである。あるいは存在を現前にもたらす、あるいは現わすのである。開蔵である。覆いを取るのである。ギリシャ語でいえばポイエーシスである。ポイエーシスはテクネーつまり技術である。

 剥ぐやり方は三つある。一つは技術であり、アレテー(真理)である。つまり、現代の技術に限ってだが、あるいは現代の技術に特徴的だが、自然科学の発見、知見を利用する。

 また、芸術家も剥ぐ人である。存在の神秘と「驚異」をこちらへともたらす人種である。存在の神秘と「脅威」をもたらすのはラヴクラウトである。

 第三番目は自然(ピュシュス)である。種から植物が成長して花を現前にもたらす。

 さて、彼は論文の最後で技術の危機を芸術が救うと書いている。彼はヘルダーリンの詩を引用する。

「しかし、危険のあるところ

救うものもまた育つ」

 残念ながら、どうやって、ということは書いていない。ヘルダーリンが言うのだから間違いないだろうと言うのである。

 この講演のテーマは「技術時代の芸術」という。したがって技術と芸術を哲学的三題噺で纏めたかったのだが、舌足らずの尻切れトンボになっている。この講演ではノーベル賞受賞者で量子力学の第一人者ハイゼンベルグも講演している。哲学者も講演したのである。もちろん各種芸術家の名を連ねているのであろう。

 


153:三(承前):ハイデガー技術論の先見性?

2020-11-14 13:31:36 | 破片

「技術とは何か」という講演論文は定義明示なし、前提明示なし無し、テーマの明確化なし、順序無しの叙述で解説するとなると逐語逐条解説となる。原文の何倍もの分量が必要となる。したがって逐条的な批評はできない。思いつくままにコチラも書いている。

 まず対象は何か、からいこう。そんなの決まっているじゃないか、技術だろうというかもしれないが、これも読んでいて、はっきりとしてこない。大分読み進んだところでこれは現代技術を論じているらしいと分かってくる。いやさ、電力開発や農業の何というのかな、大規模化と言うか、産業化というか、そんなことにも触れているから近代以降、近代後期あたりからの産業技術が対象らしいと見当をつけた。

 とすると、古代から現代までの技術一般を論じているものではない。もっとも古代哲学を頻繁に援用してはいるが。対象としては論じていない。普通何か論じる時で対象が歴史的地理的に広大な場合は対象を明示するのが作法だと思うがね。

 ハイデガーは「対象」と「対象の本質」は違うという。ご親切に。そんなことは分かっていますよ。そんなことを話しているのではない。此の講演は1953年に行われたそうだ。小生がどこかで1950年と言ったかもしれない。そうだったら1953年と訂正します。

 ある種、哲学と言うより、時事的な問題意識の濃い文章である。したがって、第二次大戦で出現した原子爆弾、原子力技術が関心の対象である。まだ原子力の平和利用などと言う考え方が一般的ではなかった時代である。あと二つのハイデガーの関心は電力産業であり、はっきりと同定していないが、現代的な産業化した農業問題らしいのだ。

 いすれも細分化した工程を組み合わせて大規模な産業化を図る、ようするに現代の大企業かかかわる産業の「哲学的」描写といったらよかろう。

 お得意の造語で用象というのがある。対象ではないのだ。膨大な工程に分かれた産業で各工程での半製品の受け渡しの段取りで材料の分量の見当をつけて事前に過不足なく計画生産し配置するモノを用象というのだ。要するに工程工程でみつもる在庫のことである。ヨウショウと新語を使わないとハイデガーは気が済まないのである。これは企投と同じだね。英語で言えばプロジェクションだ。

 ようするに、 現在のアマゾンの倉庫にはける見込みで取り揃えている書籍の在庫は、在庫でもなく、対象でもなく、H氏によれば「用象」なのである、といえば分かりやすいかな。

 現代産業の企業規模はほおっておけば恐竜と同じでどんどん際限なく大きくなる。極大化が習性である、放っておけばだが。したがって原料である資源の収奪に血道をあげる。ほおっておけば、と言うのは法規制の網をかけない限りということである。あるいは住民の反対運動で頓挫しなければ、ということだ。ようするに自然資源の収奪的な利用と言うこと。それをハイデガーは「総狩り立て体制」と粋がって訛るのだ。

 収奪的利用は環境破壊、環境汚染、地球温暖化をもたらすが、その時代(1953年)にはそんな社会問題はなかった。先見性を誇る(一部ハイデガー哲学の追随者が持ち上げる)ハイデガーもこの問題は触れていない。あくまでも、新聞記事フォローの時評にとどまる。

 この論文に結論はない。もともと最初から順を追って読む必要もない。最後の二、三ページを最初に読むほうがいいのかもしれない。

 次回は最後から逆さ読みをしてみよう。

 


152:第九のハイデガー技術論についてのメモ 二

2020-11-12 08:20:51 | 破片

 解説によると「技術への問い」講演は第二次大戦後H(ハイデガー)の復権第一号らしい。長い間ナチス党員であったハイデガーはドイツ崩壊後パージにあっていた。パージは何と言ったかな、公職追放だったかな。日本でも戦時中、国家主義の唱道者たちは公職追放で教職などにしばらくつけなかった。ハイデガーも大学から追放されていたが、公職追放が解けてから大学に復帰した。

 この講演は大成功で終了後大拍手だったらしい。これでH氏は復権復帰を果たしたという。これが分からない。文章でおこしてみると、かなり厄介なしろものである。それが素人が多かったであろう講演会で大成功したというのは、どういうことか。

 表現者、学者も芸術家と同じで一種の言葉による表現者であるが、これにはいろいろなタイプがある。書かれた文章に巧みな、大向こうをうならせるタイプ、小説家なんか、そうだ。それとしゃべくりに魔法的な伝播力のあるタイプ、つまり不特定多数相手の巧みなもの。大学の教師なら講義で学生に人気のあるタイプ。座談が極めて得意なもの。もちろん二つ、三つのタイプを兼ね備えた人物もある。

 吉田茂は国会の演説などはお粗末であって、あまり演説が得意ではなかった東条英機よりひどかったというが、座談は極めて魅力的であったという。これでマッカーサーなどを丸め込んだ。外交官には座談が得意な人がおおいらしい。仕事柄だね。さてハイデガーはどのタイプでしょうか。

 


151:ハイデガーは陽狂か聖痴愚か

2020-11-09 08:07:45 | 破片

  ユングの書簡集にこうある。

「複雑な凡庸さの巨人、ハイデガーの方法は徹頭徹尾、神経症的で突き詰めれば気難しさと心の不安定さから出てきたものだ。、、、、、哲学はいまだ精神病質者を根絶できないでいる。云々」

 さて、わたくしはここまで断言するのを躊躇する。私の疑問は彼は陽狂を装っているのか、それとも聖痴愚、なのかである。若い読者にはなじみのない言葉かもしれないので若干説明すると、

 「陽狂」とはわざと狂人のふりをすることである。「陽狂自ら快となす」という言葉がある。着違いのふりをして人が気持ち悪がったり怖がったりするのを見て楽しむというか面白がるという意味である。陽には人偏に羊と言う字も使う。PCで変換できないので陽のほうを使った。

 「聖痴愚」というのは頭のおかしい人のほうが神に近いというほどの意味である。ドストエフスキーのハクチ(変換できないね、もっとも白とやってから痴呆とやればできるがそんな面倒くさいことはしない。説明の文章のほうが長くなったが、初めてなので注記した次第)に出てくるムイシキン侯爵がその例である。

 さて、どちらでしょう。私は決めかねている。もっともこの二択設問そのものが間違っているのかもしれない。

 ところで、読者におことわり、と第九は書いた。「技術とは何だろうか」を講談社学術文庫で途中まで読んだが、先日書店で別の翻訳を見つけた。平凡社ライブラリーである。見るとこのほうが読みやすい。いや目にやさしい。活字が大きいし文字の間のスペースもある。それで早速こちらのほうで読んでいます。

 まだ途中だが彼には鬼面人を驚かす造語が多い。よく読んでみると95パーセントは造語をひねり出す必要がない。別の普通の言葉で表現できるのに不自然な造語をひねり出す。やめられないんだね。彼が頻発する意味のない、正当化できない語源遊びと同じだ。

 

 


150:立花は本命狙いで運を呼び込んだ

2020-11-07 09:59:42 | 破片

 第九がスタッグカフェ「ダウンタウン」に行くと立花はもう来ていてCCを相手に競馬の自慢をしていた。

「本命狙いに変えてからあたりが続いてね」

CCが羨ましそうに聞いている。「立花さんは穴狙いだったんじゃないですか」

「そうなんだ、大穴用のシステムを開発してね。時々百万馬券を当てた。しかし、どうも折り返しが長いんだよ。長期的な収支ではトントンになるんだが」

「それはそうでしょう、大穴狙いで毎週的中していたら大変なことになりますよ」

「年をとるとせっかちになるんだろうな。どうも大穴狙いのマチが待てなくなった」

「それで本命狙いに変えた?」

「そうなんだ」

「しかし、本命狙いと言うのは難しいな。僕もそれでやったけど、あれでなかなか的中しない。かすることは多いんですけどね。本命になる馬はそれなりに根拠があるから掲示板には載るけど毎回勝つまでは難しい。それが中央競馬会の狙いだなのろうけど。本当に競馬というシステムはよくできていますよ。本命狙いがバシバシ的中しだしたら競馬の開催は不可能になる」

「だからさ、今俺が好調なのも全くの運という可能性がある。そのうちに当たらなくなるかもしれない。そうしたらやめるさ、その見極めが難しい」

「そうですね、そこの判断の正確さが競馬巧者と普通のファンとの違いですよね」

 入ってきた第九を見て、立花は自分の席の横にスペースを作った。「どうです、専業主夫は、コロナで失業することはないんでしょう」

「ええそれはね、しかし一年契約ですから先はどうなるかわかりません」

「ははは、それで今度の契約更新日は何時なんですか」

「来年の一月十五日です。ところで例のハイデガーの技術論ですけどね」と言いながら彼はショルダーバッグを肩から外して、中からプリント数枚をとりだして立花に渡した。

「内容がイロモノじゃないからみんなに話しても興味がないでしょうから、気が付い点をメモしました。お暇なときにでも読んでください」

「それは、それは」と立花は受け取るとざっと目を通した。「なるほど、あとでじっくりと読ましてもらいましょう」

 三篇の講演記録のうち、『物』と『建てること、住むこと、考えること』は前回までに書いたから、読者には『技術とは何だろか』についての第九のメモを示そう。

 精神分析学初期の双峰の一人であるユンクはハイデガーをサイコパスであると診断している。さすればハイデガーを理解するためには彼を開頭して、頭の中身を調べなければならない、と第九のメモは始まっている。

 


149:ハイデガーの家相学

2020-11-05 07:18:31 | 破片

承前:この『建てること、住むこと、考えること』では主語が二つある。『橋』がその一つ。二つ目は「建物」である。ハイデガーは箸が、もとへ、橋が好きである。人それぞれである。『井戸』が好きで好きでたまらない人がいる。彼は橋が大好きなのだ。

 以下では僭越ながら橋は建物を代表しているとして建物を主語として記述を進める。橋を主語にするのはなんとなくしっくり来ないのでね。ここでも例の四方界、つまり天空、大地、神的な者たち、死すべき者たち(人間)が主役である。

『死すべき者たちが存在するのは、住んでいるからです』。てえと、住んでいるから存在しているわけだ。死んだら住んでいないから存在しないのかな。もっとも、民俗学によると未開民族の間では親族が死んでも同じ家に住み続けていると考えることもあるらしい。先進ドイツ民族ではどうなのだろう。そういうことなのだろうか。哲学的に、宗教的にはどうなのかな。ハイデガーは人間は死をよくするものだという。動物は生を終わるだけだという。わざわざ区別しているところを見ると彼は霊魂不滅説なのかな。明言していなかったように記憶するが。

 さて、四方界との関係であるが、

『死すべき者たちが存在するのは、大地を救う限りです』。ここで長々と救うとはこういう意味だと長々と講釈しているが省略する。

『死すべき者たちが住むのは、天空を天空として受け入れるかぎりにおいてです』

『死すべき者たちが住むのは、神的なものたちを神的な者たちとして待ち望むかぎりにおいてです』

つまり

『大地を救い、天空を受け入れ、神的な者たちを待ち望み、死すべき者たちに連れ添うという形で、住むことは、四方界を四重の仕方で労わる出来事としておのずから本有化されます』

以上がハイデガーの家相学である。第九の解釈は付け加えない。付け加えようがないではないか。

 ハイデガーはまだ言い足りなかったらしく、『家は(原文では橋は)、四方界に宿り場を許容するという、まさにそのような仕方で四方界を取り集めるからです』

『建物は(ここでは主語は建物になっている)は四方界を安全にしまっておくのです。建物とは、建物なりの仕方で四方界を労わる物なのです』

 技術はそういう建物を現前的にもたらす、生み出すものなのです(第九の意訳、文庫本88ページ)。第九の気が付いた範囲では技術に触れているのはこの二、三行のみである。当たり前のことが書いてある。

 

 


148:ハイデガーの語源遊びの幼児性(致命的欠陥)

2020-11-03 10:11:10 | 破片

 どういうわけか、新しいマンションでは半熟がうまく作れない。今朝も洋美が半熟をスプーンでひっぱたいて開頭したら、どろどろの白身があふれ出して彼女の指を濡らし洋服の前を汚してしまった。たちまち彼女は罵声を上げはじめた。前日には中身が完全に固ゆで状態になって、彼女の機嫌を損ねてしまった。タワーマンションの矮小キッチンで彼が開発した半熟卵の作成方法は下町の低層マンションでは通用しないらしい。どうも物理定数が違うようなのだ。これも一種の相対性原理なのだろう。いつものことだが、彼女の罵声は三十分は続く。ようやく出勤したあとは部屋は耳が痛くなるほど静まり返った。彼はハイデガーの本を持って納戸スペースに籠った。

 ダウンタウンで立花に約束した第二講演の「建てること、住むこと、考えること」を読み始めた。早速語源遊びのオンパレイドだ。この講演はドイツ建築家協会のシンポジウムで行われたものだそうだ。だから「建てること」がハイデガーのテーマになっているわけである。

 さて、この論文も語源遊びのオンパレードである。彼曰く「何らかの事象の本質について言い渡しが私たちにもたらせるのは、言葉のほうからです」。なるほど、語源遊びにも立派な理由があるわけである。しかし、彼お得意の現象学的アプローチではないが、言葉は使われていた状況と言うか環境とペアで把握しなければならない。ハイデガーにはその点が全く欠落している。致命的欠陥と言わざるを得ない。

 この論文で古高ドイツ語では住むことはどどまること、滞在することであるという。ま、留まると滞在するとは現在でも同じ意味だけどね。一体、このココウ(と読むんだろうな)ドイツ語と言うのはいつ頃(何世紀ごろ)どの地方で使われていて、この言葉を使っていた種族の生活様式はどうだったのか。

 つまり、農耕定住時代なのか、狩猟採取状態で定住地などなかったのか、あるいは遊牧生活であったのか、この場合も住むというのは定住するということではなく、一時的にとどまるということである。現代?でもテントを担いで移動を繰り返しているモンゴル族とか、北極圏の住民のような生活をしていたのか。それぞれによって住むという言葉そのものがあったのかも疑問である。移動の途中で一時的にとどまることはすなわち、強弁すれば『住む』ことであろう。それを現代にもってきても全く意味がない。

 そのすぐ後に古語ブアンと言うのが出てくる。なんじゃらほい。これらの言語によると『建てるということは、根源的に、住むという意味なのです』。現代風にいえば、住む*ため*に、という意味ナノデス。

 ゲルマニアの深い森を彷徨い狩猟採取生活をする集団の言葉から「哲学的意味」を蒸留することは全く意味がない。『住むことの本質がどれほど広範な射程を有しているかを告げています』

 そうでしょうとも、第一言葉と言うか、語彙そのものが未開異民族にあっては貧弱でしょうからね。現代でも幼児言葉をみればわかります。幼児は一つの言葉で大抵のことを表しています。ハイデガーが本質的な探究をするのにどうして幼児言葉に注意を向けなかったか不思議で

 ここまで書いて第九は読み返した。ちとやりすぎたかな、とも感じたが、まあいい、とつぶやいたのである。昼飯を食いに出る前に一つあげておかないとね。

 

 

 

 

 

 


147:エサをねだる美少女

2020-11-02 08:20:43 | 破片

 アタイにも餌がほしいな、と憂い顔の美女がイライラしたように呟いた。一座はシーンとなって彼女を見た。「精神に食わせるエサのことよ」と彼女は付け足して一同のげすな勘繰りをやんわりと払拭したのである。彼女はよわい二十歳にして精神的な飢餓を感じているらしい。

 そうだな、と立花は考え込んだ。彼は親身になって彼女の悩みを癒してあげようと努力していた。

「なんでもいいのよ、だれでもいいのよ」と彼女はじれったそうに発したのである。

二十世紀の哲学界の天一坊といえばウィトゲンシュタインだが、ああいうのは嫌いかい?と聞いた。

彼女はびっくりしたように立花を見た。

「読んだことがあるかい」

「ううん、無いわ」

「それじゃ彼の論理哲学論考と遊んでみなさい。すぐ飽きるかもしれないけどね」

「日本語で読むの」

「うん、そうだな」

「なんか訳者が沢山いるんじゃないの。誰のがいいの」

立花は困ったような表情をした。「さあてね、俺もよく知らないんだが、適当に選んだら。文庫本でも、わんさとあるだろうよ」

「英語も読んだほうがいいかしら。あれって英語よね。ドイツ語は読めないな。それとも題名からするとラテン語で書いてあるのかな」

「英語でいいんだよ。いま一番流布しているは英語版だ。最初はドイツ語で書いたんだが、すぐに英語版が出た。何回か改定したらしいが、現在は英語版が手に入りやすいだろう」

「ラテン語じゃなかったのね」

「ラテン語は題名だけだよ。ウィトゲンシュタインはラテン語だと格好良いと思ったらしい」

 ところで、と話題を転じて立花は第九に問うた。「さっきのあなたの講釈では技術の話が出ていなかったようだが、本のタイトルは『技術とはな何だろうか』と言うんだろう」

「そうですね、三つの講演記録が収録されていてね、『物』、これはさっきおはなししたものです。それから『建てること、住むこと、考えること』そして最後に『技術とは何だろうか』というんですけどね、たしかに『物』には技術の話は出てきませんね。あとの二つに出てくるのかな、少なくとも最後のはタイトルが『技術とは何だろうか』だから、何らかの言及はあるのでしょうね」

「それじゃ、そっちのほうも解説してよ」

「そうですね、次回にでも」

 

 


146:ユンクの診断は正しいか

2020-10-31 08:06:36 | 破片

 ハイデガーは言う。ここに瓶がある。瓶とはなにか、ものである、とね」

「そこまではまともだね」と下駄顔が評した。

「カメとは何か、その形状は、大きさは、色は。そんなことは問題じゃない。それはプラトンが言う、エイドスとかイデア先行の考えにとらわれている。正しくない」

「へえ、だんだんおかしくなるね」

「瓶とは空洞である。なぜ空洞か。水やワインを注ぎ入れて蓄えるでためある」

「ふむふむ」

「蓄えてどうするのか。人間が飲むためである、また注ぎだした水やワインは神的なものたちへ捧げる、つまりお神酒ですな。さて瓶は何からできているか、大地が長い年月をかけてこしらえた土からできている。土は天地の合作である。大地の割れ目から染み出す水もそうである。ワインの原料となるブドウも天地の合作である」

「なーる、それで天、地、人、神的なものがそろったわけだね」

「もっとも彼の講演ではこう分かりやすくいっていない。私の要約が正しければ以上のようになる」

 立花が注釈を加えた。アリストテレスは原因に四つあるといった。質量因、形相因、目的因、作用因です。ハイデガーは瓶の分析においてアリストテレスのいう目的因を重視しているらしい。もちろん彼はそんな言葉を使用しないだろうが。注ぐとか捧げるというのは機能ですからね。あるいは別の言い方をすれば瓶の使用目的です」

「そのとおりですね。彼はしきりと機能と言っていたが、目的因とおなじですね」

それで、と立花は促した。その四方同士の関係はどうなんです?

「そこですよ、これが難物でしてね。ハイデガーはいろんな表現を使っている。しかもそれらを系統だってというか一つにまとめて説明していない。講演のあちこちで脈絡もなしに少しずつ表現を変えて出てくる」

「厄介ですな」

「まったくです。これは彼の癖なのか。私はボケの表れとみるんですがね」

「これはきびしいね」

「こういったクセは他の講演にも頻出する。特にひどいのは、この本の最後に収録されている『技術とは何だろうか』ではひどい。前後に何の説明もなしに結論の命題が繰り返して出てくる。いまご説明してる『物』では手を変え品を変えて短い説明をしているのですがね」

たとえば?と立花が聞いた。

「あるところでは、四者(四方)は、おのずから一つの組になりつつ、一なる四方界を織りなす単一性にもとづいて、連関しつつ帰属しています。四者の各々が、それぞれの仕方で残る三者の本質を反照し返します。云々、・・・反照させるはたらきは、四者のいずれをも開け開きつつ、それらの固有な本質を、単一に織りなされる固有化のうちへ、おたがいに組み合わせて、出来事として本有化するのです、・・・だとかね」

 


145:四方界とは

2020-10-30 08:01:05 | 破片

「思い出したんだが」と立花は愁い顔の長南さんの不遜にも威嚇的に突き上げているブレストのかたまりを凝視しながら聞いた。「あなたにこの間見せてもらったグレアム・ハーマンね、思弁的実在論入門と言う本の中で、彼はハイデガーの道具論を一生懸命に勉強したというんだが『四方対象』とか妙なことを書いていた。何のことか分からない。なにかそんな言葉がハイデガーの本に出ていましたか」と第九に聞いた。

「さあてね」と第九は一呼吸おいた。「・・・そういえば四方界ということが書いてありました。天、地、神的なものたち、人間たちの四つで世界が出来ているそうですよ」

「へえ、世界がね、世界と言うのは存在とは違うんですか」

「どうですか、はっきりしませんね」

「日本では三才といって天地人というがね、天というのは神と言う概念に近いようだが、ハイデガーの場合はどうなんですか」

第九は考え込んでいたが、「神的な意味は無いようですね、太陽とか、月とか、星と言うことらしい。私も読んでいて妙に思ったんだが、神という概念はどこにもないみたいですね。神的なものというのがあるが、これはどうもキリスト教でいう精霊のようなつもりらしい」

「たしかに『神的なものたち』と複数になっているから唯一神としての神様じゃないわな。ハイデガーは多神論者ではないんだろう?」

「そうですかね」

「かといって、キリスト教でもない?」

「どうでしょうね、かの地ではキリスト教との距離感をはっきり表明することは哲学者にとっても危険でしょうからね。曖昧にしている」

「ところでその四方界にどうやって説明を持っていくんですか。いきなり頭ごなしにどやしつけるんですか」

「いや、彼独特の方法で持って回った説明でそこへ持っていくんですよ。翻訳者の説明によると、なんでも現象学的アプローチらしい。わたしの理解するところではトンチ的、しりとり的強引さですね」

 トンチ的と聞いて憂い顔の美女は膝を乗り出した。

彼女の顔を見ながら「読んだことははっきりと覚えていないんだが、こういう風なんですよ」と第九は始めた。「現象学者らしく卑近なものを例にとりあげる。この場合は瓶です」

「そりゃよかった」と立花が安堵したようにため息を吐いた。

「は?」

「いやさ、またリンゴや机が出てくるかと思ったのさ」と彼は説明した。「とすると、『瓶とは何じゃらほい』と始めるわけですな。謹聴謹聴」

第九は閉口して「正確に覚えているわけではありませんよ」とことわった。

「ここに瓶がある」

 


144:そのほかに感想がありますか

2020-10-28 06:26:02 | 破片

 その他に感想がありますか、と立花は第九に問うた。

「そうですねえ、この翻訳書には感心なことに索引が付いていますね」

「ほう」

「しかし、出来はよくないようです。それに訳語に気になるところがいくつかありました」

「たとえば」

「本有という訳語がある。あんまり使わない言葉ではありませんか。こっちが学がないだけの話かもしれないが」

 みんなも初めて聞いたような顔をしている。

「私はね、最初は仏典あたりにありそうな言葉かと思ったんですよ。だけど念のために辞書をひいた。電子辞書ですけどね、そうしたらちゃんと出ているんですね。そんなにもったいぶった言葉ではないらしい」

「しかし初めて聞くな」と齢百歳になんなんとする下駄顔が不審な顔をした。「どういう意味なんです」

「本来の、とか生得のと言う意味らしい。別に仏典や漢籍までたどることはないらしい。いや全く自分の無学を恥じましたね、毎度のことだけど」

「いやいやご謙遜で。私も初めて聞いた」

「この言葉が肝心なところで何回も出てくる。よほど重要な概念に違いない。しかし、本来のという意味を気取って本有と言ったところで前後の文脈で意味が通じない」

「へええ」

「それでね、この訳にはカッコつきでもとのドイツ語が示してある、良心的ですね。それを訳すると(とどまりながら生じる)となる。もともとはドイツ語で二語なんですよ。前後の文章から推測すると、(変化していく、あるいは成長していく、あるいは技術によって完成していくが本来の性格あるいは本質は変わらない)という意味らしい。そうとると前後の文脈にうまくハマる。生来の、だけではハイデガーの造語の、あるいは表現の工夫、襞(ヒダ)がまったく伝わらない。どうしてこんな風に訳しているのか分からない」

そして思い出したように付け加えた。

「それからね、これは(建てること、住むこと、考えること)という講演記録にあるんだが、橋、駅、飛行機格納庫、道路なども住むという領域内にあるというところがある。これは訳者が住むという部分がドイツ語でどう書いてあったか示していないが、おかしいでしょう。強弁すれば住むという語の代わりに生活する為の(場所)として橋や格納庫もあると言えばなんとなくわかる、もっと正確に言えば生活するというよりは生計を立てる場所といえば分かる。航空会社の職員にとっては格納庫はそこで働いて生計を立てる場所ですからね。橋は会社への通勤の経路にあれば生計のための構造物と強弁出来るかもしれない。もっとも橋下(ハシモト)さんなんて名前もあるけどね。もとは橋の下で生活していたのかもしれない。いまでもいますよね。橋の下で雨露をしのいで掘っ立て小屋に住んでいる人がね。しかし、ハイデガーがそんな人のこと(家)を意味しているとは思えない。

 皆が笑った。エッグヘッドが締めくくった。「すくなくとも、橋に住むとは言わない。もっとも橋上あるいは橋下生活者と言うのはいるかもしれないが」

 立花さんが言った。「ハイデガーはもともと奇をてらう言い方をする人だが、翻訳者がそれに輪をかけているわけだ」

 

 


143:アリストテレスを買った立花さん

2020-10-26 08:30:57 | 破片

 ダウンタウンではここ二、三日立花さんのすがたを見かけないな、と第九は気が付いた。彼は洋美のために夕食の支度をしなければならないからあまり遅くまでいられない。立花は普通四時前後にパチンコを切り上げて獲得した景品を女ボイへのお土産に店に現れるのであるが、パチンコの成績が思わしくなくて未練がましく遅くまでねばっているのか。ひょっとしたら病気なのかもしれない。コロナかもしれない。肥満体は重症化するというから、重症化したのかな、と彼は手持ちのハイデッゲル教授についての質問をぶつけられないでいるのである。

 レジのあたりが騒がしくなった。女ボーイたちの嬌声があがる。振り向くと、立花が若い女性たちに獲得したチョコレイトやクッキーの景品を分配している。

席に現れた彼に「今日は調子がいいらしいな」と下駄顔が声をかけた。

「いや、ツキが回ってきたらしいです。パチンコだけではなくて昨日はアリストテレスを抑えで当てましたよ」

下駄顔はきょとんとしている。「菊花賞ですか」と競馬狂のクルーケースの男が言った。

「そう、頭で狙ったんだがね、抑えのほうが来ちゃった」

「惜しかったですね。クビ差の二着でしたね。もう中盤からルメールはぴったりとコントレイルにくっ付いていましたからね」

立花は真っ赤な顔からにじみ出ている汗を変色してすでにびしょびしょになったフェイスタオルで何回も偏執狂的にゴシゴシとぬぐっていたが、第九に気が付くと「読んでみましたか」と聞いた。

「ええ、難儀をしましたよ。素っ頓狂な本ですね」

「あはは、素っ頓狂はいい」

「やたらと語源調べが多くてね、違和感を覚えましたね」

そこへ憂い顔の長南が注文を取りに来たが、「ギリシャ語の語源遊びでしょう」と若き女性哲学徒らしく聞いた。

「うん、ギリシャ語もあったけど、とにかく思いつく言語すべての語源を調べたという印象だな」

「ふーん、アタイは存在と時間を読んだけど、ギリシャ語だったような気がするな」

「いやいや、ギリシャ語はすくない、古ドイツ語だとか、古いザクセン語だとか高地ドイツ語だとかね。それに古代ラテン語、ラテン語だろう、それにフランス語や英語までほじくっている。サンスクリットまである」

「そうなの」と彼女は狐につままれたような表情をして、「どうなんですか」と哲学の先輩を見た。

「たしかに存在と時間ではギリシャ語だけだったような気がする。ハイデガーはその後、いろいろな言語を勉強したんでしょうな」

「語源調べを自分の哲学の根拠とするなんてありなんですか」と第九は問いかけた。

「ないでしょうな、古文、古典の解釈には有効な手段だろうが、哲学の論証には使えるわけがない」と立花は切り捨てた。

「本居宣長の古事記考じゃあるまいしね」

 

 

 

 


142:第九、三畳の部屋で奮闘

2020-10-24 10:20:07 | 破片

 それから二、三日、第九は洋美からあてがわれた三畳ほどの部屋でハイデガーの「技術とは何だろうか」と奮闘していた。新しい下町のマンションに移ってから、彼はようやく自分の部屋を与えられたのである。昔風に言えば三畳の納戸のようなスペースである。もともとは収納スペースとして設計されていたらしい。窓はない。机もない。机なんか置いた日にはスペースがなくなる。彼は折りたたみいすの上に座ってハイデッゲル教授の妙な本と取り組んでいた。

 いきなり、バタン、バタンと乱暴にドアを開け閉めする振動が響く。今は安マンションでも隣の部屋の話し声というのは聞こえない、たいていの場合はね。夫婦げんかで相手に絞殺されそうになって絶叫でもしない限り遮音されている。ところが鉄筋コンクリート造りのマンションでは壁とか柱とかの構造物をたたくと、その音が増幅されて隣室はおろか、上下左右、数個先の部屋まで響いてくる。鉄筋は優れた伝導体である。もう本は読めない。ただでさえややこしいことが書いてある本である。

「また、となりの樹違い女か」と第九は舌打ちした。どんなマンションにもひとりや二人はおかしな人間がいるものである。となりの女は乱暴にドアを開け閉めする。何回もドアを叩きつけるように七、八回は連続して開閉する。最初は立て付けが悪くてうまく開閉しないのかな、思ったがそうではないらしい。一度、注意しようと思って外に出たら、そこにいた若い女は第九の顔を見ると身を翻して部屋の中に入ってしまった。まだ20台の若い女だった。ちらと見た目は普通の女のようだったが、この頃の世間は分からないからな、彼は呟いた。

 あれは発作なのだろう。外出するときや帰宅した時ばかりではなく日に数回発作が起こるらしい。女に同棲者がいるかどうかは分からない。その気配もない。しかし、一度ドアの上に張り紙がしてあった。「祥子、お父さんに連絡しなさい」と書いてあった。父親が訪ねてきてもドアを開けなかったのかもしれない。発作が起こるのは日中だけなので、洋美は気が付いていないらしい。気の荒い彼女のことだ、きっとそのうちに大揉めにもめるに違いない。

 そっちのほうはワイフに任しておいて、と彼はH教授の本を取り上げた。「彼は遅れてきた本居宣長だな」とつぶやいた。やたらに古い言葉の語源漁りが横溢している。『古い土語でこう言っているだろう、どうだ」とドヤ顔をしてふんぞり返っている。こんなことが哲学探究の根拠になるのかな、そうなら哲学なんて大したことはないな。これは今度ダウンタウンに行ったときに立花さんに聞いてみよう』とかれは決めた。

 


141:ハイデッゲル教授の後期哲学

2020-10-21 08:47:02 | 破片

「どうだい、読んだかい」と立花さんが第九に問いかけた。

「いやどうも大変なものですな」と第九は応じた。精神分析の大家ユングがハイデガーのことを評して狂人と言ったと聞いたことがあるが、この文章は難物ですね。ユンクはハイデガーの『存在と時間』時代つまり前期ハイデガー哲学のことをいったのか、後期の哲学のことをそういったのか、いや彼の全著作をそう評したのかもしれませんが、立花さんは存在と時間はもちろん読まれているのでしょう」

「存在と時間も何というか厄介な本だが、狂気の書とまではいえないね、ユンクはいわゆる後期哲学のことを言っているのかもしれない。僕はその本を読んでいないから何とも言えないが」

 相変わらずスタッグ・カフェ「ダウンタウン」の客足は戻ってこない。昼下がりの閑散とした店内にはいつものアウトサイダー集団が屯しているだけである。

 絶望とは死に至る病だとキルケゴールが言ったとか、言わなかったとか。本当かね、と第九は思うのであった。彼の切実な病は目下のところ退屈である。退屈は高齢者にとっては痴呆にいたる病である。まだ体内にガソリンが残っている壮年者にとっては精神と言うエンジンの空焚きの危険性であり、つまり自傷、いや自焼の危険がある。

 てなわけで彼はパチプロの立花さんに相談したのである。立花さんはもと精神科医であり、もと哲学専攻大学生である。精神と言うエンジンに食わせるものが途絶した第九は立花さんに意見を求めた。

「そうねえ、そういう時には禅の公案でも解くといいんだが」

「お寺に行くのも面倒くさいですね。それになんだか剣呑だ。本当に精神がおかしくなりそうだ」

「言えてるね、それじゃね、難しい本でも読んでみたら。何を言っているんだか分からない本とにらめっこしていると時間がつぶれる」

「なるほど、どんな本がいいですかね」

「そうだね、ハイデガーの『技術とは何だろうか』なんかどうだ。いや大した理由はないよ、ふと思いついただけだ」と無責任なことを言った。

「翻訳があるんですか」

「うん、講談社学術文庫にある。読んではいないんだが、本屋で訳者後書きを見ただけだ。それによると彼の後期哲学の代表的な論文(講演)だそうだ。ここで前に新実在論のことが話題になっただろう。そこでグレアム・ハーマンというのがしきりとハイデガーの道具論を勉強したと言っているそうだ。道具論とはなんだ、存在と時間にそんなテーマがあったかな、と考えたが思い出せない。それで書店で偶然この本を見かけて道具論というのは技術論のことかな、と引っこ抜いて手っ取り早く後書きで見当をつけたら、どうも当たりらしいんだ。ハイデガーの後期哲学なんだそうだ。それで今頭に浮かんだだけさ。薄っぺらな本だから読んでみたら」と言われて第九は720円(税抜き)で贖ったのである。