検非違使の下した結論はかくの如きものであった。
母親の腹を出たときには白髪頭をしていた(河童)。
わたしが「一番仕合せだったのは、やはり生まれてきた時に年よりだったことだと思っている」
(河童)
村上春樹の言う「ある知的エリートの滅び」という総括(タイトル)も当たっているだろう。年を加えるにつれて劣化するという自覚は耐えがたいものであったろう。
検非違使の下した結論はかくの如きものであった。
母親の腹を出たときには白髪頭をしていた(河童)。
わたしが「一番仕合せだったのは、やはり生まれてきた時に年よりだったことだと思っている」
(河童)
村上春樹の言う「ある知的エリートの滅び」という総括(タイトル)も当たっているだろう。年を加えるにつれて劣化するという自覚は耐えがたいものであったろう。
或る大きな書店の文芸評論の棚の片隅に『芥川龍之介短編集』というのを見つけた。最近文庫に採録されている短編を二、三読んだので、もうすこし読んでみたいと思っていたことが頭の片隅にあったのだろう。普段は気がつかないような地味な本に目が行ったのである。
2007年6月新潮社発行とある。あまり売れないのだろう。初版である。16の短編がある。編者はアメリカ人の日本文学研究者、ジェイ・ルービン氏という知らない人。この人がペンギンクラッシックに収録するために選んで翻訳したものを元にしている。村上春樹氏の解説がついている。
岩波や、どこかの芥川龍之介全集を買うほどの気持はないので、手ごろなものを見つけたと、あがなった。
最近後期の作品を読んでいたので、その時期の未読の数編を読んだところだ。
「大導寺信輔の半生」について。どうも感心しない。なぜこんなものを入れたのかと思ったが、これは新潮文庫にも入っているらしいね。自殺の前に自伝めいたものを連作しているが、その最初の「習作」のようだ。最初のところで生まれ育った本所のことを書いている。そこはなかなかいい。本所といっても当時の本所は両国よりだ。厩橋東岸を本所とは呼ばなかったころの話である。
それから中学、高校、大学の話となるが、これがいけない。主たる色調は「貧困」、あるいは「貧困に対する怨嗟」である。
村上春樹の解説によると、彼も時代の潮流である当時勃興しつつあったプロレタリア文学のことが気になっていたようである。それとやはり、当時自然主義文学から流れ出た「私小説」が気になってしょうがなかったらしい。で、前期のおとぎ話から新しい方向を模索したらしい。焦っていた。
村上によると結局、プロレタリア文学は芥川の性質に合わず、私小説、或いは自伝的作品を生み出すことになったということだ。(歯車、或る阿呆の一生など)
この「大導寺、、」はプロレタリアも私小説も、という試作めいている。つい最近藤沢清造の根津権現裏を読んだものだから、貧困に対するムードが似ているなと思った。当時の流行だったのだね。社会批判なんてアナーキーの政治パンフレットみたいなのも根津権現裏に似ている。
この短編で見るべきところは本所の描写だけである。貧書生の回想は文章も拙劣だし、第一冒頭の本所の描写とは水と油である。
時代の流行の風潮に乗ろうとしたのだろうが。
芥川の作品は大昔に「鼻」を読んだことを覚えているくらいだが、これから前期の作品を読んでみるつもりだ。もともと芥川についての作家論など一冊も読んだことはないが、彼は本質的には今風の言葉でいえばファンタジー作家ではないのかな。そういう作家論はあるのか。
これもほかの作品を読んで見ないといけないから、今の時点では仮説だが、かれが時代の影響を受けたと言うのはプロレタリア文学運動や私小説の勃興に限らない。今のことばでいえば心霊主義とかスピリチュアリズムが大きな影響を与えているはずだと思うが、これはすでに指摘されていることかな、それとも当ブログの珍説だろうか。
芥川がファンタジー作家であるとすれば、この心霊主義(要するに幽霊)の影響は終生本質的なものであった筈だ。「歯車」には明瞭にその影響が刻印されている。
ちなみに彼が若いころ、大学を出て海軍機関学校の英語教官になったが、彼の前任者は浅野和三郎である。かれは大本教に参加するために職を辞した。のちに大本教からも離れて日本では初期の心霊研究家になっている。
さて前回はどの辺でリポートしたかな。そうそう200ページあたりまで読んだんだった。一応最後まで読んだのでちょっと追加。
後半は意外に前半に比べて読みやすくなった。ミョウチキリンな比喩もぐっと減ってきた。ただ最後の50ページくらいはまいったね。これは検閲には引っ掛からなかったのかな。しょぼくれたアナーキスト的理屈を述べたているが。ドストエフスキーの罪と罰の女中版みたいだ。藤沢がドストに比肩する作家と言うのではないが、ドストなら大抵しっているから引っ張り出しただけだが。最後の数ページは読ませる。
しかし、新機軸ではあろう。こういう書生っぽい議論を会話でもなく、地の文でもなく、政治パンプレットそのままに小説に押し込むのは新機軸ではあろう。
最後に西村賢太の解説に関連して。シェンケビッチの二人画工を下敷きにしたようなことが書いてある。シェンケビッチとはあのクオヴァディスの作者かいな。二人画工という作品はないような。もっとも内田魯庵の翻案ものというから原題とは違うのかもしれない。
ただ小説の構成と言う観点から言えば、そこらの私小説よりはるかに工夫をしたようだ。それにそのころはまだ珍しかったであろう心理ミステリー、あるいはサスペンス風に話を進めるのは工夫だろう。岡田を自殺に追い込んだ犯人はだれだと、二転、三転させるわけだ。通俗的な興味も持たせる。
解説はコメディカル、パロディカルなテクニックが分からないと本当の良さが分からないと言うがどうもね。そんなに軽妙洒脱なところがないし、これはミョウチキリンな比喩のことを言っているのだろうか。落語的なよさが分からないと理解できないと言うが、どこが落語的なのかな。西村氏とは「落語的」という理解が違うようだ。落語と呼べるものがあったのはせいぜいラジオ時代までだ。西村氏が落語をご存知だとは思えない。
一言で言えば「だらくさい(でよかったかな)」北陸風の落語と言うことだろうか。
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そうそう、この小説には女性の会話がまったく登場しない。話には出てくるが。それと何だったけ。そう、かなりの個所に通俗科学的説明が「無修正」で展開されているのも抵抗のあるところだ。
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読了前偶感:根津権現裏
いつ読み終わるか分からないので、読後まとめて書くつもりだったことをいくつか。
? 新潮文庫からの根津権現裏の出版は西村氏にとってよかったか ?
疑問である。西村氏の小説、随筆などによって、彼が長い間文献の収集や考証に非常に熱心であったことは分かる。しかし、藤沢清造論、あるいは根津権現裏論というものを目にしたことがないが、あるのか。ないとしたら極めて不自然であろう。
藤沢清造のどこに惚れたのか、かくまで入れ込むのか。これまでは文献考証だけで実物を見ないから疑問も生じなかったが、かく堂々と?発表されてみると唖然とするし、西村氏の鑑識眼にも一抹の不安を感じざるを得ない。西村氏の芥川賞は何回も書いているように今でも支持している。それだけにこの落差に唖然とする。書く能力と他人の「さくもつ」を評価する能力は別だと言ってしまえばそれまでだが。そういえば、西村氏の車谷長吉論もどうかと思ったが。有る意味で徒党性が強いと言う作家の特性を持っていると言うことかもしれない。
西村氏は私小説作家であると言うことを自ら惹句としている。しかし、書く題材は限られている。藤沢清造との出会いと長い関係を赤裸々にその心理を正直に「私小説」にする事が出来るだろうか。私の仮説では西村氏は藤沢清造の生い立ちや生涯に重大な関心を寄せているのであって、本当に客観的に彼の小説を理解しているか疑問である。どういうことか、これ以上書かないが。あまりにもその生涯に感慨を抱いていて、その作品を客観的に評価する目が曇っているのかもしれない。
+ 文壇ギルド古手推薦の客観性
文献考証でしきりに傍証しようとするのが、当時の文壇人の藤沢に対する評言である。徳田秋声が絶賛したとか、芥川龍之介が新潮社に出版を推薦したとか、島崎藤村がほめたといったたぐいのことである。こまごました考証としてはいいのだろうが、文壇人のギルド協賛的な評価はあまり重きを置くべきではないだろう。相互補助的な色彩が濃い。藤沢も当時は曲がりなりにも文壇ギルドの仲間入りをしていたのであるから、お世辞が多分に入った大御所たちの表現を押しいただく必要もあるまい。
ほめるつもりが、とんでもないことに。こういうこともあらうな。
まだ150ページある。逆転もあるかも。すくなくと、いまのところは蓮の花は取り消しだ。
新潮文庫で350ページ足らず、160ページまで読んだ。以下順不同でいく。
私は根津神社の氏子ではないがほぼこの小説の活動範囲と一致する。だから旧町名も目に懐かしく感じるのだ。しかし、藤沢氏は町の叙景が得意ではないようだ。あるいはそんなことは重きをおかないのかもしれない。
一体に自分になじみのあるところだと、今の街並みが一変していればいるだけ、ああその昔はこうだったんだという感慨が浮かぶし、昔と全然変わっていないところだとそれはそれで懐かしく感じるものだ。そういう情緒はこの小説からは触発されない。しかし、白山、巣鴨行きの都電、なんて懐かしいな。
さて、キーワードは、少女趣味の現代用語を使うのをお許しいただくが、性欲、病魔、貧困である。執拗に、いささか単調にくどく繰り返される通奏低音である。文章は読みにくい。一気に読んだなんて人もいるようだが、つっかえてしまう。だがある種の力はある。
二:珍妙なる比喩 200ページ通過
読みにくさの原因は比喩の不適切さと、かつその異常な多さが大きな原因である。他にもあるがこれが一番分かりやすい。平凡な比喩、さりげない比喩、これはいくら連発してもよろしい。これに抵抗を感じるのは野暮天、田舎者である。適切に比喩を刻んでいけば絶妙なテンポが生まれる。講談、軍記物などがそれであり、紋切り型の比喩的修飾句のオンパレードである。
自分のオリジナリティのある比喩じゃなきゃ嫌だと言う人もいる。そういう時にはよほどタイミングをはかって満を持して放たなければならない。老人の屁のようにのべつ幕なしにやっていてもしょうがない。一ページの間に十も二十もやっていてはその神経を疑う。
そして何よりも重要なのはセンスである。比喩ほど文体でセンスの差が感得されるものはない。だれにも分からない失笑物の比喩を連発してもはじまらない。
西村賢太氏には申し上げにくいが、根津権現裏は狂的に比喩が多く、そのほとんどが意味不明、センスゼロである。
西村氏に対する評価はもちろん根津権現裏を読んだからと言って変わらない。彼自身が告白しているように藤沢清造の作品が衝撃を与えたのは事実だろう。どこがどう与えたかは詮索考究する気もないが、半年前の記憶では西村氏は比喩に関しては私の上記の批判には該当しない。
三:引き延ばし方法
所詮自分のことを書いている分には、日記と同じだから長くは書けないし、そのうちに種切れになる。個人が破天荒な経験をするなどという機会は非常に少ない。ましてその人に文才があるとか小説家になりたい場合で、と限定されると皆無に近くなるだろう。
私小説の分野は不案内(特に不案内といったほうが正直かな)であるが、私小説で長編なんて非常に少ないんじゃないか。志賀直哉は私小説作家の分類に入るらしいが、彼の唯一の長編が暗夜行路だろう。それも完成までにやたらと年月がかかっている。
「私小説」を長編化する道の一つが心理描写の多用であろう。根津権現裏がこれにあたる。藤沢清造は雑誌の編集などをしたというが、心理学の雑誌にも関係したと言うし、また通俗解説本か専門書かしらないが、心理学の翻訳(の下請け)もしたという。根津権現裏でも友人の岡田とともにそのような仕事をしている話が出てくる。
この小説でもくどいほどの心理的な「説明」だ。それがわけのわからない先に述べた比喩によって長々と修飾されている。これによって「長編化」がなりたっている。しかし、私小説の心理描写化という方向はどうなのかな。
つづく
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つづく
7月に新潮文庫で出た。先日書店で平積みされているのに、ふと、目が止まり、おやおやと買って来た。前々回になるかな、今年初めの芥川賞作家西村賢太氏が自ら没後弟子を自称して入れ上げている大正昭和交期の「私小説作家」の長編代表作である。
西村氏の傾倒が尋常とも思われないので、そのころ電網界をさらったことがある。どうせ古本屋にはないからね。あっても特殊な好事家相手でべらぼうな(私の価値観では)値段がついているから古本屋は最初から探さなかった。
あったね、それがスキャナーでとったものをそのまま画像としてアップしたものとおもわれる。厚い本だからページの端の行は斜めになっているし、真ん中は凸面鏡を当てたようにゆがんでいる。
この状態ではせいぜい10ページも読むのが限度だったろうか。ま、そんなことがあった。税前514円なりだ。荷物にもならない。買って来た。
二:
電網界へのアップもぼちぼちあるようだが、なかに「新潮文庫に入りそうもない作品が」云々と言うのがあった。とても商品にならない、という意味なのか、レベルに達していないという意味なのか。この人のアップには随分前から藤沢清造の記事があり、ポジティブに観ているようだから、とても特殊で、地味で、古くて、商品価値の無い、しかし作品としては価値のある、という意味合いのようである。新潮社は相当に耳目を集めた異色の芥川賞作家が入れ込む作家として藤沢に対する好奇心も世間にあることから、商品化可能とみたのであろう。妥当な判断だし、売れ行きもよさそうだ。
三:
表題からはすこし離れるが出版社というのは蓮田をやっているようなものだ。綺麗な蓮の花を咲かせるためには大量の汚泥の沼が必要である。ころやよし、である。上野の不忍の池に早朝行ってみるといい。
そのためにどこもくだらない本を大量に出す。大衆は泥を好むからである。これによって、わたしは出版社が愚劣なさくもつを大量にひりだすことを容認しておる。新潮文庫でもその95パーセントは泥であろう。特に時代の評価を潜り抜けていない平成、直前の昭和終末期あたりの作品はその99パーセントが泥である。
これは芸術家連中と似ている。一人の天才が生まれるためには999人の芸術家と自称するゴロツキが必要であるのと同じである。そのなかでは新潮社はいいほうである。書評でも書いたが夏目漱石の鉱夫を出しているのも評価している。ちなみに漱石全集を出している岩波文庫は鉱夫を入れていない。
そこでだ、根津権現裏は泥か蓮の花か、というのが問題である。ま、泥じゃないな。小さな蓮の花だ。すこし褒めすぎたかな、次回以降はケチをつけてみよう。
続く
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大分前に買っておいたのだが、ある日二ページ読み、一月後に五ページ読み、という調子だったのだが、二十ページあたりから一気に九十ページあたりまで読んだ。その後は惰性で進み今のポジションは百四十九ページ。
文春文庫であるが、巻末の縄田一男氏の解説によると平成十四年直木賞受賞作。解説者は馬鹿に入れ込んでいる。九十ページあたりまではなるほど、と感じた。どうせ職業的書評家は三百六十五日どうにもならない駄作の提灯解説をしなければ生計が成り立たないのだろうから、予想外に良質の作品に出合うと、このように感激してしまうのだろう。
しかし百ページあたりからはよくない。登場人物の過去にバックフラッシュしての挿入がやたらと増えるのだが、これがごつごつしていて感心しない。縄田先生は感心しているがね。
ま、百四十九ページまで読んだから最後の399ページまで読むがね。
過去挿入が全体の流れと粘着していない。粘り気の弱いポストイットをところどころ張り付けたようだ。
全般的に唐突な画面変換も気になる。また、会話の主語がハッキリしない所が多い。おそらく作者はわざとやっているのだろうが、成功していない。
九十ページまで読んだ所では、こう書評するつもりだった、エンターテインメントでもせいぜい三百ページまでに収めるべきと考えているが、この筆力なら四百ページまで破たんが無いかもしれない、とね。撤回だ。しかし百五十ページから三百九十九ページまで読み終わった段階で訂正するかもしれない。
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