穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

下駄屋の告白、ディック・フランシスの告解

2010-01-26 20:39:20 | ミステリー書評

この本を選んだのは下記の理由による(告解、ハヤカワミステリー文庫)。

1・前回取り上げた敵手が1995年の駄作、これが著者(および訳者)の高齢によるスランプなのかどうか、読み比べたいということ。「告解」は1994年の作品である。

2・登場人物リストを見たり、最初の数ページを読むと競馬の装蹄師の世界を描いたように思われたこと。かねてから、「興奮」などで競馬サークルのグループの描写がきわめて巧みなので、今回は競馬の予想という自分の都合で興味のある職業なのでつい手が出た。

ところがである。確かに下駄屋は出てくるが、主役は競馬世界に二十数年前におこった調教師の妻の変死事件をデフォルメした映画製作の話が延々と続く。そういうことに興味があれば部分的には面白い。どうも、やはりフランシスの年のせいだろうと思うが、筆の運びが快調なのが部分的で間歇的なんだね。つまり面白いところと退屈なところがまだら模様になっている。

変死事件そのものも下駄屋(ソウテイシは一発で変換できないから下駄屋で代用する)の職業上のトラブルとか、八百長工作とかとは一切関係がない。それどころが競馬社会特有の事情は一切からんでいない。落ちも下駄屋の世界とは全く関係がない。

D・フランシスは自分の作品が映画化されたことがあるのだろう。その時に映画製作にも何らかの形で参画した経験があるようだ。ことこまかに記述している、楽しそうに。

だから、そういうことに興味がある人にはいいだろう。

前回も触れたが、相変わらず動機は薄弱で最後の落ちの説明はかなりもたつく。評価は敵手よりはいいが水準すれすれの作品というところである。

どうもフランシスの作品も底が割れたようなので、書評はこれで終わりにするかな。


不自然さについて

2010-01-22 22:48:45 | ミステリー書評

アンチ・リアリズムの試み;

一応ミステリーに限ってみよう。なに、小説全般に広げてもいいのだが、行きがかり上ミステリー限定。

いまではハードボイルドと言われている動きが出てきたときに、リアリズムということが言われた。それまで全盛だったいわゆる本格推理小説の不自然な犯罪(主として殺人方法)についての議論である。

密室だとか、突拍子もない凶器だとかね。だからハードボイルドの殺人方法は簡単だ。殴り殺すか、絞め殺すか拳銃で撃ち殺すか。あるいはまれにアイスピックで刺し殺すか。これが文化の違いだね。日本だと断然刃物なんだがアメリカじゃ拳銃だ。そんなところだ。

しかし、不自然なところがなければ小説なんか成り立たない。異化といってもいい。この言葉が好きなら。異化というのは受動的な意味だけはなくて能動的な意味もある。

ハードボイルドで不自然なのは動機である。不自然と言うか弱いなと思うのは。それまでテンポが良くても最後の謎解きになると俄然もたつくのがハードボイルド。

だからハードボイルドの名手は最後はあっさりと行く。やたらにひねらない。どんでん、どんでんといかない。チャンドラーなんかがいい例だ。

後、ハードボイルド、タフガイもので不自然なのは主人公がやたらとタフなこと。金槌で滅多打ちにされても1時間後には、たたかれる前より元気になって大酒を喰らい、走り回り、女にちょっかいを出すこと。これをやりすぎるとしらけるが、大体興行的には成功するようだ。

ようするに、不自然さをどこに持ってくるかだ。冒頭に持ってくる本格ミステリー、結末に持ってくるハードボイルド。中盤に持ってくる冒険小説とハードボイルド。


デイック・フランシスのたくらみ、敵手

2010-01-22 08:17:57 | ミステリー書評

シッド・ハレーものである。これで四作全部読んだことになる。結論からいうと駄作である。シッド・ハレーものとしてだけでなくて彼の著作としても。もっとも数冊しか読んでいないわけであるが。

まず、小物からいこう。アナログ携帯電話からデジタル携帯電話へ、である。フランシス氏の注釈がある。1995年もの、著者75歳。

彼の独創ではないのだろうが、構成がちょっと変わっている。最初に犯人が分かっている。倒叙ものかな、と思うとそうでもない。マンハントもの的な面もある。連続動物虐待事件もの、フランシスだから当然馬が傷つけられる。

倒叙ふうが前半、犯人はシッドの親友、したがってこれはハードボイルドなどに多い友情ものであるが成功しているとは言い難い。

さて、その友人が、シッドの調査の結果、告発されて裁判になろうというときに、またまた馬を残酷に傷つける事件が発生。しかも犯人に擬せられたエリスには鉄壁のアリバイ。

さてさて、真相はということなのだが、まずこのフランシスのたくらみにそって、叙述が成功していない。もたつく。もたつかせて時間をかせぐ(ページ数をかせぐ)のはサスペンスの常道だが、読者を退屈させてはいけない。文字通りもたつくのである。

構成についての破綻のほかに、多数の個所で意味不明、意味を取りかねるところがある。とても意図的にした意味のあるものとは思えない。75歳のスランプか。

この点については翻訳者の問題なのかもしれない。原文と対照していなから断言はできないが。

全くの憶測だが、フランシス自身、加齢による筆の衰えがあったのではないか。その後見事に回復しているがこれは老人にはよくあること。それにその後は息子さんの協力があったようだが、このころは一人で書いていた時期ではないか。

家庭では夫人が亡くなる前で個人的な悩み(たとえば家庭内介護)があったのかもしれない。大体その時期にあたるようだ。

翻訳者についていえば、2000年に亡くなっているそうで、やはり老齢の問題、あるいは病気の問題があったのかもしれない。この辺は1995年前後の別の作品を読み比べるとなにかわかるかもしれない。

部分的にはテンポのいいフランシスらしいところもあるが、全体的にみるとどうもいけない。

このハレーものの、もう一つの特徴は他の作品に比べて前妻ジェニーがほとんど出てこない。義父のチャールスの登場も少ない。ほかのシッド・ハレーものでもこの二人は筋にはほとんど関係しないのだが一つのアクセントになっているが、どういうわけか「敵手」では御両人のお出ましがすくないのだ。

ずいぶん長く書いたね。まずい作品の解説と言うのは長くなりがちのようだ。

&& そのうえに蛇足を重ねる。

* この小説はアメリカ探偵作家クラブ賞を受賞しているのだね。そうすると翻訳のほうにかなり問題があるのかな。

* ディック・フランシスにとって日本の読者は大得意らしい。日本マーケットへのサービスもある。ただし、この小説を最後まで読まないと出てこない。

* フランシスの小説では動機にかなり不自然と言うか無理というか、そういうものが多い。もとリーディング・ジョッキーで現在は全国テレビ番組の人気司会者が馬の脚を切るスリルに抗しきれないというのは、それだけポッと出されれば、「なんだい、それ」と言うことになる。 


騎手という階級、ディック・フランシス

2010-01-10 08:45:56 | ミステリー書評

イギリスの場合、プロの騎手は貧困あるいは下層階級の出身者である。だが、成功者は豊かな収入を得て上層階級(成り上がり金持ちを含めて)と交わる機会が増える。

階級と言う言葉を定義しようとするとたちまち困難に逢着するようなものだが、イギリスほどかっちりした状況にない日本でも事情は変わらない。

自分の技量で人気と収入を得る他のプロ・スポーツ選手や芸能人の場合もおなじである。

しかし、貴族や社会の有力者そして成り上がり(つまり彼のちょっと前に成功してのし上がった連中)からは常に蔑視の目で見られている。それがイギリスのプロ騎手の立ち位置である。

そして自分の下には多くの下済みの競馬社会の関係者がいる。

この立ち位置、あるいは遠近法的視点がリアルに描かれているのがディック・フランシスの描く社会のなかにおける競馬サークルであり、そこが読みどころである。そこが、彼の小説に立体感を与える。

歴史上の経緯から社会がごった煮になっているせいだろうか、日本の小説ではあるいは恐ろしいタブーでもあるのか、登場人物全員が小学校のホームルームみたいに差別がなくて現実感がない。困ったものである、小説としては。

ポリフォニーという言葉があるが、フランシスの小説を読む楽しみは各自の立ち位置が厚みをもってゴシック建築のように一つの立方体として描かれているのを見ることである。

イギリスでは現在では海軍の退役少将でも貴族の末席に連なることができ、建設労働者でも経済的に成功して大企業の経営者になれば上院議員にもなれるし、卿と呼ばれるようになることもフランシスの小説を読むと分かる。

昔、日本にも落語というものあった。落語家は都市下層階級の視点を一瞬もずらすことがなかった。そういう視点が安定感を与え、立体感、生活実感を、懐かしさを与えた。

現在の日本にも落語家を名乗る者はいるが、落語は存在しない。


ディック・フランシスの「再起」

2010-01-09 10:09:31 | ミステリー書評

引退した元スター・ジョッキーが主人公のシッド・ハレーものは結局四作あるらしい。最後の(いまのところ)「再起」を読んでいる。

ちなみにシッド・ハレーものはつぎのとおり。

題名         著作年代     著者年齢

大穴         1965年      45歳

利腕         1979年      59歳

敵手         1995年      75歳

再起         2006年      86歳

「再起」には著者の息子の協力を得ていると言うが、86歳の加齢臭はあまり感じない。大穴よりはいい。「利腕」レベルだろう。「敵手」は未読。

小道具が一変している。いわく、携帯電話、留守番電話、DNA鑑定、インターネット・ギャンブリング。だだ、ご本人のために必要だったのだろうが注釈が長すぎて退屈。著者の高齢といい、うたた今昔の感あり。

ここでも英国独特のAntepost 制度が出てくる。訳者は出走馬掲示前、と訳している。たしかに辞書にはそうあるが、なんのことかこれじゃ注釈が必要だろう。

要するに数カ月、数週間前からの馬券前売りである。そう訳したほうがよかったのにね。

前売りは不正のタネだと前に書いたが、前売りにはその馬がそのレースに出るかどうかも予測して賭ける要素があるのが分かった。第一に馬の出走予定を予測して、第二にその馬が勝つかどうかを予測するわけだ。

つづく


ディック・フランシスの「罰金」2

2010-01-04 20:39:57 | ミステリー書評

「罰金」の読みどころの一つはイギリスの競馬記者の生態である。フランシス自身が騎手を引退後、新聞社で競馬記者を十数年していたという。

記者の生活を描写しているところが興味深い。日本の競馬ジャーナリズムも似たようなものなのだろうか。

発端は賭け屋に提灯記事を書かされていた記者が奇怪な事故死をするところから始まる。フランシスの小説は大体が一人称視点のようだが、この小説では事故死した記者の同業者である競馬記者が主人公である。

テンポは軽快だが、終盤に来て長大なしつこい活劇場面となる。いまはアクション場面と言うのかな。長い活劇場面を珍重する書評家もいるようだが、いささかテイル・ヘヴィーでもたれる感がある。

主人公の妻が完全介護を必要とする小児麻痺患者であるという設定が特徴で存分に薬味としていかされている。

ま、携帯電話がまだなくて公衆電話が活躍する懐かしい時代の話である。


ディック・フランシスの「罰金」

2010-01-03 23:04:30 | ミステリー書評

この本は早川文庫の巻末の広告にも出ているのに本屋で見かけない。インターネットで見ると「入手不可能」になっている。

1970年のエドガー賞受賞作であるのになぜか絶版状態らしい。そこで正月に原文で読んだ。「Forfeit」というのが原題だ。ハヤカワのどの作品でも感じるのだが、フランシスのタイトルは翻訳者のバイアスなのか、どうなのかなと思うものが多いことはこれまでにも述べた。

Forfeitも罰金というよりかも没収と訳すべきではないかと思うが、これもイギリスの競馬制度の知識がないとはっきりしたことは言えない。というのは、この小説の主題は競馬の前売りをめぐる不正行為で、イギリスでは出走予定馬(登録馬)が出走を取り消しても、賭け屋はその馬に賭けた客に馬券の払い戻しをする義務がないことを悪用したものだからである。

先に紹介した原田俊治氏の解説でも前売り制度のことは書いてないのでわからない。小説にも日本の司馬遼太郎と違っていちいち長たらしい注釈を入れていないから見当をつけて読むしかない。

どうも供託金というか登録料というのを馬主が納めていて出走を取り消した場合は、それを没収されるという制度らしい。そして賭け屋には何のペナルティもかからない。

前売りは何週間も前から行われて賭け率は毎日変化する。もちろん賭け屋(ブックメーカー)によって全部違う。大きなレースだと一般紙にも毎日主な賭け屋のオッズが出る。ただしフランシスの小説は1968年である。

たしか、ドイツなど一部の欧州の国では同様に前売りがあるらしい。これも私の80年代ころの見聞で現在もあるかどうかは確認していない。アメリカには前売りという制度はないようだ。

早川文庫の絶版の理由は、前売り制度についての誤解があった不都合があったのではなかろうか。翻訳者も死亡しているし、新翻訳者で新しいのがでるかどうかだ。

& さてさて容易に推測できるようにイギリスの制度は大甘でいかようにでも悪用できる。競馬の先進国なのに不思議なことだ。多分監査制度とか競馬の運営制度がしっかりしているのだろうか。この小説でも監査側の色々な機構が出てくるがそれほどかっちりとしているようには見えない。

とすると、アマチュア精神の模範みたいな紳士の国の競馬だから、こすからく悪用しようとする人がいないのだろうか。とにかく不思議である。

小説で悪徳賭け屋、これも紳士の国のイギリス人にしてはいけないというのだろうか、南アフリカ人という設定だ。彼は新聞記者を抱き込む。イギリスの競馬記者だ。そして出走を取り消させる馬をあらかじめ決めて、記者にその馬のいい情報をどんどん書かせる。賭け屋のオッズは毎日上がる。その馬の馬券を買う客はどんどん増える。

そこでレース前にその馬の持ち主に圧力をかけて馬の出走を取り消させるというわけ。圧力をかけるのが調教師ではなくて馬主というところもなるほどな、である。

調教師もレースへの出走を取り消す力はあるだろうが、明らかに何も問題のない馬を取り消していては免許を取り上げられてメシの食い上げである。いくらなんでも協力しない。

馬主は趣味でやっているわけだから、儲ける時もあれば損をすることもある。イギリスでも競馬に持ち馬を出走できるためには競馬運営者の審査が必要だが、もともと趣味でやっているから馬主の資格をはく奪されても調教師のように生活の死活問題にはならない。

そこで馬主に圧力をかけるわけだ。話としては破綻がない。

& 2月6日

最近日本語Wikipediaで「ブックメーカー」の記事があるのを見つけました。簡にして要を得ています。