穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

アンナ・カレーニナ

2013-04-10 08:31:21 | 映画
とうとう映画評論までするようになったか。

映画評論をすれば少しはアクセスが増えると思ったのかな。もっともその場合は褒めたり、提灯をつけなければいけないのだが、私にはそういうことは苦手だ。その点は読む前にご同意をクリックしていただきたい。

トルストイの小説は何回も映画化されているようだが、これから書くのは現在上映されているもの。いやひどい。最初は幼稚園の学芸会みたいな書き割りで、大成功の「レミゼラブル」にあやかるつもりでミュージカルというかレビュー風である。

すぐに映画館をでようと思ったが薄暗いなかで階段で蹴つまずいて転落して怪我をするのも嫌なので我慢して見た。後半はやや改善した。レビュー風が弱くなり、俳優の表情なども並のできまで改善した。

なぜ、映画をみたかって。ちょうど半端な時間が出来た。それと原作は読んだことがない。若い時に本を読まないと年をとってから、読む本が残っていて退屈しなくていい。原作は長大なので半端な時間に映画でも見てあらすじでも知っておけば、読む時に役に立つかな、てな不届きな考え。

映画を見た限りでは、自我に目覚めた女性が自分に誠実に生きた物語などという解説は的外れのようだ。解放された(啓蒙された)女性が自分に誠実に生きるというのが、子宮の要請に忠実に生きることというなら分かるが。

日本にもどこにも、こういうたがの外れてしまった女性はわんさといる。だからこの種の事件がいっぱいなのだ。女たらしのヴロンスキー伯爵というのも、伯爵という肩書きを外せば世界中どこにでもいる。

さて、原作の評価をすこし調べたが、どうも小説としては大したものらしい。そのうちに読んでみよう。上に書いたことはあくまで映画のことだ。

物語は1870年代でロシア貴族が連日の夜会を開き豪華絢爛な生活を享楽しているところをレビュー風に強調したかったらしい。あんなことをしているから、やがて日本に戦争で負け、共産主義革命で王室、貴族が根絶やしにされたのだ。