例によって日課の市中徘徊をいたしておりますと、立ち寄った小さな書店の平積み台に茶色の地味な本が乗っている。樺色の表紙でタイトルがかすんでいる。プレイバックと読めましたな。
この頃は倭人の作家も知ったかぶりのカタカナをタイトルにする弊風が有りますからその類いかな、と思いました。もう一度見るとレイモンド・チャンドラー、村上春樹訳とあります。で例によって後書きだけ立ち読みしました。途中まで。今回は冴えのある解説ではありませんでした、村上春樹らしくない。可もなく不可もなくとそう言う感じありますな。それで解説も半ばまでしか読まなかった。しかしあがなったのであります。義理みたいなものですな。
思い返せば(こんな思い入れ風に書かなくても良いのですが)村上春樹との付き合いは十年目に入るのですな。帰ってから書棚から彼の翻訳「ロンググッドバイ」を引っ張りだして奥付きを見ると初版が2007年3月とある。創作訳文を含めて彼の文章を初めて読んだのがこの「長いお別れ」でした。
以後社会で「IQ84」がベストセラーになるのに驚き此のブログでも取り上げました。以後ぼちぼち彼の創作も取り上げました。チャンドラーは村上氏の翻訳が出るたびに「センチメンタル・ジャーニー」書評で取り上げました。
大分前になりますが村上氏のチャンドラーの翻訳の順序を予想したことがあります。彼がチャンドラーの長編は全部訳すというので、どれが一番最後になるのかな、とうらなったのです。そのときラスト2作は「湖中の女」と「プレイバック」だろうと予測しました。予想通りになりました。プレイバックはチャンドラーの最後の作であるからではなくてやはり加齢による筆力の衰え覆いがたく、であったからであります。
此の作品の出だしは軽快ですが、段々支離滅裂になってくる。支離滅裂はチャンドラーの特徴だと村上春樹の様に言ってしまえばそれまでですが。それと此の作品はやたらとセックスシーンが多い。他の作品では見られない特徴です。70才の最晩年の作としてはいささか興ざめです。谷崎潤一郎の「鍵」みたいなものかな。その時は当時全盛を極めたミッキー・スピレーンの流行の波に乗ろうとしたのかな、とも思えます。どうしてもバイアグラを(当時はありませんでしたが、たとえです)飲みながら無理矢理老作家が書いたという臭味が抜けない。
さて、ついでながら当時ブログでブービー二作として取り上げた「湖中の女」ですが、当時のアップの繰り返しになりますが、此の作品は質の点もさることながら、チャンドラーの作品の中では根本的な所でマーロウものらしくない特徴がいくつかあります。
1:クライエントが会社員であること、化粧品会社の部長見当が依頼者でサラリーマンが依頼者である唯一の作品です。マーロウの依頼者は引退した大金持、弁護士や流行作家等の金回りの良い自由業、金持ちの老婦人ばかりで勤め人が依頼者というのは目立つ。この依頼者の職業ですが、ハヤカワ文庫旧訳ではたしか「社長」になっているが明らかに間違いです。化粧品会社支店の支店長か営業部長といったレベルです。マーロウ物の特徴である依頼者の醸し出すユニークな人物像がどうしても浮かび上がらない。
2:視点の問題、マーロウの一人称視点というよりかは、彼の頭の横か後ろにつけたカメラからのアングルで描写されている。長編ではこのような視点はほかにはない。ある意味で映画化に向いた視点と言えるのかも。
3:警察と私立探偵との関係。マーロウ物ではこの作品以外は例外無くマーロウはクライアントのプライバシーを、警察から私立探偵への情報提供の圧力に優先させる。そのために警官に暴行を受けたり嫌がらせをされる。その場面がマーロウ物の売りなのだが、「湖中の女」ではマーロウは徹底的に警察に協力的である。マーロウものの最大の魅力は失われている。
さて、これから村上版プレイバックを読みます。読後感はその後で。また「湖中の女」も約束通り翻訳するそうですから、最後までつき合うことにしましょう。
おっと、最後にもう一つ。村上氏が後書きで触れているミーハー受けのするセリフ考について。誰かの前訳で「タフでなければ生きて行けない。優しくなければ生きている資格がない」という「決めセリフ」(だそうですが)。私からみるとこれくらいセンスのないミーハー受けのする嫌らしいセリフはない。原文で読んだ時には強い印象も受けなかったし、かといって違和感もなかったが、此の手の訳を読むと吐き気がしてくる。村上氏もはっきりとは先行訳者を批判しにくいのだろうが、くどくどとあげつらっている。村上氏の真意が何処に有るか分からないが、日本には此の手の翻訳が大好きなミーハーがゴマンというということだろう。