穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

読まなくても書評ができる

2016-12-31 07:36:56 | 読まずに書評しよう

てな本を市中徘徊中見つけた。この趣旨はこのブログで年来主張して来たことと一致するので、同心の言嬉しやと立ち読みをしたところ、偶然めくったページに本というのは読まなくても内容を知らなくても書籍の立ち位置(他の類似書籍との関係)が分かればそれだけで書評が出来るという趣旨のことが書いてある。ちくまの文庫本だし手軽に流し読みが出来ようとあがなった次第であった。

ところがこれが退屈なしろもの、読むに耐えない。電車の中で読んでいて寝込んでしまった。帰宅してから思い出してどれ、もうすこし読んでみるかと思ったのだが本が見つからない。電車の中で鞄の中に入れたつもりが、寝ている間に手から滑り落ちて電車の床に落としてしまったらしい。

それでその時の印象、記憶で書くわけだが、書名もハッキリと覚えていないのでインターネットに書く以上書名ぐらいは読者の皆様に正確に伝えようと電網界を検索した。まずそれからお伝えする。

書名:読んでいない本について堂々と語る方法

著者:ピエール・バイヤール ちくま文庫

文章というか著述法が拙劣である。文章のうまさは比喩の適切なこと、引用が適切なことをみればある程度分かる。この本は引用がだらだらと長く何を補強しようとしているのか分からない。引用は著者が言わんとする所をよりアピールする様に行う物で、なんで長々と退屈な引用をしているのだ、と読者に不審を抱かせてはいけない。 

もっとも引用が下手なのは大学教師の通弊であるからしょうがないとも言える。引用を沢山したり参照文献のリストを出来るだけ長くするのが大学教師のアリバイになるのだな。この著者は意味のない引用を長々とすることにより、書名と正反対のことをしているわけである。引用は本を逐行的にコピーするように機械的に読まないと出来ないからね。

シリアル読みの他に後ろから読んだり、気の向くままにあちこちつまみ読みをするのも良いと書いてある。この辺は当ブログでも言っていることで、この辺はいいだろう。

私も電車の中に忘れて来たので全体の十分の一も読んでいないのであるが。

 


体系的哲学の終焉

2016-12-26 08:08:16 | 哲学書評

 前々回のアップで倫理学というか宗教観というか、ヤスパースの哲学入門を読んだ印象ではリクールに似ていると書いた。この間書店で「カール・ヤスパースの実存哲学」なる翻訳書を見かけた。訳者によると共著だが主著者はリクールだという。そしてリクールはヤスパースの影響を受けてキャリアを始めたとある。

そんなわけで買ってみた。翻訳(つまり日本語)はかなりひどい。哲学書だから許されるという物でもなかろう。

最初の方にヘーゲルで体系的哲学は終わったと書いている。その通りだろうが、より正確にいうとヘーゲルの「論理学」で終焉したというべきだろう。ヘーゲルは著述(講義)活動は演繹的で初期の精神現象学、論理学でドーンと柱を立てて、あとは各分野に理屈を当てはめて行く訳だが、この過程で生まれたものは生彩がない。無理が有る。初期作品は明らかに西洋神秘思想、具体的に言えばヘルメス主義、錬金術思想から生まれた物であって、具体的、歴史的事象から「帰納」したものではない。(マギーは初期作品が生まれるまでのヘーゲルの生涯を「錬金術師の徒弟時代」と表現している)。それ以降の個別分野への思想の「あてはめ」には躍動感が欠ける。

ところでヤスパースだが、「実存開明」でしきりに「交わり」(実存間の)と書くので違和感(というか印象に残った)があったが、ヤスパースの先行者であるキルケゴールやニーチェは他者と交わらない例外者、単独者であったが、ヤスパースは単独者同士の「交わり」に目を付けたというのだな。なるほど。

 


チャンドラーの警官描写にみるリアリズム

2016-12-18 08:57:00 | チャンドラー

私立探偵小説には探偵を挟んで依頼者と警察があるわけである。とくに殺人事件に発展した場合には。前にも書いた様にマーロウは依頼者のプライバシーを警察に明かさないということを探偵の倫理コードとしている。ダシール・ハメットと明らかに違うところである。 

依頼者が警察に相談しないで、得体の知れない私立探偵(大体アメリカでも私立探偵は社会では胡散臭い存在である)に頼むのは理由がある。警察に知られたくない事情があるからである。そこを配慮しないで依頼者のプライバシーをペラペラ警察に話されては依頼者は困る。

同時に依頼者は私立探偵にも個人的事情(事件の背景と言いますか)を全部は明かしたくない。探偵は必要な情報を与えてくれないと調査できないと苦情を言う。ここで依頼者と探偵の間にもわだかまりが生じる。チャンドラーのマーロウものには両方の事情が過不足無く描かれている。

そこで警察の描写であるが、これもチャンドラーは描き分けている。前の記事で「湖中の女」ではマーロウは警官と親善関係にあり、ほかのマーロウものと違うと書いた。出てくる警官はのんびりした山中の保養地の駐在さんである。大都会ロサンゼルスから来たマーロウの調査方法を感嘆の思いで見ている。マーロウが警官と対立する余地はない。チャンドラーはリアリズムで書いている。

この対極にあるのが、犯罪渦巻く大都会の警察である。ここでは警官と私立探偵はもろに利害がぶつかる。私立探偵は権力がない。警察にはある。そこでマーロウは警官からぶっ叩かれ、縛られ、つばを吐きかけられ、コーヒーをぶっかけられる。(ロンググッドバイのロサンゼルス市警の警官を参照)。

また、地方都市であるが、街全体が汚職で腐敗している都市の警官はマーロウを殴って気絶させ、いかさま精神病院に担ぎ込み麻薬を注射し、ベッドに縛り付ける(「さらば愛しい人」のベイシティの警官参照)。

ま、このように都市、場所によって警官のキャラも様々でチャンドラーはこれを描き分けている。チャンドラーは警察のことも相当取材して書いているようだから、これはリアリズムだろう。

ちなみにロンググッドバイでも郊外の高級住宅団地を管轄する郡警察の警官はロサンゼルス市警と異なり紳士的に描いている。また、最近村上氏が訳した「プレイバック」は大都会を離れた金持ちの住むリゾート団地が舞台であるが、出てくる警官は鷹揚で紳士的に描かれている。

なお、彼がマーロウものにたどり着く前に書いた短編のなかの警官キャラには長編とことなるキャラも出てくる。警官が主人公の小説もある(「スペインの血」など)。マーロウ像を創造してから警官の描写も安定してきたのだろう。

 


ヤスパース「哲学入門」

2016-12-17 11:36:49 | 哲学書評

分野によらず「入門書」を好む。ただし、一流の研究者の書いた物に限る。専門分野を門外漢に入門書として紹介するのは本当の、高い知性を必要とする。研究馬鹿には出来ない。一流の研究者でこの才能が備わっている人はまれである。

一般人に説得力のある文章は、著者のその分野の本質的な理解をはかるバロメーターになる。専門書では長たらしい記述でいかようにも誤摩化したり、煙に巻くことが出来るが入門書ではそうはいかない。勢い、著者の能力があらわになる。

哲学には有名な人物の書いた入門書は少ない。このあいだ、新潮文庫でヤスパースの「哲学入門」を買った。この人は書店ワイズには最近人気がないが一時はハイデガーと同じくらい読まれたらしい。

この書も決してクリアカットとは言えないが結構読める。ヤスパースの主著はそのものズバリの「哲学」というらしい。この書物の第二部は中公クラシックで翻訳されている。たしか、第一部が「科学的世界定位」、第二部が「実存開明」、そして第三部が「形而上学」だったと記憶している。

「哲学入門」は「哲学」の第一部、第三部とだぶるようである(つぶさに彼の著書を通読した訳ではないのでツカミの印象だが)。わたしの印象では哲学の島をなんとか確保しようと四苦八苦した思想経歴を示したものである。

すなわち「哲学」第一部の内容を受けて科学的認識の限界を明確にし、まず哲学シマの確保を図る。そして後半では宗教の分野を犯し、哲学の存在理由を主張する。前半は諸々の二十世紀の哲学者が手を変えしなを変えて試みて来たこととだぶるだろう。

後半の主張はポール・リクールの主張とだぶるところがあると感じたがどうであろうか。

ハイデガーは現存在分析で「存在と時間」を中断して実存分析には踏み込まなかった。ヤスパースは勇敢にも実存開明(分析)に踏み込んだが、どうも心理学の一種にしか見えないのだが。

ハイデガーは「存在」を神とは言わないが、実質神と同じことだとはこのブログでも前に書いた。ヤスパースはハッキリと存在は神であるとしている。要するに用心深いハイデガーが辛くも踏みとどまった一線をヤスパースは「勇敢」に超えた。うまく超えられたかどうかは何とも言えない。

 


やはりチャンドラーだな

2016-12-14 22:23:44 | チャンドラー

プレイバックを読み終わっていくつかの点でそう思った。名エステティシャン村上春樹のおかげで此の小説は様になっている。かれが何処かでいっていたと記憶しているのだが(正しく記憶しているとして)チャンドラーは男性の描写はうまいが、女性の描写はね、というのだ。 

わたしはそうでもないと思う。彼の描く女性は皆なトリックスターなんだね。女性にトリックスターを割り振るというのはあまり例がないが、彼の場合は絶世の美女も狂言回しなんだな。それでうまくストーリーが回っている。

あといくつか彼の小説に共通した『構造的な』特徴がある。前半は依頼人の要求にぶつくさ言いながら調査をする。依頼人から調査の終了を言い渡されても、独自で彼の詮索癖を発揮させる。プレイバックも前半はある女性の尾行を依頼されて実施する。後半は彼のベッドに転がり込んで来た「トリックスター」の女性の告白であったかどうか分からない殺人事件を嗅ぎ回る。 

今回読み直してみて、後半も結構面白い。これは要するに過失殺人なんだな、女性の。正当防衛といいますか。そしてバカ正直なマーロウが現場に行ってみると彼女の申告に反して死体が消えている。

そして真相は(私はこれをネタばらしとはいわない)ホテルのオーナーが共犯者で死体隠蔽をしていたというのだ。例によってマーロウは「好奇心」から相対で此の人物を告白させるが警察には通報しない。何もしないでロサンゼルスに帰ってしまう。口封じの料金も受けとらないで。なぜかって、読むと何となく分かるような気になるかもしれない、読者によるだろう。ようするにそれがマーロウなのさ。 

それでさ、ひとつ破綻が有るというかおかしいと思う所がある。別に辻褄はあうのかもしれないが、素朴な疑問だ。座興に追加しておこう。

彼女は色気違いの女性相手専門の強請屋に迫られてベランダに逃げもみ合いの中で相手をベランダの手すりから階下に突き落とす。相手が長身でベランダの縁が膝ぐらいまでしか無かったので押しのけたら転落して首を追って死んでしまったというのだ。これはその場にいたホテルオーナーの証言だ。

そしてマーロウが調べた時には死体は勿論、血の跡が全くなかったというのだな。おかしくないかな、リアリズムとしては。首の骨が折れれば頸動脈も破裂して血の海ができるんじゃないかな、それとも血の全くでないこともあるのだろうか。

これは私の個人的経験のせいかもしれない。昔インターハイの馬術大会で障害飛越競技で選手が落馬して首の骨を折って落命したのを目撃したことが有る。あたりには血の海が出来た。血で汚れた土は除去して新しい砂を入れて競技を続行したのだが、それでも血の匂いは消えずその障害の前にいくと馬が怯えて飛越を忌避していた。だからチャンドラーの描写が現実的なのかなと疑うわけだ。ま、細かい話だが。

 


演奏家としての村上春樹

2016-12-11 21:19:29 | 村上春樹

創作が作曲とすると翻訳は演奏のようなものだろう。同じ作曲家の曲でも演奏家、指揮者によって無数のバージョンが出来る。カラヤンのベートーベンと小沢征爾のベートーベンは違う。

翻訳の場合はバージョンとかバリエイションの違いの他に、明らかに質的に原作に優ってくる場合がある。よく言われる様に森鴎外が翻訳すると平凡な原作が見違える様に魅力的になることがある。

村上春樹を森鴎外に例える訳ではないが、少なくとも「村上バージョン」というものはある。彼の翻訳はあまり読んだことはないが、それでも多少読んだ範囲では特にチャンドラー作品の演奏にはすぐれたものがある。 

チャンドラーとは相性がいいようだ。彼(村上)の創作の文体とはかなり違うと思うのだが(意識的に違えているようにみえる)翻訳の文章は私の好みに合う。

「プレイバック」を三分の一ほど読んだが良い演奏だと思う。

時々変な言葉も教えてくれる。プレイバックでは早々に(10ページ)で「ちゃらい」なんて言葉が出てくる。ずべ公が使う用語なのかな、それとも一般的な言葉で私が知らないだけなのか。広辞苑には「ちゃらかす」という言葉が出ているがこれの短縮形なのかな。活用形なのかな。

 


10年目に入る村上春樹とのつきあい

2016-12-10 08:01:27 | 村上春樹

例によって日課の市中徘徊をいたしておりますと、立ち寄った小さな書店の平積み台に茶色の地味な本が乗っている。樺色の表紙でタイトルがかすんでいる。プレイバックと読めましたな。 

この頃は倭人の作家も知ったかぶりのカタカナをタイトルにする弊風が有りますからその類いかな、と思いました。もう一度見るとレイモンド・チャンドラー、村上春樹訳とあります。で例によって後書きだけ立ち読みしました。途中まで。今回は冴えのある解説ではありませんでした、村上春樹らしくない。可もなく不可もなくとそう言う感じありますな。それで解説も半ばまでしか読まなかった。しかしあがなったのであります。義理みたいなものですな。

思い返せば(こんな思い入れ風に書かなくても良いのですが)村上春樹との付き合いは十年目に入るのですな。帰ってから書棚から彼の翻訳「ロンググッドバイ」を引っ張りだして奥付きを見ると初版が2007年3月とある。創作訳文を含めて彼の文章を初めて読んだのがこの「長いお別れ」でした。

以後社会で「IQ84」がベストセラーになるのに驚き此のブログでも取り上げました。以後ぼちぼち彼の創作も取り上げました。チャンドラーは村上氏の翻訳が出るたびに「センチメンタル・ジャーニー」書評で取り上げました。

大分前になりますが村上氏のチャンドラーの翻訳の順序を予想したことがあります。彼がチャンドラーの長編は全部訳すというので、どれが一番最後になるのかな、とうらなったのです。そのときラスト2作は「湖中の女」と「プレイバック」だろうと予測しました。予想通りになりました。プレイバックはチャンドラーの最後の作であるからではなくてやはり加齢による筆力の衰え覆いがたく、であったからであります。

此の作品の出だしは軽快ですが、段々支離滅裂になってくる。支離滅裂はチャンドラーの特徴だと村上春樹の様に言ってしまえばそれまでですが。それと此の作品はやたらとセックスシーンが多い。他の作品では見られない特徴です。70才の最晩年の作としてはいささか興ざめです。谷崎潤一郎の「鍵」みたいなものかな。その時は当時全盛を極めたミッキー・スピレーンの流行の波に乗ろうとしたのかな、とも思えます。どうしてもバイアグラを(当時はありませんでしたが、たとえです)飲みながら無理矢理老作家が書いたという臭味が抜けない。

さて、ついでながら当時ブログでブービー二作として取り上げた「湖中の女」ですが、当時のアップの繰り返しになりますが、此の作品は質の点もさることながら、チャンドラーの作品の中では根本的な所でマーロウものらしくない特徴がいくつかあります。

1:クライエントが会社員であること、化粧品会社の部長見当が依頼者でサラリーマンが依頼者である唯一の作品です。マーロウの依頼者は引退した大金持、弁護士や流行作家等の金回りの良い自由業、金持ちの老婦人ばかりで勤め人が依頼者というのは目立つ。この依頼者の職業ですが、ハヤカワ文庫旧訳ではたしか「社長」になっているが明らかに間違いです。化粧品会社支店の支店長か営業部長といったレベルです。マーロウ物の特徴である依頼者の醸し出すユニークな人物像がどうしても浮かび上がらない。

2:視点の問題、マーロウの一人称視点というよりかは、彼の頭の横か後ろにつけたカメラからのアングルで描写されている。長編ではこのような視点はほかにはない。ある意味で映画化に向いた視点と言えるのかも。

3:警察と私立探偵との関係。マーロウ物ではこの作品以外は例外無くマーロウはクライアントのプライバシーを、警察から私立探偵への情報提供の圧力に優先させる。そのために警官に暴行を受けたり嫌がらせをされる。その場面がマーロウ物の売りなのだが、「湖中の女」ではマーロウは徹底的に警察に協力的である。マーロウものの最大の魅力は失われている。

さて、これから村上版プレイバックを読みます。読後感はその後で。また「湖中の女」も約束通り翻訳するそうですから、最後までつき合うことにしましょう。 

おっと、最後にもう一つ。村上氏が後書きで触れているミーハー受けのするセリフ考について。誰かの前訳で「タフでなければ生きて行けない。優しくなければ生きている資格がない」という「決めセリフ」(だそうですが)。私からみるとこれくらいセンスのないミーハー受けのする嫌らしいセリフはない。原文で読んだ時には強い印象も受けなかったし、かといって違和感もなかったが、此の手の訳を読むと吐き気がしてくる。村上氏もはっきりとは先行訳者を批判しにくいのだろうが、くどくどとあげつらっている。村上氏の真意が何処に有るか分からないが、日本には此の手の翻訳が大好きなミーハーがゴマンというということだろう。