穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

セックス描写三態

2014-12-26 08:19:55 | モディアノ

 モディアノの作品をその後一、二読んだ。モディアノ中毒になったかな。読んでもちっともいい気持ちにはならないのだが。

あと数十ページを読み残しているのが「イヴォンヌの香り」。これはかれにしてはちょっと変わっている。日本で昔言った中間小説みたいな、なんというかわりと通俗的なもので、こういう風にもおれは書けるんだよ、と示したような作品である。

映画化されたそうだが、通俗文化向きの傾向が強い。理解出来る。彼の作品は時間軸が複数ある。これは彼の専売特許ではない。百人中九十九人の作家が取る手法では有るが、彼の場合は時間軸同士が融合している。これはあまり他にはない。

普通はここからフラッシュバックですよ、とイントロがあって、はい、ここから時間の主軸に戻りますよ、と書いてある。書かないと読者が文句を言うか、批評家が文句をつける。

モディアノは完全に一体化している。ヘーゲル流にいえば此れまでのすべての内容が持ち越され、含まれている。これはたしかに趣向ではある。

さて、イヴォンヌのかおり、ではt1軸とj2軸はあるのだが、t1軸の方が圧倒的に分量が多い。したがってt2軸はいわゆるフレームになっている。実質t1主力の叙述といってよい。これは私が今まで読んだ彼の作品には無い特徴のように思われる。わかりやすく、映画化しやすい描写といえる。

さてモディアノの性場面の描写であるが、全く書かないか、なんとなくここは性交で場面暗転中断とほのめかすだけだ。イヴォンヌでは比較的世間並みに接近しているが、いわゆるポルノ的な描写は一切無い。書くのに抵抗があるのか、たしなみなのか、結構なことではある。

作家によるセックス描写には三つの種類があるようだ。ひとつはモディアノ流で、現代では超マイノリティである。

二番目はポルノ風というのか、この場面がなかったらどうするの、と性交愛欲描写に命をかけてあくまでもくどくいくもの。マジョリティである。

三番目は村上春樹流である。「性交した」、「挿入した」てなお医者さんごっこのようなあまりといえば、あんまりな即物的なタイプ。ユニークとはいえよう。

之によって此れを観るにノーベル賞選考委員は上品な作品が好きらしい。だいたい、セックスは「する」ものでしょう。読んだり見たりするものではない。鼠蹊部を損傷しているのでなければね。

もっとも、バイアグラを服用して唸りながらするものでもない。

 


「克服される」って

2014-12-20 23:22:32 | ヘーゲル

 ヘーゲルをボケ防止用に読んでるって話しましたっけ。

この書評ブログも10年近くやっていますが、取り上げる本にも大まかな種類がありまして、まずセンチメンタル・ジャーニーとでもいうべきもの。

前回取り上げたレイモンド・チャンドラーのような、かって読んだ本の再読もの。それからニュース性のある本の書評。これは週刊誌の書評欄で取り上げるような、芥川賞とか、何々賞をとったもの、発売ひと月で百万部突破とか一般のニュースになるようなものです。

ブログもアクセス数いのちというわけで、ベストセラーでも取り上げればアクセスが増えるかなとゲスな根性でとりあげるもの。さすがに最近これはしなくなりました。面白くもない下らない本をアクセ数売り上げのために読むのが苦痛でバカらしくなったためでもあります。

また、眠れない夜の睡眠導入剤として読む本、ボケ防止に読む本。哲学書なんかがそうですね。最近はヘーゲルを読んでいます。これは時間がかかって、単価の高い本が多いですが、ならすと時間当たり購入単価も安くなるというもので。

いま読んでいるのが長谷川宏訳のヘーゲル「論理学」(エンチクロペディー第一部)です。これが結構なお値段で消費税を入れると5千円を超えます。でまた例のスケベ根性が頭をもたげて、どうせ読んだんなら元をとろうとブログにアップしています。ブログにアップするともとが採れるのかな。自信がないが 

最近も書きましたが、長谷川宏の訳は平易だとの評判ですが、どうも引っかかるところがある。些細なことかもしれませんが「媒介する」とか「媒介されて」という訳語が頻発する。どうも気になるということをアップしました。

その後「克服されて」という訳語が頻出する。これも違和感があって、前回書いた英訳本を参照しているが、実に様々な言葉に訳している。それも文脈から「克服される」よりも適切の様に思われる。

それと、もう一つ気が付いたのは、訳語の違いではなくて文章が全然違うというところが非常に多い。英訳は長谷川訳の気になるところだけ拾い読みして参照してみるだけで全体を読んでいないが、それでもこれだけ文章が全く違うところが出てくるというのはどういうことだ。いくら長谷川氏が凡例で意訳していると断っていても。

そこで、素人の身も顧みず文献考証的な考察を少々。

ちなみにこの英訳はOxford Press  William Wallace訳です。この訳は百年以上前のものだそうで、1975年にOxford Pressからリプリント版が出ています。

長谷川宏訳はズールカンプ版ヘーゲル全集第八巻。おそらくズールカンプ版の方が新しいのでしょう。念のためにインターネットで検索するがズールカンプ版の出版時期は不明でした 

検索の時にヒットしたほかのサイトをのぞいたのですが、ヘーゲルの著作は死後出版されたものは、夫人や特定の弟子によって改竄が加えられていると主張するサイトがありました。「論理学」は生前に改版もされていますから、大幅な変更あるいは改竄が版によってあるとも考えにくい。 

もっとも論理学にも「口頭説明」なる部分が相当有り、これらは聴講した学生のメモを編集したものでしょうから、いくつかのバージョンがあるのかもしれない。

ま、その程度しか分からなかった。ドイツ語版が読めないので英訳と参照するしか無いのだが、少なくとも長谷川訳だけでは、どうかなと思います。


What happened to High Window

2014-12-18 21:21:00 | チャンドラー

村上春樹訳「高い窓」読み終わった。前に褒めたがラストはよくない。それで原作と比較しようともう一度本屋で探したが前に書いた様にHigh Windowだけが無い。たまたま改訂改版の時期なのだろうか。日本の書籍でこういう端境期には一時本が書店から消えることがあるが。 

で、比較は昔原作を読んだ時の記憶や印象と村上春樹訳の比較になりますのでご了承ください。なお、昔読んだといった場合は英文の原作のことです。

スリラーで一番気をつけなければ行けないのはラストの謎解きが説明調に堕したり、平板にならないことである。特に犯人と向かい合って探偵から「こうだろう、こうだっただろう」とやるときは会話になるから、説明調になることは特に避けなければならない。

この点では「長いお別れ」も同じ趣向であるが、「長いお別れ」のほうがはるかにすっきりしていて、進め方に淀みがない。

くどくなることもいけない。村上訳ではこの欠点が目立つ。原文ではそんなでもなかった記憶があるのだが。あとがきで村上春樹も書いているが、チャンドラーのラストは辻褄が分かりにくいものがある。後書きでは高い窓は辻褄はあっているといっているが。

あるいは訳者が分かりにくさを読者のために改善しようと訳に手を加えたのかも知れない。もしそうなら、失敗している。かえってくどくなりポイントが分かりにくくなっている。前に読んだ時に、確かに込み入っているなと思ったが、素直に読んで行けた記憶がある。

しかし、全般的に見ると、これまでに彼が訳したチャンドラーで原作を読んだ時より感興を憶えたのは「高い窓」がはじめてである。残っている「プレイバック」や「湖中の女」は「高い窓」よりさらに出来に問題があるから、村上春樹が流麗な創作翻訳の腕を存分に振るえるのではないか。

 


村上春樹の創作翻訳

2014-12-14 18:35:28 | チャンドラー

前回に続き村上春樹訳チャンドラー「高い窓」である。第一回の進行形書評である。80ページくらいまで読んだ(全体で350ページほど)。

村上春樹訳のチャンドラーものは四冊読んだが、今度のが一番のっているのではないか。前四冊は忠実な翻訳だし、分かりやすく水のような(褒め言葉です)どちらかというと淡々とした訳だった。

原文(英文)は村上氏があとがきで言っている様にそれほど全編にわたって均質なドライブというか、「のり」はない。チャンドラー作品としては1、2番を争う出来ではなく、まあ中の下くらいというものである。それも確かめたく、また原文で読んだ記憶でそんなことが書いてあったのかな、というところがあり、書棚を探したが英文の方は紛失してしまったらしい。

今日書店に行ったついでに洋書の棚を見たが、彼の作品はプレイバックや湖中の女まで置いてあるのに高い窓だけない。それだけ人気のない方なのかも知れない。

創作落語とか創作料理とかいう言葉があるが、これは村上春樹の創作翻訳じゃないかなと思った。彼自身も楽しんで原作に色をつけているのではないか。原作の文章はこれだけの「のり」はなかったうような記憶が有る。これだけは翻訳の方が面白い。

彼の小説は読んでいないものも多いが、彼の創作ではこのような軽快な文章には出くわしたことが無い。いや、一度ある。「カンガルー日和」という短編集があるが、そのなかに10ページ足らずの題はわすれたが、ハードボイルド小説のラストだけを書いたようなへんてこな文章があった。短編としての体裁も整っていないが、何かの習作のような、スケッチのような掌編である。その運筆が「高い窓」の訳に似ているようだ。


村上春樹訳チャンドラーの「高い窓」

2014-12-11 21:21:39 | チャンドラー

本屋で濃紺の地に白抜きで「高い窓」が平積みになっている。高い窓、なんか聞いたこと有るな、ひょっとしたらと思って作者と訳者(海外作品のコーナーにあったので)の名を探した。これがなかなか目に飛び込まないような地味な作りなんだな。やはりチャンドラーの作品で訳者は村上春樹。今月発行だ。とうとう訳したんだな、と思って買って来た。

まず訳者の後書きを読む。これまで村上春樹はチャンドラーを四冊訳しているがまず後書きをいつも読む。これが楽しみだ。普通の後書きとは違う。

それによるとチャンドラーの長編翻訳の5冊目だそうだ。実は先日蔵書の整理をしてチャンドラーの村上訳は処分するつもりだったのだが、思い直してとっておいた。書棚をみると、これで訳していないのは「湖中の女」と「プレイバック」になる。

後書きには全部7冊訳すつもりという。順番としても妥当だろう。「湖中の女」は色々な意味でもっともチャンドラーらしくない作品だし、「プレイバック」は晩年の最後の作品で出来にむらがある。それに当時勢威をふるっていたミッキー・スピレーンのマイク・ハマーばりのセックス描写が異様に彼の作品としては多い。

このブログでもっとも沢山記事を書いた著者はおそらくチャンドラーだろうが、そのなかで何作目だったか村上春樹が今後訳するとすればどういう順番が予想を書いたが「高い窓」は有力候補だった。

本文はこれから読む。

 


けなして褒めて

2014-12-06 09:23:51 | 書評

前回の記事「翻訳について」の補足である。長谷川宏訳のヘーゲル【論理学】の中にはいい訳もある。これまでDaseinは定有と訳されて来たが「そこにあるもの」としたのはよほどわかりやすくなった。大和言葉でいささか冗長の気味はあるが。

さて前回の「媒介」であるがMittelbarkeitとある。一連の思考のチェインで中間項のある、といったところなのだろう。やはり媒介は不適切というべきだろう。

媒介と言うと化学反応をうながす触媒のような機能を連想する。あるいは結婚の仲人、媒酌人みたいだ。「蚊がデング熱を媒介する」ともいう。ヘーゲルの言っていることはそういうことではない。

あたまに否定のunが付くと直接性になるから、間接的とも訳せるが、これも舌足らずのようだ。「直感的、直覚的ではなく一連の思考過程を経たもの」と訳せば良いが長過ぎるな。


翻訳について

2014-12-06 07:18:06 | 書評

 小説の翻訳と哲学書の翻訳ですこし事情が違うようだ。小説の場合はあまりに安易に流すのが気になることがある。このブログで触れた例で言えば、村上春樹訳の「グレート・ギャツビー」のold boyの例とか、「貴族」と気楽に訳してしまう例とか、19世紀のロシアの鉄道網の発達とか、もう少し解説が有った方がいいと思うことがある。

哲学書の場合はあまりにも突飛な漢文調の訳が問題だろう。今長谷川宏訳のヘーゲル「論理学」を拾い読みしているが、「媒介された」という表現がやたらと出てくる。率直に言えば、日本語として意味をなさない。こなれない表現である。

哲学書の翻訳というのは訳者の解釈が色濃く反映する。自信がない場合は明治時代から使われている表現を使うのが無難と思っている。

長谷川訳は読みやすいという定評があるようだが、あらためて覗いてみると未だし、という印象である。

そこで欧州語(英語を含む)ではどう訳しているかと、ある英訳本をめくってみた。色々に工夫して訳しているようだが、或るところでは、mediated trains of thought と補足して訳している。これなら一読腑に落ちる。

落語風にいえば、「何がなにして何とやら」というカーブの少ない直線的推理であり、「ああでもない、こうでもないと思案をかさねて」という気迷いカーブ線路ということになる。

 かと思うと、単にmediatedと訳している。これが原語なのだろう。そして長谷川宏訳の「媒介されて」になるのだろう。もっともこれは他の訳者の定番なのかも知れない。樫山金四郎訳ではどうだったか。読み返していないが。

 Mediatedも(ドイツ語でも同じ系統語源だと思うが)媒介されてと訳すのはどうかな。[mediate] の最初の語釈は英和辞典によると、調停する、仲介する、であり形容詞としてはたしかに「媒介の」という例がある。しかし、ヘーゲルの言っていることは上記の様に様々な推理を重ねて見いだされた調停案、解決策という解釈のほうが正しい。媒介されて、とはいかにもこなれない表現である。

 従って一語で訳す場合にももっと工夫があるべきだろう。ま、これはほんの一例だが、特に哲学書の翻訳には珍妙なのが多い。