ある思想哲学を知るにはまず論敵あるいは背教者の書を読むのが最短最善の方法である。
それも論敵であるよりも背教者の書がおすすめである。論敵は自分の立場からしか相手を見ない。したがってその相手の哲学の把握がどれだけ客観的かの保証はない。
背教者の場合はかって同じ立場にいたわけだから、その内容は熟知している。そしてどこに問題があるかも分かっている。よき「背教者の書」は最善の入門書である。次善の方法は原典を読むことである。一番いけないのは哲学者べったりのフォロワーの書いた入門書や解説書を読むことである。同様にその哲学者の思想を学生に切り売りして生計を立てている大学教授の書いた本は最悪である。そういう大学教授にとって知識を切り売りする哲学者の書はお経のようなものである。
前に触れたルフェーブルはその意味ではマルクス哲学へのよき入門書である。それも書いた時期を選ばなければならない。彼はフランス共産党員であった。そのころに書いた本はあまり参考にならない。彼は1958年にフランス共産党を除名されたが、その直後に書いた本がよろしい。すっかり縁が切れた後は「都市社会学」関係が研究の中心になったらしいのであまり参考にはならない。勿論都市問題に興味があるなら別である。
彼が1958年に書いた「マルクス主義の現実的諸問題」という本がある。そのなかに「源泉への回帰」という章があり、マルクス、エンゲルス、レーニンに触れているがなかなか面白い。例えばレーニンは正反合という弁証法的図式は意味がないと言っているそうだ。これを否定したら弁証法というのには何が残るのだろうか。実際に革命運動をして正反合のテーゼを認めれば革命が成功した後で、いずれ革命を否定しなければならない。それに気づいたのかもしれない。
これは弁証法を現実に当てはめる場合、ヘーゲル弁証法でも唯物弁証法でも逢着する大問題である。もし革命で矛盾がなくなれば歴史はそこで停滞もしくは終了することになる。あとは「人民みな幸福」という痴呆状態しか残っていない。
つまり彼らの弁証法というのは現実に当てはめると「ターミナル駅ありの直線的運動」という極めて不自然な理論なのである。ヘーゲルで言えばゲルマン国家が終着駅であり、マルクス主義ではプロレタリア革命が終着駅なのである。
また、レーニンは唯物論というのは公準である。あるいは公準にしか過ぎないと言っているそうだ。公準とは証明できないがある説を展開するためには「承認してもらうしかない最初の命題」ということである。観念論も公準であるから優劣はないということになる。
なかなか穏当な説である。