穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

「私を離さないで」の評価理由

2018-01-31 08:21:22 | ノーベル文学賞

 これは伝聞で確かではないが、「私を離さないで」は彼の著書で一番売れたそうである。英文でも日本訳でも。私は先に書いたようにこの小説を途中で投げ出してしまった。この辺の受容のギャップが気になっていた。あれこれ考えたのであるがそのことをすこし触れる。

最初は、映像化の影響が大きいのではないかという疑問である。もっとも小説がベストセラーになったから映像化されたという経緯ならこの仮説は成立しない。その辺の事情は私にはわからない。とにかく映像化されれば、それを契機に本の読者は増えるという循環になる。映像化されやすい理由として考えられるのはテーマの衝撃度である。臓器提供者を育成するクローン人間の飼育というのは映像制作者の食欲(?意欲)をそそるだろう。しかも大変わかりやすく映像化しやすい。

 この仮説を裏付ける(それほど大げさではないが)理由として、インターネットで検索すると映画化されたものやテレビドラマ化されたものについての記事が圧倒的に多い。また、映像化されたものをベースに原作に触れるものがわずかにある程度である。それと、この本の批評に専門家すなわち文芸評論家の書評が見当たらない。あるのは哲学研究者、倫理学研究者、脳医学者、心理学者などの縁辺分野の専門家が多い。SFファンや勝手連の投稿も散見されるが文系評論家の書評には気が付かなかった。これが意味するのはテーマについての興味が主で小説としての月旦ではないということである。

 もう一つの理由は一般読者に評判がいいのは彼の文章が素晴らしいのではないかということである。これは日本訳には当てはまらないが原文(英文)の質に原因があるのではないか。そこで原文の洋書を買った。ところがこれが(出版社はfaber and faberのペイパーバック)ものすごい細字なので、通読できない。それで拾い読みをしたが、彼の文章は流麗、平明でかつ端整である。これは処女作以来のことであろうが、彼の成功の重要な理由の一つと考えられる。完全なネイティブではないが、外国系でも完全な英語を書く人は英米圏でも尊敬される。書く言語というのは往々にして外国系の人の場合のほうが優れている場合がある。もちろん、少数例であるが。

 とくにこの才能は読書人の間では高く評価される。話すほうではいくら流暢でもそうは評価されない、通訳猿としてかるく見られる。ミーハーにはともかく読書階級には。

 


「私を離さないで」の書かれざる前提2

2018-01-30 10:55:34 | ノーベル文学賞

 15,6歳になるとヘールシャムを出て「コテージ」に行く。コテージというのは外部世界の近縁あるいは真ん中にあり、クローンたちは一般商店にも行けるし、そこらあたりをドライブできる。それは卒業後に備えた予備校のようなものらしい。ここでヘールシャム出身の彼らはほかの養殖農場からきた少年少女と一緒になる。ここでヘールシャムの特徴をいうと、一種のNPOによって運営されている優良牧場でほかの農場と比べて生徒たちはよい教育と待遇をうけている。一般社会と同じような教育を受け、スポーツも楽しんでる。ということはほかの農場はかなり劣悪な飼育するだけといった場所であることを暗示している。

 この段階に来ると彼らはクローンであることを自覚するようになり、自分たちの将来を理解する。何回かの臓器提供を行ったあとで、早いものでは二十台、だいたい三十歳までに死ぬということもわかるのである。しかし、彼らは一般社会に逃亡しない。理解できないが、逃亡しないというのが「暗黙の前提」なのである。一般社会の人たちと親しくなることもないし、恋愛したりセックスをすることもない。ちなみに農場経営者側は一般人とのセックスを禁止していない。クローンは生殖能力がないから妊娠する、させる心配がない。ただ、将来の臓器提供にそなえて、健全な臓器を提供できるように感染症などにかからないように注意されるだけである。しかし著者は一般人とのセックス場面は描いていない。

 当然に制度として、全国的に臓器農場を管理する組織が前提とされる。例えば農林省とか厚生省とかね。しかし著者は一切それらのことには触れていない。どこかのインターネットのサイトでどうして彼らは海外に逃亡しないだろうか、と疑問を呈していた。多分、彼らには身分証明、日本でいえば戸籍がないのだろう、したがってパスポートも取得できない。ま、これは余談だが。

 


「私を離さないで」の書かれざる前提

2018-01-30 07:18:05 | ノーベル文学賞

 これがクローン人間の養殖農場の話であることは、読む前から、たいていの読者の耳(あたま)に入っている。改めて早川文庫のカバーを見るとクローンなんてことは一語もないが情報社会である。その程度の情報は読者間に流布している。帯はなくなってしまったが、おそらくオビにもクローンの字はないだろう。ネタバレという語感の汚い言葉があるが、まさかネタバレを隠しているのではあるまい。

 イシグロ氏の執筆にはいくつかの語られざる前提がある。それらは一般読者が読んでいれば自然に分かるというものではない。これが厄介なところである。小説は猿飛佐助のようにいろいろな時系列を飛び回るが、物語は少年少女初期(12,3歳ころまで)の追想から始まる。読んでいてまず不思議に思ったのは、この養殖農場(ヘイルシャム)は盆地の中にあるがまわりに塀や有刺鉄線があるわけではない。外部の人間も中に入り込んでくる。小説や詩も授業で教える。小説や詩は外部の、あるいは全体の世界がわからなければ理解できない描写に溢れている。たしかテレビも見られたのではないか。当然幼い子供といえども外部の世界に強い興味を持つはずだ。そして子供の常として外部の(一般)社会に行きたい、見たいと思うはずである。ところがそういう自然な自発的な行動は小説の中では全くない。ありえないことだ。

 イシグロ氏はあるインタビューでこの自作を解説して、子供というものは、大人が与える情報の枠の中でしか考えず、行動しないからと、この記述を正当化している。そうだろうか。読者を納得させるように言うなら「そういう前提で書いている」というべきではないか。それなら作者の自由だから問題はないまもしれない。

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カズオ・イシグロ四作品軽読のまとめ

2018-01-29 06:54:53 | ノーベル文学賞

「私を離さないで」(私を)をようやく読み終わりました。途中で挫折して「遠い山並みの光」(遠い)、「浮世の画家」、「日の名残り」と読み、再び「私を」を読んだわけです。「私を」以外は比較的早く抵抗もなく読めましたが「私を」はちょっと時間がかかった。

 四作品の感想を順不同に述べます。メモしておかないと忘れてしまうので。「遠い」と「浮世の画家」は日本の家庭が舞台ですが、一部の評論家の言うような違和感は感じなかった。とくに「遠い」は日本の作家の作品と言われても不思議ではない。

 浮世の画家では大家の画家が朽ちかけた別荘で弟子たちとの共同生活をしている描写は「どうかな」と思うところがありましたが。家族の会話も普通の家庭とは違うようだが、これはおそらく彼の家庭の記憶がもとになっているのでしょう。祖父は戦前上海で会社を経営していたというし、長崎では三階建ての洋館に住んでいたというが、そういう生活をしていれば、やや標準とは違う家族の会話もありそうに思われる。育った家庭や家屋というものは作品に反映されやすい。前の記事で家族の概念がないと書きましたが、これは「私を離さないで」について述べたものですから念のため。

さて、日の名残りと私を離さないでとのあいだには16年の開きがあります。その間に「充たされざる者」と「私たちが孤児だったころ」が書かれています。いずれも未読ですが、「日の名残り」と「私を」のあいだにはかなりの変化があるようです。しかし、これまでに読んだ四書のうち「浮世の画家」、「日の名残り」と「私を離さないで」の三作品の間には共通点があります。いずれも奉仕者と奉仕されるものの関係です。そしていずれも奉仕するものが、その体制を否定、反抗するのではなくて、「奉仕するもの」と「奉仕されるもの」の社会的枠組みに順応して生きていく様々な人生を描いていることです。

「浮世の画家」では戦前の社会のムードのなかで、「日本精神」運動を主導した老画家の戦後を描いています。ここでは「奉仕されるもの」が人間集団ではなくて「世間の風潮」です。山本七平流に表現すれば「世間の空気」です。「日の名残り」では奉仕するものは執事であり、奉仕されるものはその主人です。「私を離さないで」では奉仕する者たちは臓器提供者になるように育てられたクローン人間であり、奉仕されるものは臓器提供を受ける「一般の」人間たちです。

 

次回:「私を離さないで」での作者の意図


カズオ・イシグロの「日の名残り」にみる英国執事のモラル・コード

2018-01-22 07:12:52 | ノーベル文学賞

 全体の半分強を読んだところで感想を。執事という「英国特有の」職業倫理を極端に戯画化するまでに描いた小説でしょうか。連想するのはレイモンド・チャンドラーの描く私立探偵の硬直したともいえる職業倫理でした。

 主人公である語り手のスティーブンスによると、執事というのは英国特有の職業です。ほかの国、フランスやアメリカでは召使しかいない。ちょうど武士が日本特有の職業というか身分であるように。そういえば、チャンドラーに出てくる富豪の依頼人の執事は英国人でした。執事を雇うなら英国人を、とアメリカ人も思っていたようです。ちなみに、村上春樹氏によるとイシグロ氏もチャンドラーの愛読者だそうです。

 筆者によると執事という職業は消滅したらしい。名前は残っているかもしれないが。小説を書くにあたって筆者が取材した材料はなんだったのか。一つはかっての名執事の回顧でしょうが、イシグロの二世代前に消滅したらしいから、かっての名執事の妻や、娘への取材だったと推測する。この本は献辞に「ミセス・リノア・マーシャルの思い出に」とある。小説中に伝説中の名執事として名前の出ているマーシャルの縁故者でしょう。

 イシグロ氏は長編第一作の「遠い山並みの光」で王立文学協会賞を受賞。第二作「浮世の画家」でブッカー賞の最終候補、本作でブッカー賞受賞ということですが、三作品を比較するとやはり「日の名残り」が一番でしょう。その次が「遠い山なみの光」だと私はおもいます。「浮世の画家」が最後までブッカー賞を争ったというのは意外です。英国受けのする要素があったのかな。

 執事道とは隠密同心風に言えば「お役目いかにしても果たすべし」とでもいうところか。

「葉隠れ」の大英帝国版というべきか。構成も巧みだし、筆力もさえてきています。

 


カズオ・イシグロの手法はStripteaser的

2018-01-20 08:09:02 | ノーベル文学賞

 「私を離さないで」を三分の一ほど読んで挫折したことは書きました。その後処女作(元服後、あるいは成人式後の処女作ともいうべき)「遠い山並みの光」と第二作「浮世の画家」を軽読しました。

 私は成人式後の処女作を(つまり習作期間中の作品ではなく)を重視するものですから、処女作からシリアルに読み始めたのです。彼の手法的な特徴というのか(内容ではなくて)、なんというのかテーマというか謎というか、展開すべき着想というのでしょうか、それを最後まで明らかにしないということに気が付きました。もっとも、だからと言って途中で本を投げだすということもなくて最後まで読ませる筆力はあります。最後に至っても、通俗小説のようなテーマの明示はないのですが、それでも読後の、なんというか、充足感はあります。やはりその辺が力量でしょう。

 ストリッパーが一枚一枚脱いでいって最後にいたっても全部脱がないというのに似ていますね。それでも十分にお客を満足させる芸になっている。全部脱がないとブーイングが起こるのは場末の、あるいは歓楽地の温泉街の小屋ぐらいのものです。

 


百年前のロサンジェルスの大雨

2018-01-09 06:52:52 | チャンドラー

 チャンドラーの「大いなる眠り」は1939年に発表されたが、雨、それも土砂降りの大雨の描写が印象的である。たしか二回以上大雨の描写がある。舞台はロサンジェルス、ハリウッドである。現在では少雨乾燥地帯となっている。山火事の頻発地帯である。まったく雨が降らないというわけでもなく、一月ころには月間10ミリか20ミリの降雨があるようだ。

  前からこの大雨が気になっていたんだがね、非常に印象的、効果的に書かれていることもあり。確かめていたわけではないが、そのころルーズベルト大統領がニューディール政策でカリフォルニアの後背地に盛んにダムを建設していたが、それで気候が一変したのだろうか。

  大いなる眠りはチャンドラーの長編では処女作だが、その後の彼の長編では雨のカリフォルニアは描かれていないようだ。もっとも「大いなる眠り」はその前に書いた短編、たしか「雨の殺人者」のアマルガメイションだった。この作品の書かれた年代は記憶にないが、このころはまだニューディール実施前だった可能性が高い。

  それとも、この大雨の描写は全くのチャンドラーの創作だったのか。現在の東京の冬を屋久島の夏のような高温多雨の気候と設定した趣向だったのか。