穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

Wの火掻き棒振り回し事件の真相を推理する

2019-12-31 09:01:33 | ウィットゲンシュタイン

 さて、若い諸君にまず聞かなければならない。火かき棒とは何だかわかりますか。現在使っていないから多分知らないだろう。まずその辺から始めなければならない。驚いたことに辞書にはヒカキボウは勿論ヒカキという言葉もない。ところが和英辞書にはある。なんじゃい。私の見ているのはシャープの電子辞書である。この国語辞書の収録語数はすごくおおい。広辞苑と乙甲(オツカツ)だろう。もとは「三省堂スーパー大辞林3.0」である。英語は新和英大辞典である。

 和英によるとヒカキとはfire rake あるいはpokerのことである。棒はつけても付けなくても意味は変わらない。
これでも諸君には分からないか。弱ったな。昔はね、石炭ストーブというのがあった。というより暖房というと大体石炭ストーブだった。こたつを卒業したハイカラな洋風建築の家庭とか、学校ではね。火の勢いが弱くなると火掻き棒をストーブに突っ込んでかき回した。ま、そういうもの。だから鉄の棒でしょっちゅうストーブに突っ込んであるから灼熱して鉄は赤変している。黄変まではいかないけどね。

 そのヒカキボウを興奮したWが議論相手に向かって振り回して追いかけたというのが事件である。時は1946年、場所はイギリスたしかケンブリッジ大学のWの研究室。出席者はW,ポパー、学生たち、バートランド・ラッセル。
世に喧伝された事件であるにも関わらず目撃者、当事者の誰もがどんな議論が原因だったかマチマチ、バラバラな報告をしている不思議な事件である。

 目撃談は多数ある。出席した学生や大学関係者(主として大学の教員)、ラッセル、そして当事者のポパー。いかしいずれも事件の発端となった議論についてはまちまちな証言をしていてとりとめがない。

 ここでポパーのことを少々。彼は亡命ユダヤ人でアメリカ人の科学哲学者である。終戦後間もない46年かれはスキャンダラスなプラトン批判を引っ提げて華々しく登場した。ナチスの思想的背景はプラトンであるというのである。この議論は十分に成り立つ。プラトンの国家などを読めばね。しかし、ヨウロッパでプラトンの権威に挑戦することはまずない。学会のタブーである。ナチスと死闘を繰り広げたイギリスでさえもありえないことでポパーの来英はスキャンダラスな事件ではあった。これは当時の背景であるが、これがWを激高させたとは考えられない。W自身が50パーセントのユダヤ人だし、あれだけ口汚く形而上学者を罵っていたWがプラトンの権威が挑戦されたからといって怒るわけがない。

 ポパーはその後数十年経ってから回想録?「開かれた社会」で事件に触れているが原因となった議論の中身には触れていないのである。以下は当事者たちが沈黙しているWがブチ切れた原因を推理しようというものである。

 


徒然(トゼン)に耐え兼ねウィトゲンシュタイン(W)を再読

2019-12-30 20:43:22 | ウィットゲンシュタイン

 気分転換に隙間時間を利用してW氏の論理哲学論考を選んだ。短いのがいい。箇条書きなのがいい。パラパラと適当なところから拾い読みできる。岩波文庫には著者の序が付いている。2ページと5行。短くてますますよろしい。序を読むのは初めてでもある。

 面白い文章に早速ぶつかった。逃げを打っているのか、開き直っているのか、上から目線なのか分からないが、

引用開始:私のなそうとしていることが他の哲学者たちの試みとどの程度一致しているのか、私はそのようなことを判定するつもりはない。実際私は、本書に著した個々の主張において、その新しさを言い立てようとはまったく思わない。私が一切の典拠を示さなかったのも、私の考えたことがすでに他の人によって考えられていたかどうかなど、私には関心がないからに他ならない:引用終わり

 ま、すっきりしていますな。こういう序は珍しい。謝辞が長々と続いたり、参考文献の数ページに及ぶ紹介があったりするのが多いですね。こういわれてみて初めて考えてみると、思い当たる節がある。もっとも読んだのはだいぶ前なので正確な引用は出来ないが、たとえば彼が頻繁に使う『示すことは出来るが、語ることは出来ない』という表現。これは中世スコラ哲学のアナロギアと存在の一義性の議論を思い出させる。

 すこし別の話になるがWと自然科学の関係も非常にあいまいで分かりにくい。一般的には、というよりも専門家の間でもWは科学哲学者の仲間と考えられている。だから当時の科学哲学者の集団であったウィーン学団のメンバーから熱視線を送られた。ところが論理哲学論考を読むと分からない。彼自身もウィーン学団の慫慂にあいまいな態度をとった。なかなか端倪すべからざる人物だったようである。彼自身、似非科学ともみられる精神分析に関心を持っていたとも言われるしね。これは論理哲学論考からは考えられないことである。

 だんだん思い出してきた。ポパーとの大喧嘩について思いついたことがあるので次回に書きましょう。Wは方法論としての科学哲学では非常に素朴な考えの持ち主だったらしい。


57:フローリングをめぐる不都合

2019-12-24 19:43:46 | 破片

 形のいい鼻の穴から二本の太い煙を吹きだした。テーブルにぶつかるま一メートル余りは二本のネズミ色の太い棒は形を崩さず直進した。最近煙草が吸えるようになった長南さんはちょっとした芸に励んでいるのである。
「私は親と一緒に分譲マンションに住んでいるんだけどさ、この間上の階の人から回覧が回ってきてさ、今度フローリングに改修するから同意してくれっていうのよ。どうしたらいいか親はわからないわけよ」
「なにが分からないの」と女主人が優しく聞いた。
「同意するって何に同意するか分からないからよ。やるなら勝手に工事をすればいいわけじゃない。何に同意してほしいかまるで分らない。工事が終わってから前より騒音がひどくなっても一切文句を言いません、ということなのかしら」というと彼女は二本目の棒を噴射した。
「理由を書かずに同意書に署名捺印しろというのは不気味だよね。借金の連帯保証人みたいじゃないの。そんなものにメクラ版は押せないわね。私はね、やめとけって言ったのよ」
「親にですか」
「そう、これがね、こういう工事をします。工事中に騒音が出てご迷惑をおかけしますが、とかいうんならよくある挨拶でしょ。同じマンションだし、しょうがないか、とたいていの人は思うでしょ。だけど、そんなときは手ぬぐいとなにか粗品を持ってきて挨拶をするらしいんだけど、同意を求めるなんてことは異常でしょう」
「たしかに非常識だね」と第九は頷いた。
「放っておいたら、本人が来ないで請け負った工事業者が説明にきたの。オイオイ何だっていうんだ、でしょう」
「そんなのは同意する必要はありませんよ」と下駄顔が忠告した。
「やっぱり、それが正解なのね」
「親はね、工事の結果、騒音が発生しても文句を言わせませんという意味じゃないかと心配しているの」
「もっともな心配だな」
「ところがそこへ管理組合の理事が現れたわけ。管理規約でフローリングに改修工事をするときは上下左右の部屋の同意を取り付ける必要があるというのがあるというの。まるで同意しないとこっちがいけないみたいに言うのよ。こういう管理規約は一般的なんですか」と彼女はクルーケースに聞いた。
「残念ながらそうなんですね。さっき話が出た業界の推奨書式にありますね」
「それには目的は書いてあるんでか」
「目的というか規則の趣旨は書いてなかったと思うな」
「ひでえ話だな」
「国土交通省は三流官庁だしね」

 これはね、と卵型が付け加えた。「そのマンションの建築業者か管理会社が審査して自分たちの責任で承諾、非承諾を決めるべき問題です。工事の結果、騒音がひどくなるかどうかは完全に技術上の問題です。考えなければいけないのは、そのマンションの完成時の遮音性能とフローリング業者が行う遮音工事のレベルや内容です。これが判断できるのは建築の専門家しかいない。つまりそういう情報を持っていて判断が出来るのは管理会社しかありません」

「たしか、マンションの遮音性能は建築基準法で報告義務があったんじゃないですか。ABCDEというランクがあったはずだけど」とクルーケースは呟いた。
「あるはずですよ、すくなくも学問上は。実際の認可基準にされたかどうかは国土交通省と建築業者の綱引きでうやむやにされている可能性がありますがね」
「フローリング業者が行う工事だって金をかければかけるほど遮音性能は高くなる。例えば防音工事に予算をほとんどかけない場合と十全の措置をする場合とで雲泥の差が出ます」
「一千万円もかければ築数十年のおんぼろマンションの部屋だって室内でピアノが壊れるほどぶっ叩いても隣や下に騒音は漏れない」

 


56:共用部分とはそも何ぞ

2019-12-22 11:10:22 | 破片

 本来は管理組合ではなくて、管理会社や不動産会社が責任を持つべきことを管理組合の権限にしていることがあるわね、と女主人が思い出したように語りだした。
「そんな不都合なことは沢山ありますよ」と吐き捨てるように下駄顔が応じた。「一番問題があるのは共用部分のことだね」
「どんなことですか」と第六が質問した。
「どんな事って」と怒ったように第九をジロリと睨んだのである。「たとえば玄関のドアに追加の鍵をつける場合だ。現在の治安状況では最低でも二つ目の鍵は必須だろう」
「現在は二つ鍵をつけているところは多いですね。それにも反対するんですか」
「何年か前の話だ。ピッキングとかいう外国人の犯罪が注目されだしたころだよ。そういう防犯上の常識が分からないのだ。管理組合の奴らは無知だからね」
「現在までもそうなんですか」
「最近は新聞なんかで二つ目の鍵を奨励するようになったからしぶしぶ認めているがね。大体治安の悪い外国なんてドアに五つも六つも鍵をつけているじゃないか」
「それはちょっと多いわね」と長南さんがびっくりして明眸を見開いた。「外国はどこでもそうなんですか」
「五つも付けるのは外国でも余程治安の悪いとこだけどね。例えばの話だ。ニューヨークのハーレム当たりじゃそれが常識だよ。こっちはは二つ目の鍵は常識だと思っているから鍵屋を読んで取り付けさせるだろう。そうすると、管理人がすっ飛んでくる。管理人というのは住民全体の管理人という意識はないからね。管理組合の理事たちの従僕だからね。かれらや管理会社から指導されているんだ」
「そうして管理組合の理事たちは管理会社の従僕なわけだ。本人たちは主人のつもりでいるがね」とクルーケースが注釈を入れた。
「へえ、そうなんだ」
「俺の住んでいるとこは元々あまり人気(ジンキ)のいいところじゃないから、余計必要なんだよ」
「それでどうしました」
「管理人を怒鳴りつけて鍵を追加した」
「問題は共用部分のことが多いんですか」
「まあ、そうだな。それと床をフローリングに変えるときに住民に同意書を強要することだな」
クルーケースが言った。「大体、なぜ共用部分の変更を理事会の同意事項にするかという根拠というのは考え直さないといけないでしょうね」
「合理的な根拠なんてあるわけがない。あれは個々の管理組合で作る管理規約に書いてあるんでしょう。だから組合によって取り扱いが違うんでしょうか」
「さあねえ、そういう統計というか調査資料があるとは聞いたことがないが、ああいうものは国土交通省が無識者会議に諮問して勝手に法令化するんだよな。奨励されるプロトタイプとしてね」
「プロトタイプって」と長南さんが訊いた。
「推奨書式というのかな、そんなものでしょう」と卵型老人が言った。
「無識者会議ってあるんですか。有識者会議というのはよくニュースで聞くけど」と単純な長南さんはあくまでもしつこく素朴で常識的な疑問を投げかけた。
「世間で有識者会議というのはみんな無識者の団子ですよ」
「団子って」
「おや云い間違えた。談合ということです」と下駄顔はあくまでとぼけた。

 


55:住民自治というくすぐり言葉

2019-12-18 08:49:25 | 破片

三時をを過ぎて四時近くなると、こういう店は客足がとだえる。会社をさぼって来ていた連中もそろそろ事務所に戻って退社前に仕事に格好をつけておかないといけない。暇になった長南さんが話に加わった。彼女は大人の話には興味を示すのである。

「分譲した部屋を賃貸に出す人がいるわね。ああいうのはどういうカテゴリーに入るの」と聞いた。彼女はいまアリストテレスのカテゴリー論を研究しているのである。
「所有者にとっては分譲だろうが、借りるほうには賃貸だよ」と分かり切ったことを聞くな、と言うように下駄顔が決めつけた。
「まあそうなんだが、別にややこしいことがあるときもあるようだ。関係者が多くなるから当然だが」ともと不動産屋がとりなすように言った。

好みもありますよね、と第九が話した。「イメージでどうしても分譲で所有者になりたいという人もいる」
「そういう人は多いんじゃないですか」と女主人。
「規模が大きいほど管理組合は常識的になるものでしょうか」と第九は疑問を述べた。
「それが必ずしもそうではない。規模を大中小に分けるとね、大規模分譲だから住民の意識が高いということは全くないようですね。中規模、どのくらいをそういうのか定義もないが、まあ五十戸以上百戸位を中規模というと結構住民意識が高いところもある」
「どうしてですかな」
「そのくらいだと住民同士の牽制が働きやすいのでしょう。おかしなことを理事会が決めれば意見が出やすい。逆に数百戸とか千戸以上のマンションだと連帯意識が弱くなるようです。なにか他人事のように思うんですね」
「なかには数戸とか二、三十戸という小さなマンションもありますよね」
「これが一番問題でしょうね。管理組合のアクティヴ・メンバーが癖のあるバイアスのかかった人物だと歯止めが利かない。暴走する」
女主人がうなずいた。「自分の土地に等価交換でマンションを建てたりしているでしょう。だから自分の名義で数戸保有していたりすると、管理費の値上げとかなんか勝手に決められる。そのうえ地元の政治屋とつながっていることがあるみたいで」
「地元の政治屋って?」
「たとえば、地元の利害の周旋が専門のような市会議員みたいなのが。文句を言うとこわもてで表面に出てくる」
「恐ろしいわね」
「まあ、小規模のマンションはスルーしたほうが無難でしょうね。宣伝パンフレットにどんなに魅力的なことが書いてあっても」

「ようするにマンションの規模と管理組合の質の高さは相関しないということか」と第九は現下の妻と管理組合との対立を考えた。
「マンションの立地と管理組合の、何というかな、穏当さというか意識の程度の高さというか、は関係がありますか」
「たとえば?」
「銀座や六本木のど真ん中に建っているマンションと、都下とか**県の在のマンションとでは差があるものでしょうか」


しばらく考えていたが、「ないんじゃないですか」とクルーボックスが答えた。
「そうすると、良い管理組合に遭遇するのはまったくの運ですな」と卵型老人が総括した。

「大体、住民の自治意識をあてにするのは百年早いんだよ」と下駄顔が息巻いた。
「まあまあ。確かに場末のマンションでも管理組合が常識的なところもある」とかれは前に住んでいたマンションのこと考えながら言った。「管理組合も進化するんですよ。長い間やっているうちに意識が高くなる場合もある」

 

 


54:ヌエ(鵺)退治

2019-12-16 08:27:10 | 破片

 規模の問題もありますよね、とクルーボックスが呟いた。
「規模が大きいほうがいいんじゃないですか」
「まあねえ」
「分譲マンションというと必ず管理組合というのがあるね」
「厄介な存在だよ」
「賃貸だと大家と店子という関係ですっきりしていますね。大家によりけりだけど、一般的に言って大規模なマンションの大家、大体は大企業の不動産屋が多いんだけど、この辺が一番無難かもしれないな」とクルーボックスが意見を開陳した。
「大家が無茶苦茶な管理をしたり、おかしな規則を強制しない限り賃貸がいいのかな」と第九が言った。
「だけどリフォームは出来ないわね」と女主人が話に加わった。
「そうですね。どうしても気に入った仕様が見つからなくてリフォームしたというんなら賃貸はダメですね。しかし私なら出来るだけいろいろな物件を見て歩いて自分の希望というかイメージに合ったところを探すのがいいと思いますね。規模の話ですが、大手の会社が運営する大規模な賃貸はそうそう無茶なことはしませんよ。勿論例外はあります」
「どんなところですか」
「いやいや、それはちょっと言えない」とクルーボックスは逃げ腰になった。「大体評判を調べていれば分かってきますよ」

 第九が思案顔に言った。「賃貸ならおまかせスタイルで、気楽かもしれないな」と妻と管理組合との百年戦争を考えたのである。
「いい大家で、つまり常識的な運営をするところで、大規模なリフォームをするのでないなら賃貸が無難でしょう」
「しかし分譲なら自分のものになるから資産価値が残るんじゃないの」
「一昔前の発想ですね」とクルーボックスが批評した。「不動産価値がローン金利以上に着実に値上がりしていた時代の考え方でね」
「そうだな、いまじゃ購入価格の維持すら不可能でしょう。よほど例外的な物件でなければ」
「ローンの金利を考えたら賃貸のほうが有利だろうな」と卵型老人が言った。

「分譲の場合はどうですか。できるならローンを組んで分譲を購入したいというのがサラリーマンの夢じゃないですか」
「持ち家というのは響きのいい言葉だしね。しかし管理の面倒くささという点では、さっきも言ったけど、一軒家、分譲、賃貸の順ですよ。一軒家の維持のややこしさは建物自体の維持とか防犯上の問題に限られるけど、分譲マンションの場合はあらゆる管理問題が負担になるからね」

「まず関係者が複雑だ。個々の所有者(区分所有者と言いますけどね)、管理会社そしてその間に管理組合というのが入る。非常に複雑だし、面倒くさい。うまれて初めて自分の物件を管理できるというので喜ぶ人もいるが、厄介ごとを引き受けて悦に入っているとしか思われないな」と下駄顔が話し始めた。

「管理組合というのは管理会社が体よく利用する存在でしょう」と第九が思いついてように発言した。
「えっ」とみんなが彼を見た。
「そうですね」とクルーケースが敷衍した。管理会社は住民の自治意識をくすぐるという手に出ていますね。なにか問題があって、管理会社に相談すると、それは管理組合マターですからと言われる。そうして管理組合に問題を上げると、理事会なんかで取り上げられるまでにものすごく時間がかかる。そうしてたいていの場合何の結論も出ずに立ち消えにされてしまうということが多いでしょう」
第九がうなずいた。住民対管理会社という図式はなく、すべて「管理組合の問題ですから」とからだを交わされてしまう。
「管理人というのはどういう立場なんですか」と女主人が話に加わった。「住民(同士)、管理人、管理組合、管理会社というのが関係者ですね。どういう関係になっているのでしょうか」
「管理人というのは立場が難しいね。同情する面も多々あるが、管理会社の従業員であり、管理組合の御用聞きみたいなところもある。管理組合との関係でしくじると自分の身が危なくなる。管理組合の御用を足していれば安全だからね」

「個々のマンションの管理組合によってさまざまだから語弊があるが、基本的には管理組合アクティヴ・メンバーと個々の住民とは違う」
「しかし、住民の自治とか振りかぶられると弱いんだよね」
「つまりマンションを買う場合はどんな管理組合かを調べなければならないわけね」
と女主人が呟いた。
「そうなんだけど、それは実際上不可能だ。中古を買う場合でもそこの管理組合の評判なんて調べようがない。まして新築の場合は、これからどんな人が買うのかもわからないし、どんな組合ができるのかも予想できない」

 


53:賃貸と分譲、どちらがいいか

2019-12-15 09:26:34 | 破片

53:賃貸と分譲、どちらがいいか

第九は駅ビルにある定食屋で昼飯をすませた。サラリーマン同士が肩を押し付けあって飯を掻き込んでいる昼休みを避けて遅い時間に入ったが、今度は老々、中老のババアたちで一杯になる。とうに食事の終わった汚い皿を前にして延々とペチャクチャやっている。これは生きているのか死んでしまったのか亭主の年金で食っている連中である。時には幼老の女どもがいることがある。これにはよくわからん。職業婦人なら就労している時間なのに定食屋でひっそりと昼飯を食っている。

さてダウンタウンに入るとインスタントコーヒーをスプーン三匙分オーダーした。いつもの常連の老人たちのところで行った。
「今日は遅いですな」と下駄顔が声をかけた。
「ええ、ちょっと調べ物の仕事をしていましてね」
「家事のほかにもそんな仕事もするんですか」
「妻がマンションの設備のことを心配しましてね。この間の大雨で電源設備が冠水して機能が停止したタワーマンションがあったでしょう」
「ああ、武蔵小杉かどこかの、エレベーターが動かないので歩いて毎日登ったとかいう」
そういえば、と卵型老人がいった。電気が止まると水道も使えなくなるらしいね。料理、洗濯もできなくなるし、風呂にも入れない。一番困ったのはトイレが使えなくなったということらしい」
「どうしてだ」
「水を上に汲み上げるのは電動式のモーターなんだそうだが、それが動かなくなってトイレの水が流せなくなったそうだ」
「そりゃー、えれえこった。夏目さん、あんたのところもタワーマンションだったね」
「そうなんですよ。しかも五十階でね。それで女房が心配して、うちのマンションはどうなっているんだって云うんですよ」
「そりゃそうだわな」
「入居の時に配られた資料でうちのマンションの電源設備はたしか三階にあったらしいと言ったら、確認しておけという彼女の厳命でしてね」
「それでどうだったの」
「その資料が見つからなくてね。あきらめて飯を食いに出かけたんです」

ビル内の診療所から検査サンプルを回収しにくるクルーケースの男が入ってきて隣に座った。
「あんたのところもマンションですか」と下駄顔が訊いた。
「えっ、そうですが、どうしてですか」
「いまね、この間の大雨で電気設備が動かなくなったマンションは大変だという話をしていたのさ」
「なるほど、うちのマンションは城東だから被害は無かったですね」
「何階のマンションなの」
「八階建ての三階に住んでますけどね」
「それならまあまあだな」
「なにがです?」
「エレベーターが止まっても階段で上り下りすれば大したことはないだろう」
「そういう心配はないですね」

「それでさ、お宅のマンションの電気設備がもし地下にあったらどうするの」と第九のほうを向いて老人が訊いた。
「さあねえ、彼女は引っ越しをしようと言い出すかもしれないな」
「一軒家にでもですか、それとも低層マンションをさがすか」と卵型老人

「さあねえ、いろいろ考えないとね、マンションと言っても賃貸と分譲ではいろいろ違うだろうし」
その時、老人はクルーケースの男のほうを向いて
「そういえば何時か君は元は不動産屋にいたとか言っていたね。君の意見はどうなんだい」
「それぞれに長所、短所がありますよね」と問われたクルーケースの男は答えた。

まず、一軒家ですがね。夫婦だけだとか少人数の家庭では無理でしょうね。維持できないでしょう。今どきの治安情勢では防犯上も大いに不安がある、とクルーケースの男は話し始めた。夫婦だけの共稼ぎで昼間はだれもいないなんて場合は一軒家は勧めませんね。また幼稚園とか小学生と夫婦だけというのも一軒家は問題です。このごろは小さい子供が巻き込まれる犯罪が多いですからね。

「もっともだな」と下駄顔老人が相槌をうった。
「分譲と賃貸ではどちらがいいんですかね」と第九が質問した。
夫々にいい点と問題点がありますね。マンションによっても違うでしょうしね、とクルーケースは答えた。

 


52:お城の電気設備

2019-12-12 08:07:59 | 破片

 妻が嵐のように怒鳴り散らして旋風のように仕事に出かけると、第九は彼女が床一面に投げ散らかしていった不動産会社の資料を整理し始めた。妻と言ったが正確には「専属主夫雇用契約上の雇い主」である。二人はちゃんと契約書を交わしている。契約書では「谷崎洋美(以下甲という)」と言及されている。だから結婚したわけではない。長たらしいから妻というのである。

 彼女は出がけにマンションの電気設備が書いてある資料を探し出しておくように厳命していったのである。不動産会社が入居の時に配った資料はおびただしい量にのぼる。受け手の読みやすさとか理解しやすいようにとか、そんなことは全然顧慮しない。とにかく、あることないことビラのようなメモを整理もせずに押し付けるのである。それで何か問題が後で起こっても、ちゃんと説明資料をお渡ししてあるでしょうと住民を突き放すのである。私たち(会社)には責任はありませんよ、というわけである。

 だから受け取った住民は自分たちでそれらの資料を内容別に調べて種分けをして要らないものは捨て、必要と思われるものは自分たちでしかるべき問題別に区分けをして保存しなければならない。第一どれが将来重要になる資料なのかなど住民にはわからない。おまけに妻はそんな面倒なことは嫌いであるから、受け取った説明書とか資料はそのまま収納棚とか本棚に押し込んである。同居人として第九も入居以来はじめてそれらの書類に目を通しながら種分けという厄介な作業をした。

 いったいどこの不動産屋でもおんなじなのだろうか。毎年四、五回も引っ越しをしたチャンドラーほどではないが、彼も何回か引っ越しをしたが、こんなに資料の紙攻勢を受けた記憶はない。タワーマンションとなると、いろいろと住民に周知することが増えるのであろうか。大体、このマンションの売主はあまり住民目線では配慮しないようである。会社は旧財閥系で日本屈指の不動産会社であるが、商業用建物が歴史的にもメインな分野のようで、マンションのような民生用の商売は経験がまだ浅いのか不得手のような印象が随所で感じられた。

 それには良い面も悪い面もある。いい面では引っ越しのサービスがものすごくよかった。大体個人が引っ越し業者を自分で手配すると満足なサービスは得られない。これが企業向けの引っ越しサービスを普段している会社だと、受注の規模が個人とは比較にならないほど大きく、かつサービスで手を抜くとたちまち将来の商売を失う。だから個人向けとはサービスが全然違う。

 悪い面ではいわゆるお上の仕事的なところがあり、細かい点に無神経であり、かつまたずさんである。例えばキッチンがちまちましていてまるで会社の給湯室のようにせせこましい。風呂場の蛇口の位置とかシャワーホースの位置が無神経であるなど、あまり入居者フレンドリーではない。

 求めている資料は昼までに見つからなかった。床にはまだパンフレットが散乱している。第九はあきらめて作業を中断した。昼飯を食わなければならない。彼は作業を中断して外出した。

 


51:ァンター、雲の中を飛んでるみたい

2019-12-09 07:54:47 | 破片

 午前七時三十七分カーテンを引いた妻が感嘆符をつけたコメントを発した。第九がテーブルから顔を上げて外を見ると一面のミルク色だ。スカイツリーは勿論のこと、二百メートル下の道路や市街も見えない。いや窓の外のベランダの床も1.7メートル先にあるベランダの手すりも見えないのだ。

 厚い霧がタワーマンションを覆っている。ここまで霧が濃いのは引っ越してきてから初めてだ。飛行機に乗っていて雲海を突き抜けられなくて一面窓の外が乳白色になるときがあるが、いまもそんな状態である。

「まるで雲の中を飛んでいるみたいね」と妻は詩的な表現をした。

テーブルに戻ってきた彼女は出張中の新聞を読み返した。特に台風がもたらした大雨による洪水被害の記事を選んで読んでいる。

「武蔵小杉のタワーマンションはひどいわね。地下室の電気設備が冠水して使えなくなったんですって」

「電気設備をやられるとエレベーターが止まるからたまらないな。あそこは何階建て何だろう。ここみたいな高さだろう」

「少なくとも四十階以上はあるでしょうね。とても登れないでしょう。しかも買い物袋を提げてね。飲料とか野菜は重いからね。降りるときも無事に降りられるかどうか」

 「あなたみたいに階段から転落する可能性があるわね。一体ここのマンションはどうなっているのかな」

「購入した時にもらった資料に出ているんじゃないのかな。調べてみたら。そういえば管理組合がこの間の避難訓練でなんだかメモを配っていたんじゃないかな」

そういって彼は管理組合理事長の麻生からの電話を思い出した。

「そういえば、麻生さんとかいう管理組合の人から電話があったよ」

 「なんだっていうの」と彼女はとがった声を発した。

「なんでも委任状を出してくれとかいう催促だったな」

「またか」と彼女は吐き捨てるようにいった。「いつ来たの」

「先週だったの思うな。そうそう臨時総会の委任状とか言っていた。『今度の日曜日』とか言っていたからもうすんじゃったんじゃないの」

「まったくしつこい奴なんだから。委任状回収率がイノチのようなヤツよ、彼は」

 「会ったことがあるのかい」

「ないわよ、何かの通知で自分の顔写真を載せていたのを見たけど、田舎の青年団の闘士風の男よ。一種の活動家なのかな。組合の理事長を足場にして名前を売って区会議員に出るために顔を売っているみたいな印象が拭えないわね」

  出張中の一か月分の古新聞というとなかなか読み切れない。大雨洪水の記事を拾い読みすると彼女は不動産会社からもらった建物の資料を探した。本棚や引き出しをひっかきまわしていたが、見つからないようでいらいらしだした。

 「管理組合に聞いてみたら」と彼が恐る恐るいうと

「冗談じゃないわよ」と怒鳴り返した。それもそうだ、彼女は管理組合と冷戦状態にあるのだ。「それじゃ管理人に聞けば」

「あんたは本当にバカね。管理人なんて管理組合の理事たちとグルよ。管理組合の手先じゃないのさ」

 


50:いわゆるソクラテス文学について

2019-12-03 08:02:45 | 破片

 第九が居住まいを正して身を乗り出すと、改まった口調で「わたくしも一席弁じさせていただきます」と言った。

「もう一席弁じたじゃないか。なんだいまだあるのか」と下駄顔が驚いたように口を尖らせた。

「いいえ弁じるというほどのことではないのですが、重大な疑問を抱きましたので」

「おやおや今度は疑問ですか」

「それではお許しを得たことにして」と第六は橘さんを見た。

別に異論も出なかったのを見て第六は続けた。

「いわゆるソクラテス文学といわれるものがあるそうで、プラトンやクセノポンの『弁明』のほかにソクラテスをテーマにした作品が当時沢山あったそうですが、現在に伝わっているのは上記の二作品のみというのはどういうわけなのか」

「それが君の疑問なのかい」と卵型頭が確認した。

「そうです」

「君も相当に読書をしていると見えますね。そんな疑問を持つなんて」と橘が批評した。

第九は頭をかいた。「最近妻との専業主夫の雇用契約を改定しましてね。生理休暇を獲得したので、いささか時間が出来ました」

 「男にも生理があるの」と長南さんが驚いて無邪気に聞いた。

「ありますとも、いわゆるオンスですな。男にだって特異日があります」

本当なの、と女主人が顔をしかめた。

「やはり月に一回なの」と真理探究者である長南さんが質問した。

皆は彼女を見た。彼らは第九が質の悪いいささか場にそぐわない露骨な冗談を言っていると思って聞いていたのだが、本気で質問してくる彼女のほうに興味を持ったらしい。

 第九も腹を決めて若い女性に誠実にこたえることにした。「満月のたびに、というほど規則的でありませんな。大体、妙なことに水曜日が多い」

「それじゃ毎週じゃない。やりすぎよ」と彼女は叫んだ。

なにがやりすぎなのか分からなかった。

「男の人って毎週生理があるの」と彼女は老人たちに聞いた。

「さあ、どうだったかな、昔のことだからはっきりと覚えていないな」と下駄顔は第九に調子を合わせた。「やりたくなる生理なら毎週どころか毎晩だったがね」

彼女は口を開けて第九を見ている。

「それで大分自由時間が増えましたので本を読んでいるんです。夜の労働から解放されたのが大きい。冬の夜長は読書に最適です。マリー・アントワネット風のベッドのことも気にしなくていいし」

「それでソクラテス文学なんてことを知っているのか」

そういわれてみると、と橘さんが始めた。「そんなことは考えたことがなかったが、キリスト教の福音書の場合に似ているね」

「どうしてです」とびっくりして第九が聞いた。

「ソクラテスもキリストも自分で書いたものはない。すべて自分の弟子や周りにいた人間が書いたものだ。ソクラテスの場合はプラトンでありクセノポンであり、名前も伝わっていない人たちだ。キリストの場合は弟子の書いたものだ。いわゆる福音書と言われるものだね。福音書も今は四つだが、当時は多数あったらしい。それが淘汰されてヨハネ、パウロ、ルカ、マタイの四つが生き残った」

「どうして四つだけが残ったんですか」

「それは激烈な教会の内部抗争や教義論争の結果の勝者が四福音書ということですよ」

「するとソクラテスの場合も」

「似たようなものでしょう。実質的にはプラトンの一人勝ちだが、プラトンが開いた教育研究機関であるアカデメイアの存在が大きいだろうね。なにしろアカデメイアは八百年以上続いたんだからね」

 

 


破片まとめ40から49

2019-12-02 07:59:27 | 破片

40:鬼のいない間に命の洗濯

 

いつも四時ごろになるとソワソワしだして、帰る第九が悠々とダウンタウンのソファに

腰を落ち着けているのを不審そうに見て卵型禿頭老人が揶揄い気味にきいた。

「夕食を作らなくていいんですか」

女主人が首をかしげて「外食デートするんですか」聞いた。

「ワイフはアメリカに出張中でね。夕飯はどこかで食べるつもりです」

「ほう、それはいい。鬼のいない間に命の洗濯ですね」と下駄顔が言った。

「いつまでご出張なんですか」とクルーケースが尋ねた。

「あとひと月ほどです」

「まあ、随分長期なのね」と奥さんが驚いたように呟いた。

「うらやましいな」

「それでは存分に羽が伸ばせますね。なにか計画でもおありですか」とクルーケースがうらやましそうに野卑な笑いを浮かべた。あるなら付き合おうという気配を見せた。

「あとで焼き鳥でも食いに行きましょうか」と下駄顔が誘った。

「いいですね。たまに暇が出来るとバカにいいことがあるような期待があるんですよね」

「ところが実際に暇が出来ると暇を持て余すようになる」と下駄顔が注釈を加えた。

「その通りですよ。だけどそれは我々が老人だからもしれないな。あなた方若い人はそんなことを考えないでしょうな」と卵型ハゲがクルーケースの男を見ながら付け加えた。

 

「ご老人たちは暇をどうしてやり過ごすんですか。失礼だが勿論働いていらしゃるようにも見えないし」

「それが我々老人には大問題でしてね。これがばあさんたちならみんな同じことをするから問題はないんだが、我々多少教養がある老人には難しい」

「まあ」と多小非難の混じった間投詞を発したのは美人の女主人である。「それで『ばあさんたち』はどうして暇をすごすの。わたしもまもなくばあさんになるから参考までにうかがっておきたいわ」

「決まってまさあ、数人のばあさんが寄り集まって飯を食うんでさあ。そしてそれぞれの病院通いの話をさも深刻なことのように順々に話すんでさあ」

「ばあさん版饗宴だね」とハゲ老人。

「そういう光景を見ると一体旦那はどこにいるんだろうと不思議だね。後期高齢者のばあさんが群れをなして定食屋にたむろするんだからね」

「亭主たちはみんな先に死んじゃったんだろうね。だってその年齢でダンナたちが勤めに出ているとは考えられない。また、いくらなんでも亭主に留守番させて女房たちが外食に群れるとはいくらなんでも考えられない」

「それで年金で外食に群れるんだろうね。年金制度も悪用されているんじゃないの」

「まあ、それは言いすぎですよ」と女主人は非難がましく明眸を見開いて老人たちを優しくにらんだ。

 

「それであなたはどうして暇を過ごすんですか」と逆襲に転じた。

「ヒマは退屈をもたらし、退屈は死に至る病なんですな。痴呆にいたる病でもある。絶望は鬱病に至る病かもしれないが死に至ることはまれだ。それで私は最近はプラトンを読んでいる」と下駄顔は橘さんを見た。

 

41:十一月十八日

 

知識は万人のためにある。

 

「プラトンてどのプラトンですか」とクルーケースが間の抜けた疑問を述べた。あまり教養のなさそうな彼でも何人もプラトンという名前の人間を知っているらしい。

橘さんもびっくりしたように尊敬のまなざしで彼を見直した。

「俺の知っているのは、といっても恥ずかしながら九十七歳にになって初めて面晤の栄に浴したのは一人だけだけどね」

「どこの国の人ですか」

「ギリシャ人さ、神武天皇がお生まれになったころの人でな。橘さんはご専門だからよくご存じだ、ねえ」と同意を求めるようにパチプロの橘氏のほうを向いた。

「ええ、すこしだけね。古代ギリシャの哲学者ですよ」とクルーケースに説明すると、下駄顔のほうを向いて「前から興味をお持ちだったんですか」

「とんでもねえ、ひと月前でさあ、ボケ防止対策に七面倒くさい本でも読むのがいいのかな、と思いましてな。本は安いのがいい。懐具合の関係もありますからな。そして新しくてきれいなのがいい。古本はさっぱりダメでね。それでこの間本屋で文庫本の棚のあたりをうろついていたら目に入ったのがプラトンだ」

 

「ボケ対策には読書がいいらしいわね。読書はご趣味なんですか」と女主人が言った。

 

「とんでもねえ、年を取ると目が悪くなるから本はなるたけ読まないようにしていたんですよ。それでね、読むのに比べて書くほうはあまり目に負担をかけないからいろいろと書き散らかしていまさあ」

「まあ、小説かなんかを書いていらっしゃるのですか」

「エロ本をね、秘密出版でさあ」

「まあ」と彼女は絶句した。目には尊敬のまなざしが浮かんだ。

「老化防止には指の運動がいいともいいますね」とクルーケースが応じた。

「そうなのさ、指を十本全部使うからね」

老人の理解しがたい発言にみんなはしばらく沈黙した。

 

「ものを書くのみ指を十本も使うのかい」と禿頭老人が訊いた。

「タイプライターを使うからね」

「なるほど、商社マンだったあなたならタイプライターはおてのものだ。そうすると英文の小説ですか」

「そこまではいかない。ローマ字変換ですよ」

「なるほど、それはいい。それでどのくらいのスピードなんですか」と彼自身も昔船会社に居て毎日英文の書類やレターを書いていたハゲ老人がきいた。「一分間に二百字くらい?」

「昔はね、決まりきった商業文ならいくらでも早く打てたが、スピードは落ちているね。それに文章を考えながら打ちますからね。スピードで比較しても意味がない」

 

それが文章を作るほうからまた読むほうに変えたんですか、と女主人がもっともな疑問を述べた。エロ小説の種が尽きたんでしょうか、と遠慮のない質問をした。

「いや、相変わらず書いていますがね。すこし目先を変えて七面倒くさい哲学の本でも読めば老化防止に相乗効果なるかと思ってね。それで岩波文庫のプラトンを二、三冊買いました。岩波の後ろに立派な宣言があるじゃないですか。『知識は万人のためにある』ってね。本屋で一般向けに売っているから私が読んでも誰からも文句はでないでしょう」

「そうね、文言はすこし違っていたような気がするけどね」と誰がが呟いた。

 

42:下っ腹が張ってきてね 十一月十九日

 

それまで珍しく下を向いて考えていた若き女性哲学徒の長南さんが質問を発した。

「エロ小説って自分の体験を書くんですか」とハッタと下駄顔老人の顔を正面から直視した。

思わぬ奇襲攻撃を受けて彼はちょっと驚いたように彼女を見返した。

「それは貴女小説ですからね。虚実織り交ぜてごまかすんでさあ」と言いながら顎の無精ひげを撫で上げた。いかつい大きな手で年相応に節くれだっているが、爪はきれいに切りそろえてある。タイプライターを毎日打っているからつめの手入れには気を付けているのだろう。

 

若き女性哲学徒は追及の手を緩めない。「書いているうちにやはり興奮してきますか」と聞いた。老人は感心したように彼女を見返した。「そりゃあ貴女多少は感情移入しなければ迫真の描写は出来ませんからな」

「興奮するとどうなるのですか」と彼女はあくまで追求した。

どうも弱ったなという風に老人は口ごもったが、「下っ腹が張ってきますな」と観念したように白状した。

「下っ腹が張ってくるとどうなるんですか」

 

&老人は付け足した。「だけどもう歳だから出ませんな」

長南さんは憂い顔で三秒ほどぽかんとしていたが、ぽっと頬を染めた。

だけどもう出ませんな&

 

第九は彼女が無邪気なのか、探求心に忠実なだけのかよくわからなかったが、「そんな殺風景な質問はこの辺までにしましょうよ。あなたにもそのうちに分かってきますから」

と仲裁に入ったのである。彼女は不満そうであった。別にカマトトを装っているわけでも無さそうだったが。世の中が進歩すると不思議な女が出てくるものだ。

 

下駄顔はほっとしたように長い吐息をついた。

「それでプラトンは読んでみてどうでした」と第九は助け舟を出した。

「どうもこうも、不愉快になりましたね」

「それは分からないからですか」と橘さんが遠慮なく言った。

「何を買ったんですか」

「短いほうがいいと思ってね。『ハイドン』、『ラケス』、『メノン』だったかな」

「それは初めて読むにしては特殊だ」と橘氏が言った。

「どういうところが不愉快だったんですか」

「解説によるとプラトンの対話篇というのは問答法というらしいが、あれは問答じゃなくて尋問だね。それも非常に卑劣なやりかただ。ちょうど、警察の取調室で刑事や検事が取り調べるときのように、質問するのはソクラテスだけでしかも質問する理由も説明しない。刑事が取調室で被疑者に対して、『質問しているのは俺だ、お前は答えるだけでいい。なぜそんな質問をするのかなどお前に説明する必要がない』とどやしつけているのと同じじゃないですか」

 

「ふむ、言えてるね」と橘さんが言った。

「プラトンの本はみんなあんな書き方なんですか」

「ほとんどはね。しかしそうではないものも若干ある。あなたは『ソクラテスの弁明』とか『饗宴』を最初に読んだほうがよかったかもしれない」

 

43:プラトンにも色々あらあな

 

どうしてだい、と下駄顔が不審顔で橘さんに尋ねた。

「プラトンの対話篇といっても種々ありましてね。あなたのいうように理不尽な尋問形式なのが多いのだが、」というと彼は充血した眼をごしごしとかいた。今日はパチンコで大損をしたらしい。目が血走っている。一時八万円ほどへこんだのをようやく五万円ほど回復したという。へとへとに疲れた様子である。

 

「だいぶ昔に読んだから記憶を呼び戻すのが大変でね」と大きくため息をついた。

「いや、いいんですよ。それじゃ『ソクラテスの弁明』でも買ってみますよ」

なにね、こういうことなんですよ。とかすかな記憶をだとりながら橘さんは話し出した。

「プラトンがお得意の二分法を借用するとね、対話編ではソクラテスが主人公のものと、聞き役というか脇役のものがある」

「尋問をしないのがあるのかい」

「そういうのがある。尋問しないやつをさらに二分すると、ソクラテスが聞き役というか話の引き出し役のものと、彼が一方的な話者か複数の話者の一人の場合だ」

「なんですい、複数の話者というのは」

「さっきあなたに勧めた『饗宴』がそれです。ある酒席で数人が集まり、それぞれエロスについて自説を述べ合う、順番にね」

「デカメロン形式ね」と女主人は納得した。

「そしてお互いに話したことに感想は述べるがしつこく尋問調で追求することはしない。だから叙述の形式としてはあまり抵抗がなく読みやすい」

「なーる。それで為になりますか」

 

「あんまりならないね、みんな他愛のない話だ」というと彼はお冷をぐいとあおった。

「なかにこんな話をしたのがいたな。大昔は人間に手が四本、足が四本あったというのは知っていますか」

「しらねえな」

「ま、そういう話なのさ、それで人間がだんだん増長して生意気になった。それで神様が懲らしめるために人間全部を二つに裂いてしまったのさ。それで今の人間は手が二本で足が二本になった。性器もそれまでは二つ付いていた」

「へええ」

「まだあるんだよ、人間が二つに裂かれる前にも人間には三種類があったというんだね」

「どういうことなんですか。男と女の二種類じゃないんですか」と長南さんは俄然興味をしめした。

「ちがうんだな。昔もオトコオンナというのがいたのさ。雌雄同体というやつだね」

橘さんは冷えてしまったコーヒーを一口飲んで顔をしかめた。

「それでさ、男の四本脚は二つに体を裂かれても昔の半分を求める。つまりゲイだ。女の四本脚は裂かれた前の自分の半身を求める。これがレスビアンだ。雌雄同体の四つ足人間は男部分の女部分に裂かれたからそれぞれ男は女を求め、女は男を求めるわけだ」

「だれがそんな話をしたんです。その登場人物の名前はどうなっているんですか」と女主人がきいた。

「たしかアリストファネスでしたね」と橘氏は答えた。

「あの有名な喜劇作者のですか」

「そのようですね」

 

「それで『ソクラテスの弁明』もそんな話ですか」と下駄顔がきいた。

「いや、またすこし違う。裁判所での陳述という設定だからソクラテスの長いモノローグです。だから読みやすいでしょう」

 

44:電話の相手は?

 

午前7時カーテンを開けると帝都東京の東北の鬼門を護る筑波山は黒々と神々しいまでの姿を雲海に浮かべていた。昨夜吹き荒れた木枯らし一号に掃き清められて関東平野の上空はチリやスモッグひとつな。炊事掃除などの朝の行事を終えた第九は窓の前に据えた机の前に座るとテレビをつけた。別に見たい番組があるわけではない。習慣みたいなものである。民放のワイドショー番組を一巡りしたが興味を惹くような話題もない。その時、電話が鳴りだした。

 

第九は電話が嫌いである。キャンキャンと騒ぎ立てる電話機をしばらく見ていた。出ようか、出るまいか。出ないわけにはいかない。アメリカから妻がチェックを入れてきたのかもしれない。いまどこにいるかしらないが、アメリカは夕方だろう。妻は出張先から電話してきて彼の在宅を確認するのである。特に日本時間の早朝が多い。彼が彼女のいない間に外泊していないかどうか確認するのである。

 

とうとう彼は受話器を取り上げた。「もしもし」と男の声が伝わってきた。しまった、と

受話器を置くとすぐに又ベルがなりだした。十三回ベルが鳴ったところであきらめて受話器を取り上げた。「もしもし、谷崎さんでしょう」と押しつけがましい闘士風の声がした。

第九は一呼吸して態勢を整えると応答した。

「いま、留守なんですが」

相手は男の声にちょっと驚いたようだった。

「留守っているじゃないか」

「私は留守番をしているだけなんです」

「あんたは谷崎さんの何なの。名簿には同居者はいないがな」

偉そうな口を利く横柄な男だ。むかむかしてきた第九は「あなたは誰ですか」と反撃した。

「管理組合理事長の麻生です」と答えた。へえ、そうなのか、この間妻が臨時総会の委任状を出せとうるさく言ってくるとか言ってやりあっていたがこいつなのか。

「ご用件はなんでしょうか」

「日曜日の臨時総会の件ですがね。早く委任状を出してください。もう三回も催促しているんですがね」

第九は受話器を机の上に置くとテレビのリモコンをとりに行って、騒音をまき散らしているワイドショーの電源を切った。戻ってくると、電話が中断したのにイラついたのか「モシモシ」と大声を出して怒鳴っている。

 

「そうですか。それでは伝えておきましょう。臨時総会はいつですか」

「さっき言ったでしょう。今週の日曜日ですよ」

その日はまだ出張中だ。だがそんなことを説明する必要もあるまい。

「委任状は配布しましたが、あるんでしょうね」

「さあ」

「それじゃ、これから届けに行きますから」

「私は部屋にはいないんですよ」

「なんだって、電話に出ているじゃないか。この電話は谷崎さんのだろう」

「そうなんです。私の携帯に転送するようになっているのです。へへへ、ですから来られてもむだですよ。何でしたらメールボックスにでも入れておいてください」

 

電話を切ってから十分ほどしてからドアチャイムがなった。さっきの麻生が確かめに来たのかもしれない。応答しないでいるとドアの取っ手をガチャガチャ揺すった。インターフォンのモニターで覗くとドアの前に三人ほどいた。皆腕章を巻いている。四十くらいのがっちりとした田舎の青年団長風の男が麻生という男だろう。あとは三十歳くらいの弱々しい男が二人付き従っていた。

 

45:長南さん、「ソクラテスの弁明」をけなす

 

第九は小一時間ほど朝の行事をすますモニターで外の様子をチェックした。朝の行事というのは分かっているだろう、顔を洗ったり、髭を剃ったり、頭に櫛をいれたり、各種排出をすませたり、外出用に着替えたりすることである。もう奴らもいなくなっただろうとモニターを見ると無人だ。もっとも廊下の角あたりで待ち伏せしている可能性もある。

 

ドアを開けるとするりと廊下に出た。なるだけ音がしないようにドアを閉めて鍵をかけた。

管理組合の連中にも合わずに外に出た。

街路に出ると昨夜の風で落ちた茶色い枯れ葉が道路を覆っていた。メトロで盛り場に出ると当てもなく初冬の心地よい街をぶらついた。しばらくして歩数計をのぞくと三千歩を稼いでいた。定食屋で早ヒルをすますと大型書店を巡回する。歩数計をみると五千歩だ。

 

ダウンタウンに行ってみると時間が早いせいか、店内は閑散としている。店内には橘さんしか、知り合いの常連はいなかった。彼の前には長南さんがデンと座っている。客が少なくて暇だから客の前に座って話をしているのだろう。彼らのそばの席に腰を下ろすと

「今日はお早いですね」と挨拶した。今日は景品の紙袋もない。今日は午前中でてひどくやられたかな、と思った。それともと思って「今日は仕事はお休みですか」と聞いた。

「いや、もう一仕事しましてね」と彼はニコニコしている。

「新規開店の店に行ってね、いきなり大当たりの連鎖反応ですよ。二時間でノルマ達成でした」

「へえ、お見事ですね」

「あんまり欲をかかないことが大切でね」

第九が不思議そうに彼の周りを見回しているので、「今日は全部現金に変えました。景品にかえると持ちきれないのでね。長南さんになぜチョコレートを持ってこなかったのか、と怒られていたところです」と笑った。

長南さんがあいまいな笑みを浮かべると席を立ちあがりながら「何にしますか」と第九の注文を取った。

「インスタントコーヒーをスプーン山盛り五杯とグラニュー糖20グラムでお願いしましょうか」

 

彼女が注文を通しに配膳カウンターのほうへ行くと橘氏は「彼女とプラトンの『ソクラテスの弁明』の話をしていたんですよ。彼女はソクラテスは有罪で当然だというんです。なかなかユニークな意見でしたよ。あなたは弁明を読んだことがありますか」

「学生時代にね。ソクラテスの弁明を否定してアテネ市民の有罪判決に賛成だというのですか。たしかにユニークな意見だ」

彼女がコーヒーを載せたトレイを運んできてテーブルにセットした。橘さんが言った。

「あなたのさっきの意見を夏目さんにも話してあげなさいよ」

 

46:不敬罪にあたる

 

長南さんは再び第九たちの前にどっかと腰を下ろした。

「こないだの話を聞いて『ソクラテスの弁明』を読んだんですよ」と憂い顔で長南さんは話し始めた。

「どうです、読みやすかったでしょう」と橘さんが探りを入れた。

「そうですね、ずーっとソクラテスが法廷で訴えられた件は無罪です、と話すわけね。今でいえば被告人陳述とでもいうのかしら。当然法廷だから訴えたほうからの弁論もあるはずだけど、それは書いていないわね。ただ、訴追理由は書いてあって」と話し始めてから、二人を見て「あらそんなことは先刻ご存知よね」と言った。

 

「いやいや話の順序としては必要ですよ。たしか訴追理由は二つありましたよね」

「そうですね、それじゃお二人とも先刻ご案内と思いますが、訴追理由の第一がポリス(アテネ)の神を信じないとか、異国の神とかダイモニオンとかいう怪しげなオカルトっぽい存在の指示を信じたとかいうんでしょう」と橘氏に確認した。

「二番目は怪しげな言説で青年たちを堕落させたというので訴えたわけです」

「それで貴女は二つとも有罪と思うんですか」  

「一番目は明らかにそうですね」

「これは手厳しい。どうしてですか」

 

「デルポイの神託の話が出てますよね。それが『ソクラテスより知恵のある人間はいない』というんですね」

「そうそう。それが不敬罪と関係があるんですか」

「そこまではないわけ。喜んでありがたくお告げをお受けしておけばいいものを、ソクラテスは本当かな、と疑ったわけ」と言うと水を一口飲んで喉を潤した。

「しかも、神様の言葉をためしてやれ、というので当時の有力な政治家や有名な詩人の所に押し掛けて行って頓智問答めいたことを仕掛けたんです。そうしたらやはり自分のほうが賢いことが証明されたと法廷で述べています」

「なるほど、たしかに『弁明』で本人が言ってますね」

「これって不敬虔の最たるものでしょう。神を信じず試すなんて」

橘さんが感心したように膝を叩いた。「いやお見事、確かにその通りだ。キリスト教でもいう、神を試すなってね」

「仏教でも言いますよね、仏は思議すべからずってね」と第九。

「それで二番目の告発も有罪ですか」

「青年を堕落させたということですか。これは何とも言えませんね。実情がわからないんだから」

 

第九が口を開いた。「それで第一の訴状に対する量刑についてはどう思いますか。いくら何でも死刑と言うのは重過ぎると思うが」

「ええ、告発はもっともだと思いますが、量刑はちょっとね、実際のところ、裁判で争うことかっていう違和感がありあすけどね」と長南さんは世故に長けたおばさんのようなことを言った。

 

「しかし、なにしろ2600年前の時代だ。ヨーロッパでは中世でも神を信じないというので火あぶりにした宗教裁判もあったし、近代になってからもアメリカでは魔女狩りで沢山の人が刑死している。現代だって、宗教国家では同じことがあるらしいし、独裁国家では指導者の顔写真が載っている新聞をちり紙に使ったというので処刑される国があるそうだから、死刑と言うこともあり得たかもしれないな」と橘さんが述懐した。

 

「それで気が付いたんだが、デルポイの神託のはなしですが、全然違う話もあるようですね」

橘さんがびっくりしたように聞いた。「どんな話です」

「クセノポンの書いた同じ題名の『ソクラテスの弁明』というのが残っているが,神託の内容がまるで違うし、ソクラテスが神託を疑ったという話でもない」

「それでは今度は夏目さんの話を聞きますかな」と橘さんに促された。

 

 

 

 

47:プラトンが信用できない理由

 

店内に野太い老人の声が響いた。下駄顔が店に入ってきて橘たちを見つけて傍に座った。「今日は早いですな」と声をかけた。「今日は早々とノルマを達成したらしいですよ」と第九が教えた。

老人はエスプレッソのダブルを長南さんに頼んだ。

「今ね、この間話していたプラトンの話をしていたんですよ。彼女が読んでね、ソクラテスは有罪だという判断をしたんですよ」

「へえ、どの本ですか」

「ソクラテスの弁明です」

「ああ、この間、あなたが勧めた対話篇ですな。まだ読んでいないな」

長南さんがエスプレッソを運んできた。

「僕にも話を聞かせてよ。今日は客も少なくて暇らしいからここに座ってさ。ママもまだ来ていないみたいだし」

 

下駄顔に勧められて彼女は仏頂面でドスンと腰を下ろした。彼女はいきなり口を大きく開けると長いしなやかそうな指を口の奥深くに突っ込んだ。みんなが度肝を抜かれてみているが、彼女は一向にその視線が気にならないらしい。奥歯に何かが挟まっているのか、それをせせりだそうとするように無心に指を動かしている。

 

やがて口から指を引っこ抜くと人差し指の先端をしげしげと確かめている。テーブルの上から紙ナフキンを取り上げると指先をぞんざいに拭いた。

 

彼女はおんなじ話をするのは面倒だと思っているのだろう。第九はふと思いついて「そういえばね、私も気になることがあってこの間読んだんですよ」

「ソクラテスの弁明ですか」

「ええ、そうなんですがね、ただしクセノポンが書いた同名の本なんですがね」

「誰だって」と老人が驚いたように大きな声を出した。ポンが付いているから麻雀の本と思ったのかもしれない。

「クセノポン」と第九は繰り返した。

「有名な人なのかい」

「割と知られた名前じゃないかな。岩波文庫にもアナバシスという歴史書がある」

「歴史家なんですか」

「そうなんでしょうね。若いころはソクラテスの弟子でその後軍人になって海外遠征をしている。帰国してから何冊か本を書いているらしい。そのなかにソクラテスの弁明と言うプラトンと同名の本がある。私も知らなかったんですけどね。この間橘さんが話されたんで大昔に一度読んだプラトンのほうの『ソクラテスの弁明』を読もうと本棚を探したんですよ。本棚と言う代物でもないけどね。しかしもうない。引っ越しの時に捨ててしまったんでしょうね。それで本屋で探したらある文庫で、岩波じゃないんだが見つけましてね。それで帰って中を見るとプラトンの弁明の後ろにクセノポンの弁明の翻訳もついていた。プラトンに比べる短いものですがね。橘さんはお読みになったでしょう」

 

「さあ、どうだったかな。はっきりと憶えていないな。それでどうなんです。プラトンと較べて」

「例のデルポイの神託の話なんですけど、プラトンと全然違うんですよ」

「そうなの」と長南さんがやや興味を抱いたようであった。

第九は二つの書物の違いを説明した。さっき彼女が言ったように『ソクラテスより知恵のある人間はいない』じゃなくて、ええとと言葉を詰まらせた。「馬鹿に長いんでね、正確には憶えていないが、」

「いいじゃないか、どうせ翻訳なんだから」と橘

それじゃ、と第九は始めた。「こんなかんじだったな、『人間の中でこの私(ソクラテス)より自由な人間もいなければ正しい人間もおらず、節度に満ちた人間もいない、と答えられたのです(神託を取り次いだ巫女が)』。たしかそんなことだった」

「全然違うわね。どうしてこんなことが起こるのかしら」

「さて、そこですよ。私はこんなに違う記録があるのに、プラトンの注釈者が2600年にわたって全然疑義をはさまなかったのが不思議でね」

「それは妙だわな」と下駄顔

「それで私は考えるのですが」と第九は続けた。

 

48:第九の演説

 

謹聴、謹聴。二千六百年ぶりにプラトンの『ソクラテスの弁明』に校正が入ります、と橘さんがはやし立てた。

背筋に定規をあてがわれたように第九は背中をピンと伸ばして緊張気味に話し始めた。

 

「さて、かのソクラテス裁判で彼が陳述したというデルポイの神託のくだりですが、プラトンとクセノポンの記述がまったく違うというところをご指摘させていただきましたが、どちらが正しいのかということを弁じたてます」

「弁じたてます、というのはおかしいぜ。活動写真の弁士みたいだ」といつの間にか来店していた卵あたまの老人が注意した。

下駄顔も「おれも大昔に活動写真を見たことがあるが、令和の御代に久しぶりに聞くとぎょっとするぜ。二十一世紀だろう。申し上げますとかお話ししますと言ったほうがいい」

 

老人たちのいれたチャチャに第九はいささかむっとした顔をしたが、「それでは、その経緯についてわたくしの推測を弁じ、いや申し上げます」

老人たちはパチパチと手を叩いた。橘と長南は興味深そうに耳を傾けている。

 

「最初に結論を申し上げますが、史実としてはプラトンの記述は間違いであります」

第九はコップのお冷を一口飲むとモップで拭うように舌を出して上下の唇を嘗め回した。

 

「まず記述者の違いを申し上げましょう。いうまでもなくプラトンは裁判当時ソクラテスの現役の弟子でした。ソクラテスは七十歳、プラトンは二十八歳でしたから、弟子の下っ端のほうでしたでしょう。勿論裁判には被告側の介添え団の一員として参加しておりましたが、おそらく忙しく立ち働いていてどっかりとソクラテスのそばに座って最初から最後まで一字一句弁明を聞いている余裕はなかったと思われます。また裁判所には多数の人間が蝟集していて、マイクもない時代ですからソクラテスの陳述をもれなく聞き取れたか疑問です。なにしろ裁判員だけでも五百人いたうえに傍聴人はそれ以上いたでしょう。それにソクラテスは法廷での陳述は慣れていなくて初めて法廷で大観衆の前で話すから、声もよく通らなかったと考えるのが妥当です。現代でもすこし学生の人数が多いと大学の授業でも先生はマイクを使います。アテネ中の人が集まる会場で隅々まで演説を響かせることなど職業的な法廷弁論人でもなかなか難しいでしょう」

第九は話を続けた。

「プラトンは師がデルポイの神託の話をしていたことは理解したのでしょうが、どういう風に話したかは聴取していなかったと思われる。しかし、ソクラテスは弟子にデルポイの神託の話はよくしていたと思われる。だからああ、あの話だなと思って平常話していることをそのまま対話篇に入れたと考えられる。

 

しかし、ソクラテスはデルポイの話を違った風に作り替えた可能性がある。おそらくクセノポンの伝えるのが正しい。なぜ話を作り替えたか、それは明瞭ではないでしょうか。長南さんが鋭く指摘したように弟子たちにいつも話しているように語れば不敬罪の大罪に問われる口実を与えることになる。それで即興で話を作り替えた。なにしろソクラテスは神託で『彼以上に知恵のある人間はいない』と言われたのですから、そのくらいのことは察しがつきます」

「弁士中止!!」と大声で連呼したものがいる。橘である。みんながびっくりして彼を見ると「いや、冗談ですよ。いまみたいな話をプラトンの講釈で飯を食っている大学教師の前でしたら、弁士中止と制止されるだろうということです」と無邪気に笑った。

 

第九はほっとしたようで「最後にクセノポン側の情報源を手短に申し上げましょう。裁判当時彼は海外遠征中で、あとでソクラテスと親しかったヘルモゲネスという人から裁判の様子を聞いて、書いている。おそらくこちらの証言のほうがバイアスがかかっていないでしょう」

 

「なるほど、説得力がありますね。しかし、プラトンの作品は歴史書ではなくて創作でしょう。そうすると虚実織り交ぜるのはそんなに大罪になりますかね」

「読む人次第でしょう。読む人が創作と思って読めば問題はないんじゃないの」と長南さんが指摘した。

「法廷戦術としても神様が『彼以上に正しい人はいない』という人を死刑にしていいんですか、ということになるわね。クセノポンの引用が正しいとすると、なかなか考えたセリフと言えるわね」

 

橘さんは改めて憂い顔の美人を感心したように眺めた。

 

49:ソクラテスの作り方

 

「そうすると、ソクラテスは鉄面皮の大ウソつきということになるわね」と長南哲学徒が思案顔で言った。皆びっくりして彼女を見た。

「だって、、プラトンが『弁明』で書いた神託をPとするでしょう、そうしてクセノポンが書いている神託をXとするわね。そうするとソクラテスは大ウソをついているわけでしょう。偽証ですよね。そのうえ、ソクラテスが日ごろ自分の受けた神託はXだと言っていたのは広く世間に流布していたとすると、すぐバレる嘘を平然とつくのは鉄面皮な言動じゃないの」と理路整然と述べたのである。

 

後世に伝わるソクラテス像はプラトンが『制作』したものである。ソクラテスに関する記述はややまとまったものとしては他には先ほどから話題になっているクセノポンの「ソクラテスの思い出」というのがあるがあまり彼の思想を伝えるものではなくて言行録のようなものらしい。ほかには少数の断片が、たとえばディオゲネス・ラエルティオスのものがあるだけである、と橘さんが話した。

 

「それにしてもプラトンがどうしてあんな嘘を書いたのか分からないわね」

「おそらくプラトンが売り出そうとしていたソクラテス像はXではまずかったんでしょうね。どうしてもPでなければならない。プラトンが五十年以上にわたって作り出したソクラテス像の要なんだろうな。つまりPはソクラテスという『イデア』なんだな。どうしてもそう書かなけばならない。現実のソクラテスは『ソクラテスのイデア』の似像だから多少劣化してもしょうがない。しかし書いて後世に残すものは『ソクラテスのイデア』でなけらばならない」

あきらめたように長南さんが呟いた。「ややこしいのね、理解不能だわ。似像だとかソクラテスの制作とか」

橘さんは笑ってプラトンのイデア論は分かりにくい。とくにそれが現実の世界で実現するからくりはもともと無理があるんだよ」

 

「だけどそうして嘘をついてまでPじゃなければいけなかったの」

「Pの肝心なところはソクラテスより知恵のある人間はいないというところでしょう。プラトンの売り出そうとしたソクラテスはいわゆるソフィスト(直訳すれば知者)より知恵がなけらばならない。それを固める傍証としてどうしてもデルポイの神託はPでなければならないのさ」

 

「へえ、よく分からない」

「プラトンがソクラテスを売り出す作戦はソフィストに対する徹底的な差別化戦略だったのさ」

「マーケティングと同じですね。それならよくわかる」と第九が同意した。

「『ソフィスト』というのはプラトンの妄執というか固定観念なんだね。彼の対話篇はほとんどがソフィスト攻撃に貫かれているでしょう」


49:ソクラテスの作り方

2019-12-01 07:52:48 | 破片

「そうすると、ソクラテスは鉄面皮の大ウソつきということになるわね」と長南哲学徒が思案顔で言った。皆びっくりして彼女を見た。

「だって、、プラトンが『弁明』で書いた神託をPとするでしょう、そうしてクセノポンが書いている神託をXとするわね。そうするとソクラテスは大ウソをついているわけでしょう。偽証ですよね。そのうえ、ソクラテスが日ごろ自分の受けた神託はXだと言っていたのは広く世間に流布していたとすると、すぐバレる嘘を平然とつくのは鉄面皮な言動じゃないの」と理路整然と述べたのである。

  後世に伝わるソクラテス像はプラトンが『制作』したものである。ソクラテスに関する記述はややまとまったものとしては他には先ほどから話題になっているクセノポンの「ソクラテスの思い出」というのがあるがあまり彼の思想を伝えるものではなくて言行録のようなものらしい。ほかには少数の断片が、たとえばディオゲネス・ラエルティオスのものがあるだけである、と橘さんが話した。

 「それにしてもプラトンがどうしてあんな嘘を書いたのか分からないわね」

「おそらくプラトンが売り出そうとしていたソクラテス像はXではまずかったんでしょうね。どうしてもPでなければならない。プラトンが五十年以上にわたって作り出したソクラテス像の要なんだろうな。つまりPはソクラテスという『イデア』なんだな。どうしてもそう書かなけばならない。現実のソクラテスは『ソクラテスのイデア』の似像だから多少劣化してもしょうがない。しかし書いて後世に残すものは『ソクラテスのイデア』でなけらばならない」

あきらめたように長南さんが呟いた。「ややこしいのね、理解不能だわ。似像だとかソクラテスの制作とか」

橘さんは笑ってプラトンのイデア論は分かりにくい。とくにそれが現実の世界で実現するからくりはもともと無理があるんだよ」

 「だけどそうして嘘をついてまでPじゃなければいけなかったの」

「Pの肝心なところはソクラテスより知恵のある人間はいないというところでしょう。プラトンの売り出そうとしたソクラテスはいわゆるソフィスト(直訳すれば知者)より知恵がなけらばならない。それを固める傍証としてどうしてもデルポイの神託はPでなければならないのさ」

 「へえ、よく分からない」

「プラトンがソクラテスを売り出す作戦はソフィストに対する徹底的な差別化戦略だったのさ」

「マーケティングと同じですね。それならよくわかる」と第九が同意した。

「『ソフィスト』というのはプラトンの妄執というか固定観念なんだね。彼の対話篇はほとんどがソフィスト攻撃に貫かれているでしょう」