ボヴァリー夫人はエンマというのだが父親は田舎の富農だったので、娘が13歳になると教育を受けさせるためか、躾見習いかしらないけど女子修道院の寄宿舎に入れた、と平島は話した。
「女子修道院というのは修道女を育てるところだろう」
「かならずしもそうではないらしい。十九世紀前半の話だよ。よく知らないが修道女を育成するだけが目的ではなかったらしい。希望者で、勿論資産もある家庭の子女を受け入れて普通の学校みたいなことをしたらしい。勿論メインは宗教教育だろうけど一般的なことも教えたらしい。いわば女子教育が完備していないというか、全くないに等しかった時代に慈善事業みたいにやっていた副業らしいな」
なにしろナポレオンが男子教育は19世紀の初めに力を入れたらしいが、女は考える能力がないから教育等不要だとして女子教育は放置していたらしいんだ、と平島は続けた。
日本だって教育の不備を補ったのは寺小屋といって寺院のボランティア活動みたいな物だったじゃないか。それで彼女もそこですっかりはまってしまったんだな。なにしろ宗教というのは宗派に限らず途方も無いことを吹き込むからな。法悦とか恍惚なんてことを浅いながらもエンマも味わったわけだ。同時に結婚についても理想的なことを吹き込むから、とてつもない期待に胸を膨らました。ところがエンマが結婚したのは平凡な田舎医者だった。
こんな筈じゃない、と彼女は不満だった。ドラッグと同じで法悦中毒は一生直らない。それで手を変えイロを変えた。現実の男性で誠実でかつ恍惚を長い間味あわせてくれるなんて都合のいい相手はいない。中年の遊び人に入れあげるがていよく逃げられる。つぎに年下の学生と出来る。彼女の不倫が大胆になると共に彼女の濫費がひどくなる。それにつけ込んだ悪徳商人の口車に乗って言われるままに手形を書く。
ついに莫大な借金の期限が来る。彼女は学生か見習いの情人に金策を頼むという出来っこないことをする。勿論体よく断られて彼女は村の知り合いで金のありそうな連中に身体を代償に金を工面しようとするが、皆に逃げられて自殺するという話さ。平島は話し終わった。
「だけどさ」と少し酔いが醒めて来たらしい女が口を出した。彼女が結婚生活に不満を持ったのは修道院時代に読んだ恋愛小説の影響だって言うのが定説だよ」
「それは間違いだな、何しろ評論家とか出版社は途方もないほらを吹くからな。たしかに文庫本の帯にはあんたの言ったようなことが書いてあるが完全な間違いだな。文章は短いが全編にわたって最終部分にいたるまで修道院の教育が彼女の欲求不満の原因であると書いてある。本は丁寧に読まなくちゃいけない」
外で馬鹿でかい声でカラスが鳴いた。彼女はびくっとして壁の時計を見た。
「まだ四時まえだよ。カラスも酔っぱらっているのかな」
バーテンが呟いた。「このごろは夜でも街灯なんかで明かりが有るからな。それにもう車も走り出す頃だからライトで照らされることもある」
「鳥が夜は目が見えないというのも嘘だな」と平島が言った。真っ暗じゃ人間だって見えないが、薄明かりなら鳥も自由に飛べる」
女がいった。「そろそろ帰ろうか。もう店もおしまいでしょう」
「ええ、あなた方が帰れば店を閉めます」
見ると和服の女はいつの間にかいなくなっていた。