穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

漱石「明暗」百六十二章まで

2013-11-25 07:18:44 | 書評

明暗は漱石の処女作といえる。第二の処女作で絶筆ということかな。

あまりにもそれまでの作品と違いすぎる。この小説を晩年に漱石が達した「則天去私」の心境を表したものという向きがあるが、あきらかに違う。この説をとるくらいなら、解説の柄谷行人氏のいうドストエフスキー流ポリフォニー説のほうがまだいい。

したがって習作的である。漱石の読書履歴は知らないが、ドストエフスキーを読んでいたことはたしかなようだ。ミョウチキリンな心理深堀り描写はほぼ同時代人のジョイスの手法が念頭にあったのかもしれない。

漱石も欧米の新著を丸善を通していち早く予約して読んでいただろうから(当時の知識人はみなそうだった)、かの地の新事情にも綿密な注意をはらっていたことは間違いない。

ちなみに執筆された大正5年は1916年である。老婆心ながら付け加える。

病気のせいか、後半では描写のつじつまの合わないところが散見される。


漱石「明暗」百四十八章まで

2013-11-24 07:21:05 | 書評

いや長い小説だ。小さな活字で651ページ、相当ありますぜ。長いから得をしたと読者に思わせるような小説ではない、残念ながら。そして終わりにこうある、(未完)。

今回初めて読むということもあろうが、漱石のほかのどの小説とも似ていない。内容も文体も。心理スリラーと言えないこともない。家庭小説ともいえる。ただ女が妙な理屈を延々とこねるのをなぞっているのを読むのは苦痛だ。

小説が長くなった原因は、(長くした要素は、と言ってもいいが)、登場人物が多すぎてまとまりがない。新潮文庫の解説者はドストエフスキーのポリフォニーというが全然的外れだろう。単に登場人物が多いだけだ。柿谷氏の解説はBC級だろう。

ただ、ドストエフスキーの名前は出てくる。これには驚いた。登場人物で小林という無産階級を代表するような意見をいう男の口からドストの名前が出てくる。漱石も少しは読んでいたと思われる。

小説を長くしている原因はほかに、ほのめかし、とじらし、の手法を多用していることである。漫漫然とほのめかしとじらしでつないでいくからまとまりを感じさせない。

文学評論史上では漱石を「余裕派」というらしいが、この小説は時代の風潮に漱石が作品を合わせようとしたといえるのではなかろうか。

前にも書いたが漱石の職業が「新聞小説作家」という枠を嵌められていた限界を示しているといえよう。

さて、あと200ページ、心理スリラーかどうか見てみよう。



若いうちは本を読んではいけない

2013-11-21 20:12:23 | 書評

つくづくそう思う。年をとってから本を読む楽しみがなくなってしまう。それで恥ずかしながら漱石の明暗今更の初読書評であります。

200ページほど、三分の一くらいか、例によって新潮文庫で読んでいる。何を言いたいのか、よくわからない小説だな、という印象。ようするに豆腐みたいな歯触りというのかな。

それと、文章のスタイルが著しくこれまでと違うような気がする。そうほかの小説も精読をしたわけでもなく、大部分は数十年前に読んだ記憶だが、存外こういう印象というのは確かなものでね。

なんというか、人によっては翻訳みたいというだろう。長い文章が多い。日本語にはない関係代名詞で延々と文章を伸ばしていくといったらいいのかな。しかし、感心するのは言っていることは抵抗なく理解できて記憶に蓄積されていく。これは技術というか才能だろう。

日本人のたいていがこの調子でやるとわけのわからない文章になるが、さすがは漱石である。それにほかの彼の小説ではこういう文章はなかったような気がするのだ。

翻訳の場合でも日本語に上手に訳せる人が少ない。一番いい例が岩波文庫のドイツの哲学書の翻訳で、同業者からケチをつけられまいと逐語的にまったく構造の違う言語を翻訳するから理解不能、意味不明の文章になる。

そういう異質な構文をつかって(つまり日本語的構造と全く違う)文章を作り、読者の頭に直ちに浸み込ませるという漱石の工夫はすごい。

言語的な工夫以外に人物の出し入れの流動性とか、イベントの生起のなだらかさでもうまいな、と感じさせる。つまり技術的にかなり進歩した印象である。これが絶筆となったのはおしまれる。