ロスマクの本を二、三冊まとめて買ったので捨てるまえに「象牙色の嘲笑」というのを読んだ。72ページ。読まずに捨てるのがおしいというさもしい理由だ。
ところがこれは初期の作品らしく、ハードボイルド風なのだ。そして結構出来がいい。チャンドラーをまねたのか、依頼人がゴジラみたいな女だ。すぐに死体が転がるのもハードボイル風だ。
叙述におかしなところもあるが、まあまあだ。ただ題名は彼の通弊で気取っていてどういう意味だか分からない。
ロスマクの本を二、三冊まとめて買ったので捨てるまえに「象牙色の嘲笑」というのを読んだ。72ページ。読まずに捨てるのがおしいというさもしい理由だ。
ところがこれは初期の作品らしく、ハードボイルド風なのだ。そして結構出来がいい。チャンドラーをまねたのか、依頼人がゴジラみたいな女だ。すぐに死体が転がるのもハードボイル風だ。
叙述におかしなところもあるが、まあまあだ。ただ題名は彼の通弊で気取っていてどういう意味だか分からない。
絶筆宣言とは穏やかでないが(自分で書いてびっくりしているが)、ロスマグ(これはロスマクと略するのがただしいのかな)今途中まで、書いた彼の書評を中止するというだけのことだ。どうも、どうみても、書評する価値がない。
どこかのあとがきで村上春樹が好意的ともみられるコメントをしていたというのがあり、本屋で確認したが、村上の若書きならぬ若読み時代の感想で高い評価をしているのを確認して実に意外であった。しかし、どうも首肯できない。(象工場のハッピーエンド)
すくなくともハードボイルドの範疇には入らない。しいて言えば社会派の小説かな。少なくとも小説としての叙述の程度は低い。
なおハードボイルドをプライベートアイを中心とする犯罪ジャンルにまで、まげに曲げるならチャンドラー、ハメットとおなじかもね
どうも隙間時間に読むものがないと落ち着かないので目下佐々木譲著「警官の血」上巻を177ページほど。昭和二十三年の警官大募集から始まる。
治安情勢の紹介と新人警官の体験をまあ、そつなく書いている。大体私の知識の枠を出ない。よくフォローしているといえると思う。ところが、今読んでいるところで日本の警官が45口径の拳銃を支給されたとある。もちろん体躯頑健な警察官でも45口径は日本人には扱いにくく、使うのに躊躇するという記述がある。ジョン・ウェインの西部劇やみっきー・スピレーンの主人公マイク・ハマーにはふさわしいが、日本人には扱いにくいだろう。
もちろん占領軍(アメリカのことね)のお古の支給品であろうが、たしかに不釣り合いである。そのうえ、私が石原慎太郎の書いたものを読んだ記憶では日本警察に下げ渡されたのは38口径か32口径だったと思う。32口径ぐらいが警官にあうのではないか。28口径というと、あるいは25口径というと売春婦が護身用、トラブル対策で持つものだし、32口径ぐらいならサーベルの代わりになる。ちなみに東条英機が自殺用に使ったのはたしか25口径らしい(東条逮捕に向かった米軍兵士はこれを見て笑ったという)。
この小説では45口径と明記してあるが根拠があるのだろうか、疑問を感じた。なお、この小説であるが、いまのところ、記述は平板で山はない。
大分前だがこのブログで書いたことがある。ある書評家が日本のハードボイルド作家のリストを作ったのだが、それを読んでびっくりしたことがある。確か志賀直哉とかなんとか一般作家(きれいな言葉でいうと純文学作家というのだろうが)の名前が延々としてリストされていた。それでその私の(びっくり印象)をブログに書き散らかしたことがあった。
その後、どこかで村上春樹が藤沢周平の「消えた女」をハードボイルドとして絶賛していた文章を読んだ。古いことで記憶が正確ではないかもしれない。ま、そう憶えている。ハルキ様がそんなことは言ったことがないよ、と抗議されれば、ごめんなさいであるが。
先日、自転車にぶつけられないで一日一万歩運動を目指して大型書店を五周していた。この頃は「長時間店内にとどまることはやめてください」なんて張り紙が出ている書店がある。まさか俺のことじゃないと思うのだが。試読ベンチでパンを食ったり、長時間粘るホームレスみたいな人とか、おじいさんが長い昼寝をしているのを見かけるのでそういう人に注意しているのだろうと思う。ひょっとすると俺のことなのかもしれない。
まったく日本の町では自転車にぶつけられないで漫歩できる道は皆無である。こんなことでオリンピックなんか開催していいのかね。
さて、文庫のシマで該書消えた女を見た。頭書したような記憶が蘇ったのだろう。引っこ抜いて長部日出夫氏の解説を眺めた。これはハードボイルドの傑作であるらしい。書評家のドッコイショは信用しない俺だが、ちょうど読む本がなくなっていたので贖った。
家に帰った読んでみた。最初の十数ページは丁寧に書いているな、という印象だった。しかし読み進めると何というのかな、同じことの繰り返し、というか波がない。メリハリがない。小場面は勿論沢山あるのだが、そして場面も違う、登場人物(主人公を別にして)、いろいろ出てくるが印象としては全部おなじトーンなんだな。ある意味では楽をして書き流しているという感じだ。もっともほかのようには書けないのかもしれないが。
時代物の捕り物帳なんだろうが、深川の町を舞台にしている。それは良いんだが、町の名前がうんざりするほど続く。考証物としては何時の時代なのかな、というのが書いていない。作者はおそらく江戸切絵図に頼っているのだろが、そうすると幕末か江戸後半期かな。徳川幕府は三百年続いたんだからね。隅田川の対岸の深川は新開地であったわけで三百年の間には開発が進んで大きく変化しているはずだ。その辺は時代が分かるような工夫がほしかった。
もう一度解説を読んでみたが、かなりひどいものだ。日本ではハードボイルドというと、なにやらありがたい印象を与えるらしく、一種の誉め言葉として無批判に使われている。民主主義とか戦後民主主義と言う言葉が幼稚な作家、文化人に無批判に葵の御紋として使われているようなものだ。
ハードボイルドと言われているものはあくまでもアメリカの一時代に咲いたローカルなジャンルである。もっとも、これは俺の考えだ。言葉と言うものは使っている本人が**だと強弁すれば、それで通用するところがあるからね。
日本では仁侠映画をハードボイルドと言うことがあるが、笑止千万である。あんなにウェットな世界はない。義理人情の世界だろう。やくざと言う特殊社会の義理人情だから一般の義理人情とは違うが。同様に「消えた女」も私の見るところウェットきわまる小説である。
外出自粛、本でも読むかと思ったが食指が動く対象もない。久しぶりに書評めいたものを書くか、という次第である。
サイエンス・フィクションなる分野がある。あまり読まないがそれでも百冊以上はよんでいるかもしれない。例外なく「砂を噛むような読後印象」しかない。内容を覚えているものはない。もっとも、和書は読んだことはないから翻訳物のことである。翻訳がまづいのか、原文がつまらないのか分からない。
この間早川で「書架の探偵」ジーン・ウルフというのを読んだ。途中までだが。それで気が付いたんだが、SFというものは最初の仕掛けが非現実的というか幻想的というか未来的なんだね。びっくりして、それじゃ小説で書くと登場人物はどう動くのか、どうなるんだ、と買ってみる。
そうすると、そういう未来的な仕掛けの中で動く人物は当今の人間と行動様式も考え方も使命感も同じなんだね。なんだ、これは、と思うわけ。金を返せ、とね。
それも紙芝居的、小学校低学年向きの作文だから最後まで読めるわけがない。つまり現代と同じ人間が紙芝居をやっているわけだ。読むに堪えない。
私が読んだなかでは、これもSFのジャンルらしいが、ハックスレーの「すばらしき新世界」が唯一内容もサイエンス・フィクション的で未来的であった。つまり外面的なこけおどしのギミックだけではなくて、人間のOSまで様変わりして書いてあるから成程と思わせる。
これはSFではないが、人間のOS(内面、あるいは行動規範)まで変わった世界を見事に描いたものにカミュの異邦人第一部がある。ちょっと、断っておくがカミュというとカフカがおまけでついてくるが、カフカは外面、つまり世界のOSが違ってくる(壊れていると現代人は考える)世界をえがく。これはこれで工夫があるから最後まで読める。
純文学(おどろおどろしい言葉だから一般小説家としよう)の分野ではノーベル賞作家のカズオ・イシグロの「私を離さないで」はクローンを画いてSF的なところがある。さすがに並みのSFのような紙芝居の域は脱しているが、どうも迫力不足に感じる。
ようやっと読み終わった。(知識ひけららし)の無意味な引用言及がなくなったと前回書いたが、記述者の引用が少なくなったかわりに登場人物の発言内容(会話)に?マークのつく知ったかぶりが増えただけだった。ま、読飛ばせばそんなに気にならないのは著者の文徳?であろうか。日本の現代作家がやると猛烈な臭気を放つ悪癖であるが。
さて、心理的プロファイル(同義反復かな、プロファイルというのは心理的な物だから、私までヴァン・ダイン流キザがうつったらしい)だが、天文学者、数学者、理論物理学者は日頃扱っている対象が巨大あるいは微細だから、人の命なんか、なんとも思わなくなる、というプロファイルである。乱暴と言えば乱暴だが、世の数学者諸君は怒るかな。
それで、著名なそのような学者が半ダースほど登場する。フィロ・ヴァンスには連続殺人事件の犯人はその内のひとりと最初から分かっている。それが「なにがなにして、なんとやら」段々分かってくる。というか犯人候補者が次々と殺されて対象が絞られてくる。最後に二人ほどになったところで、どんでん、どんでん、と二回ほど作法通りにドンデン返しがある。楽しめますぜ。
動機は至って陳腐な嫉妬(娘を取られる嫉妬、後進に学問的に追い越される恐怖嫉妬)ということで、いささか拍子抜け。これって書いちゃうと中学生がいうネタバレにあたるのかな。
これだけ底が割れても一応読めるのが文才であり、古典の徳であろう。
火と戯れる女(下)ハヤカワ文庫401ページ。
出撃する彼女が二つの拳銃から選ぶところがあります。ここに出ているコルト1911ガバメントは45口径。クリントイーストウッドがド田舎の淫売宿兼営のバーでよくぶっ放す大砲です。
サランデルが小女であることがキャラの売りです。身長150センチ、体重40キロ。また彼女はボクシングのジムに通っていたことがありますが、蚊のようなパンチであったことが書いてあります。パンチと握力は直接関係しませんが、相関は強いでしょう。それに拳銃の反動をコントロールするには上腕の筋力も重要ですから彼女には扱えるはずか無い。
彼女は結局ポーランド製のp-83を持っていく。之は口径9ミリ、たしか38口径に相当する。ヨーロッパはミリで表現するわけですね。口径が7.85でも相当強力でたしかナチス陸軍の制式拳銃にもありました。45口径よりは小さいがとても彼女が扱えるはずがない。
この作家はハッカー情報にもうんちくを披露していますが、こんなところを読むとこの方面の知識もインチキではないかと思います。
探偵小説を書こうと思ったことがあってね。古い言い方かな、推理小説とかミステリというのだろうが。なにしろ銃を撃ったことがない、いや、あったかな。記憶がはっきりしなくてね。記憶が片っ端から蒸発するわけ。だからメモを書くようになったわけだ。ブログにアップするのも同じ理由。
そんでね、(つまり探偵小説を書くものの常識として)銃のことを書いてあるものを注意して読んでいたことがある。
女が持つファッショナブルな拳銃は22口径か25口径という相場らしい。一名売春婦の拳銃と言われる。要するに婦人の携帯する拳銃だ。その上と言うと32口径だが、これは立派に業務用になる(つまり警察官も携行する)実用品だ。すこし非力ではあるが。
普通は洋の東西を問わず38口径というのが相場らしい。適当な威力もあるし、携行しやすく扱いやすい。45口径と言うのはその道の人間にとってもかなりはみだしたものらしい。だからリザベット・サランデルには扱えない。
もう探偵小説を書いて儲けようという気もなくなったから、全部教えるが、22口径はか弱い女性用であると同時にプロの殺し屋が愛用する定番らしい。
一発で適切に仕留めるには威力の小さい銃ほど達成感があるらしい。もっともプロの22口径拳銃は火薬の多い薬莢を使い、銃身も長いものらしい。
プロの意識をくすぐると同時に小さいことのメリットもある。まず音が小さい。豆鉄砲のような音しか出ない。だから犯行が気づかれにくい。マンションのドアの外には音がもれない。
分解して携行するのに、隠しやすく、見つかりにくい。殺し屋向きだろう。
大砲をぶっ放したような音のする45口径などプロの美意識に反するわけだ。
それとプロはオートマチックを使用しない。薬莢が飛び散るからだ。大藪晴彦と言う作家がいたが、これがいつもオートマチックなんだね。それでやたらに弾をばらまく。そんでもって、仕事が終わると地面に這いつくばって落ちた薬莢を拾いまくる。暗闇の土手の雑草の中でもモク拾いみたいにやる。
これが大藪氏にはイキに見えるらしくて、彼の小説にはかならず薬莢拾いの場面が長々と出る。銃に関して美意識なんてあるものかどうか知らないが、大藪晴彦はとんでもない田舎ペイと言える。
以上おわり。これだけタダで教えちゃうとミステリー作家としては食っていけなくなるな。
上巻終りのほうに三つの(三人の)射殺事件が出てくる。凶器はマグナム45。45口径の拳銃を使う女の殺人者を好んだのはミッキー・スピレーンだった。大口径45口径の反動の大きい銃は女には扱いにくい。その常識(銃になじんだアメリカの読者には常識だろう)を逆手にとったわけだ。
スピレーンは前のほうで、女にしては手の大きな、とか握手をするとその圧力に驚いた、などの伏線を張っている(いわゆるフェアプレーの原則ね)。
サランデルは150センチ、40キロの女と言う設定だ。この身体に対して掌が以上に発達していると言う記述は、これまで(ドラゴンタトゥーの女を含めて)出てこない。
一体にラーソンは明らかにおかしく、伏線でつじつまを合わせておくべきところも平気で無視して話をすすめるところがほかにもある。それでも並みの読者には抵抗感なく読ませる筆力もあるのは事実ではあるが。
しかもこの部分は警察官と言う専門家も登場させているのだから、この問題に警察がなんの分析をしていないのは非常識である。
この小説の三人の射殺事件は叙述から見ると極めて正確な射撃である(室内の至近距離からの発砲であるにしても)。あきらかにサランデルには出来ない設定だ。
でまだ上巻しか読んでいないが、犯人はサランデルではない、となるのだろうが、それまでの間にこういう射撃はサランデルには不可能であるということは即座に明確になる筈なのに口をつぐんで話を引っ張るラーソンはこすからいと言われてもしょうがない。
さて、ラーソンの「ミレニアム2」上巻(ハヤカワ文庫)だ。中間印象も百ページくらいは読んでからとおもったが、どうも退屈。いま50ページ読んだところだ。非常にダル、だれるね。
どうしてかと思ったんだが、ミレニアム2は20パーセントかた、嵩を増やしている(ページ数を)。それで水っぽくなっているのが一つだろう。
それと50ページまで、もっと続くようだが三人称だが、サランデル視点なのがいけないのだろう。
リスベットはロボコップじゃない、ロボット・リサーチャーだ。前にいったように。SFだよ。彼女は眺められる存在で彼女の視点で語るのでは面白さ、魅力が台無しになるせいじゃないかな。
うまくまとめたね。リスベット・サランデルがうまく作れてる。サランデルはサラマンダーのアナグラムかとおもったが、字足らずかな。次も読まなきゃ。
不可能なことがないハッカーという設定なんだが、そんなことはあり得ない話だ。しかし、あいたい((相対)の話だからね。ハッキングというのは。相手が抜けてれば完勝だ。この仮定が成立しないとうまくいかない。
それと解像度10000 X 10000の目(カメラアイ)ね。そういう意味ではSFとも言える。