穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

墓掘り職人と井戸掘り職人

2016-04-10 18:27:11 | フッサール

ハイデッゲル教授はフッサール先生の弟子としてキャリアをスタートしたらしい。メルローポンティ氏はフッサールの没後弟子でスタートしたらしい。

しかし、視線の先はまったく異なる様に思われる。フッサール氏は灯台守である。ハイデッゲル氏は墓掘り職人である。メルローポンティ氏は井戸掘り職人である。

比喩的な意味だがフッサール氏の関心が地下にむかっているようには見えない。遥か視線の先に何かを発見しようとしているようにみえる。

ハイデッガー氏の最大の目標は存在の開示であって、彼はそれをたしか「覆いを取る」とか表現していた。彼の父親はドイツ寒村の寺男であったそうだ。そんなところから彼の表現が出て来たのかも知れない。それほど地表を深く削るというイメージがわかない。

メルローポンティー氏はどこまでも深く大地(存在の異称)を掘り下げる。目標はない。井戸を掘り下げること自体が趣味なのである。メルトダウンした原子炉が何処までも地中に潜って行く様に。

あたっているかな。


フッサール哲学の骨組み

2016-04-08 07:35:18 | フッサール

1:簡単に言えば「デカルトとカントに倣いて」ということであろう。

「編者の緒論」より

抜粋1;当時のフッサールは徹底してカントに取り組んでいたので云々

抜粋2;1906年9月25日のフッサールのメモ(本書刊行の前年)

・  ・わたしは・・自分で解決しなければならない普遍的な課題をあげておく。理性の批判がそれだ。論理的理性と実践的理性、そして価値判断理性の批判だ。云々 抜粋おわり

カントの三批判書とおなじ枠組みである。デカルトについては至る所で「明証性」を述べているから引用するまでもない。 

2:主観と客観との関係;

素朴実在論の範疇に入るのではないか。「現象学の理念」78頁に「事物の超越性が、云々」とある。客観が主観を超越しているということだろう。カントなら客観から超越して「超越論的(アプリオリ)な主観の枠組みがある」という所だから主客の視点が逆転している。しかし川の西岸からみれば東岸は彼岸(超越している)であるが東岸から見れば西岸は超越しているわけだから問題はなかろう。いずれにせよ懐疑主義ではないようである。

3:主観から客観へのアクセシビリティ:

カント 物自体の把握は不可能、

フッサール (直感による現象学的還元を経て)アクセス可能と言っている様にもとれる(判然としない)、悟りのようなものかな。何れにしてもヨガ体操のようなアクロバッティックな主観の努力でチラ見(覗き見)は出来ると希望を持たせる書き方である。

4:主観と客観との関係については、その他に客観側からの一方的な恩恵的アクセスが可能とする立場がある。啓示、恩寵(シェリングなど)

また主観と客観を強引にアマルガメイトするヘーゲルのようなやり方もある。

いずれにせよ、フッサールの書き方は曖昧である。大体フッサールには体系があるのかな。

ハイデガーは絶えざる問いかけ(祈祷)により存在が開示されることがあるとしている。

 


フッサール教授の「感情符号論」論難

2016-04-07 08:49:40 | フッサール

「現象学の理念」92頁に感情符号論という言葉がある。これって何ですか、訳者殿。初心者のために注を付けて欲しかった。

 ロックやヒュームの言葉ですかね。どうも19−20世紀の交わりの頃に盛んだった心理主義的論理学の言葉と推測しますが。2+2が5ではなくて4であるという明証性は感情に裏打ちされているということらしい(確かではありません)。

フッサール教授は例によってこの説を罵倒しているわけでありますが。

話は変わりますが、長谷川氏の後書きによると、この本のキモは講義3と講義4らしい。講義4と講義5はどうも舌足らずだという。前述の「感情符号論」は講義4に出て来ます。

たしかに、どうにか我慢して読んでいたが、講義4で「もういいや」という気持ちになりました。講義5まで読むかどうか。この連載もやめるかもしれません。

その前にフッサール教授の「超越的」という言葉の使いかたについて次回ふれたいと思います。どうも逆の意味に使っているらしいのです。もっとも、「超越的」という言葉はカテゴリーで言えば『相互関係』ですから、観点を移せば反対に使っても一向にかまわない訳ですが。



間口二間のフッサール教授商店

2016-04-06 08:28:47 | フッサール

哲学というシマを守ろうとする砦としては倫理学とか世界観とかいうのがある。通常そこへ逃げ込む哲学者が多いが、フッサール教授は認識論一本やりらしい。というのも彼の他の本を読んでいないので。しかしフッサールの簡単な評伝を読むと現象学のことしかでていない。現象論的倫理学というのがあるのかもしれない。

フッサール商店の間口は非常に狭い。認識論しか売っていない。そのかわり奥行きは次の道路まで続くほど長いのだろう。京都の商店のように。

応用なんて俗っぽい表現を使ってはいけないのかもしれない。倫理学への応用なんて。それはともかく、俗人には認識論というからには他の学問の基礎のように思われる。つまり諸学の基礎ね。

弟子は師匠に似るという。「現象学の理念」の前に『編者の緒論』というのがついている。師匠のスタイルによく似ている。他人を非難する文章は明快だが、自分の思想になると途端に曖昧になる。本人は「明快に」といっているが。

それはさておき、現象学と諸学(特に科学)との関係について注目すべき文章があった。頁x「客観的学問の十全ならざる欠陥をおぎなうのは、その学問の、その学問だけに固有の、仕事なのだ。」分かりました、先生。

しかしね、と物わかりの悪い小生はいう。本文中にフッサール教授は「的中」という高尚な現象学とは不似合いな俗っぽい言葉を頻発する。馬券みたいだ。ロト6みたいだ。現象学的還元で到達した主観的意識が客観的事実或は法則を的中させるということの様に読める。つまりフッサールが目の敵にしたであろう、「論理実証主義」やウィトゲンシュタインのいう検証(された真理値)と同じと受け取ったが間違いかな。

 


フッサール教授の文章が明晰な場合

2016-04-05 09:15:13 | フッサール

相手を攻撃する場合、相手の主張を否定する場合の文章は分かりやすい。その意見に同調する(フッサール氏の意見に)しないに関わらずその文章は明快である。

ところが自分の主張を述べている所は非常に分かりにくい。前回武道の免許皆伝状みたいだと書いた。要するに「以下口伝」となるわけである。ちょっと錬金術の本みたいだな、という印象を持った。かれはユダヤ人だからカバラの秘術書かな。

カルテジアンの明証性がフッサールの導きの糸なのだろうが、階段を一段あがると早くも秘教めいてくる。現象学的還元でたどり着いた教説に問答無用の明証性があるかどうかは「現象学の理念」に実例がないから分からない。

内観といったかな、外界を一切遮断(エポケー)して自己の内部を見ろというのは、なんか宗教みたいだな。そんなことが出来るのだろうか。外界との相互交渉の経験によって大人になって行った人間が無垢の幼児のように(意識だけは成熟した大人のような十全の意識のある幼児の様に)なれるものであろうか。まさに手品であり、魔術であり、悟りでも開かなければ到底実現出来そうもない。

座禅による悟りみたいだ。

それとハッキリとしないのは、現象学的還元によってたどり着いた境地になんの意味があるのか。学として『全知識学の基礎』を確立して第一哲学の面目を現代に果たし得たというのだろうか。そして「自然の学」すべてを見返すということか。

現象学という学問は「現象として」属人性が強い。つまり現象学を名乗る学者が百人いれば百の現象学があるという現状である。なんだっけ、共主観性だったかな、苦しくなると色々と隙間を埋める造語をするが、も一向に効果がないようである。

 

 

 


「フッサール教授という現象』について

2016-04-04 08:09:13 | フッサール

哲学というシマ(縄張りともいう)の変遷について考えてみたい。

古代(ギリシャ時代)は自然科学という劃然とした縄張りも無かったし、すべてが哲学みたいなもので縄張り争いもなかった。 

キリスト教中世では哲学は神学のしもべであった。いきおい哲学はキリスト教を支える作業を合理的、論理的な方面で受け持った。遠慮して形而上学に深入りしなかったぶんだけ、その研究は精緻になった。命題の研究とか、言語分析に類する分野が発達した。

いわゆる20世紀の分析哲学なるものが、前世紀の後半から中世哲学に注目し、スコラ文献の発掘に努力するようになったのは当然の成り行きである。

近世は自然科学の萌芽期である。哲学も中世キリスト教のくびきを脱した。これは18世紀の中頃まで続く。デカルト、ライプニッツの頃までは哲学者は自然科学者でもあった(要するに彼らは自然哲学者であった)。

18世紀後半がアクメであったカントも自然科学者としての業績もある(星雲に関するカント・ラプラス説など)。

19世紀になると、自然科学が目覚ましい発達を遂げて自然科学は専門家の分野となり、かつ領域が細分化されてくる。つまり哲学プロパーの縄張りは侵されてくる。彼らは認識論という分野で縄張りを守ろうとして反撃に出る。新カント学派など。あるいはカントが物自体として隔離した研究分野に独断論で踏み込む。ヘーゲルがその一つの頂点である。

キルケゴールやニーチェは必死になって、科学が踏み込めない領域があるんだよ、と工夫する。つまり哲学者は自分の存在理由を探し求めたわけである。 

フッサール教授も認識論に活路を求めた一人である。ただし、心理学、論理学あるいは自然科学から誘導される認識論はとらない、取れない訳である。あくまでも哲学の優位を維持するためには。それでひねり出した工夫が現象学と彼らが称している物である。

「現象学の理念」でくどい様に繰り返されるのは「自然的な学問」(自然科学のことだろう)とはまったく異なるものとして現象学的方法を唱導している。いわく、現象学的還元、現象学的認識、内観、コギトエルゴスム。

ところで問題なのは、この有り難い現象学的還元(これは考え方というよりは技法だと思われるが)についてひとことも書いていない。武道の奥義書のようで「以下口伝」ということらしい。つまりそれを知りたければ私の講義に出なさい、そして私の研究室に来なさいということだろう。それにしてはハイデガーはあまりフッサール臭がないな。彼はフッサールの弟子なんでしょう。

 


らっきょうの皮をむくフッサール教授

2016-04-03 09:25:17 | フッサール

折に触れて当ブログの方針を記して来たが、繰り返す。

この書評で取り上げるのは、小説ならばよく読まれているもの、要するによく売れているもので取り上げる理由はなぜ売れるのかという疑問に促されたものである。たとえば村上春樹、ドストエフスキーとか芥川賞作家などである。もっとも、昔読んで気に入ったものの再説もあれば、たまたま書店でピックアップして面白いと思ったものもときにあるが、わずかである。

哲学書であれば定番というか一定の島を持っているもの、小説とは違いマーケットのサイズはぐっと小さくなるが相対的な意味で勢力のあるものである。取り上げる理由は小説と同じで何故業界で(哲学教師や哲学学生の間で)人気があるのかという疑問に促された物である。カントやヘーゲルなどのように。もちろん大体ということで、マイナーでも興味を引かれた書物もときに混じる。

今回はエドムント・フッサール教授の「現象学の理念」である。現象学というのは解説書を読むと妙ちきりんな訳語が出て来て読むに耐えないが、先日書店でみたらこの本の帯にこうあった。

「現象学とは何か。現代思想に絶大な影響を与えるその要諦をフッサール自身が解き明かす必読の入門書。待望の新訳」とある。訳者は長谷川宏氏である。

特に気に入ったのは「フッサール自身が」というのと「必読の入門書」というところであった。大きな活字で130頁足らずだし手頃と思った。ところが毎頁タネになるところがあってこれも連載物になりそうだ。

現象学的還元というのは猿がらっきょうの皮をむいていくような印象ですね。ヘーゲルなら無限退行とか悪無限というところだろう。スコラ哲学やライプニッツなら第一原因とか究極の本質というか、こう言うのは普通神様にたどり着くのだが。デモクリトスならアトムというか。

例によって現在進行形の書評である。現在のポジションは講義1のあたりです。