穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

引っこ抜かれた消えた女

2020-11-30 06:59:16 | ミステリー書評

 大分前だがこのブログで書いたことがある。ある書評家が日本のハードボイルド作家のリストを作ったのだが、それを読んでびっくりしたことがある。確か志賀直哉とかなんとか一般作家(きれいな言葉でいうと純文学作家というのだろうが)の名前が延々としてリストされていた。それでその私の(びっくり印象)をブログに書き散らかしたことがあった。

 その後、どこかで村上春樹が藤沢周平の「消えた女」をハードボイルドとして絶賛していた文章を読んだ。古いことで記憶が正確ではないかもしれない。ま、そう憶えている。ハルキ様がそんなことは言ったことがないよ、と抗議されれば、ごめんなさいであるが。

 先日、自転車にぶつけられないで一日一万歩運動を目指して大型書店を五周していた。この頃は「長時間店内にとどまることはやめてください」なんて張り紙が出ている書店がある。まさか俺のことじゃないと思うのだが。試読ベンチでパンを食ったり、長時間粘るホームレスみたいな人とか、おじいさんが長い昼寝をしているのを見かけるのでそういう人に注意しているのだろうと思う。ひょっとすると俺のことなのかもしれない。

 まったく日本の町では自転車にぶつけられないで漫歩できる道は皆無である。こんなことでオリンピックなんか開催していいのかね。

 さて、文庫のシマで該書消えた女を見た。頭書したような記憶が蘇ったのだろう。引っこ抜いて長部日出夫氏の解説を眺めた。これはハードボイルドの傑作であるらしい。書評家のドッコイショは信用しない俺だが、ちょうど読む本がなくなっていたので贖った。

 家に帰った読んでみた。最初の十数ページは丁寧に書いているな、という印象だった。しかし読み進めると何というのかな、同じことの繰り返し、というか波がない。メリハリがない。小場面は勿論沢山あるのだが、そして場面も違う、登場人物(主人公を別にして)、いろいろ出てくるが印象としては全部おなじトーンなんだな。ある意味では楽をして書き流しているという感じだ。もっともほかのようには書けないのかもしれないが。

 時代物の捕り物帳なんだろうが、深川の町を舞台にしている。それは良いんだが、町の名前がうんざりするほど続く。考証物としては何時の時代なのかな、というのが書いていない。作者はおそらく江戸切絵図に頼っているのだろが、そうすると幕末か江戸後半期かな。徳川幕府は三百年続いたんだからね。隅田川の対岸の深川は新開地であったわけで三百年の間には開発が進んで大きく変化しているはずだ。その辺は時代が分かるような工夫がほしかった。

 もう一度解説を読んでみたが、かなりひどいものだ。日本ではハードボイルドというと、なにやらありがたい印象を与えるらしく、一種の誉め言葉として無批判に使われている。民主主義とか戦後民主主義と言う言葉が幼稚な作家、文化人に無批判に葵の御紋として使われているようなものだ。

 ハードボイルドと言われているものはあくまでもアメリカの一時代に咲いたローカルなジャンルである。もっとも、これは俺の考えだ。言葉と言うものは使っている本人が**だと強弁すれば、それで通用するところがあるからね。

 日本では仁侠映画をハードボイルドと言うことがあるが、笑止千万である。あんなにウェットな世界はない。義理人情の世界だろう。やくざと言う特殊社会の義理人情だから一般の義理人情とは違うが。同様に「消えた女」も私の見るところウェットきわまる小説である。

 

 


155:閉店のお知らせ

2020-11-25 08:19:57 | 破片

 第九がスタッグカフェ「ダウンタウン」の前に行くと店の周りには囲いの板が張り巡らせあった。

『当店は11月23日をもって閉店いたしました。長年のご愛顧を感謝します。店主』

と貼り紙がしてある。そうか、コロナで客がほとんど来なくなっていたからな、とうとう持ちこたえられなくなったのか、と第九は思った。最近は客と言っても我々アウトサイダー的なはぐれものしか見かけなかったものな、無理もないと言える。かといって女店主が店の方針を変えてテイクアウトの弁当屋に変身することは考えられない。オーナーは逆にいい潮時と思ったのかもしれないな。彼女は前から辞めたいと言っていたが、従業員のことを考えると踏んぎれないと言っていた。コロナ騒ぎで客が全然来なくなれば、みんな納得するだろう。

 ここを市中徘徊の途中停泊地としていた第九は、ほかの連中はどうしたのだろうと、ほとんど連日この店にたむろしていた、およそ令和の御代から浮き上がっていた連中のことを考えた。下駄顔、エッグヘッド、クルーケースの男、パチプロの立花とは此処の店で会うだけで、別に連絡先の交換をしたわけではない。

 実は第九には今日はすこし魂胆があったのであるが、あてが外れてしまった。立花が来ていればパチプロに弟子入りしようかと思っていたのである。洋美との主夫雇用契約の破棄通告を受けていたのである。来年一月十五日に契約更改日なのだが、二か月前通告の規定に基づき洋美から契約を更新しないことを言い渡されていたのである。これもコロナの波及効果なのだが、彼女の仕事がほとんどテレワークになってしまい、四六時中マンションで仕事をするようになって、第九の存在がうっとおしくなったらしいのだ。

 それで別に生計の道を探さなければならなくなった。競馬を始めようかと思ったが、いろいろ調べて人に聞いてみると競馬はうまい連中でも好調不調の波が激しいらしい。とても安定的な収入は得られそうもない。それに投入する資金もかなり必要らしい。趣味としてやるなら問題ないが、それで生活しようとするなら相当な資金が必要なようだ。とてもお呼びではない。

 それに比べればパチンコは毎回の資金がさしていらないらしい。パチプロと言う人種がいること、それに立花の話を聞くとかなり安定的なリターンがあるらしい。それで彼の意見を聞くつもりでいたのである。しょうがない、と彼はエスカレーターで一階に降りると外に出た。乾いた銀杏の落ち葉が急に吹き出した風に動かされて、妙に人を脅かすような音を立ててコンクリートの路面を擦りながら走る。秋風も身に染みるようになった。路上を歩きながら背広の前をかき合わせた。ポケットのなかで今日立花に見せようと持ってきた納戸でまとめた「ハイデガー・メモ」がさついた。

 「破片」1ー155完

 


154:ストリッパーとしてのハイデガー 

2020-11-17 08:23:07 | 破片

 ハイデガーはストリッパーである。Stripteaserではない。剥ぐ人である。

 若きユダヤ人女子学生ハンナ・アーレントも剥いでしまった。もちろん彼はそんな言葉を使わない。彼の言葉で言えば、伏蔵性から不伏蔵性にもたらすのである。あるいは存在を現前にもたらす、あるいは現わすのである。開蔵である。覆いを取るのである。ギリシャ語でいえばポイエーシスである。ポイエーシスはテクネーつまり技術である。

 剥ぐやり方は三つある。一つは技術であり、アレテー(真理)である。つまり、現代の技術に限ってだが、あるいは現代の技術に特徴的だが、自然科学の発見、知見を利用する。

 また、芸術家も剥ぐ人である。存在の神秘と「驚異」をこちらへともたらす人種である。存在の神秘と「脅威」をもたらすのはラヴクラウトである。

 第三番目は自然(ピュシュス)である。種から植物が成長して花を現前にもたらす。

 さて、彼は論文の最後で技術の危機を芸術が救うと書いている。彼はヘルダーリンの詩を引用する。

「しかし、危険のあるところ

救うものもまた育つ」

 残念ながら、どうやって、ということは書いていない。ヘルダーリンが言うのだから間違いないだろうと言うのである。

 この講演のテーマは「技術時代の芸術」という。したがって技術と芸術を哲学的三題噺で纏めたかったのだが、舌足らずの尻切れトンボになっている。この講演ではノーベル賞受賞者で量子力学の第一人者ハイゼンベルグも講演している。哲学者も講演したのである。もちろん各種芸術家の名を連ねているのであろう。

 


153:三(承前):ハイデガー技術論の先見性?

2020-11-14 13:31:36 | 破片

「技術とは何か」という講演論文は定義明示なし、前提明示なし無し、テーマの明確化なし、順序無しの叙述で解説するとなると逐語逐条解説となる。原文の何倍もの分量が必要となる。したがって逐条的な批評はできない。思いつくままにコチラも書いている。

 まず対象は何か、からいこう。そんなの決まっているじゃないか、技術だろうというかもしれないが、これも読んでいて、はっきりとしてこない。大分読み進んだところでこれは現代技術を論じているらしいと分かってくる。いやさ、電力開発や農業の何というのかな、大規模化と言うか、産業化というか、そんなことにも触れているから近代以降、近代後期あたりからの産業技術が対象らしいと見当をつけた。

 とすると、古代から現代までの技術一般を論じているものではない。もっとも古代哲学を頻繁に援用してはいるが。対象としては論じていない。普通何か論じる時で対象が歴史的地理的に広大な場合は対象を明示するのが作法だと思うがね。

 ハイデガーは「対象」と「対象の本質」は違うという。ご親切に。そんなことは分かっていますよ。そんなことを話しているのではない。此の講演は1953年に行われたそうだ。小生がどこかで1950年と言ったかもしれない。そうだったら1953年と訂正します。

 ある種、哲学と言うより、時事的な問題意識の濃い文章である。したがって、第二次大戦で出現した原子爆弾、原子力技術が関心の対象である。まだ原子力の平和利用などと言う考え方が一般的ではなかった時代である。あと二つのハイデガーの関心は電力産業であり、はっきりと同定していないが、現代的な産業化した農業問題らしいのだ。

 いすれも細分化した工程を組み合わせて大規模な産業化を図る、ようするに現代の大企業かかかわる産業の「哲学的」描写といったらよかろう。

 お得意の造語で用象というのがある。対象ではないのだ。膨大な工程に分かれた産業で各工程での半製品の受け渡しの段取りで材料の分量の見当をつけて事前に過不足なく計画生産し配置するモノを用象というのだ。要するに工程工程でみつもる在庫のことである。ヨウショウと新語を使わないとハイデガーは気が済まないのである。これは企投と同じだね。英語で言えばプロジェクションだ。

 ようするに、 現在のアマゾンの倉庫にはける見込みで取り揃えている書籍の在庫は、在庫でもなく、対象でもなく、H氏によれば「用象」なのである、といえば分かりやすいかな。

 現代産業の企業規模はほおっておけば恐竜と同じでどんどん際限なく大きくなる。極大化が習性である、放っておけばだが。したがって原料である資源の収奪に血道をあげる。ほおっておけば、と言うのは法規制の網をかけない限りということである。あるいは住民の反対運動で頓挫しなければ、ということだ。ようするに自然資源の収奪的な利用と言うこと。それをハイデガーは「総狩り立て体制」と粋がって訛るのだ。

 収奪的利用は環境破壊、環境汚染、地球温暖化をもたらすが、その時代(1953年)にはそんな社会問題はなかった。先見性を誇る(一部ハイデガー哲学の追随者が持ち上げる)ハイデガーもこの問題は触れていない。あくまでも、新聞記事フォローの時評にとどまる。

 この論文に結論はない。もともと最初から順を追って読む必要もない。最後の二、三ページを最初に読むほうがいいのかもしれない。

 次回は最後から逆さ読みをしてみよう。

 


152:第九のハイデガー技術論についてのメモ 二

2020-11-12 08:20:51 | 破片

 解説によると「技術への問い」講演は第二次大戦後H(ハイデガー)の復権第一号らしい。長い間ナチス党員であったハイデガーはドイツ崩壊後パージにあっていた。パージは何と言ったかな、公職追放だったかな。日本でも戦時中、国家主義の唱道者たちは公職追放で教職などにしばらくつけなかった。ハイデガーも大学から追放されていたが、公職追放が解けてから大学に復帰した。

 この講演は大成功で終了後大拍手だったらしい。これでH氏は復権復帰を果たしたという。これが分からない。文章でおこしてみると、かなり厄介なしろものである。それが素人が多かったであろう講演会で大成功したというのは、どういうことか。

 表現者、学者も芸術家と同じで一種の言葉による表現者であるが、これにはいろいろなタイプがある。書かれた文章に巧みな、大向こうをうならせるタイプ、小説家なんか、そうだ。それとしゃべくりに魔法的な伝播力のあるタイプ、つまり不特定多数相手の巧みなもの。大学の教師なら講義で学生に人気のあるタイプ。座談が極めて得意なもの。もちろん二つ、三つのタイプを兼ね備えた人物もある。

 吉田茂は国会の演説などはお粗末であって、あまり演説が得意ではなかった東条英機よりひどかったというが、座談は極めて魅力的であったという。これでマッカーサーなどを丸め込んだ。外交官には座談が得意な人がおおいらしい。仕事柄だね。さてハイデガーはどのタイプでしょうか。

 


151:ハイデガーは陽狂か聖痴愚か

2020-11-09 08:07:45 | 破片

  ユングの書簡集にこうある。

「複雑な凡庸さの巨人、ハイデガーの方法は徹頭徹尾、神経症的で突き詰めれば気難しさと心の不安定さから出てきたものだ。、、、、、哲学はいまだ精神病質者を根絶できないでいる。云々」

 さて、わたくしはここまで断言するのを躊躇する。私の疑問は彼は陽狂を装っているのか、それとも聖痴愚、なのかである。若い読者にはなじみのない言葉かもしれないので若干説明すると、

 「陽狂」とはわざと狂人のふりをすることである。「陽狂自ら快となす」という言葉がある。着違いのふりをして人が気持ち悪がったり怖がったりするのを見て楽しむというか面白がるという意味である。陽には人偏に羊と言う字も使う。PCで変換できないので陽のほうを使った。

 「聖痴愚」というのは頭のおかしい人のほうが神に近いというほどの意味である。ドストエフスキーのハクチ(変換できないね、もっとも白とやってから痴呆とやればできるがそんな面倒くさいことはしない。説明の文章のほうが長くなったが、初めてなので注記した次第)に出てくるムイシキン侯爵がその例である。

 さて、どちらでしょう。私は決めかねている。もっともこの二択設問そのものが間違っているのかもしれない。

 ところで、読者におことわり、と第九は書いた。「技術とは何だろうか」を講談社学術文庫で途中まで読んだが、先日書店で別の翻訳を見つけた。平凡社ライブラリーである。見るとこのほうが読みやすい。いや目にやさしい。活字が大きいし文字の間のスペースもある。それで早速こちらのほうで読んでいます。

 まだ途中だが彼には鬼面人を驚かす造語が多い。よく読んでみると95パーセントは造語をひねり出す必要がない。別の普通の言葉で表現できるのに不自然な造語をひねり出す。やめられないんだね。彼が頻発する意味のない、正当化できない語源遊びと同じだ。

 

 


150:立花は本命狙いで運を呼び込んだ

2020-11-07 09:59:42 | 破片

 第九がスタッグカフェ「ダウンタウン」に行くと立花はもう来ていてCCを相手に競馬の自慢をしていた。

「本命狙いに変えてからあたりが続いてね」

CCが羨ましそうに聞いている。「立花さんは穴狙いだったんじゃないですか」

「そうなんだ、大穴用のシステムを開発してね。時々百万馬券を当てた。しかし、どうも折り返しが長いんだよ。長期的な収支ではトントンになるんだが」

「それはそうでしょう、大穴狙いで毎週的中していたら大変なことになりますよ」

「年をとるとせっかちになるんだろうな。どうも大穴狙いのマチが待てなくなった」

「それで本命狙いに変えた?」

「そうなんだ」

「しかし、本命狙いと言うのは難しいな。僕もそれでやったけど、あれでなかなか的中しない。かすることは多いんですけどね。本命になる馬はそれなりに根拠があるから掲示板には載るけど毎回勝つまでは難しい。それが中央競馬会の狙いだなのろうけど。本当に競馬というシステムはよくできていますよ。本命狙いがバシバシ的中しだしたら競馬の開催は不可能になる」

「だからさ、今俺が好調なのも全くの運という可能性がある。そのうちに当たらなくなるかもしれない。そうしたらやめるさ、その見極めが難しい」

「そうですね、そこの判断の正確さが競馬巧者と普通のファンとの違いですよね」

 入ってきた第九を見て、立花は自分の席の横にスペースを作った。「どうです、専業主夫は、コロナで失業することはないんでしょう」

「ええそれはね、しかし一年契約ですから先はどうなるかわかりません」

「ははは、それで今度の契約更新日は何時なんですか」

「来年の一月十五日です。ところで例のハイデガーの技術論ですけどね」と言いながら彼はショルダーバッグを肩から外して、中からプリント数枚をとりだして立花に渡した。

「内容がイロモノじゃないからみんなに話しても興味がないでしょうから、気が付い点をメモしました。お暇なときにでも読んでください」

「それは、それは」と立花は受け取るとざっと目を通した。「なるほど、あとでじっくりと読ましてもらいましょう」

 三篇の講演記録のうち、『物』と『建てること、住むこと、考えること』は前回までに書いたから、読者には『技術とは何だろか』についての第九のメモを示そう。

 精神分析学初期の双峰の一人であるユンクはハイデガーをサイコパスであると診断している。さすればハイデガーを理解するためには彼を開頭して、頭の中身を調べなければならない、と第九のメモは始まっている。

 


149:ハイデガーの家相学

2020-11-05 07:18:31 | 破片

承前:この『建てること、住むこと、考えること』では主語が二つある。『橋』がその一つ。二つ目は「建物」である。ハイデガーは箸が、もとへ、橋が好きである。人それぞれである。『井戸』が好きで好きでたまらない人がいる。彼は橋が大好きなのだ。

 以下では僭越ながら橋は建物を代表しているとして建物を主語として記述を進める。橋を主語にするのはなんとなくしっくり来ないのでね。ここでも例の四方界、つまり天空、大地、神的な者たち、死すべき者たち(人間)が主役である。

『死すべき者たちが存在するのは、住んでいるからです』。てえと、住んでいるから存在しているわけだ。死んだら住んでいないから存在しないのかな。もっとも、民俗学によると未開民族の間では親族が死んでも同じ家に住み続けていると考えることもあるらしい。先進ドイツ民族ではどうなのだろう。そういうことなのだろうか。哲学的に、宗教的にはどうなのかな。ハイデガーは人間は死をよくするものだという。動物は生を終わるだけだという。わざわざ区別しているところを見ると彼は霊魂不滅説なのかな。明言していなかったように記憶するが。

 さて、四方界との関係であるが、

『死すべき者たちが存在するのは、大地を救う限りです』。ここで長々と救うとはこういう意味だと長々と講釈しているが省略する。

『死すべき者たちが住むのは、天空を天空として受け入れるかぎりにおいてです』

『死すべき者たちが住むのは、神的なものたちを神的な者たちとして待ち望むかぎりにおいてです』

つまり

『大地を救い、天空を受け入れ、神的な者たちを待ち望み、死すべき者たちに連れ添うという形で、住むことは、四方界を四重の仕方で労わる出来事としておのずから本有化されます』

以上がハイデガーの家相学である。第九の解釈は付け加えない。付け加えようがないではないか。

 ハイデガーはまだ言い足りなかったらしく、『家は(原文では橋は)、四方界に宿り場を許容するという、まさにそのような仕方で四方界を取り集めるからです』

『建物は(ここでは主語は建物になっている)は四方界を安全にしまっておくのです。建物とは、建物なりの仕方で四方界を労わる物なのです』

 技術はそういう建物を現前的にもたらす、生み出すものなのです(第九の意訳、文庫本88ページ)。第九の気が付いた範囲では技術に触れているのはこの二、三行のみである。当たり前のことが書いてある。

 

 


148:ハイデガーの語源遊びの幼児性(致命的欠陥)

2020-11-03 10:11:10 | 破片

 どういうわけか、新しいマンションでは半熟がうまく作れない。今朝も洋美が半熟をスプーンでひっぱたいて開頭したら、どろどろの白身があふれ出して彼女の指を濡らし洋服の前を汚してしまった。たちまち彼女は罵声を上げはじめた。前日には中身が完全に固ゆで状態になって、彼女の機嫌を損ねてしまった。タワーマンションの矮小キッチンで彼が開発した半熟卵の作成方法は下町の低層マンションでは通用しないらしい。どうも物理定数が違うようなのだ。これも一種の相対性原理なのだろう。いつものことだが、彼女の罵声は三十分は続く。ようやく出勤したあとは部屋は耳が痛くなるほど静まり返った。彼はハイデガーの本を持って納戸スペースに籠った。

 ダウンタウンで立花に約束した第二講演の「建てること、住むこと、考えること」を読み始めた。早速語源遊びのオンパレイドだ。この講演はドイツ建築家協会のシンポジウムで行われたものだそうだ。だから「建てること」がハイデガーのテーマになっているわけである。

 さて、この論文も語源遊びのオンパレードである。彼曰く「何らかの事象の本質について言い渡しが私たちにもたらせるのは、言葉のほうからです」。なるほど、語源遊びにも立派な理由があるわけである。しかし、彼お得意の現象学的アプローチではないが、言葉は使われていた状況と言うか環境とペアで把握しなければならない。ハイデガーにはその点が全く欠落している。致命的欠陥と言わざるを得ない。

 この論文で古高ドイツ語では住むことはどどまること、滞在することであるという。ま、留まると滞在するとは現在でも同じ意味だけどね。一体、このココウ(と読むんだろうな)ドイツ語と言うのはいつ頃(何世紀ごろ)どの地方で使われていて、この言葉を使っていた種族の生活様式はどうだったのか。

 つまり、農耕定住時代なのか、狩猟採取状態で定住地などなかったのか、あるいは遊牧生活であったのか、この場合も住むというのは定住するということではなく、一時的にとどまるということである。現代?でもテントを担いで移動を繰り返しているモンゴル族とか、北極圏の住民のような生活をしていたのか。それぞれによって住むという言葉そのものがあったのかも疑問である。移動の途中で一時的にとどまることはすなわち、強弁すれば『住む』ことであろう。それを現代にもってきても全く意味がない。

 そのすぐ後に古語ブアンと言うのが出てくる。なんじゃらほい。これらの言語によると『建てるということは、根源的に、住むという意味なのです』。現代風にいえば、住む*ため*に、という意味ナノデス。

 ゲルマニアの深い森を彷徨い狩猟採取生活をする集団の言葉から「哲学的意味」を蒸留することは全く意味がない。『住むことの本質がどれほど広範な射程を有しているかを告げています』

 そうでしょうとも、第一言葉と言うか、語彙そのものが未開異民族にあっては貧弱でしょうからね。現代でも幼児言葉をみればわかります。幼児は一つの言葉で大抵のことを表しています。ハイデガーが本質的な探究をするのにどうして幼児言葉に注意を向けなかったか不思議で

 ここまで書いて第九は読み返した。ちとやりすぎたかな、とも感じたが、まあいい、とつぶやいたのである。昼飯を食いに出る前に一つあげておかないとね。

 

 

 

 

 

 


147:エサをねだる美少女

2020-11-02 08:20:43 | 破片

 アタイにも餌がほしいな、と憂い顔の美女がイライラしたように呟いた。一座はシーンとなって彼女を見た。「精神に食わせるエサのことよ」と彼女は付け足して一同のげすな勘繰りをやんわりと払拭したのである。彼女はよわい二十歳にして精神的な飢餓を感じているらしい。

 そうだな、と立花は考え込んだ。彼は親身になって彼女の悩みを癒してあげようと努力していた。

「なんでもいいのよ、だれでもいいのよ」と彼女はじれったそうに発したのである。

二十世紀の哲学界の天一坊といえばウィトゲンシュタインだが、ああいうのは嫌いかい?と聞いた。

彼女はびっくりしたように立花を見た。

「読んだことがあるかい」

「ううん、無いわ」

「それじゃ彼の論理哲学論考と遊んでみなさい。すぐ飽きるかもしれないけどね」

「日本語で読むの」

「うん、そうだな」

「なんか訳者が沢山いるんじゃないの。誰のがいいの」

立花は困ったような表情をした。「さあてね、俺もよく知らないんだが、適当に選んだら。文庫本でも、わんさとあるだろうよ」

「英語も読んだほうがいいかしら。あれって英語よね。ドイツ語は読めないな。それとも題名からするとラテン語で書いてあるのかな」

「英語でいいんだよ。いま一番流布しているは英語版だ。最初はドイツ語で書いたんだが、すぐに英語版が出た。何回か改定したらしいが、現在は英語版が手に入りやすいだろう」

「ラテン語じゃなかったのね」

「ラテン語は題名だけだよ。ウィトゲンシュタインはラテン語だと格好良いと思ったらしい」

 ところで、と話題を転じて立花は第九に問うた。「さっきのあなたの講釈では技術の話が出ていなかったようだが、本のタイトルは『技術とはな何だろうか』と言うんだろう」

「そうですね、三つの講演記録が収録されていてね、『物』、これはさっきおはなししたものです。それから『建てること、住むこと、考えること』そして最後に『技術とは何だろうか』というんですけどね、たしかに『物』には技術の話は出てきませんね。あとの二つに出てくるのかな、少なくとも最後のはタイトルが『技術とは何だろうか』だから、何らかの言及はあるのでしょうね」

「それじゃ、そっちのほうも解説してよ」

「そうですね、次回にでも」