この本の惹句は、出版業界、哲学界をとおして、日本で初めての「西欧哲学」の本格的な本である、という。期待して読んだが、どこに西田幾多郎の独創があるのか発見できなかった。
Wジェイムスおよび先行の心理学者や哲学者についてはかなり引用されているから、彼の発想が奈辺からきているかはわかる。内容を読むと、ジェイムスとほぼ同時代のフランスのベルクソンの影響も相当(決定的に)あるようだが、ベルクソンの名前は一度も出てこない。もっとも西田には別に「フランスの哲学」というエッセイがあって、昔からベルクソンは読んでいたとあるが。
そこで、この本の第一編と第二編であるが、西田独自の思想がどこにあるのか曖昧である。すべてジェイムス、ベルクソンの二家の見解を持ってきたように読める。所々でヘーゲルや古代インドのウパニシャッドの『アートマン=ブラフマン』思想を述べている。それは間違いではない。
勿論、この本は西田のデビュー作であり(単行本としては)、その後、多数の論文や著書を発表しているから、そちらのほうに独創的な哲学があるのかもしれない。しかし『善の研究』には彼独自の思想がどこにあるのか、分からなかった。
それと、失礼ながら記述はうまくない。先行の哲学者の考えを祖述しながら叙述に滑らかさがない。ジェームスやベルクソンを読んでいる人には分かるだろうが、初めて読む人に抵抗なく読めるだろうか。唐突に、とびとびに、いきなり結論が出てくるところが多い。そうして繰り返しが多い。繰り返しは否定しないが、それはさらに読者の理解を深めるための工夫でなければならないが、相変らず唐突に命題だけが飛び出してくる。
西田幾多郎は三木清の師匠であったから、三木清が書く文章には師匠をほめちぎっているが何となく不自然である。三木は文章家でジャーナリスティックなセンスのある文章を書く人だけに妙な気がした。