穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

最後まで読みましたぜ太宰治の『津軽』

2012-04-30 19:14:41 | 太宰治書評

残り百ページ読みました。後半はいいね。下手な戯文調はなくなる。二、三段は調子があがったようだ。文章もだらしなさが無くなった。

後半から、実家の家族、親戚、乳母の話が出てくる。

気になるのは、数えてみないが、百回は無いが、それ近く『之から先は国防上の理由があるから詳しく書けない』テイの文章がある。余計なことだ。入れなければすむことだろう。こんな挿入を無数に繰り返すのは見苦しい。読み苦しい。あの辺はそんなに重要な要塞とか軍事施設があったのかね。

なぜ、執拗に同じ文章を入れたか。ま、暇つぶしに考えてみたが、

A・軍部におべっかを使っている。

B・検閲でうるさいのを皮肉っている。

Bはあり得ないだろう。そういうつもりなら検閲に引っ掛かっている。この作品は昭和19年刊行。

Aと考えるのが妥当だろう。何も書かずにながすのがスマートなんだけどね。太宰は戦時中非常に多作で、発表の機会も潤沢に与えられたようだ。

本来あの年齢(36歳)なら昭和19年ごろなら召集されているのに、せっせと小説を書いている。

戦時下で小説出版などへの用紙割り当てや配給は非常に厳しい統制が敷かれていたはず。あれだけ、あの時期多くの作品を発表出来たのは軍部におべっかをつかっていて軍部の覚えがめでたかったと考えられる。


太宰治『津軽』の家族の臭み

2012-04-28 21:52:10 | 太宰治書評

小説仕立ての半自伝という評価らしいが、家族の匂いと言うものがまったくない。遊び友たちの使用人の息子とか学校の友達との再会の話ばかりだ。おわりに乳母との再会が用意してあるらしい。それだけらしいね。

以下断片的箇条書き的に記すが、

津軽の大地主だというが、そういう雰囲気がまったくない。もっとも彼は階級の逆コンプレックスからプロレタリア文学に接近したそうで、意識的に地主の家庭の匂いを消しているのかもしれない。しかし、自伝ならそんな工夫をする必要もないのではないか。

高校時代まで青森にいたと言うのも奇異な感じだ。大体、こういう家庭だと早ければ子供の時から、おそくても中学校くらいで東京などに居住して学校に行くだろう。10番目の子供と言うが、家庭の内情に関係があるのか、肝心のところの説得力ある描写がこれからあるのか。

つまりこの作品は、額面通りの旅行記であって、自伝小説ではない。旅行記に小説味をつけたものということだろう。

つまり家庭のことは語られなかったのだ。彼の言うように家庭を描くことが至難であったのか。はたまた、それは意図的に隠蔽されたのか。

普通郷里の旅行記を書くなら、そして協力者を求めるなら家族や実家の人たちだろうに、小説の中での随伴者は妙な顔ぶれである。


太宰治『津軽』の絶賛にはまいりました

2012-04-28 21:10:47 | 太宰治書評

どうみても中学生の作文にしかみえないんだけどね。新潮文庫の亀井勝一郎の評価がすごい。そうすると、おいらの文章観賞力がゆがんでいるのかと心配になって、岩波文庫の解説を立ち読みした。長部日出男とかいう人だ。知らない人だ。もっともオイラは関連業界の人間ではないから、ほとんど業界人の名前はしらないのだが。

ところが、彼も大絶賛、まいった。おれの感覚がおかしいらしいね。

ところで長部さんの解説で小説の中で「紫色の着物を着こなすのは女でも難しい」とあるのを、男で、ここまで女の心理を理解する作家は絶無であるというようなことを言っている。しっかりしてくださいよ、そのくらいのことは分かる人には分かるし、第一人の色彩のセンスはまちまちだからこう断定するほうがおかしいのかもしれないが。

いずれにしても、長部さんは偉い文芸評論家なんだろうが、この下りはどう考えても珍妙だ。

二人の解説に共通しているのは、この作品は人間失格や斜陽とことなるタイプであるというものだ。この点は納得。そしてこの作品を代表作、最高傑作と言っていたかな、と判定していることだ。オイラもむかし、斜陽とか読んだ時にはほとんど印象感銘を受けず、内容もまったく記憶に残っていない。津軽は恥ずかしながら初読であるが、読み終わったら忘れてしまいそうだから、甲乙つけがたいとはいえる。

岩波、新潮文庫の両解説者は太宰の文章を名文であると言う。これもちょっと首をひねりたくなる。

じゃ何故買って読むのかと反論されそうだが、オビにつられたのかな。家族の陰鬱な関係が描かれているとか。どういう風に、と興味を持ったと言うことだ。もっとも100ページまでだと出てこない。

ただ、ある箇所で、どんな作家でも家族のことを書くのが一番難しい、というくだりがある。予告編かな。もっともあらすじ(インターネット情報)や解説で後半の内容も大体把握出来るが、ほとんど実のある描写は期待できないようである。

そういえば最近、得意の本屋の立ち読みで、予備校教師の出口とか言う人の書いたもので、太宰治に名文を学ぶとかいう題の本があった。へえ、と思ったが、今思い出した。

こうなると、けなすのは怖くなるね。

次号は家系と言うか家庭について。


太宰治『津軽』書評、注および解説編

2012-04-28 19:39:04 | 太宰治書評

当ブログの書評は注とか解説がついている場合は、それにも及ぶのでご了承ください。

さて、新潮文庫で読んでるんだが、まだ100ページ当たりまでしか読んでいない。注に長屋てのがある。まず長屋にまで注がつくのかなという驚きと言うか、呆れたというか。

注をつけないとなんのことか若い読者にはわからないんだろうね。オイラも長屋に入ったことは無いんだ。だけど確固としたイメージは当然のようにあったから妙な気がするんだろうな。

自分は長屋に住んだこともないし、御用聞きで長屋を覗いたこともないし、長屋に友達を訪ねたこともない。長屋は平屋に限るかどうかしらないが、もう平屋はなかったな。

長屋と言うのは辞書にはないのかな。辞書で分からない事項に注は限ったほうがいいんじゃないか。なんか妙だよ。

続く


太宰治『津軽』

2012-04-28 14:58:18 | 太宰治書評

当ブログの書評カテゴリーを見て対象の雑多なことに驚かれるであろう。活字依存症なのと、適当な読書指導者がいないのだ。

さて、津軽、を読んで丸谷才一の文章読本を思い出した。その心は東北人がおどけた文章を書こうと落語をまねたところだ。

田舎者には落語をまねることが難しい。昔は言葉に訛りがあると言うので田舎者は弟子に取らなかったということは知られている。今は落語と言っても田舎者の真打ちもいるし、活字になっているから田舎の人もまねたくなるんだろうが。

訛りの問題よりも何よりも、エスプリ、この言葉も死語だろうが、が生得のものでないと妙に聞こえるだけだ。

ま、簡単に言えば都市最下層民の意地っ張りのやせ我慢と批判精神、反骨精神ということだろうが、これはまねられない。やせ我慢というところが特に大事だ。

太宰治は旧制高校卒業まで青森にいたのだから田舎漢(デンシャカン)といって差し支えあるまい。田舎の人がまねるなら浪花節がいい。講談もいい。もっとも太宰は高校時代女義太夫のお師匠さんの所に稽古をつけてもらいにいっていたそうだ。津軽、に書いてある。

津軽、には他にも意外だった点があるが、以下次号。


芥川賞の退廃きわまれり:おまけ

2012-04-26 23:40:31 | 芥川賞および直木賞

芥川賞の候補は雑誌掲載や単行本で発行されたものから選ぶそうだ、とこの前書いたが、改めて彼らの経歴をいくつかあたってみると、皆、何かの新人賞みたいなものを既にもらっているわけだ。

だから芥川賞よりグレードが下がる(そういう謂い方がいいかどうかは知らないが)何らかの賞をめでたく通過した人たちだ。こういう賞の選考も、作家志望のなれの果て、編集者の落後者でワンサカいる下読み連中の気に入らないと浮かんでこないということらしい。

選考方法は大体同じらしい。下読み君がいいよといったものを下読みのボスが3,5作に絞って選考委員にあげると言うスタイルは芥川賞と同じらしい。てことはだね、深田先生が「碌な作品がない、退廃極まれり」というのは下読みが選んだ作品にはということだ。

下読みがはじいた、理解できなかった、下読み体質に合わなかった作品にとんでもない良い作品があるかもしれませんよ。


芥川賞の退廃きわまれり

2012-04-26 20:35:51 | 芥川賞および直木賞

今月の月刊誌WILLに作家深田佑介氏の表題の文章がある。私もこのブログで今年の芥川賞の二人の書評を昨年に続いて書いた。

別に深田氏のようにその退廃を悲憤慷慨するほどの気力はないが、今年の芥川賞二人については書いたとおり、書評を身を入れて書く食指が動くような代物ではなかったな。

退廃と言うから昔はすこしはましだったのだろうか。あまり読んだことがないのだが、大昔のことはいざ知らず大体似たようなものではないかな、とも想像するのだ。

とにかく、最近読んだものの大部分はたしかに深田氏のいうようにひどい。しかし、まめに昔から多数の候補作を読んできたわけではないから絶対的な評価と言うか、時系列的な比較はできない。

その原因というか責任はどこにあるか、と問うわけだ。深田氏はこんな現状では審査員なんかやっているほうがおかしいと言う。石原慎太郎氏の辞任は当然、だという。

作品が悪いのか、選考委員がわるいのか、はたまた選考過程が悪いのか、それには彼は触れていない。

小沢一郎裁判と同じでオイラは(私から急にいい慣れたオイラになる。以下おなじ)、証拠を持っているわけではない。

いろんなケースが考えられる。可能性だよ。断定しているわけではない。

選考委員が悪いと言うことも考えてみる必要があろう。しかし、選考委員が読むのはせいぜい編集者や下読みが読んで推薦した4,5編を眺めるだけだと言う。そうすると、第一次か二次かしらないが、石原慎太郎クラスの選考委員まで行く前に、彼らがいいものがあっても拾い上げなかったら屑ばかり、選考委員はあてがわれるわけだ。

選考委員はこの業界で生きていくしがらみもある。義理もある。人情もある。利害にからむ思惑もあろう。適当にカンカンガクガク(ワード変換不能) して入れ札をすることになるのであろうよ。

聞くところによると、下読み連中の場合はもっとひどいようだ。ブローカーかフィクサーみたいな古だぬきがにらみを利かしていて、徒党を組んで八百長をするらしい。芥川賞や直木賞のように一応活字になったものを選考対象とする場合はそれでもある程度歯止めがかかるが、エンタメ系の新人賞などひどいものらしい。


哲学者の人気

2012-04-01 06:46:10 | 書評

哲学と言う業界においても人気と実力が不当な間違った等式で結ばれている例が多い。ハイデガーもその口だな。

業界は違うがジムクンド・フロイトに似ている。インチキ心理学で一世紀以上にわたり世界を席巻した精神分析の創始者だ。哲学者のなかにも大真面目でフロイトを論じるバカもいる。

前回までにハイデガーとヘーゲルの引用の仕方の違いを述べた。自分の権威を飾るため、やたらと引用を援用することは述べた。盗用したところ、換骨奪胎したところでは逆にまったく引用或いは先哲へのアクノレッジはしない。

ハイデガーの思想の相当部分はすでに他の哲学者が語ったことが多い。ただみょうちきりんな新語を作り出して目くらましをするから、そしてそういうところに限って引用しないから、彼独自の思想に見える(目のない学者には)のだろう。