穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

124:ブスの天下来るか

2020-07-31 09:24:48 | 破片

前置き:ブスとは漢字で書くと醜婦あるいは悪女と書く。醜婦はシコメとも読む。悪女は顔の不味い(マズイ、悪い)女ということである。現代の若者が悪女と言っているのは正調日本語では毒婦という。

124:外出中にマスクが使えなくなったら

 第九はスタッグカフェ「ダウンタウン」に入ると、レジにいた長南さんに「このビルでマスクを売っているところがありますか」と聞いた。彼はマスクをしていない。ワイシャツの胸ポケットからマスクの上半身が飛び出している。彼女が怪訝な顔をすると彼は胸ポケットからマスクを取り出して彼女に示した。「紐が切れちゃってねぇ」と言った。「このビルには診療所があるから薬局もあるんじゃないかな」というと彼女はほかの同輩に確認した。

「さあ、どうかしら。はっきりとわからないな。薬局には入ったことがないから。マスクはコンビニで売ってるわね」

「このビルの中にはコンビニのお店はあるかな」と彼は聞いた。病院と連携している薬局では、コロナ患者がいるかもしれないと思い彼は敬遠した。

「さあ」と彼女たちは顔を見合わせていたが「無いと思うわ」と結論した。「コンビニならビルを出て道路を渡って左へ行くとあるわね」と教えてくれた。

「そうか、どうもありがとう。面倒くさいな、帰りにでも行ってみるか」と第九は言うと、いつもの常連がたむろしている席へ向かった。もう飲み物を始末した彼らは皆マスクをしてしゃべっている。

 第九は席に落ち着くと、「別に公徳心があるわけじゃないが習慣になっちゃっててマスクをしないとなんだかスースーして落ち着きませんね。マスクの紐が切れちゃってね。来る途中で買おうと思ったんだが売っているところが見つからなかった」

 卵頭老人が言った。「不思議なものでね。最近ではすっかりと慣れちゃってマスクをしていないとなにか忘れ物をしたような気分ですね」と下駄顔老人のほうを見た。

「そうだねぇ、抜刀令が出た後で侍が腰が決まらなくて落ち着かなかったというようなものだな」この老人のいうことはいつでも一世紀以上前の感覚である。

「抜刀令って?」

「いや、言い間違えた。脱刀令だ」

「どうしてマスクをしないんですか」とやはり胸ポケットから飛び出しているマスクの上半身を見ながら皆が聞いた。

「紐が切れちゃってね」と彼は示した。「時々水を飲むでしょう、マスクをしていては飲めないからマスクを外したときにちょっと引っ張ったら切れてしまいましてね」とその個所をみんなに示した。途中で切れたのではなくて紐をマスクに止めている根元が外れている。切れたというよりか接着剤が剥がれたらしい。

「それでね」と第九は続けた。「この穴に外れた紐を通して結んでみたんですよ。それで使ってみると今度は反対側の根元が剥がれてしまった。お話になりませんよ」

「どこ製ですか」

「中国製ですよ」

「やはりね」

「今は結構出回ってきたけど、一時売り切れていた時期があったでしょう。そのころに小さな不動産屋の前に屋台を置いて売っていた50個入りの箱を馬鹿高い値段で買ったんですよ。まだ大分残っているが、もう使えませんね」

「私もそのころに買ったのが余っていてね、外出中に切れたことがある。そんなことが続けてあったので、いつも予備のマスクを持ち歩いているんですよ」とCCが報告した。

「それも変な話だな」

 

 


123:現実的なものこそ理性的

2020-07-26 07:36:34 | 破片

ヘーゲルへのサイドノート(四)

理性的であるものこそ現実的であり
現実的であるものこそ理性的である

これは頻繁に引用されるヘーゲルの文章である。といってもヘーゲル読み達のサークルのなかでのことでである。一般にはヘーゲルの後期の著作である法哲学の序文にある文章として紹介されているが、初期の著作「論理学」ですでに繰りかえし出てくる文句である。おそらく論理学の中で十回以上繰り返されている。

これがヘーゲル読み、なかんずくマルクスおよびマルクス主義者の金科玉条となっている。
この対句をなしている文章は比重をどこに置くかで硬直的な現状肯定主義、保守主義になるか、極端な破壊主義的、反社会的なアジビラとなる。

前半に重心を置くと、現実が理性的ではない、現代風の言葉でいえば現実は矛盾に満ちた、不合理な不条理なものであると考えている人間、なかんずく主義者は自分たちが理想と考える姿と乖離があれば、現在の政治体制を暴力を使ってでもぶち壊して「理性的」な現実の実現を求めてもいいというお墨付きを彼らに与える。ヘーゲルの没後押しかけで弟子のマルクスやその追随者達はこれをそう取って読んで驚喜した。もっとも食わせ物のヘーゲルは「現実的であり」としか言っていない。「現実的であるべき」と直截に書けば、これは完全なアジビラとなる。

しかし、後半に比重を置くと現実の社会はもっとも理性的なものであり、これを変革しようとすることはとんでもないという保守主義になる。ヘーゲルは文章になったものでは、彼の時代のプロイセンが理想的な国家であると述べているが、学生に対する講義ではすこし違ったニュアンスをほのめかしていた可能性を排除できない。学生を喜ばせるためか、あるいはそれが彼の本音であったかもしれない。

この考えは概念とはもっとも具体的なものであるという彼の主張と軌を一にする。そして概念は弁証法というスパイラル的プロセスを経て絶対精神(金、賢者の石あるいはユートピア)に到達するのだから、19世紀前半のプロイセンはすでにそのレベルに達していたのか、あるいはマルクスの主張するプロレタリア革命を経てこの大作業が完結するのか。ヘーゲルの文章からは読み取れない。

「やれやれ」とがっがりしたように呟き、大きな吐息をついて立花氏は立ち上がり、PCの蓋を閉じたのである。
・・・要するに、頭書の連句の第二節は老獪なヘーゲルが逃げを打っておいたものだろうか、一種の検閲対策だったのかもしれない、と彼は考えた。

 


122:「理性的 VS 悟性的」は葵の御紋の印籠である

2020-07-25 08:17:19 | 破片

ヘーゲルへのサイドノート(三) 

「理性的」と一喝すれば、それは水戸黄門の葵の印籠と同じ効果がある(とヘーゲルは期待した)。弁証法は直近の哲学を止揚して一段上に昇ことだから、それはヘーゲル直前の大哲学者カントの哲学を止揚することに他ならない。論理学でも序論で相当部分を割いてカントの哲学に言及している。カントの哲学はデカルトから始まった主観というか自我を中心に据えた認識論である。カントはその完成品(ある意味では、一つの完成品の例と言える)である。

 ご案内のように、カントは純粋理性批判で人間の先天的な認識の枠組みを示した。これはいろいろな色合いに受け取られる。それは人間の正しい認識の在り方を示したといえば肯定的な大業績である。ところが人間は対象を(つまり客観世界を)カントの列挙したカテゴリーに従ってしか認識できないと評価すると非常に消極的で悲観的な様相をおびる。人間は物自体を認識することは出来ない。

若い男性はこれを我慢できない。いってみればストリップ小屋で次々と衣装を脱ぎ捨てるが最後の肉襦袢は脱がないストリッパーようなものである。どうしてくれる、金を返せというわけである。これがカント後の課題となった。神学校でヘーゲルのルームメイトだったシェリングは、物自体、物自体とはいわないが、彼岸の存在すなわち神(彼岸)の恩恵的な(きまぐれな)啓示によってちらっと見せてくれるという哲学を作った。

ヘーゲルはこれを批判して、何だ暗闇で黒い牛を見ることを期待するのと同じだと批判した。彼岸と此岸は同じものだ。精神と物質は同じものの別の現象だ。絶対知において人間はすべてを認識できる、という哲学をでっちあげた。『なぜなら概念はもっとも具体的なものである』。その中にはすべてが含まれているからだ、と強弁した。

「理性的」という概念の御利益はその他にもある。それを使うとすべての哲学的アポリアは簡単に霧消する。あらゆるパラドックス(哲学的逆理)は意味をなさなくなる。

 デカルト由来の自我中心というか主観中心思想の物足りなさへの一つの解決策を示したのがヘーゲルといえよう。しかしほかのやりかたもある。ニーチェはどこに行ってもついてくる自我という犬を追い払うために超自我をひねり出したのである。自我を此岸から彼岸まで包括する超自我とした。しかし、超自我の主体は人間であるから、だれでもが超自我をめざせない。そこで選ばれた人間だけに超人となる資格を与えることにした。あとの人類は畜群(家畜の群れ)として超人の奴隷となるのである。

 つまりカント的な制約に対抗するには、
1:神と人間は同じである、すなわちヘーゲル的
前に触れたように神は人間精神をとおして自己実現のプロセスを辿るというカバラ的な思想、したがって彼岸はない。物自体は認識できる。人間が見たままのものが物自体である。

2:神を認めて、その恩恵を受け身で獲得しようとするシェリング的またはキルケゴール的な哲学がある。この姿勢に疑問を抱き、その希望を放棄すると「絶望」という「死に至る病」に罹患する。

3:ニーチェの超人思想

ま、ほかにも方法があるかもしれないが、今までのところ上記のようなものがあるのである。

 

 


121:ヘーゲルへのサイドノート (二)

2020-07-23 07:16:51 | 破片

 概念はこの上なく具体的である、とヘーゲルは言う。もっとも具体的なのは概念であると。普通、もっとも具体的なものは感性的データで捕らえたものである。概念はそれを分析的、抽象的に構成したものであるからもっとも具体性から離れていると考えるのが普通なのだが。

 ヘーゲルがプロセスとして必要性は認めながら、軽蔑的に低くみるのが「分析」という言葉であり「抽象」という言葉であり、作業である。これらは悟性的な作業であり、理性的な思考より下位のものである。この考えを頭に入れないと、それを承認する、しないは別問題として、ヘーゲルの言説はジャーゴン以外の何物でもない。

いずれにしても素直な考え方をする人間にとって受け入れがたい見解学説である。悟性的の上に「理性的」というものを持ってきたのはヘーゲルの工夫である。発明である。普通の言葉使いでは悟性的という言葉はない。それを普通の人は理性的という。この二つに強引な区別を持ってきたのがヘーゲルの工夫であった。

このデンでいけば絶対理念はもっとも具体的なものとなる。悟性的なレベルから理性的なレベルに行くのは何によってか。それはスペキュレイションなのである。といっての投機とか思惑ではない。ヘーゲル哲学ではこれを「思弁」と訳すのである。だから彼の哲学は一名思弁哲学といわれる。

スペキュレイション(ドイツ語、spekulation)という言葉は軽い。もっと、良い言葉をヘーゲルは選べなかったのかな。ドイツ語の辞書によるとこの言葉の第一義は推察、憶測、考察である。第二義は思弁、思索、第三義は投機、思惑買いである。

英語の語義は辞書によるとこうある。「根拠のない推測、、推量、空理、空論;結論、見解:投機、思惑売買」以下略す。

へんに因縁をつけるようだが、この言葉には重々しさ、荘厳さは独英語ともにない。もっともラテン語ではどうかということは知らないのでもうすこし調べてみると、

日本語辞書によると、
1:よく考えてものの道理をわきまえること、うん、これなら軽侮のニュアンスはない。

2:ギリシャ語やそれ由来のラテン語ではテオリア(セオリー)というらしい。語義は実践や経験を介さないで、純粋な思惟・理性のみによって事物の真相に到達しようとすること、とある。

ようするに、*人間の* アタマの中だけでひねくり回す精神作業ということになる。これが世界の、外界のすべてに当てはまるというのがヘーゲル哲学である。

より適切には *ヘーゲルのあたまのなかで* ひねり出された理論ということになる。人間はみんな同じ頭を持っていうわけではないからヘゲールさんには別のスペキュレイションがあるだろう。まあ、人間という「類」だからそう四分五裂はしないだろうが。

 


120:バクーニンとレーニン

2020-07-21 10:49:47 | 破片

 立花氏はキッチンに折り畳み椅子を持ってくるとIHヒーターの前に据えた。そのうえでノートパソコンのふたを広げた。ダイニングでは妻が御贔屓の司会者が出ている朝のモーニングショーを見ていてうるさくて考え事ができない。

月曜日の朝である。この週末は久しぶりに馬券も好調であった。そのせいか、意識のフェーズも一変したようで、先日から考えていたヘーゲルの総括をする気になったのである。

ヘーゲルへのサイドノート 一 (順不同)

と前かがみになって一行目をタイプした。バクーニンはロシアの貴族でマルクスと第一インターナショナルで一緒に活動していた。後年はマルクスと袂を分かち、無政府主義者とみなされることもある。レーニンはご存じマルクス・レーニン主義といわれるとおり、二代目教祖であり、ロシア革命を主導した。かれはなかなかの物書きでバクーニンを批判した文章がある。バクーニンはヘーゲルを読んだときに、これは宗教だと思ったと感想を述べたが、これにレーニンがかみついているのである。

 あきらかにバクーニンのほうが正しい理解である。ヘーゲル自身が宗教と哲学は同じだと書いている。宗教は表象を用いて語り、哲学は概念を通して真理を述べるというわけである。表現の方法に違いがあるだけだ、というわけである。ヘーゲルは同じ事を小論理学で何度も強調している。

 レーニンはほかの共産主義者と同様に弁証法が共産主義のキモだと信じている。弁証法というのは科学なのかね、と立花氏は独り言ちた。科学なら仮説の設定から始まる。そして仮説が現実を説明できて初めて法則となる。そのプロセスを経ていない。

 ヘーゲルはその基本的な著作をエンサイクロペディアと名付けたことからも分かる通り、弁証法で、歴史も自然界も精神活動も宗教も法律も国家も説明できるとした。それを証明しようとしたのが彼の残した膨大な講義録(一部著作)である。それは弁証法の科学的な実証実験というより、大ぶろしきを広げた手品師、あるいはサーカス興行者の『実演』であった。いわば弁証法という仮説あるいは論理で森羅万象が説明できること『実演』してみせようとしたのである。それは牽強付会の見本市である。

 大体エンサイクロペディアという言葉が古臭い。フランス革命前後に流行った運動でヘーゲルの活動期にはとっくに収束している。ドイツは後進国であったから、まだ通用したのであろうが。

 


119:夏競馬はどうも 

2020-07-18 13:18:05 | 破片

「ところで、いよいよ本格的な夏競馬ですな。どうですか調子は」とエッグエッドが立花氏に聞いた。
「どうもいけませんね。昔から夏競馬はぴんと来ないんですよね」
「どういうことですか。全然開催のシステムが違うんですか」
「そんなことはないと思いますがね。私のアプローチだと結果が出ないんですよね。そういう意味では中央場所とは違うと言えるかもしれない」
「あなたはたしかオッズ分析が検討の中心だとか言っていましたよね」とCCが思い出したように口をはさんだ。「なんかファンの投票行動が違うんでしょうかね」

「さあねえ、そういうことがあるのかもしれない」
「だれか競馬評論家だったか、夏競馬では本気で勝負してくるケースのほかに休養を兼ねて出走をさせると聞いたことがあるな」
立花氏は首をひねると「そういうことはあるでしょうね。特に涼しい北海道なんかに連れてくるのは、休養を兼ねいるでしょうからね。トレーニングを目的で出走させる場合があるらしい。秋の競馬シーズンに備えてね。だから無理をさせないということはあるかもしれないな」

出走させる厩舎の本気度が信用できないのかもしれないね、と下駄顔が注釈を入れた。「パチンコ屋はもう営業しているんでしょう。またパチプロに戻らないんですか」
「そうねえ、そのほうが生活は安定しますね」と立花氏は答えたが、また何かを思いついたのか、店の紙ナプキンを一枚抜き取った。それを広げると胸のポケットからボールペンをとりだして何やら書き付けた。それを見ていたCCは見かねたように、システム手帳の一ページをむしり取ると「これをどうぞ」と彼に差し出した。

「どうも」と立花氏はメモ用紙を受け取るとその上に『レーニンとバクーニンとは、とちらが正しいか』と書き込んだ。コップを取り上げると中がカラなのに気が付いて合図をした。気が付いたレジの女ボイが水差しを持ってきてコップをいっぱいにした。かれはそれを一気に飲み干すとげーという音とともにため息をついた。

人心地がついたように彼はメモ用紙を裏返して『論理実証主義者としてのヘーゲル』と書き込んだ。よこから見ていた下駄顔が「ヘーゲルは論理実証主義者のはしりだったのか」と疑わしそうな声音でつぶやいた。
立花氏はいや、というとしばらく再考した上で『論理実演主義者としてのヘーゲル』と書き改めた。
「だいぶタネが溜まったようですね」とエッグヘッドが立花氏に話しかけた。
「ほんの座興ですよ」


118:ヘーゲルへのサイドノート 

2020-07-12 08:56:53 | 破片

 それでマリー・アントワネットのベッドも持っていくんですか、と下駄顔が聞いた。
「それが問題でしてね。どうにも置く場所がないんですよ」
「オークションにでも売りに出しましたか」と早合点したように言った。
「とんでもない。日本の大工に写真を見せて作らせたものですからね。本物なら何億という値段がつくでしょうがね」
「じゃあ、どうするんです。粗大ごみにでも出すんですか」
さすがに、これには第九もむっとした表情で「トランクルームを借りました」
「そんなに大きなものも預けられるんですか」とCCが無邪気に聞いた。
「そのままじゃ無理ですよ。業務用の倉庫を借りるんなら別ですがね」
で、とみんなが首をひねった。
「分解して預けるんですよ」
「ああ、なるほど」

 立花さんはふと思いついたように、店の紙ナプキンを一枚とるとボールペンを出して「分析的知性に関する傍注」とメモを記した。かれは山手線読書の成果としてヘーゲル論を書こうかな、と思ったのであった。分析的知性とか悟性的分析というのはヘーゲルが論敵をやっつけるときに使う常套の殺し文句である。殺し文句であるから理屈などないのであるが。彼は忘れないように備忘のメモをとると、財布を出して畳んだメモをしまった。

「それにしても急に決まりましたね」と立花さんは話に加わったのである。
「ええ、昨年の武蔵小杉の高層マンションの大停電に恐れをなして前から台風シーズンの前にとせかされていたんですが、最近の九州の集中豪雨の被害の報道で彼女がすぐにでも引っ越すと言い出しいたものですからね。バタバタと決まりました。彼女も世間離れのした条件を出していたのですが急にどこでもいいから早く手配しろと言われてね」
「それでタワーマンションのほうは売れたんですか」
「それがねえ、なかなか決まらなくてね。賃貸に出そうとしたんですが、なかなか条件が折り合わなくてね。そちらのほうはペンディングです」
「あなたもなかなか大変ですな」と下駄顔が同情した。

 


117:ヘーゲルの文章は何とかならんのか 

2020-07-08 09:04:29 | 破片

 ゲーテと言えば、同時代人じゃなかったっけ、とCCが聞いた。

そうだね、と立花さんが思い出しながら答えた。だいぶゲーテのほうが年長だが確か死んだのは1,2年しか違わなかったと思うな。

 じゃあ、ゲーテに兄事したということか。

「まあ、そういうことでしょう。ヘーゲルは子供をつれてゲーテの家に遊びに行ったりするような関係だったらしい。ゲーテにはそのヘーゲルの子を詠んだ詩があるはずだよ。しかしね、そのゲーテが、あるときにヘーゲルもいいがあの文章はなんとかならんのかと言ったという」

「明晰で美しい文章を書くゲーテなら言いそうなことだ」

「ヘーゲルは詩人ではないから美しい文章はともかく、明晰な文章は書くべきだよね。哲学者なんだから」

「日本でも翻訳が何種類かあるらしいが、どうなんですか」

「てんでんばらばらだね。驚くのは英訳でも全然別の表現になっているところが多いね。たしかカール・レーヴィットだったと思うがハイデッガーの翻訳が出来たら奇跡だといったが、それでもハイデッガーは訳者によってガラリと印象がかわることはない。大体、意味は通じる。ヘーゲルに至っては訳者によって大分異なる」

「大体あんな書き方をする必然性があったの」と長南さんが意見を述べた。

「そうだね、ヘーゲルの文体はどこから来たのかな。スコラ哲学かもしれないな」

「そうなんですか」

「憶測だがね、彼はチュービンゲンの神学校を出ている。もっとも、ここは新教のルター派の学校だからスコラ哲学を教えてはいなかっただろう。しかし、彼の哲学史を読むと、かなり中世のキリスト教哲学に紙面を割いているから相当研究していたに違いない」

「あれはスコラ風なの」

「責任のあることは言えないが、いかにもわざと分かりにくくするところなど、いかにもと思わせるじゃないか。あの表現でしか彼の哲学が記述できなかったとは考えられない。あの表現と彼の哲学の内容に必然性の繋がりはないように思われる」

 不思議なのはあの奇妙奇天烈な文章を書くヘーゲルが学生に人気があったということだね、と下駄顔が言った。

「学生というのは分かりもしないのに、先輩が崇拝しているとか、仲間が感心しているとか、世間の評判だけで無暗に大学教授を崇め奉るからな」

「日本なんかでも同じですね。学生がうっとりするから読んでみると食えたものではないものが多い」

「ヘーゲルと言えば、ショーペンハウアーがヘーゲルと張り合って同じ時間帯に講義の時間を設定したことは有名だね。ところがヘーゲルの授業は満員なのに、ショーペンハウアーの講義には二、三人しか学生が来なかったという。ショーペンハウアーは怒って大学を辞めたという逸話があるね」

「講義というのは著作とはまた異なるんでしょうね、彼はひどいシュワーベン地方の訛りが生涯抜けなかったというが、それが一つの要因かもしれない」

「東北弁で意識的に人気を取る政治家が日本でもいるからね」

「べつに訛りだけじゃないかと思うけど、話はうまかったんだろうね。もともと彼がベルリン大学に招聘されたのは当時の学生運動を抑える目的だったと言われる。彼の学生操縦の腕を見込まれたのだろう。ところが晩年には逆に彼の学生がまた過激化して当局を警戒させたらしい」

「本当に」

「彼がコレラで急死した後の葬儀で学生たちが隊列を組んで葬送の行列に加わろうとしたら、当局は禁止したのだ。今日でいえば香港の民主化デモが当局への抗議の暴動に発展することを恐れたのに似ている」

「そうかなあ」

「勿論、表向きはコレラの感染が広がるかもしれないという理由をつけたらしいがね」

 しかし、死後十年もたたないうちに青年ヘーゲル派が分裂して無政府主義思想のはしりといわれるシュティルナーが出現したり、共産主義者のマルクスが登場したのを見るとあながち不当な恐れともいえないのではないか」

「フォイエルバッハだってかなり急進的ですからね。とにかくプロイセン王国が究極の絶対知を実現している理想郷なんて考えを継承しているのはいないのはたしかだな」

 レジのほうが賑やかになったと思ったら夏目第九が入ってくるところだった。

「久しぶりだね。外出自粛の自主的延長をしていたのかな」と卵頭が聞いた。

「どうもご無沙汰をしまして。実は引っ越しが急に決まりましてね。いろいろ雑用が多かったものだから」

「やはり四谷の例のところに決めたんですか」

「いえ、いろいろと折り合いがつかなくて、四谷は四谷なんですが大久保寄りの余丁町のマンションになりました」

 


116:弁証法とは魔女鍋 

2020-07-06 07:11:13 | 破片

  ヘーゲルと言えば、とCCが質問した。「弁証法というのが有名らしいけど、あれは何ですか」
「あれは弁証法ではないわね」と長南さんが口をはさんだ。
日本語でいえば、弁じたてて証明するということでしょう。言葉の意味は。
なるほど、とCCは頷いた。
「ディアレクティケでもないね。ギリシャ語では複数の人間が議論して主張の正否を争うという意味だからね」と立花さんが言った。

「ヘーゲルのいう弁証法というのは違うんですか」
「違うさ、いきなり大上段に振りかぶって独断論を押し付けるんだから」
「あれは正反合とかいうんでしょう。錬金術そのものじゃないの」と長南女子が気が付いたように言った。「冶金術よね、性質の違う金属を鍋で熱して新しい合金を作るのと同じじゃないの」
「そうだな、冶金術といったほうが適切だろう。ヘーゲルはカバラのほかにも錬金術の本を集めていたからね」
「どうして分かったの」
「彼はコレラで急死した。発病してから三日目に死亡したらしい。だから蔵書の整理も出来なかった。彼の蔵書の中に、錬金術やオカルトの本が沢山あったという」

 下駄顔が言った。「もっともあの頃は錬金術は怪しげに見られたオカルトでもなんでもなかったらしいからな。隠す必要もなかったんじゃないかな」
「そうでしょうね」
「ゲーテも自ら錬金術師と名乗っていたし、ニュートンも自ら錬金術師だと言っていた時代だったからな」

 ヘーゲルには錬金術的思考が多い。錬金術では冶金作業を数度にわたって繰り返して最後に「賢者の石、あるいは哲学者の石」を作るのが目的だと言っていたんだからね」
「最終目的は金じゃなかったの」
「素人分かりがするように金と言ったんだろう。実験には長期間にわたり莫大な資金が必要だったしスポンサーに金を出してもらうために惹句として金という言葉を使ったんだろう」
「そういうことか。そうするとヘーゲルのカテゴリーが彼のいうところの弁証法的過程を経て最後には絶対知に至るというスキームとヒッタンコだね。錬金術の最終目的が賢者の石だとすると、ヘーゲルの場合は絶対知になるわけだ」と長南さんは言った。
「一種の魔女鍋だわね。そうすると弁証法も錬金術のパクリだとするとヘーゲルの独創性はどこにあるの」

「ヘーゲルの書いた哲学史によると、哲学は歴史的に見て、弁証法的に発展してきたという。

古い哲学を批判して新しい哲学が生まれる。その繰り返しだというのだ。しかし、ここが味噌なんだが、古い思想は弁証法的に止揚されて新しい哲学に含まれるというのだな」
「それも錬金術の冶金技術と同じね。出来た新しい合金には古い材料がすべて含まれているものね。なんだか都合のいい説ね」
「そう、だから彼の哲学がカバラのパクリであり、ヤコーブ・ベーメの思想のパクリであり、錬金術のパクリであっても、彼がそれらを止揚あるいは総合した名誉はいささかも損なわれないというわけだ」
「へえぇ・・」

 


115:主語がはっきりしないヘーゲル

2020-07-05 08:23:02 | 破片

「それでも有論は何となくわかるのよね」と長南さんは呟いた。「だけど本質論になるとたわごとだわね」
「ほう、立花さんも同じことを言っていましたよ。本質論になるとわけがわからなくなるらしい」
「へーゲルの文章は主語がはっきりとしないわね。精神現象学はなんとなくわかるけど」
「そこがヘーゲルの手品の仕掛けかもしれないな」と立花さんは頷いた。
「人間の意識のプロセスが主題なのか、絶対精神の独白を擬しているものか、人間の意識の発達史を叙述したものなのか、なんなの」と長南さんは聞いた。
「精神現象学は要するにヘーゲル個人の精神発達史としても読める。世上この作品を称してビルドゥングスロマンと評することがあるが、そう取っても読めるね」
「ビルドゥングス何とかっていうのは何ですか」とCCが疑問を放り込んだ。
「教養小説と言いますかね。ゲーテのたとえば「若きウェルテルの悩み」とか「ウイルヘルム・マイスター」なんかは教養小説といわれる。悩み多き若き魂の成長を描くというようなものです」

「絶対精神の成長の歴史、自伝風というのかな」と長南さんは言った。
「そうだね、絶対精神とて、最初は乞食風に、いや間違えた古事記風に言えば、有イコール無だった混沌から成長してきたわけだ。ヘーゲルはユダヤのカバラ文献を慎重に検討したらしい。もちろん彼はヘブライ語はできなかったからクリスチャンカバラのラテン語の孫引きで読んだんだろうがね。

カバラによると神はプロセスであるという。そしてプロセスを踏んで自分自身を成長させた。そして、その成長は人間の精神のなかで行うとされているらしい」

「そうすると絶対精神はウイルスみたいなんだね。人間精神に寄生して成長していくわけだ」と下駄顔が総括した。
立花さんはびっくりしたように彼を見たが、「なるほど、そういえるでしょうね」と答えた。

憂い顔の長南さんがふと思いついたように顔をあげて立花氏を見た。
「ヘーゲルのカテゴリーというのは、そのプロセスを表しているのかな。だってヘーゲルのカテゴリーというのはアリストテレスやカントのカテゴリーとは全然違うでしょう。分類方法が違うというのじゃなくて時間的というか順序的というか、ヒエラルキーがあるというか最後が絶対知か絶対精神となるんでしょう。そうすると、カバラの生命の樹と同じだわね」

「そうだよね、アリストテレスとカントのカテゴリーは視点は違うが、空間的というのかな、順序とかプロセスなんてところは全くない」
「アリストテレスは客観存在の分類法でしょう。カントのは主観側に比重があって認識論的な枠組みだわね。ヘーちゃんとは水と油だわね」

 


114:ヘーゲルのパクリ(ヘーゲルがパクったこと)

2020-07-03 07:32:43 | 破片

 立花氏はママが一杯にしてくれたばかりのグラスの水を一気に飲み干した。それに気が付いた彼女は再びグラスに水を七分目ほど注ぐとユラユラとレジのほうへ去った。

 ヘーゲル征服のほうはどうなりました、と下駄顔が聞いた。自粛解除で山手線も混みだしたでしょう。
「そうなんですね、おちおち読書もしていられません。またまた挫折しましてね」と立花氏は答えた。「しかも同じところでね、三合目あたりですか」
「三合目というとどのあたりですかな」とヘーゲルなんて読んだこともない彼は聞いたのである。
「へゲールはね、なんでもが三枚におろしちゃうんですよ。論理学で言うとパート1が有論というんですがね。ここのところは分かるんですよ。断っておきますが、分かるというのは同意するとか理解するということではありませんよ。有論はヘーゲルの独創ではありません。昔から仏教や西洋の神秘思想の一部にあった思想をなぞっただけですからね。

 パート2が本質論というんですが、ここから分からなくなる。学生時代もここから何を言っているのか分からなくなった」というとコップの水を飲んだ。
「パート3というのがあるんでしょう」
立花氏は口をぬぐうと「ええ、概念論というんですがね」
「それも分からない?」
彼はジャパニーズサンダルの顔を眺めた。「パート2の続きですからね。もっともわかるところもある。割と陳腐なところもあってね」
「それで一体有論には何が書いてあるんですか」とCCが割り込んだ。

 出て言った客の残したカップを取り下げに女ボーイの長南さんが通り過ぎた。ここでは客に使用済みの食器をカウンターまで持ってこさせるような失礼なことを求めない。なにしろコーヒー一杯最低でも千円なのである。

 若き哲学徒でもある彼女は客のヘーゲルという言葉を聞きつけるとCCの隣の空いた席に汚れたカップを置くとどっかと腰を落ち着けた。

 ふと思いついたように「君はヘーゲルを読んだことがある?」と彼女に尋ねた。
「フン」
フンというのはウン(諾)ということだろうか、と立花さんは考えた。
「いま、論理学の有論の話をしているんだけどね。読んだことある?」

「あれ、SeinとNichtsから世界が生成されるとかいうんでしょう」と彼女は正しい理解を示した。「あれって、仏教でいえば色即是空、空即是色ということじゃないの。違う?」
「違わない。そのとおりさ」
「どういうことか説明してくださいよ」と二人だけで理解しあっているのにいらいらしたエッグヘッドが説明を求めた。

「いや失礼しました。SeinというのはAllと理解してよろしい。Nichitsは英語のNothingですな。そしてヘーちゃんはAll is 
Nothingだというのです。つまりA=B、B=Aというわけ」

おかしいな、と一同がつぶやいた。
「おかしいんですよ。伝統的な論理学ではA=A,A is not Bですからね。これを同一率といいます。言わなくったって当たり前ですがね」

 仏教の般若心経にある色即是空 空即是色と同じだね、とエッグヘッドが頷いた。
「ユダヤの神秘教にカバラというのがあるが、同じことを言っている。これは紀元後大分たってから成立したから仏教の影響かもしれない」
「ということはヘーゲルがパクったということか」

 


113:お稲荷さんにはお賽銭が必要

2020-07-01 09:00:30 | 破片

「どういうことだい」とからかわれたと思ったのか、下駄顔老人が怒ったような声を出した。
元パチプロ氏はびくっとしたように身を引いたが、「どうもね、自分で説明がつかないんですよ。当日は忙しくてろくろく検討する時間がありませんでしてね、午前中から外出する用事があって。しかし、習慣になっているから馬券を買わないと落ち着かないんでしょうね。まったく当てずっぽうで少々買ったんですよ。普段は締め切り間際までああでもないあ、こうでもないとぐずぐず迷うんですがね。どうせ当たるわけがないと思ってね、それが帰宅して結果を見て驚きましたね。18番人気の馬を頭で買った馬券が的中してる。しかも二着、三着も当たっている」

 彼はからからになった喉を湿らそうとコップを取り上げたが、さっき一気に飲んだのでグラスの底まで干上がっている。彼はグラスを高く掲げてレジのほうに向かって、お冷をお願いします、と叫んだ。

 生憎女ボイは全員手が空かないらしくマダムがピッチャーを持ってやってきた。
今日はとても賑やかですね、と言いながらまず立花氏のグラスを満たし、ほかの客のグラスをそれぞれ覗き込んで少しずつ水を継ぎ足した。

「彼が百万円馬券を当てた話をしているのさ」
ママは明眸をさらに大きく見開いて、「本当ですか、当店にも融資していただけますか。営業自粛で運転資金が枯渇しているんですよ」
立花氏はすっかり恐縮してしまって、「いや、外れ続きでマイナスがかなりありましてね、期間利益が出ていないんですよ」と申し訳なさそうに言った。ママは笑って「ご無理を申し上げて、厚かましいお願いをいたしました」と目じりに美しい小皺を作ってほほ笑んだ。

 そうすると、完全にまぐれというわけか、とまだ信じられないように卵頭が言った。でお稲荷さんというのはどういうことだい、と下駄顔が疑問を示した。
「いや、私も不思議に思ってね、そのうちに思い出したんだが、その十日ほど前に近所のお稲荷さんにお参りをしたんですよ」

「馬券を当てさしてくださいと祈ったのかい」
「いや、そんなことは考えませんでしたね。どうぞコロナに感染しないようにと祈願しました。競馬のことなど念頭にありませんでしたね。そんなお願いをお稲荷さんが聞いてくれるわけがありませんからね」

「それでね、お賽銭もあげようと思いついて財布の中をのぞいたら五円玉があいにくない」
「どうして五円玉なんだい」
「ご縁があるようにとか言って、ゴロ合わせであげる人がいるわね」とママが口を挟んだ。
「それでね」と彼は続けた。50円玉が一つ財布のなかにあったんですよ。もったいなかったけどそれを取り出して賽銭箱に放り込みました」

「50円がきいたのかな」
「さあねえ、わたしもそのことはすっかり忘れていましてね。だいぶたってからそういえばと、お賽銭を入れたことを思い出してね」
「そんな、50円で百万馬券が当たるなんてことがあるのかな」とCCが言った。

「私の知り合いでもお賽銭マニアがいるんですよ」と立ったまま、まだ皆の話を聞いていたママが口をはさんだ。「水商売の人なんですけどね、ナイトクラブのオーナーなんですけど、店の女の子たちに命令して出勤前に神社にお賽銭を上げさせているんですよ」
「毎日、いや毎晩か」

「そう、お稲荷さんじゃないんですけどね、大きな神社だと境内に沢山分社みたいなのがあるでしょう」
「うん、あるある」
「そういう分社にもくまなくお賽銭をあげさせるのよ」
「いくら入れるんです」
「それがみんな一円玉」
へえ、とみんな予想が外れてびっくりした顔をした。「なんのためにそんなことをするのかな」

「商売繁盛ですよ。ナイトクラブが繁盛しますようにね」
「どこにあるんです、そのナイトクラブは」
「銀座」

ところで、と下駄顔が言った。「それから毎週お賽銭をあげているのかい」
「まさか、でもふと思い立って、その後一回そのお稲荷さんに行きましたよ」
それでどうだった。
ぜんぜん、あたりが来ませんね。
「お賽銭はいくらあげたの」
「五円」
「それじゃ足りなかったのかな、50円じゃないとだめなのかな」
「そうかもしれませんねえ、お稲荷さんにも欲張りなのがいるのでしょうからね」とママが注釈を入れた。