穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

長いお別れ22章

2023-08-24 07:39:42 | チャンドラー

今まで気が付かなかったがロンググッドバイの22章にマーロウが百万長者の長女に向かって彼女の父親の司法、マスコミに対する圧力を非難する大演説をぶつところがある。今度読んでいてなかなかの名文(啖呵)であると気が付いた。それで村上訳と清水俊二訳の該当箇所を読んでみた。両訳は原文の調子を映していない。

原文では父親の事件への裏側からの司法マスコミに対する干渉圧力を種々非難している。that以下の修飾文で畳みかけるように列挙しているが両訳とも気の抜けたような訳文になっている。じゃあどう訳したらいいか、工夫だよ。工夫

該当箇所 

原文:166-167ページ(vintage crime)

村上訳:211ページ以下

清水俊二訳:222ページ以下

 


村上訳のチャンドラー「ロンググッドバイ」

2021-04-16 08:25:18 | チャンドラー

 自分でもちょっとしつこいというかトリヴィアルなんだが、前回の内容をもうすこし詳しくというが例示的に触れる。

1:いいな、と思う余計な追加

具体的にページをあげておく。村上はハヤカワ文庫のページ、LGBはVintage版のページである。

村上・・10p 「・・トイレのしつけはできているから、おおむね」

Vintage・・5p(He’s housebrokenーーmore or less)

原文にはトイレのしつけ云々はない。だが村上の補足訳は面白い。

2:あきらかな日本語の誤り

村上・・560p 「一路当地に向かっているはずだ。」

Vintage・・(He’s on his way to Nevada....)

当地というと自分のいる土地、つまりLAということだろう。Nevadaなら「むこう」「あちら」などというべきだろう。しかもこの繰り返しのフレーズは原文にはない。あきらかに日本語が間違っている。

次回は回収しない伏線を読む

*訂正 上記1は間違っていたようです。昨日本屋で清水訳のLGBの回答箇所を立ち読みしたら、村上と同じように「トイレのしつけ云々」と訳してあるので、おやまちがえたのかなと調べました。housebrokenと言うのは「赤ん坊やペットが排便などのしつけがなされている」という意味がアメリカ英語ではあるらしい。

英語(イギリス英語)ではhousetrainedと言うらしい。この言葉なら私も間違えなかったのでしょうが。チャンドラーはイギリスで教育を受けたがアメリカ口語で小説を書いたそうですからこの言葉を使ったのでしょう。

どうしてhousetrainedがhousebrokenになったのか。経緯はどうなんでしょうね。どうもスラング臭いけどどうなのかな。

もっともbreakには動物を慣らすという意味がある。私の辞書では第十二番目の語釈にある。以上言い訳おわり。

 


N読チャンドリラ 

2021-04-14 08:13:27 | チャンドラー

 精神がアイドリング状態のときに、精神の真空状態を埋める作業を消暇作業と言うが、そういう時にチャンドラーをちょこっと読み返すことがある。ソフィスティケイドなモダンジャズを聞く時もある。ドニゼッテイのルチアを聞くときもある。デキシーランドジャズを聴くときもある。プレスリーの性的絶叫を聞くときもある。どうもそれらはその時の精神状態を反映しているらしい。だからプレスリーを聞くときにはドニゼッテイは受け付けない。

 てな具合でチャンドラーも抵抗なく読めるときとそうでも無い時がある。最近珍しくチャンドラーモードになって「ロンググッドバイ」(LGB)をちびちびやっている。十日ほどかかり、ようやく残り100ページあまりとなった。村上訳である。

 LGBについてはこのブログでも何回か書いて、ラストの謎解きがチャンドラーにしては良いと書いてきたが、今回読み返してみると繋がらないところが多すぎる。全体としては上手くできたラストなんだが、細部にこだわると、分からないこと、つまり説得力がないことが、多すぎるのである。

  これで思い出したが、清水俊二訳には省略が多いというが、そういう所もあるのだろうが、もともとの版が違うこともあるのではないか。あるいは清水訳では繋がらないところは訳していないのではないか。清水訳は現在でも売っているようだから買って比較したいと思っている。

 

 


百年前のロサンジェルスの大雨

2018-01-09 06:52:52 | チャンドラー

 チャンドラーの「大いなる眠り」は1939年に発表されたが、雨、それも土砂降りの大雨の描写が印象的である。たしか二回以上大雨の描写がある。舞台はロサンジェルス、ハリウッドである。現在では少雨乾燥地帯となっている。山火事の頻発地帯である。まったく雨が降らないというわけでもなく、一月ころには月間10ミリか20ミリの降雨があるようだ。

  前からこの大雨が気になっていたんだがね、非常に印象的、効果的に書かれていることもあり。確かめていたわけではないが、そのころルーズベルト大統領がニューディール政策でカリフォルニアの後背地に盛んにダムを建設していたが、それで気候が一変したのだろうか。

  大いなる眠りはチャンドラーの長編では処女作だが、その後の彼の長編では雨のカリフォルニアは描かれていないようだ。もっとも「大いなる眠り」はその前に書いた短編、たしか「雨の殺人者」のアマルガメイションだった。この作品の書かれた年代は記憶にないが、このころはまだニューディール実施前だった可能性が高い。

  それとも、この大雨の描写は全くのチャンドラーの創作だったのか。現在の東京の冬を屋久島の夏のような高温多雨の気候と設定した趣向だったのか。

 


村上春樹チャンドラー長編全訳達成

2017-12-07 20:29:51 | チャンドラー

 十二月十五日発行の「水底の女」でチャンドラーの全長編翻訳達成。

今日は七日だっけ。いずれにせよ、達成したわけだ。残っていたのはこれだけだったが、なかなか出てこなかったので心配していたが約束通りに完訳した。例によってあとがきしか読んでいないところでのアップであるが、「楽しんで訳した」とあるので安心した。出来栄えが楽しみだ。律儀に約束を守ろうとして苦しんでいるのかなと心配していたがよかった。

 前に全訳するとすればという前提で翻訳の順序を予測したことがあった。大体当たったが、ひとつ外れた。「大いなる眠り」は二番目(一番目)と予測したが大分遅れた。なにか版権をとるうえで問題があったのかもしれない。この「水底の女」(旧湖中の女)は最後になるだろうと予測した。村上氏の訳も同じ順番になった。あとがきでは別に翻訳の順番で最後にした理由は書いていないが。

 出版社に対する仁義もあるから翻訳者が原作のことを悪く言うわけはないが、このあとがきはこれまでのものと比べてあまり入れ込むところがなく、あっさりと短いものとなっている。そんなようなわけで、翻訳でどれだけ化粧のりがよくなったかが読みどころである。


ミルクを切らしちゃったのよ

2017-08-22 07:54:51 | チャンドラー

 前にも何回も書いたがミステリーで一番つまらないのは結末の謎解きの部分である。もちろん文章としてはという意味だが。チャンドラーの場合はちょっと違って筋が通らなくて戸惑うという結末が多い。もっとも、圧倒的な文章力のおかげで気にはあまりならないのだが。

 その意味ではロンググッドバイの謎解き(42章)はチャンドラーのものとしてはなかなかいいと書いた記憶がある。今回読み返したところ、印象を訂正するほどのことはないが、すこしごたごたしたところがある。例えばアイリーンが身に着けているイギリス陸軍の袖章のイミテイションのくどい描写など。ま、トリヴィアルなことだ。

 ところで、アイリーンが告白の遺書を残して自殺した後始末の相談が警察である44章であるが、ヘルナンデス警部のセリフに

If she hadn’t been fresh out of guns she might have made it a perfect score.

というのがある。英文でもよくわからないが、村上訳では「もし手持ちの拳銃を切らせていなかったら、彼女は涼しい顔でそのまま罪を逃れていたかもしれないんだぞ」となっている。ほぼ直訳で間違いはないのだろうが意味はあいかわらず通じない。

 Fresh out of somethingまでを成句としてとると、確かの訳のようになる。しかしこれじゃまるきり意味が通じない。ちなみに清水訳でもほぼ同趣旨の訳である。

 これを警察内部のスラングとしてこう取れないかな。freshをきれいなとか、シロ(無罪)とすると、Out of gunsは二つの拳銃つまりシルヴィアとウェイドを射殺した拳銃ということか。もっともそうするとhadn‘tと否定形なのが引っかかる。ミスタイプかな。ここまでくると相当強引な解釈だが。

 伏線として、何章か前にマーロウがウェイドの狂言自殺未遂のあとで拳銃を仮にここにしまった、とアイリーンに教えたが、彼女は事件後そんなことを聞いたことがないとシラを切っている場面がある。これもトリヴィアルであるが、トリヴィアルに読むことがミステリーの楽しみかもしれないので書いてみました。



ロンググッドバイ第34章のトリヴィア

2017-08-19 12:43:59 | チャンドラー

チャンドラーのロンググッドバイであるが、34章に

Just don’t steal any rubber bands. というのがある。

 昔読んだときにもよくわからなかったが、村上訳では「輪ゴムを盗まないでくれよ」とある。清水訳では「ゴム・バンドを盗まないでくれよ」と似たような訳である。マーロウに拳銃はどこにしまってあるか、と聞かれてウェイドが「自分で引き出しを探したらいいだろう、ただし云々」とある。

 これなら直訳でわたしでも訳せる。輪ゴムを盗むな、というのではこの文脈ではつながらない。しゃれにもなっていない。アメリカの言語、風習、社会に通じた村上氏はほかの個所では思い切った意訳をしているところが多い。

 試みに私の推測では(まったく根拠も知識もないが)、高額紙幣を束ねた日本でいう「帯封」のことではないか。かの地ではゴム・バンドでとめる習慣があったのか(小説の書かれた1950年代、あるいは現在でも)。

100ドル紙幣で100枚とするといくらウェイドの金回りが良くても多すぎそうだが、50ドル紙幣とか20ドル紙幣100枚なんていうのはありそうだ。この小説の前半で妻のアイリーンが夫はいつもそのくらいを現金で持っていると言っていなかったかな。

19章ではポケットにあった650ドルをヴェリンジャーに渡したともあるし。

 


ロンググッドバイ17章のトリヴィア

2017-08-14 23:07:30 | チャンドラー

最初の段落にYou’re not even betting table limit four ways on Black 28.

とある。その次の文章にNick the Greek 云々とある。いずれも頼りない手掛かりで人探しをする徒労感を表現したものだが、清水訳ではこのところは全く訳されていない。

 Nick the Greek というのはクラップの名人だったらしい。村上訳によると。さて村上訳によると最初の文章は「出る当てもない目にせっせと金を張っているようなものだ」とある。意訳としては間違っていないと思うが、僭越ながら私は「大穴に(確率の最低の目に)目のくらむような大金を賭けるようなものだ」と訳したいがどうだろうか。

 いずれの例えもカジノの博打を例に引いているとみると、Black 28というのはルーレットの目だろう。ルーレットで一番の大穴狙いは単独の目に張ることである。28番は黒である。文章通りに訳すと「黒の28にテーブルリミットの上限の四倍も賭けるようなものだ」くらいであろうか。「出る当てのない目」ではない、「出る確率の非常に少ない、したがって当たれば大穴で配当は一番高い掛け方」すなわち一か八かの大博打ということになる。「出る当てのない目」ではない。「出る確率の小さい目」なのである。

 ちょっと引っかかるのはfour waysというところで、four timesならそれでいいと思うのだが、英語力が未熟で自信がない。

 

 

 

 

 


テリーは若白髪

2017-08-13 04:03:37 | チャンドラー

35歳にもならないのに白髪だから手配写真は要らない。だからチャンドラーはそう書いたのだが、清水俊二訳の「長いお別れ」では

「銀髪だとか、三十五歳以上だとかいうことまでをいう必要もない」(早川文庫80刷83ページ)とある。

 意味が通じないな、と思ってペンギンブックを見ると

Not to mention white hair, and not over thirty-five years old.

とある。Vintage Crime 版でも同じである。村上春樹役でも「三十五歳にもならないのに」と訳している。

 これはここで何回も書いているような翻訳上(演奏上)の解釈の問題ではない。あきらかな誤訳である。この清水訳は1958年初版という。60年間も誤訳を放置してあるわけである。文庫化したのは1976年らしいが、書誌的な興味で言えばオリジナルは正しく訳していて文庫化の際に植字工かタイピストの入力ミスということがありうるのか。私はその手の出版作業の知識はないが。

 清水氏は1988年に亡くなっているから彼自身が文庫化したあとでも間違いに気が付く機会はあったはずだ。これも推測だが現在では版木(正確な言葉は知らない)は電子化されているのだろうから、この種の誤訳は容易に訂正できるはずである。

 それとも、誤訳も著作権で守られていて訂正できないのかな。

 


チャンドラーの警官描写にみるリアリズム

2016-12-18 08:57:00 | チャンドラー

私立探偵小説には探偵を挟んで依頼者と警察があるわけである。とくに殺人事件に発展した場合には。前にも書いた様にマーロウは依頼者のプライバシーを警察に明かさないということを探偵の倫理コードとしている。ダシール・ハメットと明らかに違うところである。 

依頼者が警察に相談しないで、得体の知れない私立探偵(大体アメリカでも私立探偵は社会では胡散臭い存在である)に頼むのは理由がある。警察に知られたくない事情があるからである。そこを配慮しないで依頼者のプライバシーをペラペラ警察に話されては依頼者は困る。

同時に依頼者は私立探偵にも個人的事情(事件の背景と言いますか)を全部は明かしたくない。探偵は必要な情報を与えてくれないと調査できないと苦情を言う。ここで依頼者と探偵の間にもわだかまりが生じる。チャンドラーのマーロウものには両方の事情が過不足無く描かれている。

そこで警察の描写であるが、これもチャンドラーは描き分けている。前の記事で「湖中の女」ではマーロウは警官と親善関係にあり、ほかのマーロウものと違うと書いた。出てくる警官はのんびりした山中の保養地の駐在さんである。大都会ロサンゼルスから来たマーロウの調査方法を感嘆の思いで見ている。マーロウが警官と対立する余地はない。チャンドラーはリアリズムで書いている。

この対極にあるのが、犯罪渦巻く大都会の警察である。ここでは警官と私立探偵はもろに利害がぶつかる。私立探偵は権力がない。警察にはある。そこでマーロウは警官からぶっ叩かれ、縛られ、つばを吐きかけられ、コーヒーをぶっかけられる。(ロンググッドバイのロサンゼルス市警の警官を参照)。

また、地方都市であるが、街全体が汚職で腐敗している都市の警官はマーロウを殴って気絶させ、いかさま精神病院に担ぎ込み麻薬を注射し、ベッドに縛り付ける(「さらば愛しい人」のベイシティの警官参照)。

ま、このように都市、場所によって警官のキャラも様々でチャンドラーはこれを描き分けている。チャンドラーは警察のことも相当取材して書いているようだから、これはリアリズムだろう。

ちなみにロンググッドバイでも郊外の高級住宅団地を管轄する郡警察の警官はロサンゼルス市警と異なり紳士的に描いている。また、最近村上氏が訳した「プレイバック」は大都会を離れた金持ちの住むリゾート団地が舞台であるが、出てくる警官は鷹揚で紳士的に描かれている。

なお、彼がマーロウものにたどり着く前に書いた短編のなかの警官キャラには長編とことなるキャラも出てくる。警官が主人公の小説もある(「スペインの血」など)。マーロウ像を創造してから警官の描写も安定してきたのだろう。

 


やはりチャンドラーだな

2016-12-14 22:23:44 | チャンドラー

プレイバックを読み終わっていくつかの点でそう思った。名エステティシャン村上春樹のおかげで此の小説は様になっている。かれが何処かでいっていたと記憶しているのだが(正しく記憶しているとして)チャンドラーは男性の描写はうまいが、女性の描写はね、というのだ。 

わたしはそうでもないと思う。彼の描く女性は皆なトリックスターなんだね。女性にトリックスターを割り振るというのはあまり例がないが、彼の場合は絶世の美女も狂言回しなんだな。それでうまくストーリーが回っている。

あといくつか彼の小説に共通した『構造的な』特徴がある。前半は依頼人の要求にぶつくさ言いながら調査をする。依頼人から調査の終了を言い渡されても、独自で彼の詮索癖を発揮させる。プレイバックも前半はある女性の尾行を依頼されて実施する。後半は彼のベッドに転がり込んで来た「トリックスター」の女性の告白であったかどうか分からない殺人事件を嗅ぎ回る。 

今回読み直してみて、後半も結構面白い。これは要するに過失殺人なんだな、女性の。正当防衛といいますか。そしてバカ正直なマーロウが現場に行ってみると彼女の申告に反して死体が消えている。

そして真相は(私はこれをネタばらしとはいわない)ホテルのオーナーが共犯者で死体隠蔽をしていたというのだ。例によってマーロウは「好奇心」から相対で此の人物を告白させるが警察には通報しない。何もしないでロサンゼルスに帰ってしまう。口封じの料金も受けとらないで。なぜかって、読むと何となく分かるような気になるかもしれない、読者によるだろう。ようするにそれがマーロウなのさ。 

それでさ、ひとつ破綻が有るというかおかしいと思う所がある。別に辻褄はあうのかもしれないが、素朴な疑問だ。座興に追加しておこう。

彼女は色気違いの女性相手専門の強請屋に迫られてベランダに逃げもみ合いの中で相手をベランダの手すりから階下に突き落とす。相手が長身でベランダの縁が膝ぐらいまでしか無かったので押しのけたら転落して首を追って死んでしまったというのだ。これはその場にいたホテルオーナーの証言だ。

そしてマーロウが調べた時には死体は勿論、血の跡が全くなかったというのだな。おかしくないかな、リアリズムとしては。首の骨が折れれば頸動脈も破裂して血の海ができるんじゃないかな、それとも血の全くでないこともあるのだろうか。

これは私の個人的経験のせいかもしれない。昔インターハイの馬術大会で障害飛越競技で選手が落馬して首の骨を折って落命したのを目撃したことが有る。あたりには血の海が出来た。血で汚れた土は除去して新しい砂を入れて競技を続行したのだが、それでも血の匂いは消えずその障害の前にいくと馬が怯えて飛越を忌避していた。だからチャンドラーの描写が現実的なのかなと疑うわけだ。ま、細かい話だが。

 


フロベールとチャンドラー

2016-11-02 09:15:51 | チャンドラー

チャンドラーの作品で他の作家、とくに純文学作家に言及した所は一カ所しかない。当然でミステリーの中で文学論をしてもはじまらない。 

それは「ロング・グッド・バイ」のなかで、マーロウは流行作家の看護人を頼まれる。例によってそんな仕事は嫌だというのだが、いつの間にかウェイド(そういう作家の名前だったと思う)のボディーガード兼看護人となる。

ボディーガードというのは妻にたいするDVの監視であり、看護人というのはアルコール中毒であるウェイドの監視である。

会話の中で、作家は執筆に呻吟する様になったらおしまいだとウェイドがいうと、マーロウが「フロベールは苦心して書いたが名作を書いた」と反論する数行の箇所である。これは勿論チャンドラーの意見に決まっている。

ま、そんなことでフロベールの名前を覚えていた。この度新潮文庫でボヴァリー夫人を読んだのだが、翻訳を通しても彼の文章が水準を抜いていることが感得出来た。

小説なんて文章なんてどうでもいい、という馬鹿な批評家が生きて行ける日本である。オペラは筋が深刻でテーマが奇を衒っていれば歌手がどら声、悪声でも良いなんていう低能児童いたいなものだ。

たしかにフロベールは一つの頂点である。頂点は複数あってもいい。勿論頂点が百も二百もあっては、もはやそれは頂点というものではないが。私の持論だがいかなる表現形式の芸術でもシュンな期間がある。西欧の小説は19世紀がシュンだった。フロベールはそれを代表する一つの頂点だろう。イギリスは欧州大陸より一ないし半世紀旬の期間が前になる。逆にアメリカ、東欧や中欧は20世紀前半までシュンの時期がずれる。

日本はどうだって、さあどうかな。

 


チャンドラー短編の評価

2015-05-02 08:41:12 | チャンドラー

村上春樹氏はチャンドラーの短編は翻訳する気はないと言う。「短編はどうもね」と何処かで書いていた。質が落ちるという訳である。

その理由は「ブラックマスク」誌の編集方針というか編集者の意向がはっきりしていたというのである。BM誌は扇情低級誌であった。犯罪小説は格好のジャンルであったが、しんねりむっつりでひとりよがりの「本格もの」はお呼びでなかったのである。

クライムノベルでも短編でも小説だから起承転結はある。しかし、紙面の制約からとにかく、活劇場面、猟奇場面が一応描かれていればイントロとか最後の謎解きは編集者に端折られてしまう。チャンドラーと編集者の関係も例外ではない。

BMはいわゆるパルプマガジンである。すなわち粗悪な価格の安い紙を使うからそう言われた。紙代までけちるのだから、小説の長さも「不要部分」は削る様に作者に要求する。これが作品の質に影響する。作者のフラストレーションになる。

最近大いなる眠りを読んだあとで、この作品の下敷きの一つである短編「カーテン」を再読したが、第一章は要領を得ない。初読の時の印象を思い出した。こういうことが他の短編でもあるのであろう。

チャンドラーはこれを嫌って、後半は長編に移行した訳だが、どうも私の観る所BM時代の影響習慣が長編にも残っているようである。よく言われるプロットがあまい、構成が甘い(齟齬がある)、などという批評はBM時代の習性がおのずから残っているのであろう。

チャンドラーの命は印象的なシーンである、それを的確に(相応の感受性を持った)読者に伝える卓越した文章力である。つまり、イメージ、場面優先の作家である。皮肉なことだが、BM誌の商業的な厳しい制約は、別の見方をすれば、チャンドラーの資質を鍛える役割を果たしたのではないか。

 


チャンドラーが描く警官三態

2015-04-29 19:59:51 | チャンドラー

 前回の記事を少し補足した方がよさそうだ。湖中の女、270頁あたりまで読み進んだ。大体初期の作品から全作品を通してチャンドラーは警官にローカル色をつけているようだ。

第一は大都会の警察、ロサンジェルスやハリウッドが大都会といえるかどうかだが、まあ有名な都会だな。この辺の刑事はまともというか紳士的なタイプに描いている。

第二は「在」のお巡りだ。これが暴力的で私立探偵を憎むことが甚だしい。なぐる、ける、でっちあげ、なんでも理由なしにやっていいと考えている。「在」という言葉は分かるかな。もう死語かな。大都市と田舎の中間地域のことで、百姓といえども、都会的な嫌らしさ、こすからしさだけは持っている。具体的な例を挙げると差し障りがあるが、「都下**市」と今では呼ばれるところだ。今では都下というのも死語かな。弱ったな、現代日本語は恐ろしく表現力が衰弱したな。

チャンドラーの作品では「ベイ・シティー」だ。この都市は勿論架空だと思うが、ロスから車でちょいとでたところだ。チャンドラーの作品ではもっともよく出てくる地帯である。

第三は山奥の駐在だ。チャンドラーは純朴に描いている。もっともこの手の巡査は湖中の女だけにしか出てこないようだ。マーロウに非常に友好的、協力的に描かれている。

第四といえるかどうか、留置場の警官はわりと普通の人間として描かれている。ロンググッドバイとか湖中の女にも出てくるが。

湖中の女も読んで行くとベイシティーの刑事警官が出てくる。パトカーで停車を命じて、酔っぱらい運転という罪状をでっち上げるために無理矢理マーロウにウイスキーを飲ませて腹を殴る。吐き出したアルコールで背広が汚れると立派な酔っぱらい運転の証拠になる。日本でもやっているのかな、そこまではしていないだろう。このようにチャンドラーの小説では『在』のお巡りはえがかれているのである。 

以上は極おおざっぱに分類した訳で「大体のところ」ぐらいに考えて欲しい。