声を失ったばかりではない。起き上がれない。手も足も動かないのである。ほぼワン・ミレニアムをひとっ飛びした長旅の無理が出たのかもしれない、と彼は薄れた意識の中で考えた。今度はへそ周りで胴体を輪切りにされたような痛みを覚えた。短い間に幽体化という激変を潜り抜け、今度は無理やりに実体化するという不自然な激変が体に影響を与えないわけはない。大体明智大五郎はこういうことに関してなにも注意してくれなかった。
彼自身も気が付いていなかったのかもしれない。宇宙飛行士だって地上では経験できない環境に行くときには半年から一年以上訓練を受けていく。ミレニアム越えの旅行では周到な訓練が必要だった。無責任な男だ、と明智を心の中で毒ずいた。
カーテンを越してかっと差し込んでいた朝の陽光はしだいに部屋の中を移動していった。もう数時間がたったように思った。ドアがノックされた。彼は動けないし、声も出ない。そのうちにドアのかぎをガチャガチャといじる音がすると、誰かが入ってきた。そのうちに掃除機をかける音がした。清掃係の女性が入ってきたらしい。客はもう外出したとおもったのだろう。客室の床に掃除機をかけ、バスルームで水を流して洗っている音がしていたが、やがて寝室に入ってくると床の上に体を不自然によじらせて倒れている客の姿を発見して彼女は悲鳴をあげた。彼女は掃除機を放り出して部屋を飛び出していった。
やがてボーイを連れて戻ってきた。一瞬ボーイは床の上に横たわっている殿下を見て立ちすくんでいたが、腰をかがめて姿勢を低くすると「どうなさいましたか」と声をかけた。かれは意識はあるが声は戻らない。かっと見開いた眼はボーイを見上げているから眼は見えるらしいが、声は出ない。大体口の筋肉がマヒしているらしく口が開かない。唇がかすかにひくひくと動くだけで一層不気味な印象を与えたらしい。
「お医者さんを呼んできて」と女性に命じた。
彼は相手を助け起こしてベッドに運ぼうとしたが体重百キロ以上はありそうな巨体は動かせなかった。
やがてホテルに常駐しているらしい若い医者が来た。
「先生、彼をベッドに連れて行こうとしたのですが重いんです」というと医者は手を貸して二人係で病人をベッドまで運んだ。途中でからだに巻いていた毛布が床に滑り落ちた。
「さむけがしていたらしいですね」
「そうだな、昨夜は暖房は入れていなかったのかな」
「この暖かさですから、入れていませんが普通なら寒さは感じないはずですよ」
「そうだな」と医者は患者の顔を観察していたが、「ひどい汗だな、着替えをさせたほうがいい」とワイシャツを着たまま寝たらしい相手を見た。
二人がかりで大男の肌着を脱がすと医者は驚いたように声をあげた。左の肩から背中にかけて真っ赤な傷口のような鮮やかな線が体を一周している。ボーイも驚いたように「なんです」と声をあげた。
「辻斬りにあったんですかね」
時代劇のDVDばかり見ているらしいボーイは叫んだ。「真向みじんに袈裟懸けに肩口から切り降ろされている」とボーイは彼なりの診断をくだした。
医者はあきれたように彼を見た。
「馬鹿を言っちゃいけない。辻斬りなんて今の世の中にいるわけがない。二尺三寸のダンビラを振りかざして往来で人を切りつけるなんてことがあると思っているのかね。第一血が出ていない」
「それもそうだ」とボーイは初めて気が付いたように間の抜けた声を出した。第一往来で辻斬りに遭ってホテルまで帰ってこれるかね」と医者はボーイにからかうように調子を合わせた。「ホテルに着くまでに失血死しているよ」と医者は論理的に話を結んだ。
医者は客の裸にした状態を観察していたが、
「三叉神経痛だな、新種のヘルペスかもしれない」
「ヘルペスって」
「感染症だよ。私も実物をみるのは初めてだ。教科書に出ている写真でしか見たことがない。こんなにひどい、典型的な症例は。最近ではほとんど見かけなくなった。たまに幼児で発症するのがいるが、こんなに重症化するのは珍しい」
ボーイは汗だらけの客の体を触った自分の手を慌てて自分の体から離した。
「大丈夫ですかね」と心配そうに聞いた。
「大体成人は抗体を持っているから大丈夫だろう。子供の時分に感染して抗体が出来ているからね」
「しかし、この人は抗体を持っていなかったんですかね。中東の人みたいだけど」
「うむ、まれに大人でも抗体のない人がいるらしいね。ぺルぺス・ウィールスに晒されずに育った人もいるだろう。たとえば人里離れた山奥で外界と接触せずに成長した人とか、絶海の孤島で外界と無縁で成長した人が、大人になって世間に出てきて感染するとひどいことになるそうだ」
「じゃあ中東の人は抗体がないんですね」
「そんなこともないだろうがね」と医者は言った。抗体がある成人でも、ものすごいストレスにさらされると、体の奥に抑え込んでいたウイールスが活性化する場合もあるからな、この人もなにか耐えられないようなストレスにさらされていた可能性もある」
「私は大丈夫ですかね」とボーイはか細い声を出した。
「そんなに心配しなくてもいい。手をよく洗うんだな」
「この人はどうします」
「そうだな、病院にいれたほうがいいな、それは私が手配しよう」