夏目漱石の小説「坑夫」の主人公には名がない。人からは「お前」「あなた」と呼ばれる19歳である。生まれは東京、江戸っ子である。漱石の「坊ちゃん」の主人公と瓜二つである。ただし、こちらはネガだ。
れっきとした良家の坊ちゃんである。頑固で一度決めたらどこまでもやせ我慢する。田舎者を極端に軽蔑する、「坊ちゃん」のぼっちゃんと瓜二つである。
複雑な女性関係から逃げ出そうと東京を「駆け落ち」する。そのころは別に駆け落ちは二人でしなければならないものでもなかったらしい。
もっとも、「複雑な女性関係」とは単純でせっかちな主人公がかってになやむもので実態は他愛のないものらしい。肉体関係なんてもちろんない。
無考えに家を飛び出し、夜通し歩きとおして千住あたりまで来たときに、ポン引きに誘われる。ポン引きといっても今で言う「人材派遣斡旋業者、個人営業」であって、べつに風俗に家出少女をあっせんするばかりではない。
このポン引き氏、こちらには長蔵という名前がついている。交通の要衝で張っていて、家出人、だましやすそうな小僧、ふらふらしている食い詰めものに目をつけて足尾銅山に坑夫として売り飛ばそうというのである。
死んでもいいやと暗い所を目指していた坊ちゃんはたちまち長蔵にくっついていく。長蔵はさらに田舎者一人、得体のしれない子供一人を途中でリクルートして銅山に連れて行く。
物語は実質二日の出来事を300ページ弱を費やして語る。あの、さまざまな事件が起きる「ぼっちゃん」よりも長い小説ではないか。
> 新潮文庫の解説氏は「虞美人草」へのアンチテーゼだというがよくわからない。主人公が悩んだ女性関係が「虞美人草」と同じパターンだということらしい。
この小説は一種のイニシエイション小説ともいえる。19歳の少年がさまざまな困難、経験したこともない社会の底辺、地の底に放り込まれて一つ一つ困難をやり過ごしていくという青年の通過儀礼ともとれる。昔で言う青年団の肝試しだ。
一種と洞窟冒険小説でもある。二日目は案内役に連れられて坑道を下へ下へと生命の危険にさらされながら下りていく。そして帰りには案内役においてけぼりにされたにもかかわらず自力で帰還する。
世の中に地底冒険小説、洞窟探検小説というのがある。日本にはめぼしいのはないが、英米などにある。それに比べてもこの漱石の小説の後半、坑道探検小説は迫力がある。何をやらしてもさすがは漱石の感がある。
地底探検小説として読んでも十分に読み応えがある。とにかく、ほかの漱石の小説に比べてかなり色合いが違う。もっとも主人公の性格は「ぼっちゃん」そのものであるが。
村上春樹の「世界の終りとハードボイルドワンダーワールド」にも地底冒険小説的な章があったっけ。量、迫力ともに漱石には劣るが。
つづく