「中に入ってください」と彼は二人の刑事に言った。入ってきた二人は三和土の空間を占領した。
「ドアを閉めてくれますか」と彼は頼んだ。ドアを開けたまま応対するとマンションの住民に立ち聞きされるおそれがある。どんな話かまだ分からないが周囲の住民には聞かせないほうが安全だ。ドアを彼らの後ろで閉めると、せせこましい三和土ではいかにも窮屈そうである。しょうがないから彼は二人を室内にいざなった。
応接セットに二人を座らせた。ソファには汚れたカバーがかけられているが、むしろカバーを外したほうが清潔な感じがするかもしれない。何年間も洗濯しないから最初は乳白色だったカバーも鼠色に変色している。しかも濃淡のグラデーションがついている。女刑事のほうは癇癖らしく一瞬座るのを躊躇していた。
平敷も彼らの前に腰をおろした。二人は名刺も出さない。警官と言えども話があるならまず刺を通じるのが礼儀だろうに、そうすると俺はすでに容疑者扱いかなと思った。剣呑だから「ご用件は」とも聞かなかった。
向こうも黙っているから「お待たせしましたね」とお愛想を言った。
相手にまず話させることだ。女のほうは無遠慮にじろじろと室内を見まわしていたが、
「なにかしていたんですか」とあからさまに失礼なことを聞いた。
「ええ、女性に見せてはいけないものがありましてね。失礼があってはいけないからどけていたんですよ」とこちらも適当なことを言った。本署に身元確認の電話をしていたなんて言うことは二人が署に戻れば分かることだ。ここで教えてやる必要はない。
彼女の太くて長い一直線の眉が5ミリほど吊り上がった。この大谷という女刑事はひところ三木のり平が出演していた「ごはんですよ」というコマーシャルに出ていた人物に似ている。鼻筋が太くて高くて、凹凸のほとんどない細身の体で上下真っ黒な服装をしている。そのうえ太い黒縁の眼鏡をかけている。声は男みたいだ。わずかに胸のかすかなふくらみが「おんなかな」と相手を惑わせる。もっともそれはすでにスイッチをオンにしたICレコ-ダーのふくらみかもしれない。
栗山という男のほうが話し出した。「先月東西線の落合駅で人身事故がありましてね」というと顔をあげて彼を見た。『ははあ、あの日のことか』と彼は思った。「その事故を目撃されたのではないかと思いましてね」
さあ、と彼は天井に目を向けて考えた。「あの駅はよく通りますけどね。どうして私が」と言った。
「監視カメラを調べたのですが、若い男が相手を線路に突き落としたことははっきりとしているんです。この男も確保しているのですが、これがちょっとおかしくて証言がとれないのです」
「おかしいというと」
「頭が弱いというか、精神障碍者なんですね。当日は本人の母親の葬式があって、それに出席するために施設の職員が付き添って帰宅させる途中だったんですが、これは施設のほうで確認したんですが、とにかく言うことが支離滅裂でね。しかもその突き落とした相手が施設から付き添ってきた職員だったのです」
「なるほど。そうするとその障碍者が突然発狂というか発作をおこしたんですかね」
「まあ、そうでしょう。それで調書を作りまして上にあげたんですが、署長が細かくてね。どうして急に暴れだしたのか、施設の職員が監視していたのに」というわけですよ。「もっとその前後のモニターテレビの録画を調べろと言われました」
そこで栗山刑事は無意識のように煙草を取り出したが慌てて引っ込めた。平敷は立ち上がって台所に行くと小皿を持ってきて「気が付きませんで」と言って彼の前に置いた。
それを見て大谷という女刑事のほうもバッグの中からパッケージを出した。外国製のメンソールだ。栗山はまず彼女の煙草に火を付けてから自分のほうにも火をつけた。
「そうすると、その録画に私が映っていたとでもいうのですか」
「ええそうなんです。事故が起こる少し前なので、しかもその男があなたを蹴っているところがありましてね」
「その犯人はどういう男ですか。年齢とか」
「19歳です。色の白いハンサムな容貌なんですがね。かわいそうに頭は完全にいかれているそうです」
「それなら思い出しました。その男が体を押し付けるようにしてベンチの横に座ったので席を移ったんですがね。それが気に障ったのか、追いかけてきて蹴とばそうとしたんですよ。その時に別の男が駆け寄ってきて後ろから羽交い絞めにした。そうしたらまるで憑き物が落ちたように大人しくなった。わたしは慌てて階段を上って改札を出ましたがね」
「事故のことは見ておられませんか」
「いや見ていないです」
「なるほどね、それで分かりました。じゃあ、その直後また暴れだして、職員が静止しようとしたのを突き飛ばしたんでしょう」というと同僚のほうを見て「いいですか」と確認するように聞いた。女のほうはまだ釈然としない表情をしていた。
「ところで監視カメラの映像が私だとよく分かりましたね」と平敷は聞いた。
「駅員に画像を見せたんですよ。そうしたらそのころ財布を落としたとかで駅員に申告されたでしょう」
「ああそうか」と平敷は思った。
「その時に住所と氏名を書かれた届が残っていて分かったのです」
「なるほどね」
「どうですか、これで書類は完璧だね。署長も満足するだろう」と同意を求めるように同僚に話しかけた。猜疑心の強そうな相棒は黙っていた。まだ不同意らしい。また部屋のなかをじろじろと見まわした。
ようやく二人の刑事が帰った後で、かれは今度麻耶が来たら今日のことを話してやろうと思った。彼女は面白がるだろう。