これまでに「つゆのあとさき」について、ずいぶん述べてきたが、これはハードボイルドとか推理小説の手法の影響が物珍しかったからである。肝心の作品の品質ということだが、あまり感心しない。
全体に分かりにくい、荷風の小説にしては。構成がごつごつしてい、記憶に残らない。ということで荷風の作品としては高い評価はできない。この作品のすぐ後に例の評価の高い「墨東奇談」が出てくるのだが、時期が隣接している割には高い評価はできない。岩波がこの小説を単体で文庫に入れたほどの価値はない。
これまでに「つゆのあとさき」について、ずいぶん述べてきたが、これはハードボイルドとか推理小説の手法の影響が物珍しかったからである。肝心の作品の品質ということだが、あまり感心しない。
全体に分かりにくい、荷風の小説にしては。構成がごつごつしてい、記憶に残らない。ということで荷風の作品としては高い評価はできない。この作品のすぐ後に例の評価の高い「墨東奇談」が出てくるのだが、時期が隣接している割には高い評価はできない。岩波がこの小説を単体で文庫に入れたほどの価値はない。
梅雨の後先にはほかの作品にみられない試みがいくつか見られる。
大衆小説界のボス清岡がなじみの女給を密かに尾行する描写がある。ほかの荷風作品に尾行場面はなかったと記憶する。別にブラックマスクの影響ではなくても、当時は「探偵小説」が流行りだしたころで、江戸川乱歩も活躍していた。どうも荷風はこの作品でHBや探偵小説の技法を導入し試したらしい。
その後はこの異分野の技法は見られないが、いずれにしても異色の作品と言える。
いずれも墨東奇談(岩波文庫)数字はページ数
*94 わたくしはこの東京のみならず、西洋にあっても、売笑の巷のほか、ほとんどその他の社会をしらない。
*96 正当な妻女の偽善的虚栄心、公明なる社会の詐欺的活動に対する義憤は、彼をして最初から不正暗黒として知られた他の一方に馳せおもむかしめた唯一の力であった。
*96 投げ捨てられた襤褸の片にも美しい縫い取りの残りを発見して喜ぶのだ。正義の宮殿にも往々にして鳥やネズミの糞が落ちているのと同じく、悪徳の谷底には美しい人情の花とかぐわしい涙の果実がかえって沢山摘み集められる。
だいぶ前のアップで川端康成の雪国に出てくる無為徒食で自身は西洋の舞踏の研究家だというのは永井荷風ではないか、と記した。おそらく菊池寛に使嗾されたものではないかというのである。それで川端康成は書き始めたが、さすがに師匠菊池寛がいうように品のないことは書けないと、現在の作品になったらしい。昭和十年ころの話だ。それで川端は目出度くノーベル賞。
つゆのあとさきの犯人役は通俗小説作家の世界のボスである。なじみの女給にストーカー行為を繰り返す。猫の死骸を彼女の押し入れに放り込んだり、髪を切ったり、着物を切ったりする。簪をとったりする。それで女給の君子は占い師に相談に行く。どうも読んでいくとこの人物は菊池寛らしい。作品は昭和11年。
犯人はだんだんやり方がエスカレートしていく。彼の弟子が必死に師匠を止める場面がある。そうして匿名の手紙で君子に警告する。
この辺の骨組みや進行具合はハードボイルらしい。
次回は君子の造形について。あるいは永井荷風の女主人公の造形について
誤った印象を与えたかもしれないので補足します。10月14日の「荷風の読書日記」で当時アメリカで流行りだしたハードボイルどタッチの作品があると書きました。その後気になったのでその作品を探したところ、昭和六年の作品「つゆのあとさき」に今でいうホステス(女給)とタクシー運転手のいざこざの記述がまあ、ハードボイルド風でした。運転手と言い合いになり、降りるときに運転手がわざと急発進して3,4日のけがを女給に負わせた叙述があります。ハードボイルド風というのも大げさだが、いずれにせよ、荷風のタッチではないので記憶していた。
この小説はかなり長編で問題の個所は2,3ページだけなので作品全体をハードボイルド風というのは言い過ぎでした。
この作品は出だしもちょっと変わっていて最近いろいろいたずらをされるので占い師に女給が相談に行くところから始まっています。これなんかもクライエントが私立探偵に相談に行く雰囲気で荷風としては変わっています。チャンドラーなんかこのパターンですよね。相談に行くところが私立探偵か占い師かの違いですが。やはり当時のアメリカの小説なんかに触発されたという気がしますね。
この中公文庫谷崎の日記は勝手につまみ食いをした、しかも編集方針が分からない断片的なものである。日記としてはまず「最低」と言ってよい。
すなわち、昭和十九年一月から十二月、昭和二十年三月の東京大空襲から八月十五日の日記、昭和二十年の十二月から三月十七日までの断片である。編集者はこの切れ切れに収録した理由を述べていない。不誠実、迂闊な話である。
谷崎の小説は大昔読んだがあまり記憶にない。つまらないという印象が残っている。収録された日記の記述は中学生、高校生でも書ける平凡な調子である。編集採録方針は不親切で不誠実という印象だ。
なお、日記の部分は125ページまでで、その他に当時書かれた短編やそのほかの文章が収録されている。それはまだ読んでいない。
昨日短時間で飛ばし読みをした印象だから、もう一度腰を落ち着けて読んでから印象を追加したい。
#さて、ポジション・レポートは相変わらず下巻120ページあたりで停滞。そこで気を取り直して?最後にあるスタンダールの自著宣伝文と翻訳者の解説を読んでみた。
自著宣伝文は自作がイタリアで出版計画があり、自著宣伝のためにスタンダールが書いた文章を本文と同じ翻訳者が翻訳したものだが、普通は宣伝のために自著を解説すると、本文より分かりやすく書ものだろうが、この「赤と黒について」は本文の要約としては余計分かりにくくなっている。もっともこれは翻訳者に責めがあるのかもしれない。
しかし、結局イタリアでは出版されなかったそうである。
#この文章の後ろには翻訳者小林正の解説「スタンダール 人と作品」という付録があるが、わかりやすく言うと「読むに堪えぬ文章」である。そこで売り上げ記録を見ると、初版は昭和33年で令和元年までに88刷でている。いささか唖然とした。
日本人の読書レベルがそんなものかな、と思った。これを読むと本文の翻訳の質はどうなんだろうと疑問に思った。
そこで残りを最後まで読むかどうか迷っている。
#話は違うが本日中公文庫で谷崎潤一郎の「疎開日記」を買った。永井荷風が終戦末期に谷崎を訪れたというので買ってみた。読んで面白ければ後日紹介したい。
赤と黒は特定の集団、社会階級を表していないのでは?
赤は主人公の特殊な獣欲才能、美貌の未亡人をたらしこんだり、下巻では自分を引き立ててくれた侯爵の娘をたらしこんだり、のソレルの特殊才能のことだろう。
そうすると黒は何だ。二十世紀の中ごろから使われだした「ノワール小説、あるいは映画、と同じ感じではないか。訳すなら黒=暗黒ということだ。
特定の社会集団組織とは関係がないだろう。それだと黒に該当する説得力があるものがない。一種のレトリックだね。
インターネットを見ていたら面白いものを見つけた。年代は分からないが、フランス版の表紙の写真だ。「ルージュ エ ノワール」だが、ルージュはフォントでいえば12ポイントなのにたいしてノワールは24ポイントと倍以上の大きな活字なのだ。この表紙がスタンダール生前のものなら、作者の意向を反映したものだろう。ようするに現代語で言うなら、これは「ノワール小説」なのだ。うまく纏まったかな。お後がよろしいようで。。。
訂正:ソレルが最初に狙ったのは未亡人ではなく、人妻でした。訂正します。
題名の赤と黒が何を表すか。結論=不明
Wikipediaによると赤は軍人、黒は聖職者という説が紹介されているが、赤は軍服に多いというので分かるが、黒が聖職者というのは意味不明である。仏教なら墨染の衣と言われてわかるが、キリスト教では黒が聖職者を代表する色ではない。それに、ソレルがパリの有力政治家のひきでパリに出てきたが、その周りの人間がみんな黒い服を着ているという記述があり、作者が黒で聖職者を表してたというのはいただけない。むしろ作者の言うように黒は腹黒い王政復古派の政治家ととるのが自然だろう。
ソレルは出世の道として最初は、だれでもがそうであったようにナポレオン崇拝者でもあったが、パリに出てきて政治家としての野心が出てきたという王政復古後の若者の通弊ととるのが自然だろう。
大体、作者が題名を解題していない(下巻初めまで)のも妙だ。大体このくらいまで読むと題名が腑に落ちるのが普通なんだけどね。
むしろ赤は情欲(夫人との関係)で黒は主人公が失敗して最後は死刑になることを表しているのか知れない。
ポジション・リポート68ページ、新潮文庫下巻
さて、ジュリアンは神学校をやめてめでたくパリの政界の有力貴族のサロンで活躍し始める。
そこで当時の政界談義を長々と始める。ほとんど三人称の視点で(実際はジュリアンの観察ということになっている)。そんなことは日本の読者には無用のことである。フランスの作家ではバルザックもこの癖がある。もっともバルザックは実際に代議士としても活躍したそうだが、それにしてもフランスの政界工作なんかわれらには全く興味がない。それが小説全体の理解に不可欠ということは全くないようだ。スタンダールの場合も。
永井荷風のたしか「伝通院」という随筆だったと思うが、少年時代の思い出で伝通院前の路上で浪速ぶしを語って通行人の投げ銭をもらっていた老人の思い出がある。
最初は調子が出ない、声がでないが、だんだん体が温まってくると、喉に溜まった大きな痰を吐き出して調子を上げてくるという思い出である。
スタンダールの赤と黒も段々そんな具合に調子が上がってきた。新潮文庫上320ページあたり、ブザンソンの神学校で校長に面会して失神するあたりから調子が出てきた。思わず伝通院の浪速ぶし語りを思い出した。
作家によっては途中から調子を上げてくる連中があるから注意して、辛抱強く読まないといけない。
久しぶりにポジション・リポートです。どうも読んでられない。やはりカンが当たったようである。
永井荷風の日記にスタンダールへの言及がなかったようなきがするが、ちょこっと読んでみて、こりゃダメだと思った。現在新潮文庫上巻158ぺージまで堪えて読んだ。最後まで読めるかどうかわからないのでとりあえずポジション・リポート。
日本ではかって、文壇を中心として、女を踏み台にした貧乏青年の出世物語として絶賛された作品らしい。彼らの教科書となったらしい。すくなくとも荷風の読書対象とするべき品質はない。行文も陳腐である。
読書能力も一ページも読まずにカンで、書籍を匂いで排除するようになれば一応水準かな(自画自賛)。
荷風の日記は来訪者あるいは飯を一緒に食った人の名前、場所それらが読書日記が主要な内容をしめる。他人の文章で一番多いのは江戸時代の漢文(墓碑銘を含む)、それからフランスの書籍が多い。
フランスではもちろんモーパッサン、ゾラ、ジッドが目につくが、その他では無名の(或いは私の知らない)作家の作品が多い。おそらく同時代の作家だろう。たえず、フランス文壇の時流に関心があったようだ。
アメリカの作家もみられる。荷風は銀行員としてニューヨークに滞在していたし、その関係で実業界との交友があった。それらの友人がアメリカの最近の事情を報告していたらしい。
前に読んだ作品でタイトルは思い出せないが、ハードボイルタッチの作品もある。おそらく実業界の友人が「こんなのがアメリカで流行っているよ」と雑誌を持ち帰ったものらしい(ブラックマスクあたりか)。それを模倣したのか、ごく短い作品で駕篭かき風のタクシー運転手とキャバレーの女給を思わせる女とのトラブルを描いている。ハードボイルド・タッチはこの作品一つだとおもうが、
食わず嫌い、というのではないが、有名な小説で長年の間読む気がしなかったという小説があるものだ。理由は本人にもわからない。書店で思いついて引っこ抜くがまた棚に戻してしまう。
なにか、作者に反感があるというわけでもない。伝え聞く内容が気に食わないというわけでもないのだが。
そういう本の一つにスタンダールの「赤と黒」がある。大抵の人なら読書経験の浅いうちに読んでしまっているものだろう。ところが私の場合、上に述べたような事情で読んでいないのだ。
岩波の荷風全集の断腸亭日乗全七巻をどうやら読み終わって、口(目)寂しい折からか、今日、本屋で新潮文庫の赤と黒を買った。上下巻で千ページ近くある。だいぶ持つだろう。
岩波版荷風小説には戦後の作品が四編しか採用されていない。最晩年はともかく、短編が主とはいえ、断腸亭日乗によれば戦後多くの作品を発表しているにも関わらず四作品しか採用されていない。
採用される質が劣るというなら何らかの言及があって然るべきである。」普通作家の全作品リストがあり、作品の年譜があるがそれもない。
考えられるもっとも有力な説は版権の問題で収録できなかったのであろう。終戦直後の混乱期で各出版社、雑誌に発表されたものは版権がはっきりしない、あるいは紛糾があるという理由しか考えられない。
晩年の作品は不可欠だ。傾向、筆力、などの観点から網羅的に収録するのが良心的である。出来なければその理由を明記するのが岩波の義務である。