俺は生涯処女を犯したことは無い、と荷風は自慢していたそうである。さる伝記作者の伝聞情報であるから真偽はここで問わない。しかし言いそうなことであり、荷風の本質をついているところだと思う。
荷風は若年から恋愛遊戯に耽ったことを赤裸々に述べているが、上記の言葉は素人を相手にはしなかったという主義というかライフスタイルである。
モラリストだからか、そうではない、と思う。彼の偽善を憎む潔癖を表しているのだ。
墨東奇談にいう(以下当て字で行く、ワードの変換が面倒なので)「私はこの東京のみならず、西洋にあっても、売笑の巷の外、殆どその他の社会を知らないと言ってもよい」
同書に彼の旧作『見果てぬ夢』を引いて、「正当な妻女の偽善的虚栄心、公明なる社会の詐欺的活動に対する義憤は、彼をして最初から不正暗黒として知られた他の一方に馳せ赴かしめた唯一の力であった。つまり彼は真っ白だと称する壁の上に汚い様々な汚点を見出すよりも、投げ捨てられた襤褸の片にも美しい縫いとりを発見して喜ぶのだ。云々」
男女の慾情取引は公正な情報公開市場で行われることはまれである。見合いのアレンジメントに釣書という、まさにそのものずばりのものがある。見合いの場合はまだいい。様式化された習慣であったし、お互いに承知の上で割り引いて考える。
現代の社会において、つまり自由恋愛においては、だましあいに何の制約もない。
何事にも例外はある。純真無垢な恋愛にはじまり永続する幸福な結婚にいたるケースもある、稀ではあるが。世の中には仕合せな人もいるのである。だましあいも駆け引きもないカップルもある。
女性の精神をもっとも荒廃させるのは、絶えまないだましあいによる男女間の駆け引きである。
このだましあいは素人女性の場合がもっともひどいが、勿論クロウトの世界でもある。一番おおっひらではなはだしいのは銀座などの高級クラブの女給(ホステス)である。ルールもなにもない。
もっとも、だましあいの少ない公正な市場取引が行われるのが昔で言えば最下層の商売である赤線であろうか。現代で言えば風俗かな。もっとも風俗と言っても山賊と同じものも一部にはあるらしいが。そういう意味では芥川賞作家西村賢太氏は正統派である(ハタ迷惑だろうな、こんなところで参照されては)。
その市場慣行とは、現金正札販売、かけ売りなし、現金決済という理想的なものである。したがって、こういう世界には女性でも比較的精神が破壊されていないものが見出される。
つまり「投げ捨てられた襤褸の片にも美しい縫いとりの残りを発見する」のである。荷風が舞台を玉ノ井に設定したのはまさにドンピシャの必然性があったのである。
ここに数多くの荷風の花柳小説中、不動の傑作としてそびえる作品が成立した理由があるのである。計算しつくされた状況設定だろう。
「男に対する感情も、私の口から出まかせに言う事すら、そのまま疑わずに聴き取るところをみても、まだまったく荒みきってしまわないことは確かである。、、、そう思わせるだけでも、銀座などの女給などに比較したなら、お雪の如きは正直とも純朴とも言える。、、銀座あたりの女給と比較しても、後者のなお愛すべく、、、ともに人情を語ることが出来るもののように感じたが、」
以上主として状況設定の必然性についてのみ指摘したが、もちろん、この作品の素晴らしさは唸らせるような名文にある。
この小説を読んだ昔から考えてみるとその後おびただしい作品を読んだが、一体何の意味があったのだろうか、と再読して索然たる思いにとらわれ嘆息した。