今話題の芥川賞作品「火花」、昨日文藝春秋を買いました。選者のコメントと一緒に読むために雑誌の発売を待っていました。
何年か前に芥川賞作品の書評を何回かしましたが、馬鹿馬鹿しくなって止めてしまったのですが、今回はニュース性のある作品が出て来たので取り上げようと。
大分前に書いたのですが、この書評ブログで取り上げる作品のカテゴリーは
1:センチメンタルジャーニータイプ、すなわち何十年前に読んだものを再読する気になった場合の書評
2:ニュース性の話題があるもの、最近のベストセラー、芥川賞等の受賞作
今回は久しぶりにタイプ2です。あまりこのカテゴリーの本は書評に取り上げる食指が動かないのですが、馬鹿売れしているので書評で取り上げると当ブログのアクセスも増えるのではないかとのスケベ根性がはたらくわけでございます。
例によって進行形書評であります。最初の2、30頁を読んだところでは、
1:スキャンダラスな作品ではない。
2:文章に力がない優等生的作品である(意外にも)。
ということでしょうか。
数年前に取り上げた時からの選評者も多いようですので、評者別に同意、不同意を見て行きましょう。
宮本輝氏:彼の評は前にも比較的同意出来る点が多かったが、「生硬な文学的表現の中に云々」とある。生硬とは言い得ている様に思います。ただ文学的表現かどうかは疑問です。文学的といわなくても小説的といったほうがいいのかも知れないが、なにか消化不良の聞きかじり的表現論が会話のなかに頻出するが、小説とはこういう生硬な理屈っぽい議論を別の表現でするものではありませんか。しかもこの種の記述が多すぎる。
山田詠美氏:この人の評はいずれの場合ももっとも適切だったという記憶がある。評言に感心して彼女の作品を読んだが、どうも感心しなかった。適切な評をするからといって作品のレベルと関係はしないようです。
芥川賞の授賞が決まった後で彼女が選考委員を代表して発表したニュースをテレビで見たが、「一行一行にコストがかかっている」と言っていた。非常に印象に残っていたのだが、文藝春秋に掲載された評ではこの部分は消えている。どうしてかな、言い過ぎたと反省したのか。掲載された評には失望した。
村上龍氏:これまでの評には感心したことがなかったが、今回はポイントをついている。「作者自身にも指摘できていない、無意識の領域からの、未分化の、奔流のような表現がない」。その通りでこれが火花の特徴であり欠点でしょう。
ようするに変に老成している。老人が俳句会でああでもない、こうでもないといじくりまわしているのに似ている。勿論推敲というのは大切だが、なんというか、生気が失われている。
島田雅彦氏:言っていることはこの人にしては珍しく的を外していないが、「読み応えのある小説が一本仕上がることを又吉が証明した」とは言えないだろう。
ところで関西弁は文章で書くと肯定なのか否定なのかわからなくなるね、関西弁を知らない者には。
久しぶりに文藝春秋を買ったが活字が大きくなったのかな、また行間もゆとりができたみたいで目に優しくなったという印象である。