穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

直木賞選考の真面目度

2023-08-13 10:42:24 | 芥川賞および直木賞

芥川賞と直木賞の選考書評は月刊文春で発表される。またインターネットでも見れる。

芥川賞の選評にくらべて直木賞のそれは「真面目」である。もっともこれは数年、十年以上前の印象で最近はどうか知らないが。

直木賞の選考対象は大体すでに何冊か商業出版された実績のある作家である。いわば同業者が同業者を批評している。慎重にならざるを得ないという事情もあるのであろう。芥川賞の選評がなげやりであるのに比べて真面目というか一生懸命で読むに値するという印象だ。

ただこの書評ブログの対象ではない。そんなことで長らくこの二つの文学賞は当ブログの対象から外してある。


なぜ芥川賞と直木賞の書評をしないのか

2023-08-13 10:24:51 | 芥川賞および直木賞

毎年二回同時発表される芥川賞と直木賞の受賞作品を書評で取り上げないのか。前にさんざん書いたことの繰り返しになるが。

選考過程というか、特徴が問題だと書いた。まず簡単に芥川賞作品に触れると

1:選考の目的は将来を期待した、いわば伯楽的な性格を持っているらしい。したがって、私の感想であるが、受賞作品そのものは面白くないものが多い。完成していない。伯楽ではないから、この作者が将来どう変身して才能が花開くのかは全く不明である。

また、本来はより商売的な性格がある直木賞よりかは、選者の投げやりな感想が多い。それにもかかわらず、受賞者のピックアップには気をてらったものが多い。今回もそうだ。

続く


「コンビニ人間」村田さやか

2016-07-30 11:01:08 | 芥川賞および直木賞

芥川賞受賞作を久しぶりに読みました。たしか今回の受賞者は一人でしたよね。複数の場合はどうも程度が落ちるようなので、今回一人というのですこしはましなのではないかと思いました。それとタイトルね、コンビニなんて毎日使っているのでタイトルにもひかれました。

数年前に二、三回芥川受賞作を取り上げていたのですが、その時は文春に掲載された時点で選考委員のコメントを批評するという形式だったのですが、今回は其の前に単行本で読みました。

まず構成が決まっているな、という感想です。前半はコンビニのルポルタージュとしても興味の持てる書き方です。客ではなくて店の視点で記述されているわけで、へえそうなの、とか意外に嫌らしい経営マニュアルだとか、興味を持たせます。

中盤から後半フータロウ(フリーターというのかな)の白羽くんが出てくるあたりからガラリと一転。作者はSF的な物を書いて来たとかどこかで読んだ記憶があるが、そんなところも感じさせる。シグマ2.79の男とシグマ2.79の女を「同棲」させるむずかしい構成でありながらドラマとしての緊密さを失っていません。なかなかの書き手ですね。


男グルメの山田詠美さんがウェルダンなんて

2015-08-08 12:35:48 | 芥川賞および直木賞

前回の芥川賞選評だが、山田詠美さんが「火花」をウェルダンだと書いている。いつから食事傾向がかわったのかな。もうお茶漬けさらさら沢庵ぼりぼりに嗜好が変わったのでしょうか。 

アンダーダンの間違いじゃないの。レアとか。もっとも、彼女が最初の入れこみ『一行一行にコストがかかっている』を褒めすぎたと気が付いて修正したのか

この作品は弄くり回してこちこちになっている所が有る。それは別の表現で前回触れたが、そう言う意味で焼過ぎてこちこちになった肉という意味で言ったのなら分かります。 

なかには相変わらず褒め言葉だと受け取る人もいるだろうから。

出版業界への義理もはたしたわけである。授賞前にこれほど売れていれば選評者が賞を企画した出版社の顔色をうかがうのは当然かも知れない。

滅茶苦茶売れている作家で出版社が拝み倒して書いてもらうような作家なら出版社の顔をうかがう必要もないが、そういう人はそもそも選評者になる暇なんてないからね。

言わずもがな:: ウェルダンにはよく出来ましたという意味もありますよ。以上の趣旨は山田氏は両義的に使ったのではないか、ということです。こんな断りを入れることはないのですが、どんな受け取り方をする人がいるか分からないのでね。

 


『一行一行にコストがかかっている』「火花」

2015-08-08 07:59:46 | 芥川賞および直木賞

今話題の芥川賞作品「火花」、昨日文藝春秋を買いました。選者のコメントと一緒に読むために雑誌の発売を待っていました。

何年か前に芥川賞作品の書評を何回かしましたが、馬鹿馬鹿しくなって止めてしまったのですが、今回はニュース性のある作品が出て来たので取り上げようと。

大分前に書いたのですが、この書評ブログで取り上げる作品のカテゴリーは

1:センチメンタルジャーニータイプ、すなわち何十年前に読んだものを再読する気になった場合の書評

2:ニュース性の話題があるもの、最近のベストセラー、芥川賞等の受賞作

今回は久しぶりにタイプ2です。あまりこのカテゴリーの本は書評に取り上げる食指が動かないのですが、馬鹿売れしているので書評で取り上げると当ブログのアクセスも増えるのではないかとのスケベ根性がはたらくわけでございます。

例によって進行形書評であります。最初の2、30頁を読んだところでは、

1:スキャンダラスな作品ではない。

2:文章に力がない優等生的作品である(意外にも)。

ということでしょうか。

数年前に取り上げた時からの選評者も多いようですので、評者別に同意、不同意を見て行きましょう。

宮本輝氏:彼の評は前にも比較的同意出来る点が多かったが、「生硬な文学的表現の中に云々」とある。生硬とは言い得ている様に思います。ただ文学的表現かどうかは疑問です。文学的といわなくても小説的といったほうがいいのかも知れないが、なにか消化不良の聞きかじり的表現論が会話のなかに頻出するが、小説とはこういう生硬な理屈っぽい議論を別の表現でするものではありませんか。しかもこの種の記述が多すぎる。

山田詠美氏:この人の評はいずれの場合ももっとも適切だったという記憶がある。評言に感心して彼女の作品を読んだが、どうも感心しなかった。適切な評をするからといって作品のレベルと関係はしないようです。

芥川賞の授賞が決まった後で彼女が選考委員を代表して発表したニュースをテレビで見たが、「一行一行にコストがかかっている」と言っていた。非常に印象に残っていたのだが、文藝春秋に掲載された評ではこの部分は消えている。どうしてかな、言い過ぎたと反省したのか。掲載された評には失望した。

村上龍氏:これまでの評には感心したことがなかったが、今回はポイントをついている。「作者自身にも指摘できていない、無意識の領域からの、未分化の、奔流のような表現がない」。その通りでこれが火花の特徴であり欠点でしょう。

ようするに変に老成している。老人が俳句会でああでもない、こうでもないといじくりまわしているのに似ている。勿論推敲というのは大切だが、なんというか、生気が失われている。 

島田雅彦氏:言っていることはこの人にしては珍しく的を外していないが、「読み応えのある小説が一本仕上がることを又吉が証明した」とは言えないだろう。

ところで関西弁は文章で書くと肯定なのか否定なのかわからなくなるね、関西弁を知らない者には。

久しぶりに文藝春秋を買ったが活字が大きくなったのかな、また行間もゆとりができたみたいで目に優しくなったという印象である。

 


「九年前の祈り」小野正嗣

2015-02-14 17:59:15 | 芥川賞および直木賞

久しぶりに芥川賞受賞作を取り上げた。大分前に、西村賢多氏が授賞した時に、その経歴の特異性にひかれて書評をこのブログで試みた。ニュース性のみではなく、内容も興味が持てたのでかなりの回数アップした記憶が有る。

その後、惰性で二、三回受賞作を取り上げたが、つまらない物ばかりで書評のために読むのが苦痛になったので、やめてしまった。

さて、今回小野氏の『九年前の祈り』を取り上げたのは特別の理由があるわけではない。ちょうど端境期で種切れということもあり、枯れ木も山のにぎわい、というわけである。

時間の扱い方がモディアノそっくりだね。真似たかどうかはわからない。氏はフランスに8年間留学していたそうだから、手法を真似した可能性は高いと思う。過去と現在の叙述が切れ目無く継ぎ合わされているわけだ。読んでいてすぐに分かる訳だが。この辺がモディアノに比べて工夫がないというか、芸がないとも言える。

もちろん、肌合いとかテーマ、質感は全然ちがう。肌合いという点で言えば、モディアノはさっと水彩画で一はけ書きしたような印象だが、上野氏はべっとりとした感じである。

叙述力、比喩力はあるようだ。

最後の何行かは不要である。これがあるためにハッピーエンドになっているが、どうも唐突であるし安っぽくなる。もっともこの「おち」がないとタイトルの「九年前の祈り」と繋がらない訳だが。最後の十二行を削除して、タイトルも別のものを考えたら良かったのではないか、と思う

選者の一人である山田詠美氏の評ではこう表現されている。「この作者は、彼女を生まれ変わらせる。その静かな再生の気配に寄り添えるのか、否か。私は残念ながら後者だった。」さすが山田さん、うまいね。

 


芥川賞の退廃きわまれり:おまけ

2012-04-26 23:40:31 | 芥川賞および直木賞

芥川賞の候補は雑誌掲載や単行本で発行されたものから選ぶそうだ、とこの前書いたが、改めて彼らの経歴をいくつかあたってみると、皆、何かの新人賞みたいなものを既にもらっているわけだ。

だから芥川賞よりグレードが下がる(そういう謂い方がいいかどうかは知らないが)何らかの賞をめでたく通過した人たちだ。こういう賞の選考も、作家志望のなれの果て、編集者の落後者でワンサカいる下読み連中の気に入らないと浮かんでこないということらしい。

選考方法は大体同じらしい。下読み君がいいよといったものを下読みのボスが3,5作に絞って選考委員にあげると言うスタイルは芥川賞と同じらしい。てことはだね、深田先生が「碌な作品がない、退廃極まれり」というのは下読みが選んだ作品にはということだ。

下読みがはじいた、理解できなかった、下読み体質に合わなかった作品にとんでもない良い作品があるかもしれませんよ。


芥川賞の退廃きわまれり

2012-04-26 20:35:51 | 芥川賞および直木賞

今月の月刊誌WILLに作家深田佑介氏の表題の文章がある。私もこのブログで今年の芥川賞の二人の書評を昨年に続いて書いた。

別に深田氏のようにその退廃を悲憤慷慨するほどの気力はないが、今年の芥川賞二人については書いたとおり、書評を身を入れて書く食指が動くような代物ではなかったな。

退廃と言うから昔はすこしはましだったのだろうか。あまり読んだことがないのだが、大昔のことはいざ知らず大体似たようなものではないかな、とも想像するのだ。

とにかく、最近読んだものの大部分はたしかに深田氏のいうようにひどい。しかし、まめに昔から多数の候補作を読んできたわけではないから絶対的な評価と言うか、時系列的な比較はできない。

その原因というか責任はどこにあるか、と問うわけだ。深田氏はこんな現状では審査員なんかやっているほうがおかしいと言う。石原慎太郎氏の辞任は当然、だという。

作品が悪いのか、選考委員がわるいのか、はたまた選考過程が悪いのか、それには彼は触れていない。

小沢一郎裁判と同じでオイラは(私から急にいい慣れたオイラになる。以下おなじ)、証拠を持っているわけではない。

いろんなケースが考えられる。可能性だよ。断定しているわけではない。

選考委員が悪いと言うことも考えてみる必要があろう。しかし、選考委員が読むのはせいぜい編集者や下読みが読んで推薦した4,5編を眺めるだけだと言う。そうすると、第一次か二次かしらないが、石原慎太郎クラスの選考委員まで行く前に、彼らがいいものがあっても拾い上げなかったら屑ばかり、選考委員はあてがわれるわけだ。

選考委員はこの業界で生きていくしがらみもある。義理もある。人情もある。利害にからむ思惑もあろう。適当にカンカンガクガク(ワード変換不能) して入れ札をすることになるのであろうよ。

聞くところによると、下読み連中の場合はもっとひどいようだ。ブローカーかフィクサーみたいな古だぬきがにらみを利かしていて、徒党を組んで八百長をするらしい。芥川賞や直木賞のように一応活字になったものを選考対象とする場合はそれでもある程度歯止めがかかるが、エンタメ系の新人賞などひどいものらしい。


既視感が付きまとう「道化師の蝶」

2012-02-13 21:34:54 | 芥川賞および直木賞

芥川賞円城塔氏の「道化師の蝶」だがもう少し読み進んだ。これは新しいタイプなのか。疑問になってきた。デジャブが付きまとう。既読感というかな。

欧米のある種の作品の下敷きがあるんじゃないのかな。彼は文章のセンスはあるから、翻訳臭は感じさせないが。

どの作品とは覚えていないが、似たようなものを読んだような気がする(複数)。一歩譲歩すれば「構造的に」同じものを。

彼の話題の飛び方は、ごく古いところでいえば、18世紀の怪僧ローレンス・スターン作のトリストラム・シャンデイのパロディのようでもある。

やたらに、新しい、新しいというと恥をかくかもしれない。

話題の飛び方や筋の変換にナンセンスの面白さがあるといえる。その手際だがわりかし軽快にこなしているようにみえる。

&ちょいと追加;一部のSF(古典)にもいくつか脈絡のつかないものがあったね。小説に限らなければ、インディジョーンズなんか似たようなシッチャカメッチャカなのがある。スピルバーグの映画なんて、オイラからみればみんな支離滅裂で似ているとも言えようか。

一部の映画なんて、シーン、シーンがあんちゃん向け、あんちゃん受けのインパクトがあれば筋だとか、つながりなんて関係無いのが多い。

一部の芥川賞選考委員のようにメタ言語がどうのこうのとピントはずれなことを知ったかぶりで言わないほうがいい。


芥川賞「道化師の蝶」

2012-02-11 08:10:00 | 芥川賞および直木賞

円城塔氏の作品三分の一ほど読んだ。それほど読みにくい作品じゃない。理解しようと力むからいけないんじゃないかな。

石原慎太郎氏が尻取りゲーム見たいと言ったが、なかなか適切だ。ま、ジャズのようにアドリブで繋いでいく、アドリブとはいわないのかな、専門家は、インプロヴィアゾとでもいうのかな。

少なくともクラッシックみたいに肩のこる起承転結を期待してはいけない。

選評はざっと見にはここでも山田詠美氏と石原慎太郎氏が一番的を得ている。価値評価は山田氏と石原氏とは真逆だが、いずれも本質をとらえている。

言葉が音のように鍵盤の上を気ままに飛び跳ねていくと思って読めばいいだろう。

さて各選考委員の理解力を査定する。

黒井氏、そんなに真正面から苦しみなさんな。

川上弘美さん、とんちんかん、そんなに難しくひねくりまわすことはない。

高樹のぶ子さん、ご苦労な解釈をしている。もうすこし肩の力を抜きなさい。

島田雅彦氏、どうしてこの人は大上段に学生みたいに振りかぶるんだろうね。

宮田輝氏、すこし持て余し気味だね。


芥川賞二作選考委員の珍評を批判する

2012-02-10 20:19:50 | 芥川賞および直木賞

共食いを三分の一ほど、道化師を二、三ページ読んだが正直書評する食指が動かない。

まず、共食い。

石原慎太郎氏ではないが、これを読みとおすのは苦行だね、仕事じゃなければとても出来ないんじゃないかな。

ところが書評を見て驚いた。非常にポジティブな評価ばかりだ。もっとも石原氏は、何も言わず、彼はむしろ長編に向いているのではないか、と意味深長なことを言っている。どういう意味だか分からないが。

ただ、前に本屋で二、三行立ち読みして、コンベンショナルな作品(従来型)という印象を書いたが、選考者も一様に従来型の作品と言っている。その点では当たった。数行とサンプルが少なかったので強調してもいいかな。

執拗に女子高生とのセックスが出てくるが、肉感がまったくない。コンクリートの猿がオナニーをしているような、やりきれない印象しか持てない。それを選考各氏は絶賛に近い。どうなっているのかな。

黒井氏は「歴代受賞作と比べても高い位置を占める小説」というが、芥川賞とはその程度の賞なのか。私はほとんど、まったくと言い換えてもいいが、芥川賞作家の本を読んでいないから、黒井氏に言われればへえ、そうですかだが。その程度のレベルなのかね。

高樹のぶ子氏、最後まで「緩むことなく緊張が続き、濃密な空気を持続させている」。へえ、そうですか、というしかない。

山田詠美氏、短いコメントだが、この前の西村賢太氏への評でも感じたが彼女はまともだ。

島田雅彦氏「方言と緊張度の高い地の文が交錯しており、叙事詩の格調さえも漂わす」。この人西村賢太評の時も変なことをいっていた。選考委員は無理なんじゃないかな。

宮本輝。「小説の構成力、筆力などは、候補作中随一であることは認める」。ということはほかの作品は箸にも棒にもかからないと言うことだろう。この人の評は比較的まともだから、この人がそういうなら他の作品はどうしようもない、ということだろう。

さて、道化師の蝶、これは旅の間に読む本にいいんじゃないかな。飛行機の中で一ページ、ホテルで二、三ページなんてね。最初の数ページでそういう感じだ。

いつか書いたが、いい本と言うのはランダム・リーディングに耐えられなければならない。五ページおきに数行読んで見るかな。そういう楽しみ方をする小説じゃないのかな。


田中慎弥君の言い訳

2012-01-28 00:07:55 | 芥川賞および直木賞

さきほどインターネットをのぞいたら、田中氏が毎日新聞に自分の芥川賞受賞会見の報道について弁明したという文章が引用されて、突っつきまわされていた。この文章は田中氏が自身で毎日新聞に投稿したらしい。

先日円城氏が産経に投稿したというのを紹介したが、受賞者が俺も俺もと投稿すると言うのはどうかね。違和感がある。別に投稿してはいけないという法律があるわけでもないが。

おおむね意外に常識的な人間で好感が持てる、というのが2チャンネルでも多いコメントだ。2チャンネルもどうしようもなく小市民的だね。

ま、あの種のテレビニュースは細切れにして編集するから、えらく自分の言ったことと違うみたいなことを言い訳する政治家なんかが多いが、田中君が弁明これ務めるのは意外だった。

こまかく、時系列を追って、縷々説明しているが、まるで国会での下僚の官僚答弁みたいだった。どうもケツの穴が小さいようだ。器は小さいようだ。

ところで、今日本屋に三人そろい踏みだな。芥川賞の二人では田中氏のほうがハケが早いようである。初めのほう数行、しまいのほう数行流したが、コンヴェンショナルな書き方だったね。俺はどうも数行ランダムに読んで書評する癖があるものだから。

勿論本は買わなかった。来月文春で選考評と併せて読み、こみで書きます。請う、御期待。


田中慎弥君と円城塔君の気炎

2012-01-26 17:49:03 | 芥川賞および直木賞

田中君は単なるコミュニケーション障害なんだろう。ストレス下での慣れない記者会見で支離滅裂になった。ヨウ狂(ヨウはワードで一発変換しない、調べてね)を気取るほど風流で余裕のある人ではないようだ。

円君、この名前はどこで区切るのかね。今日の産経新聞に『寄稿』と銘打って、中間の賞広げるのかいい(カッコ省略)というのが載っている。勢い込んだ調子からは、一字一句も直してはいけないと、編集部に言ったようだ。一読意味不明、せっかくここに書くのだから失礼にあたらないように再読。規模と言うのは読者の数のことらしい。一応脈絡は通じる。

要するに、少数の特殊な読者を想定して書いてきた。それが書きやすい。中途半端なマーケットを書くのが一番難しい。と言いたいらしい。中間の規模というのは発行部数十万あたりをいうらしい。円君によると。はなはだ具体的である。

芥川賞は大変な賞だから、大規模マーケットを持てる(と円君は言う)。いっそ今後は大部数のベストセラーを狙うほうが簡単そうだ、ということらしい。

半端なマーケット、中間のマーケット対象に書くのは難しいそうだ。そういうマーケットを念頭に書いた経験があるのかね。


芥川賞の書評の書評はひと月待って

2012-01-18 19:16:52 | 芥川賞および直木賞

すばると群像からか。下読み連中にも多少ましなのがいるんだろうな。それとも同じプールだったりして。

本年も書評をしてみたいが、選考評の評も前回通り(前々回だったかな)兼ねて行いたいのであとひと月まってください。来月の文芸春秋に出るでしょう。

もっとも読んで食指が動かなければパスしますが。