穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

80:たれこみ歓迎

2021-07-30 11:18:22 | 小説みたいなもの

首相補佐官秘書の丙は通り魔問題の自然科学系分科会の議事論を読んでいた。容疑者全員の遺伝子検査を行ったが、異常な行動に結びつくような異常はなかったらしい。精神鑑定の結果も失望を誘うものだった。もっとも精神鑑定などと言うものはいくら時代が進んでも変わるようなものではないだろう、と思いながら議事録から顔を上げた。隣室の秘書の部屋から争うような騒々しい人声がしてきた。

秘書が制止するのも聞かずに入ってきたのは覘き屋の庚戌であった。秘書には中に入れるな、と指示していたのだが、彼は机の前にずかずかと歩み寄ると来客用の椅子にいぎたなく腰を下ろした。

「何を読んでいたんだい」と彼は丙が慌てて裏返しにした書類を覗き込んでから「例の通り魔の対策会議はどうなっているんだ」と聞いた。

「さあな、大した進展もないようだよ」

「遺伝子解析でも精神鑑定でも特異な点は発見できなかったらしいな」

「なんだ知っているのか。相変わらず早耳だな」

「ご挨拶だな。早耳なんかじゃないよ。皆知っている。君はまだ議事録を読んでいないのか」

丙はあきらめて隠すように持っていた書類を机の上に放り出した。

「今読んでいたんだ」

この庚戌は丙の大学時代の同級生で丙が官僚としてまずまずのキャリアパスを昇ってきたのに対して、卒業後いくつかの業界紙で記者をして渡り歩いたりして、現在は煽情的な実話雑誌の記者をしている男である。卒業後は交際がなかったが、政界に出馬した丙の同僚の出馬応援パーテイでばったりと顔を合わせてから、丙のところへ押しかけてくるようになった。

庚戌はとがった三角眼を丙の額に据えると「秘書には俺を通すなと指示しているらしいな」

「なんだ、怒っているのか」

「あんまり気持ちがよくないな。同窓生にそういう風にあしらわれるとな」

丙はしばらく彼を無言で見返していたが、「タレこみ屋としてなら歓迎するぜ。覘き屋は謝絶だ」と学生時代のようなぞんざいな口調で答えた。

 

 


79:言葉通りにしか受け取らない人間

2021-07-18 07:59:05 | 小説みたいなもの

「議論が白熱してきましたね。色々興味深いお説も出てきましたが」と座長の乙は最新式のハイブリッド腕時計に眼を遣ると、「十分ほどコーヒーブレイクとしましょう。トイレ・ブレークとしましょう」と提案した。座っていた出席者はワラワラと席を離れると後ろの壁際に用意されたテーブルに行ってコーヒーを飲むものあり、トイレに行くものもあった。

 一坐が席に戻ったのを確認すると乙は会議を再開した。

知の巨人と呼ばれる舘隆志が発言した。「この公安がまとめた供述書に出ているかどうかはまだ見ていないんだが、マスコミの報道で気になることがありましてね。私が読んだのは、たしかリニア新幹線で社内にガソリンを撒いて放火した若者のことなんだが、犯人は昔から『言われたことを言葉通りに受け取る』性格だったというのだな」と言うと出席者を見渡した。「公安の調書にはありますか」

 誰も返事をしなかった。さっき配られた資料にまだ眼を通す暇がなかったのである。乙が自信なげに言った。「さあ、瞥見したところでは気が付かなったな。少なくとも小見出しなどでは言及はなかったようだ。マスコミの報道では各社が同じことを取り上げていたのですか」と質問を投げ返した。

「いや、私が気が付いたのは一社だけでしたがね」

「ふーん、それが何か問題があるんですか。ヒントでも、その記事に」と乙は疑わしそうに問い返した。

「いや、とくに。しかしわざわざ当たり前のことを強調した記事なので記憶に残っていたのです。記事ではなにかそれが特異なことのようにとりあげていた印象でね」

言語学者であるオミ(魚味)教授が発言した。「言葉と言うものは、とくに日常生活で使われる場合はその場の状況と言うか雰囲気で受け取らないと非常に妙な堅苦しい意味にとられて、逆にコミニケーションが成立しない場合が多い」

「たしかにそうだ。自然科学の言葉と言うか法則と言うか、等式は言葉通りに受け取られることを前提としているが、日常の会話では違うからな」

「逆のそういう、言葉通りにしか受け取らない人は相手に違和感を抱かれる」

「そう、むしろ知能が低いと疑われるかもしれない」

「幼児の場合は言葉通りに受け取って、成長するにつれてその場の状況で総合的に判断するようになっていくのだからね」

「そうか、言葉通りにしか、大人になっても、受け取らないというのは、場合によるだろうが、多くの場合は知能が低い、そこまで言わなくても変わった人という印象を他人に与えるだろう」

 乙は改めて『知の巨人』のほうを向いた。「それでそのことが通り魔現象の解明にどう関係するのですか」

「いや、私の勘ですよ。カンというよりも、イワ・カン(違和感)ですな」

 


78:A=A!が群生した理由としてのハイブリッド実験

2021-07-13 11:01:16 | 小説みたいなもの

 白髪が球形の頭部を覆った出席者が発言した。

「A>A!という説は検討に値しますね。しかし、そういう現象が同時に突発的にかつ大規模に、集団的に発生した理由が問題ですね」と言った。

彼は『何でも評論家』という異名を持つ在野の『ノンフィクション・ライター』である。この分科会に色を付けるためにメンバーに選ばれている。別名『知の巨人』とも言われている舘隆志である。

「そうなんだ、こういう通り魔という輩は昔からいたんだよ、しかし何時の時代もごく少数派だったんだ。これが地上を覆うように発生したのはやはり異常だな。まるでキノコの異常繁殖だ」

と哲学者の大阪は同調した。

「そうすると病理学的現象でしょうか」と乙は確認するようにコメントした。

「さあ、その辺は自然科学分科会で病理学者の意見を求める必要があるところだね」

「そういえば、妙な噂を聞いたことがある」と舘が発言した。「なんでもタコが人間知能の人工的改良を試みたというのだ」

それで、と誰かが聞いた。

「その結果は分からない。公表されていないからおそらく失敗したのだろうね」

「その結果がフランケンシュタインみたいな作品で、かつ繁殖力を持ったまま、野に放たれれば大変なことになるね」

「ま、噂ですけどね」

「その実験と言うのは何時頃の話です。最近ですか」

「さあ、相当昔らしい。三百年くらい前らしいね」

「三百年前と言うと性交による妊娠出産は禁止されて久しいでしょう。しかももう千年以上にわたってアノニマスな精子のプールと卵子のプールから人間は出産されている。スタッドブックは厳重に管理されているから、そんなことが出来るのだろうか」と鬼薊が疑問を口にした。

「あくまでも噂ですよ」

「しかしタコの世界でもそういうマッド・サイエンテストはいたのかもしれないな。厳重な管理の網を潜り抜けてそういう禁断の実験を試みたのかもしれない」

「正式に善意でタコの公的機関がそういう実験をする可能性はありませんかね」

「さあ、どうかな、まず無いでしょう」

乙が問題を提起した。

「もし、そういうことがあったとしてどういう方法をとりますかね」

しばらく一座は沈黙した。あたりまえである。そんなことは考えつかない。

「この問題は自然科学分科会に投げかけるのがいいでしょう」と乙が書記のほうをみながら言った。

「考えられる人間改良の方法としてはハイブリッドがあるね」と舘がコメントした。

「なんです」

「異種間交配ですよ」

「馬とロバを交配してラバを作るような?。とすると人間の精子とタコの卵子を使うとか」

「いや、それは無いでしょう。何しろ進化の時計で言うと人間とタコには五百万年のタイムラグがある。無理でしょう。進化の過程で人間より数万年あるいは数十万年進んだ生物との人工授精とかが考えられる」

「そんな動物がいるんですか」

「勿論地球上にはいない。しかし広い天体のどこかにはいるかもしれない」

 


77:逆方向から 青年ヘーゲル派のシュティルナー

2021-07-10 07:38:42 | 小説みたいなもの

 魚味は主席者を見渡しながら、「反対方向への概念の混同のケースは無いんですかね。つまり個から普遍へという」と設問した。

この魚味の提案はしばらく一座の沈黙を誘ったが、若手哲学者の大阪がやがて口を開いた。

「独我論とか唯我論というのがあるが、それじゃないかな」

「独我論なんていうとシュティルナーなんかですか」と魚味が確認した。

「そうでしょうね」

「独我論というのはアナーキズムと親近性があるとか」

「そういうケースもある。デカダンスとも混同されるケースもあるね」

「なんだか、通り魔と一番相性がよさそうだな」と誰かが言った。

大阪が応じた。「たしかにね、思想と言うのは純理論であっても、解釈する人間が勝手に拡張解釈するケースが多いからね」

 魚味が考え考え、口を開いた。「個人主義の行きすぎですかな。しかし今一つ繋がらないな。個人の考え、欲望を社会大に拡大しても、どう通り魔につながりますか」と大阪を見た。

「さきほど配られた警察の調書にもあると思うが、マスコミで報道されている所によると彼らは例外なく自殺願望がある。あるいは自殺未遂の過去がある」

「ふーん」とオニアザミが唸った。「個人の自殺願望が社会的に拡大したということですか」

 面白いね、という呟きが聞こえた。

「そうすると、彼らの内の誰かの供述にあったように、出来るだけ多くの人間を巻き添えにしたいという考えと辻褄が合うね」

 座長はオブザーバーの大錦に「タコの世界でもこういう問題があるんですか」と質問の矛先を向けた。

彼は答えた。「ありません。こういう混乱があるというのは人間の言語が未発達ということでしょう」

「なーる」

「率直に申し上げて人間の言語は未熟です。たとえばパラドックスなんてあるでしょう。いまはなんでもパラドックスなんていうが、本当のパラドックスではないものも多いようですがね」

「どんなパラドックスです」

「ウサギと亀の競争の話があるでしょう」

「ああ、ウサギ(ゼノンのたとえでは超快速のアキレウス)はどうしても亀に追いつけないというやつですね」

「そう、実際にはそんな馬鹿なことはない。ところがゼノンが示した論法には瑕疵はない。そのロジックで行くとウサギは絶対に亀に追いつけない。この議論、無限分割という論法ですけどね、古代から現代にいたるまで、アリストテレスからバートランド・ラッセルに至るまで色々な『すり抜け方』が提案されているそうですが、決定打は今もない。ようするに、人間の言語、論理といってもいいが、それに根本的な欠陥がある。未熟と言ってもいい」

「それで言語分析というのがあるのか。ウィトゲンシュタインのような」

「分析哲学と言うのは無意味なんじゃないかな。彼らは自分だけが有意味なことを言っていると自慢しているが、彼らは既存言語をつつきまわしているだけで、言語の改造などは彼らの視野にはない」と大阪は馬鹿にしたような口調で一蹴した。

 


76:ヤッコと主人

2021-07-08 19:36:18 | 小説みたいなもの

「そういう場合、個人と言うか団体、国家などと個人構成員との関係は奴隷(ヤッコ)と主人の関係になるわけだ」と鬼薊(オニアザミ)金太郎が補足した。

「その通り。しかし団体、党、国家には人格はない。だから疑似人格を想定するのだが、それが綱領とか憲法になるわけだ」

「しかし、実際には特定の個人とか小集団というか集団内集団が牛耳る。全権の代弁者を気取るわけだ」

「カトリック教会の場合は神の代弁者を気取るわけだな。神と大衆の間には直接的な交渉はない。教会が仲介者になる。ということは実際には民衆の上に全権を持って教会が君臨して解釈を独占する」

「中世では聖書を民衆には読ませなかったわけだ。もっとも民衆は文盲だったから読めないわけだけどね」

「現代では共産主義国家では共産党がおなじ構造で民衆に君臨している。彼らが作った綱領とか政策が国家の権威として個人を支配している。実際にはこのメカニズムで特定の個人集団やファミリーが支配しているわけだけどね。その権威は銃口や脅迫から生まれている」

「ルイ十四世だったか、朕はは国家なりといったがね」

大阪が言った「お釈迦様が分娩直後に『天上天下唯我独尊』と仰ったというが、あれもそうかな。まてよ、これはお釈迦様が起点の発言だから個>特殊、普遍なのかな」

「どうかな、ちょっと違うようだ」と魚味教授は首をひねった。両方向性じゃないか。釈尊誕生前から古代インドにあったウパニシャット哲学の考え方の延長じゃないかな」

「ウパニシャットというとバラモン教の」

「うん、梵我一如という言葉がある」

「???」

「梵というのは宇宙の原理だ、ブラフマンという。我とは個人の本体であるアートマンである。両者は同じであるというわけだ」

「で、仏教ではそういう境地に至るのを悟りというのかな。そうすると両方向性ということか」

「そうだが、比重はブラフマンにある。その境地に達しろというのだがら、ブラフマンが目標だからね」

「古代ギリシャ哲学でいうヌース(理性)に近い概念だな」

「そうだよ」

「でそういう梵我一如に到達するにはどうしたらいいのかな」

「色々あらーな、と言うこと。修業とある者は言う。あるものは瞑想という。あるものは直感という。パウロみたいに突然の回心というものもある」

「なるほど、都市の公共交通網みたいだな」

「なんだい」

「東京駅から新宿駅に行く方法は沢山あるということだよ。JRもあれば地下鉄もある。バスもあるというわけだ。タクシーで行ってもいいし、マイカーでも行ける」

 


75:A!=Aの場合

2021-07-06 08:11:44 | 小説みたいなもの

魚味教授は質問を発した参加者のほうを見た。

「今言った異なったレベルの概念が、つまり個、特殊、普遍のカテゴリーが一緒くたになってしまうことはそんなに珍しいことではない。人種間の相違に基づくヘイトクライムなんて言うのは一例です。肌の色が黒ければ個人に関係なく乱暴に扱う、例えばアメリカの警官のようにね。黄禍なんて言葉があった。これは憎しみとか差別と言うありふれた感情が根底にある」

マスコミに売り出し中の若手哲学者の大阪が呟いた。

「A=A!とA!=Aとは違うんじゃないですか」

魚味は感心したように彼を見た。

「そのとおりなんですね。大体がごっちゃにする場合はA!=Aがおおい。イコールと言う等号は矢印で示してもいい」

「歴史の場合は全部A!=Aでしょう」と歴史学者の鬼薊金太郎が補足した。

「その通りです。国が(特殊)の場合は国家主義とか国粋主義はほとんどがそういうことになります」

「宗教的な場合もそうでしょう」

「そうです。カトリック教会が個人大衆に君臨した場合が典型的ですね」

「イスラム原理主義なんかが現代では代表的だな」

「現代のカルト宗教も全部そういうことになるね」

「そうですね」

「それからスポーツ、特にアマチュアの団体スポーツなんかもA!<Aだな。恐怖心で団員に君臨する。最近ワイドショー(三面記事ニュース)になった某私立大学のアメリカンフットボール部なんかそうだな」

「政治の世界で言うと、現代でも一部の国の共産党支配なんかもそうなるね。昔はコミンテルンなんてのがあって国家の枠を超えて国際的に共産主義を広めようとした」

「何しろ等式なんだから絶対服従なんだな」

 

 


74:個人に埋もれたハルマゲドンの衝動

2021-07-03 09:09:21 | 小説みたいなもの

さてと、と議長の乙は出席者を見渡した。「どこからはじめますかな、どこでもいいものかもしれない。なにしろ、ナマズのようなものだ。どこをつかんでもヌルヌルしていて掴みどころがない。ということはどこから着手しても関係ないように思うが」と捨て鉢気味に投げ出した。

帝都大学の言語学教授の魚味(オミ)が口火をきった。

「やはりなんですね、警察の調書がとっかかりではないでしょうか。それしか資料はないのだから」

一同もそれには反対なかった。

「それとね、マスコミがつつきまわしているでしょう。犯人の生い立ちだとか、家庭環境だとか。情報の信憑性はともかく、ほかに手掛かりは無いのだから」と誰かが付け加えた。

乙は後ろを振り向いて控えていた係の一人に「例のまとめた資料はコピーしてありますか」と聞いた。

「二十部ございます」と聞くと「それでは皆さんにお配りていてください」

「さて、お配りした資料は公安がまとめた取り調べ調書です。ご検討ください」

マスコミの記事をまとめたものはないのですか、と質問が飛んだ。

「これからまとめます」

「まあ、無くてもみんな読んでいるだろうから、それを各自が紹介というか引用してもらえばいいのではありませんか」と誰かが提案した。

「それでは、そういうことで」と言うと乙は「魚味さんから」と誘った。

「犯人は皆よくしゃべりますよね、例外なく。だから逆に言えば資料はたくさんあるともいえる。だかそれに『飛び』があるから世間では訳が分からないというか論理の飛躍があると感じるわけだが、その『トビ』がどこにあるのか調べればヒントがあるような気がする」

「ふん、理屈だな」という声があった。

「これは言語学の問題ともいえ、また哲学の問題でもあると思う。勿論心理学の問題でもある」

彼は卓上に用意されたペットボトルの味付け水を一口飲んだ。

「人間は概念の動物ですから、概念に基づいて行動する。概念と言うのは具体的なものでもある。一般に対象を把握するときに、個、特殊、普遍という段階を踏む。個と言うのは人間の場合はもちろん個人のことだ。特殊と言うのは民族とか国民性と言うことである。白人、黒人、アジア人もそうだ。普遍と言うのは人類である。人類皆兄弟なんてスローガンもある。普通日常生活ではこれらは区別して理解される。ところがこの区別が吹っ飛んでしまうとどうなるか。個人をAとする。民族をA!とする。人類をA!!と普通は使い分けている。だからA  not=A!であり、A not=A!!である。ところがどこかが壊れると無条件的に、常時A=A!でありA=A!!となる」

「それが通り魔とどう関係があるのかな」

「人間がどこかで壊れるとA=A!となる。つまり自殺衝動が即ハルマゲドン衝動になる」

「なぜです」


73:聖なるタコはオンラインで参加

2021-07-02 07:34:41 | 小説みたいなもの

GHQの公安局からオブザーバーとして派遣された蛸の日本名は大錦である。蛸の世界の名前があるのであるが、ひどく長い名前でおまけに人間には正確に発音できない。それで日本名を持っているのである。皆分かり易いように相撲の四股名を付けている。なにしろ蛸は平均で身長三メートル、体重一トン以上であるから力士風の名前がぴったりなのである。

彼はテレスクリーンに登場している。何しろ人間に比べてとびぬけた巨体であるから、同じテーブルに座ると威圧感がすごいし浮き上がってしまう。そこで特に対面してこそこそ話をする必要があるとき以外はリモートで会議に参加するのである。日本人会議参加者の手元にあるパソコンの画面をみていると人間と同じサイズに見えて違和感がない。

「壊れているというと」と地上の参加者が問い返した。

「さあ、それは分かりませんがね」

「そうだなあ、まるでホモサピエンスが進化、いや退化というか分岐して新しい種と言うか類が発生したみただものな」と言ったものがいる。

不穏なうわさが蛸の間で囁かれているが、そのような憶測を人間たちに漏らしては大変なパニックになると思って言葉を濁した。最近では蛸が地球を放棄するという噂まで流れている。愛玩動物としては人間は手がかかりすぎるようになった。それに最近は狐族が支配している星座との間の緊張が高まっていて地球にかまっている余裕がなくなっているというのだ。大錦も対狐戦争にいつ動員されるか分からないらしい。

種の分岐と言うのはそう簡単に起こるものではないでしょう、と乙が言った。かねてから人間界のなかでは蛸族が人間の改造を試みているといううわさが流れている。蛸は善意で人間を進化させようとしているといううわさがある。人体の基盤部分を改良するという説もあり、人間のOSに手を入れようとしているという噂もある。

なぜ蛸が人間の進化に熱心だったかというと、分かり易く言うと、人間がペットの猫をかわいがっていたとする。飼い主は猫が人間の言葉を話せたらいいなと思のは村田紗耶香さんでなくても当然である。それと同じで人間がタコの言葉を話せたらもっとかわいくなるな、と思うわけである。

彼らは人間社会の進化のためにあらゆる知識を無償で惜しみなく与えてきた。コロナをはじめとして新薬や治療法を与えてきたので現在では病気で死ぬ人間はいなくなった。死ぬのは寿命が来たか交通事故や犯罪による場合しかない。しかし、現在にいたるまで人間がその知識を熱望しながら与えられない分野が二つある。

すなわち星座間の宇宙旅行と超長遠距離通信の技術である。何百光年も離れている間で電波で交信しようとすれば、百光年の向こうにある星と交信するには連絡を送って返事を受け取るまでに二百年はかかる。どうもタコはその通信を秒の単位で実現しているらしい。この二つの技術は人間に与えられていない。蛸側からいえば与えたくないのではなくて人間の知能では理解できない知識なのである。そこで気の毒に思って人間の知能を強化すべく人体改造試験が行われているという憶測があるのだが、その過程でとんでもない失敗があったのではないか、とタコ社会で非公式に流通している情報がある。そんな根拠の薄弱な憶測を人間たちに教えるわけにはいかない、と大錦は思っているので言葉を濁したのである。