書店めぐりをしていて気が付くのは、村上春樹の新作が平済み棚を圧倒しているということはかっての新作発表後のようにない。
ほかの作者の新作なみの並べ方である。気違いじみた売れ方ではないようだ。村上fanは老いて彼の本から遠ざかったのか。いつまで待ってもノーベル受賞がないので熱が醒めたのか。
書店めぐりをしていて気が付くのは、村上春樹の新作が平済み棚を圧倒しているということはかっての新作発表後のようにない。
ほかの作者の新作なみの並べ方である。気違いじみた売れ方ではないようだ。村上fanは老いて彼の本から遠ざかったのか。いつまで待ってもノーベル受賞がないので熱が醒めたのか。
壁とその不確かの壁と言う題は作者の弁明らしい。
壁は一方通行だと最初に言いながら、物語りのつじつまを合わせるために、融通無碍にボクは行き来している。釈明をそのまま、タイトルにしているなら、一つの洒落というか趣向だろう。
最後の第三部読了。複数時間を同時平面で記述。さばき方に切れはない。いつものことだが。二十年以上の時間の経過があって「彼女」は相変わらず少女として描かれている。
結局彼は二十数年間壁の中にいたと書いてある。とすると書籍取次業の二十年間のサラリーマン生活と壁の中での「本読み」は同一人物?とすると同一人物が長い間、二分割されていた??
この終わり方にはもっと別な工夫が必要、すかっと腑に落ちるような。
この本は恐ろしく読みやすい。一種の幻想小説だか、この手の物は感情移入が難しく、別の表現で言えば馬鹿らしくて、普通は読むのにハカがいかない。ところが今度の小説は口当たりがいいので、もう590ページ?(全654ページ)だ。読みやすいというのは小説家としての腕があがったということかな。
さて第二部に入る。地下水脈に飛び込んだ影がどうなったか、一切記述がない。第二部はいきなり二十年後だ。ボクはどういうわけだが壁の外(普通の社会)に戻って、第一部の記述によれば、いったん壁の中に入ったら出られないはずだが、一般社会に戻り大学を出て書籍取次業者に二十年間勤務していたが、思うところがあって??中途退社。
退屈してまた勤めよう(働こう)として地方、山間僻地(地方名なし)の館長募集に応募して受かる。そこで図書館創設者で前の館長の子安さんの面接をうけて採用される。この子安さんはもう死んでいて、永久に無に帰する前の一定期間に少数の人の前にだけ現れる。そういうステージにあった。どの宗教にも多かれ少なかれこういう思想はある。仏教にはとくに。キリスト教でも微かにある。
この思想は国学では日本でも徳川後期に理論化されている。平田篤胤など。さて子安さんだが、これはこの思想の研究者で岩波文庫にも「霊の真柱」なる著書のある国学研究家の子安宣邦氏を連想させる。誰にでも手に入る岩波文庫だから村上春樹も読んでいたのかもしれない。
世評でも、また村上自身の後書きでも彼の初期作品「世界の終わりと、、、」との関連が言われているが、実際は第一部の前半までが類似しているだけである。第一部の結末は「世界の終わりと」は全く違う。
世界の終わり、は地下水脈を辿って主人公が普通の世界に戻る、いわば冒険小説がメインである。壁の中の都市と言うのは前半というか導入部であって地底冒険小説といえる。日本では少ないジャンルだが、欧米では地底冒険小説としてひとつのジャンルを形成している。日本ではほとんどない。翻訳されたものも少ない。
日本では題は忘れたが夏目漱石か家出少年をポン引きが引っ掛けて足尾銅山に売り渡す小説がある。漱石だけあって一応の地底冒険小説のていをなしている。題名は忘れた。それ以外日本に地底冒険小説があるのをしらない。まえにこの本を書評したときに「地底冒険小説」として努力していると書いたことがあった。
註、ポン引きと言うのは性的供応をする店に男性客を誘導するのばかりではない。本当は家出少年をだまして労働環境が劣悪、危険な職場に引き込む連中をいったらしい。
小説は70章からなる。現在1-5,70章を読んだ。例によって「読みながら書評」でお届けする。必ずしもシリアルには読まない。ご了承を乞う。
小説の主人公は「きみ」と「ぼく」である。当然「ぼく」の一人称の語りとなる。さいごまでキミとボクは名無しの権兵衛、権子である。村上春樹の多くの作品とおなじである(たぶん)。
彼女は壁の中の城塞都市に住んでいる。この壁というのが空気カーテンなのか、ブロック塀なのかは不明である。おそらく最後まで読んでもはっきりしない。
最後に作者の後書きがあるが、初期の作品「ハードボイルド・ワンダーランド」と似ている。作者も書き足らなかったことを書いたと言っている。
5頁まで読んだところではそんなところだ。ハルキ・ワールドの展開や、いかに。続く。
本日午後某書店で村上春樹の新作をゲット。そんなに平積みの状態でなかったが、売れ行きはどうなのかな。第二刷だった。655頁で一冊。かなり異常に重たい。上下二冊に分けるには中途半端なページ数だったようだ。
村上春樹の作品とはしばらくご無沙汰だった。もっとも最近は長編を何年か発表していないからね。私がこの書評で取り上げたきっかけはチャンドラーの一連の翻訳に関心したからで、彼の創作もあらかた後から取り上げたが、チャンドラーの翻訳ほどには感心しなかった。
もっとも、彼の翻訳も「グレート ギャツビー」など何冊か読んだがチャンドラーほど感心しなかった。チャンドラーの翻訳は彼の書いた解説もよかった記憶がある。
村上が新作を発表したので久しぶりに文庫本の古本の書評を中断して取り上げることにした。
読む本がなくなったのでまたチャンドラーのロンググッドバイを読み直し始めた。昔からの清水訳が省略が多いのに対して村上は全訳だというが、読み始めてかなり親切な訳というか補足的な訳であるなと原文と読み比べて気が付いた。
もっとも、村上氏は文庫本の出版に際してかなり訳を見直したということも聞く。また、改訂版の都度訳を手直ししていると読んだことがある。
あるいは同様なことがチャンドラーにもあるのかもしれない。最初にテキストを特定しておく。村上訳は2007年の単行本初版である。原文はPENGUIN BOOKSでJEFFERY DEAVERの序文がついたもの。村上訳は単行本のあとがきによるとVINTAGEだという。それを前提に書く。
第一章は凝ったというかひねった文章が多い。書き始めは力が入るのだろう。スラングも多く分かりにくいところもある。
泥酔したテリーが車を売り払ったと聞いて女が急に冷たくなった描写に
A slice of spumoni wouldn’t have melted on her now.
とあるのを「彼女の舌の上でアイスクリームは溶けそうもない」としているが、私は最初に読んだ時には彼女の衣服の上におとしても溶けそうもない、と読んだが、なるほど解説的ではあるが「舌の上」のほうが抵抗がないかなと思った。もっとも、口の中のたべものをon her(tongue)というのが慣用で私の英語力がないのかもしれない。しかしon her lips としてもいいような気がする。口の周りについたアイスクリームてな感じでね。いな、むしろそのほうが響きがいいような気がする。ただし英語の場合ではである。日本語では「唇」よりか「舌の上」のほうがすっきりとしているかもしれない。
ちなみに清水俊二訳では「娘の態度がアイスクリームのように冷たくなった」とある。これは意訳だね。
清水訳は依然としてよく売れているらしい。80刷だ。もっともずいぶん前に出ているがそれを勘定にいれても村上訳より売れ足が速そうだ。
同じく第一章から:高級クラブ(高い金を客に使わせる)の駐車係が彼女のセックスアピールをThem curves and all と言うのを「あれだけのそそる身体だもの、酔っ払いの相手をしているひまはないやね」と訳している。原文のまま訳せば「あの曲線美だもの」くらいかな。あとは読者のために親切な補足をしている。
女が「彼は迷い犬みたいなものなの」はいいが「トイレのしつけはできているから」と付け足しているが原文にはまったくない。Vintage版にはあるのかな。40年以上前に出た清水訳にもないが。村上氏のサービスかもしれない。
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村上春樹の新作「騎士団長のなんとやら」出版記念という体裁のインタビュー集である。全部で四章あって最初の一章(70ページ)が二年前に出版された村上作品「職業としての小説家」を巡って川上さんが村上氏にインタビューしている。
この本の出版後このブログで十何回かにわたって書いたので店頭で見かけて購入したのである。二章から四章までが最近発表された「騎士団長云々」についての質疑応答である。とりあえず第一章だけ読んだところで書評。
私は川上未映子さんという女性を知らない。個人的に、という意味を強調しているわけでは有りません。勿論個人的にも全然知らない訳ですがね。どういう職業のかたでどういう実績があるか、という意味です。一読してどこかのデパートでよく開かれている文化、教養講座であこがれのえらい先生に若い女性が感激してうやうやしく質問している印象を受けました。
ウィキペディアで検索すると川上さんは女優で作家です。芥川賞の受賞者ということらしい。年令は40歳という。この第一章のインタビューをした時には38歳くらいということになります。すべてにおいて本のなか(インタビュー)の印象とことなるので驚きました。
そういうわけで彼女の作品は読んだことが無いのですが、同じ作家同士としてはもう少し堂々と質問をしたらどうかというのが感想です。村上氏の受け答えの方は無難で常識的でした。彼はこの手の人にはなれているのでしょう。川上女史は私の言うピンキーちゃんです。女優だからセクシーだという意味ではありません。かなり幼稚な左がかった人という意味です。
失笑あるいは噴飯ものなのは、60ページからの数ページですかね。『右寄りの作家で、この人、正気かなって思うようなことを言ってますよね』(『』内は川上氏の発言要旨)とか。
『スローガン的な言葉がどんどんうわすべって(スローガン的なのは左翼、戦後民主主義者のほうだと思っていたが)、浅はかな言葉が蔓延する状況に対する危機感みたいなもので、しかるべき物語を書いて対峙して行くということを、村上さんはやっていた(寡読なわたしは読んだことはないが)』。
これに対して村上氏は老獪に「そうね、、、、、(と一応彼女に同調して)考えていることはあるんだけど、もう少し時間がかかるかも知れない」とかるくいなしている。
彼女は感激して『今日は村上さんのその言葉を聞いただけでも』。このやりとりに失笑しない人がいるでしょうか。
村上氏はこうも言っている「じゃあ何をするんだと言われても困るんだけど、、、、なかなか難しいですね」とかさねて曖昧化している。
又村上氏は「社会的にこうするのがコレクトだからこうする、みたいなのは、発想としてちょっと違うんじゃないかと思うんです」とも逃げている。
正気とも思われない発言をしている作家とは誰のことなのかな。どういう作家のことを指しているのかな。そして村上氏にももっと積極的な左翼的な発言を「していただきたい」みたいなお願いをしている。彼女は左翼的なんて言葉をつかっていませんが、要するにそう言う人たちだけが正しいという単純な考えなのでしょう。
それに対する村上氏の反応は用心しながら常識的というか曖昧な表現をしている。たとえば「あなたの言う通りなんだが、自分は作家だから大衆運動的なことは適切じゃない、作家として自分としてなにが出来るか考えている(考えているですよ、実施するとか計画すると言質を取られない様にしている)。それには時間がかかるかもしれないけどね」といったようにね。
村上氏も基本的には「戦後民主主義」に洗脳された口なんだが、マーケットのことを考えると右だ左だと旗幟を鮮明にしないほうが得策だ、と思っているのでしょう。
創作が作曲とすると翻訳は演奏のようなものだろう。同じ作曲家の曲でも演奏家、指揮者によって無数のバージョンが出来る。カラヤンのベートーベンと小沢征爾のベートーベンは違う。
翻訳の場合はバージョンとかバリエイションの違いの他に、明らかに質的に原作に優ってくる場合がある。よく言われる様に森鴎外が翻訳すると平凡な原作が見違える様に魅力的になることがある。
村上春樹を森鴎外に例える訳ではないが、少なくとも「村上バージョン」というものはある。彼の翻訳はあまり読んだことはないが、それでも多少読んだ範囲では特にチャンドラー作品の演奏にはすぐれたものがある。
チャンドラーとは相性がいいようだ。彼(村上)の創作の文体とはかなり違うと思うのだが(意識的に違えているようにみえる)翻訳の文章は私の好みに合う。
「プレイバック」を三分の一ほど読んだが良い演奏だと思う。
時々変な言葉も教えてくれる。プレイバックでは早々に(10ページ)で「ちゃらい」なんて言葉が出てくる。ずべ公が使う用語なのかな、それとも一般的な言葉で私が知らないだけなのか。広辞苑には「ちゃらかす」という言葉が出ているがこれの短縮形なのかな。活用形なのかな。
例によって日課の市中徘徊をいたしておりますと、立ち寄った小さな書店の平積み台に茶色の地味な本が乗っている。樺色の表紙でタイトルがかすんでいる。プレイバックと読めましたな。
この頃は倭人の作家も知ったかぶりのカタカナをタイトルにする弊風が有りますからその類いかな、と思いました。もう一度見るとレイモンド・チャンドラー、村上春樹訳とあります。で例によって後書きだけ立ち読みしました。途中まで。今回は冴えのある解説ではありませんでした、村上春樹らしくない。可もなく不可もなくとそう言う感じありますな。それで解説も半ばまでしか読まなかった。しかしあがなったのであります。義理みたいなものですな。
思い返せば(こんな思い入れ風に書かなくても良いのですが)村上春樹との付き合いは十年目に入るのですな。帰ってから書棚から彼の翻訳「ロンググッドバイ」を引っ張りだして奥付きを見ると初版が2007年3月とある。創作訳文を含めて彼の文章を初めて読んだのがこの「長いお別れ」でした。
以後社会で「IQ84」がベストセラーになるのに驚き此のブログでも取り上げました。以後ぼちぼち彼の創作も取り上げました。チャンドラーは村上氏の翻訳が出るたびに「センチメンタル・ジャーニー」書評で取り上げました。
大分前になりますが村上氏のチャンドラーの翻訳の順序を予想したことがあります。彼がチャンドラーの長編は全部訳すというので、どれが一番最後になるのかな、とうらなったのです。そのときラスト2作は「湖中の女」と「プレイバック」だろうと予測しました。予想通りになりました。プレイバックはチャンドラーの最後の作であるからではなくてやはり加齢による筆力の衰え覆いがたく、であったからであります。
此の作品の出だしは軽快ですが、段々支離滅裂になってくる。支離滅裂はチャンドラーの特徴だと村上春樹の様に言ってしまえばそれまでですが。それと此の作品はやたらとセックスシーンが多い。他の作品では見られない特徴です。70才の最晩年の作としてはいささか興ざめです。谷崎潤一郎の「鍵」みたいなものかな。その時は当時全盛を極めたミッキー・スピレーンの流行の波に乗ろうとしたのかな、とも思えます。どうしてもバイアグラを(当時はありませんでしたが、たとえです)飲みながら無理矢理老作家が書いたという臭味が抜けない。
さて、ついでながら当時ブログでブービー二作として取り上げた「湖中の女」ですが、当時のアップの繰り返しになりますが、此の作品は質の点もさることながら、チャンドラーの作品の中では根本的な所でマーロウものらしくない特徴がいくつかあります。
1:クライエントが会社員であること、化粧品会社の部長見当が依頼者でサラリーマンが依頼者である唯一の作品です。マーロウの依頼者は引退した大金持、弁護士や流行作家等の金回りの良い自由業、金持ちの老婦人ばかりで勤め人が依頼者というのは目立つ。この依頼者の職業ですが、ハヤカワ文庫旧訳ではたしか「社長」になっているが明らかに間違いです。化粧品会社支店の支店長か営業部長といったレベルです。マーロウ物の特徴である依頼者の醸し出すユニークな人物像がどうしても浮かび上がらない。
2:視点の問題、マーロウの一人称視点というよりかは、彼の頭の横か後ろにつけたカメラからのアングルで描写されている。長編ではこのような視点はほかにはない。ある意味で映画化に向いた視点と言えるのかも。
3:警察と私立探偵との関係。マーロウ物ではこの作品以外は例外無くマーロウはクライアントのプライバシーを、警察から私立探偵への情報提供の圧力に優先させる。そのために警官に暴行を受けたり嫌がらせをされる。その場面がマーロウ物の売りなのだが、「湖中の女」ではマーロウは徹底的に警察に協力的である。マーロウものの最大の魅力は失われている。
さて、これから村上版プレイバックを読みます。読後感はその後で。また「湖中の女」も約束通り翻訳するそうですから、最後までつき合うことにしましょう。
おっと、最後にもう一つ。村上氏が後書きで触れているミーハー受けのするセリフ考について。誰かの前訳で「タフでなければ生きて行けない。優しくなければ生きている資格がない」という「決めセリフ」(だそうですが)。私からみるとこれくらいセンスのないミーハー受けのする嫌らしいセリフはない。原文で読んだ時には強い印象も受けなかったし、かといって違和感もなかったが、此の手の訳を読むと吐き気がしてくる。村上氏もはっきりとは先行訳者を批判しにくいのだろうが、くどくどとあげつらっている。村上氏の真意が何処に有るか分からないが、日本には此の手の翻訳が大好きなミーハーがゴマンというということだろう。
賭け屋(ブック・メーカーという)に不正はなかったか。相対の商売だから不正という言葉は適切ではない。客に一杯食わせるのが商売人だからね。
村上春樹氏のオッズが一位とか二位とか報道されていたが、イギリスの賭けは日本の公営競技(競馬、オートレースなど)とは根本的に違う。日本の場合、客同士の張り合いであって、主催者(中央競馬会など)は25パーセントのテラ銭を取るだけである。
ようするに客同士が予想の優劣を競う。イギリスの場合、オッズはブック・メーカーが決める。主なブック・メーカーだけでも複数(多数)あり、それぞれオッズは違う。イギリスの場合は賭け屋と客の騙し合いである。
客が外れ券を買えば賭け屋はすべて呑んでしまう。日本中央競馬会では外れ馬券を買った金がテラ銭を差し引いて当たり馬券の配当になる。いってみれば客に外れそうな馬券をなるたけ大量に買わせることによって商売が成り立つ。
絶対に、あるいはほとんど当選しないと分かっている候補者に大量に賭けさせれば一番儲かるわけである。当選しそうだよ、授賞しようだよ、ともっともな理屈を挙げて適当なオッズをつける。このさじ加減もむずかしい。あまり高い(つまり穴っぽい)値段をつけても客は買わない。逆に1・5倍とか2倍と低く設定すると客は儲けるためには大量に馬券(ノーベル文学賞券)を買わなければならない。
これでも売り上げは伸びない。オッズをつけるのも難しい。村上氏のオッズはどのくらいだったのかな、5倍あたりだとちょうど呑みやすいのではないか。俺が賭け屋だったらそのあたりにする。
そして、どうせ村上馬券を買うのは日本人だろうから、日本のマスコミに村上確勝の予想記事を書かせる。例のブック・カフェあたりで中年ファンや、おばさんファンを動員して雰囲気を盛り上げる。一連の作戦じゃないのか。ああいう映像には相当数のサクラが混じっていると思うね。
余談だが、この間何処かのテレビでノーベル文学賞がとらないのは、通俗文学とSFだとか。確かに村上氏は通俗性が強い。論評はしないが。
SF云々は初耳だったが、SF的構成で問題提起を、あるいはプロテストをしている作品はあるんだけどね。しかし、村上作品ではSF的要素は場面の安易な転換のためにだけ用いられていることは確かだ。
作品全体の構造を決定するためのSF的手法、カフカの変身がこれに当たるだろう。もっともカフカはノーベル賞作家ではない。有名になる前に死んでしまった。
テーマを強調するためにSF仕立てにする物では古くはオーウェルの作品等がある。村上氏の作品は壁抜けとか漫画的な手法を多用するが、上記の二つの場合には当てはまらない。安易な場面転換に利用しているにすぎない。
村上春樹が影響を受けた作家としてドストエフスキーとチャンドラーを上げていた。もう一人あげていたがはっきり記憶していない。フィツジェラルドだったかな。
ところが彼の作品はドストにもチャンドラーにも似ていない。テーマでも雰囲気で似通う所が全くない。このことはだいぶ前にも書いた。本ブログ「反復と忘却」シリーズでも触れたが、最近カフカの「審判」を三分の二ほど読んだ。村上作品はむしろカフカに似ている。正確に表現すれば真似た、学んだというべきなのだろうが。非現実的な(あるいは幻想的な)「プロセス」をふんだんに繋ぎにいれるところだ。
これは一読子供の書いた小説のように思えるが、さにあらず、ということなのだろう。テーマに似通っている所はカフカと村上春樹にないが、手法には高い類似点がある。
そういえば、村上はカフカ賞を貰っていたっけ?
「多崎つくる」読了。小説としての構成ではいままで読んだ彼の作品の中で一番きっちりとまとまっている。一体感がある。
時間のある時にちょいと一幕見ると村上作品にはいいところがある。前にもいった様に彼は日本の小説家の平均より文章がうまいからです。しかし始めから終わりまで通して読むと興を覚えるという作品はない。手を替え品を替え、多種のオカルト調味料をふりかけたチカチカドンドンのカレー料理の連続で、わたしがバラエティというわけですが、いささかしらける。
「たざきつくる」はそういうところがない。そういう意味では彼の作品のなかでは一番かも知れない。オカルト調味料も一種類だけしか使っていないし、それを手品師のようにショウアップしていない。
なにがオカルトだって? 前回述べた脱魂憑依現象です。もっとも彼はそんなことをかいていない。かれの叙述に従えば
クロ; 悪霊
つくる; 地下水脈でつながっている(村上のユング、河合かぶれ)
ただし、結末の数ページはよくない。息切れがしたのかな。めでたし、めでたしという結末は村上美学に反するかも、そして結末を明示するのも村上の趣向に反するからかも知れない。「つくると沙羅は末永く幸せに暮らしましたとさ」ではしまらないと思ったのだろうが。
大型書店に「たざきつくる君」の文庫版が組体操のピラミッドみたいにてんこ盛りでした。「村上春樹はなぜ売れるか」を探求しているアタシとしては購入しない訳にはいきません。
これは単行本の時に読んだんですがすんなり読めなかった。このブログを書くために大分彼の作品を読み込んできたためか、彼の作品にもなじんで来たようで、あっというまに半分ほど読みました。
単行本の時の評価は訂正する必要を認めます。なかなかのお作とみました。
インターネットの書評で誰がシロをレイプしたかなんてのがありましたが、驚きましたな。つくる君じゃなきゃ誰なんだと数人の名前があがっております。
例によってサイコ女が出て来ます。それがシロです。もっとも憑依されやすい媒体でありますな。途中まで読んだところでワタシの仮説はたざきつくる君がサイコのシロに憑依したと見ると辻褄が合うようです。
この線で村上氏は随所に伏線をバラまいているようにみえますが。
もっとも、作者の意図がそういうことかどうかは保証の限りではありません。また村上氏の意図がそうであっても、当然明言しないでしょうがね。