穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

『終わり』の決まった小説白痴

2013-06-30 10:55:00 | 書評
白痴は終わりの決まった小説である。ドスト後半期の5大長編小説ではもっとも終わりの『決め』が見事な小説である。

私はしばしば小説を終わりから読む。ミステリーでも終わりから読む。まして一般の小説は終わりから読むことが多い。

読者には第四編9章の途中から読むことを薦める。(新潮文庫下巻490ページから607ページ)。エウゲーニイ・パーヴロヴィチがムイシュキンと対話しながら彼の心理を解説する。E.Pとは別荘地の場面から登場するもと宮廷武官の青年である。最初の間は性格が不明確であるが、終盤には記述者としての役割を果たす。とくにムイシュキンの理解者兼介護者(ムイシュキンは再びスイスの療養所に入る)として彼の思想(心理)を読者に代弁する。

読者にはまずこれを読んた後に、最初から読むことを薦める。これはいわばドストエフスキーの著者後書きに相当する文章であって、いかにこの小説がドンキホーテとパラレルであるかが、よく分かる。

>> 若いあなたはスイスに住んで、祖国に憧れていたのです。。。まっしぐらにロシアに帰ってこられたのです。あなたはロシアに関する本を沢山お読みになりましたね。<< ドン・キホーテは中世騎士道の冒険物語を読みすぎて頭がおかしくなって冒険旅行に出た。

>> あなたは燃えるような実行欲を抱いて我々の前に現れたのです。いきなり実行にとりかかったのです。。。その日のうちに辱められた婦人の話を聞かされたのです。聞き手というのはあなたという童貞の騎士、、、 << ナスターシャというドルネシア姫と遭遇したのである。

小説「白痴」とは病気回復後、意識が極度に照明されたような短い期間にナスターシャ、アグラーヤという万華鏡のような女に振り回されて病状が再発するまでのものがたりである。はじめも終わりもくっきりした演劇的小説である。

なお、上巻566ページ以下の詩「あわれな騎士」も最初に読んでおくといい。

>> ・・・はるかなる我が城に 帰りし騎士は身を隠し 憂い顔にて言葉を忘れ 狂えるごとく世を去りぬ <<





ドスト「白痴」は喜劇である、ドン・キホーテが喜劇であるという意味において

2013-06-30 09:07:02 | 書評
「無条件に美しい人間」、「完全に美しい人間」、『キリストのような人間(?キリストは人間だったかな)」を描くのがこの小説の目的であるとは、前金を要求する時にドストが揚言した言葉である。言ってみれば出版業者が考えだす帯のコピーのようなものである。

ことはそれほど単純ではない。また、そのような少女小説のようなテーマで無慮1400ページ(新潮文庫)の長編小説が書ける者でもない。

ドストエフスキーはセルバンテスのドンキホーテを好んだというが(バプチンの言葉だったか)、構造的にはドンキホーテに類似する。ドンキホーテが純粋悲劇という人はいないだろう。滑稽小説、ある程度当たっている。同じように『白痴』は悲劇であり、喜劇(滑稽小説)である。

第一編でアグラーヤがムイシュキンの前で朗読するプーシキンの詩「哀れな騎士」は白痴の底流を流れるテーマを象徴している。明らかにドンキホーテ=ムイシュキンとアグラーヤの直感は告げているのである。正確に言えばドストは彼女の口から全編のトーンを語らせているのである。








ドストエフスキーのイデー、「白痴」のレーベジェフ

2013-06-26 08:34:18 | 書評
バフチンのドスト論の骨子はポリフォニー、イデー、メニッペア(カーニバル)である。まえにも書いたがポリフォニーというのはうさんくさい(謙虚に言えば私の理解力を越える)。メニッペアはよくわかるし、文学史的な分析は内容がある。

さて、イデーであるがどうもこれもうさんくさい。

またまた『白痴」を例にとるが、レーベジェフという人物がいる。冒頭の列車の中に出てくるが、そこではニキビだらけの中年の小役人風(すぐに小役人と断定的に描写)で出世の見込みはないが、大変な情報通であるとなっている。

その後第三編のムイシュキンの誕生パーテイでは、奇矯ではあるが、なかなかの弁舌を披露する。其の前から「小役人」という言葉はなくなって、弁護士志願で怪しげなマスコミの世界を徘徊する情報屋(今で言えばトップ屋か)ということにいつの間にかなっている。

ま、書き下ろしでもなく、前金にしばられた時間に追われた連載で、ワープロも無かった時代であるから、多少の?齟齬はそのまま押し通したということだろう。

レーベジェフは脇役だが、主役達もとてもイデーの体現者とは思えない。矛盾しているのがイデーだと言えばそれまでだが、それならわざわざイデーという必要はない。

イデーというものは、ドイツの教養小説のように進化発展向上(つまり変化)するものではない。はじめから終わりまで変化しない。そのことはバプチン自身が念を押しているくらいである。

あまり精神病理学の言葉でドストを語りたくないが、彼は矛盾の並立を描く作家であり、それも安っぽいパーソナル・ディスオーダーとか意識、潜在意識の交代という決まりきったパターンではなく、意識から意識へ万華鏡のように変化する人間を描くところに優れているのだ。

これがもっとも顕著に現れるのがドストの女性主役たちで白痴でいうならナスターシャ、アグラーヤなどだ。このタイプはドストがもっとも手のうちに入れたキャラクターである。

罪と罰のソフィアのようなワンパターンの聖娼婦は挿話として登場しても全編を通して主役をはれないのである。




ムイシュキン公爵は主人公ではない3

2013-06-23 10:23:11 | 書評
白痴でなければ「無条件に美しい人」になれないのだろうか。そんな理屈は成り立たない。

白痴の特徴はなんだろう。それはいくつもあるだろうが、一つは「人を警戒させない」ということだ。

もっとも人に警戒心を起こさせる白痴もいるだろう。凶暴性や攻撃性を持った精神薄弱者もいるからね。

しかし、一般論として白痴は子供や赤ん坊が人に警戒心を抱かせないように、相手の警戒心を武装解除する、つまり本音を出させる。

この特徴をもった人物を対置すると、小説の登場人物に自分の複雑な感情、心理、考え方を警戒心なしに発露させることが出来る。意識の作家、イデーの作家であるドストエフスキーにとって登場人物のイデーを直裁に表現させることは重要なことだ。普通人に対しては矛盾を指摘されるのを警戒して隠す、本音、あるいはどんな人物にもある多面的な意識を自由に表白させることが出来る。とくにナスターシャの意識の表現にこの点は著しい。ロゴージンに対しても同様である。

レベージェフの別荘に押し掛けてきた無頼漢、ゆすり屋の一団を猫のようにおとなしくさせるのもこの効果である。


完全な精神的機能を持った「白痴」を対置することでこの目的は達成できる。作家という者は書いているうちにどんどん重心が移動して行くものだ。特に潜在意識は活発に活動している。以上がドストがムイシュキンを操作子として活用しているという理由である(ドストが意識的に行っていたかどうかは不明である)。

また、記述者(特に難しい意識の記述者)としてこの小説でムイシュキン公爵が必須の操作子である理由である。





ムイシュキン公爵は主人公ではない2

2013-06-23 09:42:54 | 書評
6月16日のこのブログで白痴ではムイシュキン公爵は主人公ではない、形而上学的操作子であると書いた。

いささか素っ気ない記述であったし、鬼面人を驚かすものであったので、若干補足する。

形而上学的と書いたのはいささか大げさでしかも必要でもないので、単に操作子と書こう。主人公ではないというのも誤解があるかもしれない。主人公ではある。しかし、普通の主人公というよりはナレーターという色彩が濃い。小説劇の演技者であるとともに、記述者である。

この手の人物は他のドストエフスキーの作品にもよく出てくる。大体「私」という形で登場する。記述者としてのグラデーションにも差がある。

小説の中に黒子のように思いがけないときに現れる「私」の系列には「悪霊」、「未成年」などがある。

参加者的な「私」には「ステパンチコヴォ村の住人」等がある。ムイシュキンはこの系列でより参加者的である(主役)。

ドストエフスキーは二つの手紙(マイコフあて、姪あて)で白痴の執筆意図は「無条件に美しい人間を描くことです」と書いている。これが彼の顕在意識のなかにおける意図である。

この目的のためにムイシュキンを何故「白痴」としたのであろうか。聖痴愚でなければ「無条件に美しいひと」になれないからであろうか。そうではあるまい。

一読直ちに了解するところはムイシュキンは白痴ではない。なかなかすみに置けない人物であることはすぐ分かる。優れた心理的観察者であることもはっきりしている。彼に対して多くの「作品内の人物」がすぐに彼が白痴といわれることに疑問を表明している。考え方も理路整然としている。

それならドストエフスキーは反語として彼を白痴と読んだのであろうか。





前金作家ドストエフスキーのほのめかし

2013-06-23 08:37:10 | 書評
ドストエフスキーはルーレットの借金で首が回らなくなり、出版社からの前金契約で執筆することが多かった。

感興が湧くのを待って執筆するなどという余裕はない。契約の締め切りがある。枚数がある。いやがおうでも、一日何ページというノルマで仕事をしなければならない。

こういう場合、紙数を稼ぐために、叙述を長引かすための手法がいろいろある。ドストエフスキーが多用するのが「ほのめかし」戦術である。ミステリアスな事実があるような、ないようなことを書いて読者を引っ張る。

例を「白痴」にとると、第一編のドラマとしてのすばらしさに比べ第二編のペテルブルグ郊外の別荘地での話はやたらとほのめかしで話を長引かす。その内に又興が乗ってくれば文章にも緊迫度が増してくるのだろうが。

注1: 「今度それに着手したのは、生活がほとんど絶望的な状態になったからです」。ドストエフスキーの姪ソフィヤ・イワーノヴナあての手紙

注2: 「ただ私の絶望的な生活状態がこの至難な意図に着手することを余儀なくさせたのです。ルーレットに賭ける気持ちで、危険を冒したのです。(ひょっとすると、ペンの下から生まれるかもしれません)こんなことは許すべからざることですがね」。ドストエフスキーのマイコフあての手紙

次回はドストエフスキーの「至難な意図」について、彼の顕在意識および潜在意識における作品の意図について。






オールド・スポートを頻用する監督の意図

2013-06-21 20:16:02 | 書評
印象的には原作よりかもオールドスポートという台詞が多出すると書いた。

その理由を考えた。トムが聞きとがめたように当時1920年代のアメリカでもOSは聞き慣れない言葉だったようだ。

ギャツビーはイギリス・オックスフォードでおぼえたと言ったらしいが、イギリスでも一般的に通用していたことばかどうか疑わしい。

参戦した兵士に特典として終戦後オックスフォードへの短期留学を認めたのをギャツビーは利用したと言っているが、そこでたまたま耳にしたOSをこれはイギリスの上流階級の若者が使う言葉だとGが思って、はばをきかそうと使ったのだろう。

つまり成り上がり者のGが上流階級の青年ぶるために使ったのだろう。卑賤な出の女がざあます言葉を不自然に真似るように。

これが原作者のフィッツジェラルドの意図だとすると、映画監督もやがて奪冠されるカーニバルの王Gの「成り上がり者の上流ぶりを強調」するためにこの言葉に原作以上にアクセントをおいたのかもしれない。




『華麗なるギャツビー』、グレート・ギャツビーの映画化

2013-06-20 22:38:46 | 書評
前回の続きで今回は映画としての感想だ。

そのまえにお断り。この小説は前に何回か映画化されているようだ。タイトルも小説とは違ったかもしれない。私が話しているのは今週日本で公開された新しい映画である。

* カーニバル小説としての、あるいはカーニバル映画としてのGG

最近バフチンを読んでいるせいか、見ていてすぐに彼のカーニバル説を思い出した。まさにGGは一夏のカーニバルの王であり、前半は戴冠した王の主宰するカーニバル(豪華な屋敷での連日のパーティ)

中頃に純愛不倫再開物語(戴冠前の純愛物語が不倫として復活)

終章はカーニバルの王の奪冠(GGの殺害)

そしてカーニバルの王の再生(ニックの追憶のなかで)、映画では原作とすこし趣向がことなり「フレーム」になっている。

とこうなる。名作というのは「物語の作法」にのっとっていると感心した次第である。

* 各部の評価

前半の連夜の(正確には毎週末の)カーニバル(パーテイ)場面は映像としてすばらしい。
原作の文章では、ここまでの迫力はでない。

純愛再開物語は原作と対比して無難

奪冠の部分は前半と比べて出来映えは並といったところだ。小説から採用しなかった部分で、採用して映像としてもインパクトのある箇所があるような気がする。

フレームについて、これも趣向だろう。

* 役者について

GG役についてはまあまあだ。主役だから基準は厳しくなる。

デイジー役、その他の準主役は原作の想定している設定(私が想定した)キャラクターに合致している人選、役作りだ。準主役は枠にはまったアーキタイプを演じればいいのだから人選を過たなければそれでOKである。トム、ミス・ベイカー、ウルフシェイム、GGの執事など雰囲気が出ている。

ちなみにトムが有色人種の帝国に世界を乗っ取られるから警戒しろ、と言っているのは大日本帝国のことである。




映画「華麗なるギャツビー」、グレイト・ギャツビーにおけるオールド・スポート

2013-06-20 22:01:43 | 書評
かってこのブログでフィッツジェラルドの小説「グレイト・ギャツビー(以下GG)」のなかにでているオールド・スポートをどう訳するかということで私見を述べた。村上春樹氏が訳書のあとがきで、どうも適当な訳語がないとぼやいていたので、一提案をしたわけだ。

今週から新しい映画化作品が上映されたせいか、このブログのアクセスが増えた。それで今日映画を見てきた。そんな経緯でもなければ映画を見なかっただろうが。映画の字幕でOSが何と訳されているか興味があったわけである。

字幕ではまったく無視する(訳さない)場合と「友よ」があるようだ。「わが友よ」というのもあったかな。英語の台詞では「オールド・スポート」と言っている。小さな声でいっているね。要するにあまり強調したり、アクセントをおいていない。

そして、このOS(オールド・スポート)が頻出するんだね。会話の中で占める比率で言うと、小説よりか多いような気がする。アメリカでも現在はおそらく死語だろうから、まったく台詞から省く手もあっただろうに。つまりシナリオライターや監督はこの原作者の言葉を重視しているのだろう。

字幕の友よ、というのもどうもね。だから字幕作者も気が引けるのか十ぺんに一回くらい、友よ、とやって後は省いて訳さないのだろう。

ちなみに新潮文庫は「親友」だが、会話の中での呼びかけにはどうもね。村上春樹はずばり「オールド・スポート」だ。

私は前のブログで、若者同士が、老成した青年に対してからかい気味に、日本で言うように(現代の青年は言わないだろうが)ご老体とか御大とか大将とかしたらどうだろうか、と提案した訳だ。しかし、一回や二回ならともかく、あれだけ頻出すると、その度にご老体とやっていては異常な感じだろう。

さて、せっかく映画を見たのだから、その作りについても書こうと思ったが今回の記事が長くなったので次回にする。




ムイシュキン公爵は主人公ではない

2013-06-16 09:26:38 | 書評
ミハイル・バフチンの主要概念はポリフォニー、イデー、メニッペア(>カニーバル)だろうか。同意出来ない順番に並べてみた。同意出来ないとはいささか思い上がって何処かの参事官みたいだから、理解出来ない(頭が悪くて)とへりくだって書改めよう。

さて、前にも書いた二冊のバフチンの著作をランダム・リーディングしている。頭が悪くてシリアル・リーディングではすぐに行き詰まってしまう。

パッと適当なページを開いて読む。分からなければ10ページほど飛ばして拾い読むわけである。

そこで例証に引用されているドストの小説を理解の助けに再読してみた。「白痴」を読み出した。三読目だ。二読目は二、三年前だが、その時ブログでムイシュキン公爵は形而上学的操作子だと書いた。その考えは変わらない。改めてムイシュキンは主人公ではないな、と思った。

主人公はナスターシャであり、ロゴージンである。準主役はガーニャ。エバンチン将軍の三人の娘のうち、末娘は主役級かな、上の二人は準主役というところだろう。まだ第一編までしか読み返していないから、前回の記憶で書いているところもある。

ムイシュキンという触媒を得て、ナスターシャにしろ、ロゴージンにしろ、彼らのイデーが表現を得る。

最初に読んだのは学生の頃だったが、退屈な小説で早く終わらないかな、といらいらして読んだ記憶がある。これは出版業界が付けた惹句「白痴のように無垢な主人公ムイシュキン公爵の純愛物語り」というピント外れの宣伝に引きずられてそのつもりで読んだから興味が持てなかったのだろうと思う。




ドストエフスキーのメニッペア

2013-06-13 08:26:15 | ドストエフスキー書評

ドストエフスキーのいいところ

ドストが好きなところは正直自分でもその理由が分からなかった。そこで、文章の艶とかムンムン度と思っていた訳。

1929年に発行されたバフチンの「ドストエフスキーの創作の問題」によると、ドスト批評は二つの流れがある。

*1 主人公達と一緒に夢中になって哲学に耽る、

*2 主人公達を客体化して非参与的に心理学的ないし精神病理学的に分析するもの

2013年のいま、百年前と事情は変わらないようだ。とくに、今でも(*1)が圧倒的に多いような感じだ。そうして私はそのどちらにも意義を認めない。

前回書いたようにバフチンのジャンル論でメニッペアをドストの特徴と分析しているのを読んで、ははあ、これもドストを好む理由の一つだったな、と気が付いた次第。





バフチン流自作評

2013-06-12 20:53:23 | 書評
自作評、「指バラ色に」への申し訳をかねて

ロシアの批評家ミハイル・バフチンの「ドストエフスキーの創作の問題」(平凡社)をすこし読んだが、ポリフォニーとかモノローグとバフチンがいうのが分からない。定義はなんとなく分かるのだが、ドストエフスキーの独創だという主張が理解出来ない。前回このことを書いた。

それで放り出してあるのだが、書店で同じ作者の「ドストエフスキーの詩学」(ちくま学芸文庫)というのを立ち読みした。こちらの方が分かりやすそうなので購って読んでいる。

まだ、一部だけしか読んでいないが、ジャンルというか技法というかを取り上げたところでメニッペアの記述がある。メニッペアという言葉がどの程度業界(書評界、文芸評論家)の間で流通しているのか分からないが、ギリシャローマの時代からある「まじめな笑話」という分野らしい。

かなり詳しく紹介しているのだが、これはまさに「指バラ色に」の世界だ。勿論初めて読んだので結果的に同じ(極めて類似)ということだ。とすると、これは真似と思われてはしゃくだから一言書いておこうかという、はなはださもしい気をおこしたのである。

かって、成島柳北の柳橋新誌を愛読していたことがあったので、書いていてそれには似るかな、という意識はあったが、バフチン先生の詳述の方が懇切丁寧で自作解説にはいい。

柳橋新誌はいわゆる散文体の狂詩とでもいうべきものであって、幕末に徳川幕府高官(騎兵頭、外国奉行、会計副総裁を歴任)だった成島柳北が維新で職を失ない漢文書き下し調で著した戯文である(今風に言えば風俗業界のルポルタージュとでも言うかな)。

成島家は代々将軍家の儒者であり、柳北も名文家である。その彼が書いた戯文であり、まさに高尚さと俗悪さという正反対の混交であり、バフチンのいうメニッペアの技法である。

ちなみに俳優の森繁久彌は成島の子孫にあたるようだ。森繁も文章がうまかったな。

俳句に川柳あり、和歌に狂歌あり、漢詩あるいは賦に狂詩ありである。

以上はジャンルの話であって、テーマの話ではない。