穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

タネを探して

2021-10-28 09:21:50 | 小説みたいなもの

 書きあぐねている拙作でありますが、安直な方法としてなにか参考になるSFはないかな、と探しました。漠然と書店のシマの間を彷徨しても始まらないので、一応多元宇宙物に見当をつけました。それも相互浸透型にしたい。そうしないと話がつながらないのでね。
 インターネットで探したのがいけなかったのか、これがなかなか見つからない。一応多元あるいは多宇宙物と言うのかな、それはいくつかピックアップしたのですが、相互浸透型かどうかは読まないとわからないらしい。
 とりあえず三つほど候補名を拾いましたが、これが本屋にはない。みんな絶版のようです。そこで今度は原書を探したのですが、そこでようやく見つけたのがQUARANTIE(グレッグ・イーガン)だけでした。それでとりあえず、あがなって最初のほうを読んでみましたが、どうも文章が気取っている(つもり)というのかみょうちきりんです。それに最初からやたらとギミックが多い。文章から文章への断りなしの飛躍が多い。もちろん意図的にしているのでしょうが。
 そんなある日、ある書店でこの翻訳をみつけました。創元文庫「宇宙消失」です。1970年初版で20版ぐらい出ているらしい。SFでは売れているほうなのかな。
 これもちょっと覗きましたが、どうもね、という印象。解説がついている。これが例によってネタバラだから読み終わってから読んでくれと判で押したような見えを切っている。失礼して最初の数行を眺めたが、いわゆるシュレディンガーの猫と言う思考実験のはなし。ところがこれはどうも違う。もともと私はこれは思考実験なんかではなくて単なるたとえ話と思っているんですけどね。ま、それはいい。話には関係ない。
 そんなわけでまたインターネットを覗いているとディックの「宇宙の眼」というのが多宇宙物だという。ディックはアンドロイド羊は夢を見るか、とかあと一冊ぐらい読んだが、文章、構成とも小説になっていた。つまり一般のイイ小説のレベルにある。それで今日外出したらこれを買う予定です。その結果はまた後で。


デカルトの情念論 (7)

2021-10-10 17:16:10 | 読まずに書評しよう

 デカルトの哲学は物心二元論であると言われる。物は物体である、物質である。これは比較的イメージしいやすい。世の中の実体は物質である、というのは唯物論である。きわめて素人分かりがいい。その他に実体として精神があるというのが二元論である。これもなんとなく常識的だ。これを物心二元論というのは誰が訳したのか、物体精神の二元論のほうがより適切だと思のだが、ゴロが悪いのか、座りが悪いのか物心二元論が通り言葉になっている。

 ここに心と言うことばを使うのが気にくわない。第一デカルトは物体の始元的属性は延長であると言っている。そうして「精神」の始元的属性は思惟であるという。あったかい心なんて世間ではいうが思惟に暖かいも冷たいもないだろう。心はより動物的な機能である。もっともデカルトの書いたものを読むと精神も心も魂も霊魂も同列に扱っている。情念論ではこころを思惟として扱っているのか。はなはだ粗雑といわなければならない。

 そうすると千年以上にわたって支配をしてきた「神様」はどうなるのか。二種の実体の上の神棚に鎮座しているのか。どうもそうらしい。「事なかれ主義」が処世術のデカルトは所々で厄除けをするようにキリストにお灯明をあげている。読んでいるほうは面食らう。

 さてうら若いエリザベート王女の詰問にあって物と心の間をつなぐ消火栓じゃない、松果腺なるものを当時の解剖学の知識で脳底に認定した。そこでだ、肉体が死んだら心はどうなるか。大問題である。デカルトはトマス・アキナスがひねり出したのとほぼ同じ解答を出す。肉体が死んでもこころは死なない。世間では死ぬと死体には精神活動が無くなるから心も同時になくなるという。冗談じゃない。魂は肉体を離れるのよ、という。だから無傷でピンピンしている。トマス・アキナスの形而上学序論を参照のこと。日本では神道がほぼ同じ考えである。平田篤胤の「霊の真柱」を参照のこと。

 じゃあ、魂はどこに行くの。いろいろあらあな、ということ。未開社会の多くでは、人類学者のリサーチによると遺族の部屋の天井あたりに張り付いている。デカルトはそこまでサービスしていない。第一死体から離れた精神というかこころは寿命がないのかね。思惟だから死なないのかな。そうすると大変だ、空気中には魂が南氷洋のプランクトンのように密集しているに違いない。いや、天に上ってお星さまになるのかな。それなら何兆光年の三乗いや時間軸を考えれば四乗のゆとりがある。当分満員になる心配はない。

 


村上春樹氏とノーベル賞

2021-10-08 08:49:17 | ノーベル文学賞

 このブログの書評は小説の場合は「なぜ売れるか」が軸になっている。小説として、あるいは文学としての価値評価が書評に取り上げる基準ではない。村上氏については丁度IQ64がバカ売れしたころから取り上げた。なぜ売れるのか。結局どうしてか、よくわからなかった。では内容の評価はどうか。小説、創作については評価を控えた。少なくとも積極的に評価はしなかった。一方そのころ、レイモンド・チャンドラーの作品の翻訳を始めていて、こちらのほうも毎作取り上げたが、感心することが多かった。とくに巻末に毎回載るあとがきは面白かった。彼はスリラー以外にも米国の作家の翻訳が多いようだが、こちらのほうはあまり読んでもいないし、面白かった、よかったという記憶はない。

 さて、ここ数年、あるいは十年以上?彼は世評では有力なノーベル文学賞候補である。なにやらカフカ賞と言うのを受賞してからの現象らしい。世間の、というか「熱狂的なファン」のお祭り騒ぎが面白くみていたが、なにか違うんじゃないかなと感じていた。昨日落選後のインターネットの投稿を見ていたが、潮目が変わったのか、がっかり、とかナゼダ??調のものよりザマーミロというのが多いようだった。

 ノーベル賞の各分野で文学賞と平和賞はいい加減なものだが、日本の小説は北欧の選考委員にはよくわからないのではないか。勿論英語をはじめ欧米語の翻訳はあるが、日本の小説を評価する自信がないように思われる。その一例が芥川賞の受賞者を一つの目安としているらしいことだ。日本でもっとも受け入れられている芥川賞(もっともこの賞は完成した作家に与えられる物ではなく、いわゆる伯楽的なもの、つまり新人発掘、先物買い、という感じが私はしているが)のなかから選んでおけば日本人からの反発も出ないだろうと選考委員は安易に考えているのではないか。

 勿論これだけがすべてではないだろうが、村上ハルキの場合は一つのふるいになっているらしい。

 


デカルトの情念論(6)

2021-10-07 08:37:35 | 小説みたいなもの

 当ブログの読者はなぜ昔読んで感心しなかった本を再読する気になったかとのご疑念があるかもしれない。そんなことは気にもしないという無関心なかたが多いとは思うが、ここでその辺の「ご疑念」にお節介にもお答えしたい。

 毎度尻切れトンボに終わっている拙作「小説のようなもの」をまたぞろ考えている。題は「新巌窟王」であります。

 私(この小説内の記述者である)は競艇場である人物に興味をもった。彼は競艇場の常連であるらしく、あちこちで彼と遭遇するうちに話を交わすようになった。以下彼の聞き書きである。

 彼は刑務所を出たばかりである。会社の金を盗んだという濡れ衣を着せらられ同僚の証言で服役した。その際、讒言した相手と争い重傷を負わせたというので背任と傷害致死の罪で長年服役していたのである。彼は勿論獄中で相手の復讐だけを考えて耐え忍んでいた。さて刑期が明けて出所すると獄中で練った復讐計画を実行に移そうとしたが、資金がない。そこで資金作りに競艇にのめり込んで、しかも成功してた(そんなことはありえないが小説なので)。

 大金を得て計画を実施しようとしていた矢先に、長年の放漫経営で会社は倒産した。そしていまは社長や重役になっていた相手は自殺してしまった。相手がいなくなった彼は稼いだ金で遊び暮らそうと思ったが、何をしても面白くない。楽しまない、という筋だ。ここで作中の「わたし」が思い出したのがデカルトと言うわけである。彼の情念論では二分法と言うか、すべての情念は対になっている。たしか憎しみと楽しみは双子ではなかったか。憎しみの対象が突然亡くなると、双子の「快楽」を楽しむという「能力」も消滅してしまったのではないか。この捉え方が正しいかどうか、デカルトの二分法と合致するかは沙汰の限りではない。ま、そういう筋はどうかな、と思い何かの参考になるかと読み捨てた情念論を手に取ったのである。この理屈がこじつけられるかな、というのが思い付きでありました。どうも締まらない話になりました。

次回予告 霊魂は浮遊する

 


デカルトの情念論 (5)

2021-10-05 07:50:57 | 読まずに書評しよう

 このシリーズの最初で中公文庫の訳を覗いたと書いた。おこがましくも訳文の肌ざわりに疑念を呈した。先日岩波文庫の「情念論」を斜めに覗いた。岩波のほうは非常に丁寧な本づくりだと感じた。本づくりとは製本だとか、装丁だとか主として出版社の編集部の作業のことではない。この場合は訳者の知的作業のことである。

 まず索引の出来がいい。各掲載後に原語を併記しているのは、多くの訳本でおろそかにしていることである。また訳注も行き届いているようだ。大抵の訳注は無意味で訳者の知識をひけらかすような物が多いが、そのような臭みもないようだ。それに、「内容一覧」というフレーズの索引と言うべきものまで作成している。日本語の訳文も中央文庫よりも癖がない。

 索引で、フランス語から逆引きすると、passionという言葉があるが、訳語は受動、情念の二つの訳語がある。訳者が訳し分けているのは理由があるのであろう。索引のページを辿っていけばデカルトの考え方が分かるかもしれない。訳者がどういう考えで訳し分けたかも「推測」できるだろう。いずれにせよ、良心的索引があれば、更に先へと理解が進められる。

 ここで疑問、ameを精神と訳しているが、ameの英語での最大公約数的訳語はまえにも書いたように、soulである。日本語では、たましい、こころ、霊魂である。つまり精神、理性、知性の下位概念である(普通は)。別の言い方をすれば、より動物的な機能である。ここのところはチョットひっかかる。「精神」と訳するのは、ちょっと気にかかる。

 索引をながめただけで、色々考えが進むのは索引が優れているということである。索引だからと馬鹿にしたり、軽く見たりしてはいけない。

 

 


デカルトの情念論(4)

2021-10-02 07:58:21 | 読まずに書評しよう

# デカルトをめぐる二人の女(レディー)

 強引なストーカーであったクリスティナ女王のほかにデカルトをめぐる女として名を残しているのは、欧州の没落した小国の王女エリザベートである。彼女との往復書簡と言うのが残されており、日本語にも訳されている。

もっとも、ファンと言うべき女性はほかの哲学者にもいたようだ。ライプニッツの書簡集の中にもそういう女性がいた様な「記憶」がある。

 一つ補足訂正がある。「情念論」はデカルトがスウェーデン滞在中に出版されたが、執筆のきっかけはエリザベートの質問に答えるものであったらしい。すなわち心身二元論でいくと、両者の関係はどうなるのかと、彼女の「鋭い」質問に答えようとしたのだという。

 ところで日本語では誰も「情念:論」と訳しているようだ。この情念と言う言葉には昔から違和感がある。情念と言うのは「激しい感情」というニュアンスがあるが、本の内容にそぐわない。情念=感情論と理解する向きもあるようだが、これも的を外している。

 私の訳は『たましいの受動』である。英訳では「Passions of Soul」が普通のようだ。原題は「Les Passions de L’ame」である。Ameとはこころ、たましい、霊魂と辞書にある。英語のSoulも大体同じものだ(つまり精神や理性や知性ではない)。外界や自分の身体(延長と言う実体)からの能動(働きかけ、刺激)をたましい(心)が受動(passion)して反応する仕方を腑分けしている(つもり)なのがこの論文のテーマである。