123ページから数ページにわたって宝物「マルタの鷹」の歴史挿話の説明が下手な文章である。
これは建築現場での事故に遭遇した人物の挿話と双璧の下手な退屈な挿入である。どうもハメットはこういう挿話の扱い方が極端に下手のようだ。ほかの書きようがあるだろう。退屈しないようにちじめるとか。ガラスの鍵ではこういう挿話はへっているが、森の蛇屋敷の小話もこの系列の名残だろう。
物語の進行の興味を削がないような書き方があろう。かって務めた探偵社の報告書の癖が出たのかな。小説ではほかの視点からの扱い方がある。
123ページから数ページにわたって宝物「マルタの鷹」の歴史挿話の説明が下手な文章である。
これは建築現場での事故に遭遇した人物の挿話と双璧の下手な退屈な挿入である。どうもハメットはこういう挿話の扱い方が極端に下手のようだ。ほかの書きようがあるだろう。退屈しないようにちじめるとか。ガラスの鍵ではこういう挿話はへっているが、森の蛇屋敷の小話もこの系列の名残だろう。
物語の進行の興味を削がないような書き方があろう。かって務めた探偵社の報告書の癖が出たのかな。小説ではほかの視点からの扱い方がある。
さて、ついでながら、というのでマルタの鷹を再読してみた。「Vintage Crime」版。
1:例の日本の評論家を痺れさした、工事現場の落下事故から命拾して家出した男の話、62-64ページ。再読したが前に書いたように、その意味が全く分からないし、なぜここに挿話が挿入されているのかもわからないのを確認した。
2:拳銃を表現する言葉は無数にあるが、本書では「ピストル」という言葉(常用)が使われている。かってある女性の作家に「ピストル」なんて死語を使って、とあざ笑われたことがあった。それから素直にピストルという言葉は使わないようにしていたが、拳銃、リボルバー、はじき、ガンなど無数にあるのに、どうしてピストルが時代遅れに感じるのか、考えてみると分からない。スラングに至ってはそれこそ無数にあるだろう。
朝書いて夕方またアップする。たしかに多すぎるな。
一つ言い忘れたことがある。賢明な読者は気が付いているかもしれないが。
ボーモントは博徒である、とすると探偵はだれがするのという疑問は当然だろう。
PIのフィールドワークはやはり探偵にさせて、金を払う。ジャックという人物だったかな。ボーモントは博徒としてのカンを働かせ、仮説を立てる。もちろん試行錯誤の連続だ。それを裏付けるフィールドワークは私立探偵にまかせるのだ。以上賢明な読者の当然の疑問に答える。
それにしても、最近アップの回数が多すぎないか。考えてみたら連日の炎暑でテレビが不要不急の外出は控えろというものだから、あんまり外出しない。家にいても掃除ぐらいしかすることがない。退屈でイライラする。それでなにかアップして時間をつぶそうとするのだろう。弁解終わり。
そこで前回の続きだ。前回、ガラスの鍵は日本の仁侠映画と同じだといった。もちろん違うところもある。ドライ度が違う。ボーモント、小説の主役は博徒ですってんてんになって溝に転がっていたのを政治ボスであるマードックに拾われて何でも屋というか参謀扱いで優遇された。その恩義を返さなくてはならない。日本と違うのは、無制限、無期限で恩義を感じるというウェットではなくて、借りを返したら別れようというアメリカらしいドライさだ。実際、殺人の真犯人と疑われたマードックの無実は証明した。しかし、その代わりにその裏の政治ボスの表の顔である上院議員を告発する羽目になった。皮肉なことだ。
それでこれで借りは返した、こんな町はおさらばしてニューヨークに行こうとした。そうしておまけに真犯人とした上院議員の娘をかっさらっていくことになる。この辺のドライさはアメリカ的だ。
もちろんハードボイルドだからボーモントの心情吐露は一切書かれていない。以上のことは読者が感得しなければならない。
しつこくもう一丁いこう。ハメットの後期の探偵もの、探偵なんて古い言葉を使って気が引けるが。
有名なのは、血の収穫、マルタの鷹、ガラスの鍵であろう。そこで三作を比較してみる。
まずロケハンから:
血の収穫は名称不詳の地方都市、
マルタの鷹はサンフランシスコ
ガラスの鍵は名称不詳の地方都市
探偵役は、最初の二作は職業的探偵
ガラスの鍵では地方の裏政治をあやつる政治ボスに一宿一飯の恩義を感じる賭博師、博徒である。
こう書くと日本のやくざ映画と極めて類似していることがわかる。
次回からもう少し詳しく書く。それからこれは補足だが、前に古い英語やオランダ語を多用すると書いたが、フランス語の引用も多い。それからラテン語からも。それも、我々がよく目にする神学や形而上学の用語ではなく日常用語の引用が多い。
カラスの鍵を読み終わった。
小説のタイトルが「ガラスの鍵」となっているのがわからない。最後に犯人とわかる上院議員の娘が最初は素人探偵役のギャンブラーに敵対していたが、最後は協力者になって賭博師と駆け落ちする女が見た夢からきている。
森の中の一軒家か何かをガラスの鍵で開けたら鍵がくだけてしまった。そして空いたドアからたくさんの蛇が出てきたという夢を相手に話すところからきているが、わからないのはそれが何を意味しているのか、どうしてこの小説のタイトルにしているのか、ということである。
なにやら当時アメリカを席捲していた精神分析の話のようでもある。しかし、全然しっくりしない。
そういえば思い出したが、「マルタの鷹」にも全然関係のない逸話が紛れ込んでいた。建築現場で上から物が落ちてきたが、偶然助かった人物が悟ったという話で、日本の評論家は大変高尚な話としてトクトクと書いているが、筋との関係がわからない。それ以上に、このガラスの鍵の夢はチンプンカンプンである。
こういうわけのわからない、前後の話との関係がわからない部分はチャンドラーの作品にはない。
みんなこの作品をほめる評論家はわかっているのかね。
日本でも、かっこいいと思うのか、知りもしない漢語を得意そうに使う若手作家がいる。
気が付いたが、ハメットもその傾向がガラスの鍵にかぎってある。もっとも彼の場合は古いオランダ語と古い時代の英語である。読んでいて気が付いたがかなりの頻度だ。
日本の場合、森鴎外や漱石、永井荷風まではさまになっているが明治も後期の作家は難しい漢語を得意そうに使うのはチンドン屋に似ている。
若手作家は辞書類を血眼になって探すのだろうが、慣れない晴れ着を着てチンドン屋の真似をしているようだ。
日本の場合、外来語、カタカナ言葉を乱用するのも若手に多いね。
ハメットは今でも日本では人気らしい。少なくとも評論家というか業界人の間では。日本では「マルタの鷹」は傑作あるいは”探偵小説”の教科書となっている。アメリカではThin Manが人気第一らしい。これは連続ラジオ小説のcomedyらしい。
前にも書いたが、チャンドラーと違い探偵社の使い走りから始めたハメットは書きながら文章を勉強したので、彼の小説を読むとへたくそな小説からだんだんものになっていく過程がわかる。マルタの鷹で一応の水準に達しているようだが、どうも未だしだ。
アメリカでの一番の人気作は例の痩せた男も晩年の作だ。もっとも彼は若くして引退したから、文章もまともになっているのだろう。私は読んだことがないが。
ところでハメット自身は自作をどう見ていたか。よく知られていたように彼自身は「ガラスの鍵」が気に入っていたようだ。最近本の整理をしていたらVintage Crime版が出てきたので、再読している。マルタの鷹にくらべて地味な作品であるが、文章の質という点では、おそらくハメットの中では一番いいようだ。
監禁された部屋を火事にして逃げだしたところを読んでいる。それで思い出したが、チャンドラーの小説のどこかで同じような場面を扱っていたんじゃなかったっけ?
太平記の一節に新内節とか清元のような色っぽい小唄的表現が紛れ込んだらどう訳すか。原文が意図的に破調をねらったもので、それが決まっているなら翻訳も工夫しなければならない。
そうではなくて、それがその作家の文章修行の過程でかぶれた、こった美文調が思わず露出したもので、前後と調和も無く、あえて意図的に破調を狙った者でなければ平凡に意訳するのもありかもしれない。
マルタの鷹第10章冒頭に
Beginning day had reduced night to a thin smokiness when Spade sat up.
(Vintage Crime)
とある。
こういう表現にはじめて出会った。わたしにはどうも典拠のある表現の様におもわれたのだが、あまり英米の小説をよんだことがないので普通の表現かも知れない。reduceにはたしかに何々になる、という意味も有るが。あまり見かけない。詩的というかひねった文章の様に感じた。ハメットのマルタの鷹の前後の文章からまったく浮き上がっている。英米文学の専門家なら典拠があるのか、ないのか分かるであろう。
第9章のおわりで夜も遅く、スペードのアパートでブリジッドとスペードが簡易ベッドのうえでギッタンバッコをした訳である。9章の記述から読むと、二人は謎のような、禅問答のような腹の探り合いをああでもない、こうでもないと延々とやっていたのだから床入りはもう早暁と言ってもいい頃であろう。
霧のサンフランシスコでこの時期*何時ころ夜が明けるのか知らないが職業的探偵意識が彼の目をさましたのである。おそらく1時間か2時間しか寝ていないであろう。新内ならカラスの鳴き声に目を覚まされた、とやるところであろうが、霧のサンフランシスコではthin smokinessとなるのである。
* この小説で季節についてはなにも書いてなかった様に記憶するが読落しているのかな。
参考に創元文庫と早川文庫の訳を示しておく。いずれも平板に説明的に訳しているが創元文庫の方がやや雰囲気を出している。
そこで、諏訪部氏が「マルタの鷹講義」でなにか触れているかなと思ったのだが全然言及がなかった。
創元文庫142頁
スペードが起き上がってみると、夜はすでに白みそめて、薄い朝靄がかかっていた。
早川文庫150頁
スペードが上体を起こすと、夜の闇は明け方の煙った薄明かりに変わっていた。
情事のあとの短夜を恨む表現は、泥棒の様にブリジッドのホテルの部屋に忍びこん家捜しするスペードの行動の表現としては原文でも浮き上がっているが。
諏訪部氏「マルタの鷹22講」によると、ヒーローに愛される女性は善良である(悪事を行わない、犯人ではない)、というのは根強い通念であったそうである。大学で英米文学を講ずる先生であるから、少なくとも18世紀以降の英米小説はめぼしい所はすべて読んでいるだろうから本当なのだろう。
だからブリジッドが犯人というのは新機軸だそうである。私が再三ブログで言って来たことだが、ハードボイルドの際立った特徴は良い女(すなわち魅力的な美女)が実は犯人であったという展開である。私はこれがハードボイルド小説の特徴であると思っていたが、別にHB作家の独創だとは思っていなかった。
ヒーローあるいは探偵に愛されるかどうかは別として、草創期のHBの代表作はすべてといっていいくらい、いい女>>殺人犯である。諏訪部氏の言う通りだとすると、HBを以後特徴付けるパターンは「マルタの鷹」が嚆矢となる。ハメットの作品でも他にはいい女=毒婦*という図式はない(私の記憶)からマルタの鷹は以後のHB(チャンドラー、スピレーン)の方向を決定した画期的な作品と言うことになる
* 正調日本語のお勉強:
美女という言葉は明治の文士が作ったことばらしい。「いい女」という表現が日本語プロパーである。悪女というのはブスという意味である。現代日本語で使われている悪女という意味の言葉は正調日本語では毒婦という。ブリジッドは悪女ではない。毒婦である。また、毒婦の条件はいい女である。ブスでは男を手玉にとって悪事をはたらくことは難しい。もっとも木島某女のようにデブ系、ブス系でも毒婦がいるが、きわめて稀である。
阿部氏によると批評家に硬派軟派があるらしい。批評家というのは文芸批評家ということかな。硬派というのは阿部氏の書いてあることだけから理解すると一冊の本を一講義で数頁ずつ数年間にわたって行う人のことらしい。どうしてこれを硬派というのかな。
文章を読む時に特に引っかかるのは比喩が適切であるかどうかだが、阿部氏によると一個のハンバーグを細かく刻んで一日三食、何日間も食べるような者だという。アメリカ人はこういうジョークを言うというのだが本当かな。聞いたことが無いな。
比喩としてなっていない。こういうのがあると前後の文章すべてが疑わしくなる。唐突に「2時間のB級映画!」(何回も映画化されているがおそらく1941年のハンフリー・ボガード主演のものと理解したい)のマルタの鷹だという。映画はA級だろうとB級だろうと大体二時間前後だがね。とにかくわざわざ映画を持ってくる意味が全く理解不能だ。しかもエクスクラメーション・マーク付きとなるとね。
これは難癖をつけているのだろうが、書名に「講義」と付けているが印刷を目的として作成されたのではないか、という。たしかに講義録とつけたらすこし問題かも知れないが、書き下ろし、連載ものに「講義」と付けることはあるんじゃないの。まして、「マルタの鷹講義」は研究社のwebに掲載されたものだと当事者が公に断っている。悪質な因縁だろう。
あるところで阿部氏は「活動写真の弁士めいた語り口」という。いかにもケチをつけている語調だ。大体阿部君は活動写真を見て弁士の語りを聞いたことがあるのかね。どこからこういうたとえが出てくるのか。精神錯乱気味ではないか。
驚くのは3年前にアップされたこのみっともない記事が削除もされずに残してあることだ。東京大学の「Official Blog」なら誰かがなんとかしなくてはいけないのではないか。
随分難癖をつけまして申し訳ございません。しかしこれほど容易に難癖をつけられる記事というのも珍しい。
私は「マルタの鷹講義」に全面的には感心してはいないが、なかなかの労作であることは認めるものである。最初は私流に難癖をつけるつもりもあったが、阿部氏のブログを読んで急遽予定を変更したのである。
マルタの鷹あるいはハメットのハードボイルド小説は「今や、“ハードボイルドおっさん、のノスタルジアくらいにしか見られない」という。なるほど、そうかもしれない。市場ベースでみるとHB創業御三家のうち、活況を呈しているのは村上春樹訳で日本市場を確保しているチャンドラーくらいだろう。
早川文庫は近年ミステリー部門をリストラしているらしく、一部の作家達のシリーズ物しか書棚にない。クリスティとかチャンドラーとかパーカーとか。ハメットものはほとんどの書店においていない。編集方針の変更があったのであろう。
創元社は比較的ミステリー関連が以前にかわらず多い。早川と立場が逆転している。それでもハメットがある書店はきわめて少ない。御三家の一人ロスマグに至っては両社の本はどこの書店にも無い。もっとも洋書売り場にいくと比較的御三家の本はそろっている。アメリカ本土ではどういう事情か知らないが。
ところで阿部氏のブログには麗々しく「OFICIAL BOOK REVIEW BLOG
by Masahiko Abe」とある。おおげさな、オフィシャル・ブログってなんなの。しかもその上には大きな活字で阿部公彦 東京大学 (英米文学)と大書している。書くなら東京大学准教授と肩書きを書くべきではありませんか。
ブログ記事の日付は2012年4月16日となっている。書評の対象となっている「マルタの鷹講義」の発行日は2012年3月1日である。出版社の通例として発行年月日は先付けするようだから、おそらく書店に配本されたのは3月の末あたりではなかったか。
阿部氏は同僚にしてライバルである諏訪部氏の著書が刊行されるとすぐに入手してろくに読まずに書評を書いたのだろう。おおまかな印象で言うと、諏訪部氏の著書をちゃかし、けなしている様に読める。もしそうでないとしたら、私の印象が間違っているのか、あるいは阿部氏の文章に文徳が欠けているのであろう。
* *