穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ユンクとベルクソン

2022-08-30 07:21:04 | 哲学書評

 前回似ている、もう少し上品に表現すると、共通するところがあるといえば、フロイトではなくユンクとベルグソンだろうと書いた。分野が違うから学説が似ているというのではない。ニュアンスというのかな、なんとなく、ユンクの神秘主義、オカルトへの傾斜とベルグソンのタマシイ志向がね。
 この二人には遺伝的に似ているところがある。近親者に霊能者が多い。
 ベルグソンの妹ミナは「猫使いの魔術師」として名をはせた有名な霊能者である。彼女は19・20世紀の交わりに有名なイギリスの魔術集団「黄金の夜明け」の指導者メイザースと結婚している。敵対者にたいして魔術攻撃を仕掛けたことで有名である。
 ユンクの母方プライスヴェルク家は有名な霊能者の家系である。ユンクの学位論文は従妹のヘレーネ・プライスヴェルクを霊媒として開かれた交霊会を扱っている。
以上ちょっと補足。

 そういえばイタコも家系的らしいネ。ベルクソンをイタコと比較してはいけませんが。


フロイトとベルクソン

2022-08-30 01:41:10 | 哲学書評

 2人は分野も違うし、理論にも似たところは全くない。方法論もまったく違う。にもかかわらずなんとなく一方から他方を連想させてしまうところがある。主要概念(テーマ)の言葉が似ているからだろう。フロイトは無意識と言う。ベルクソンは純粋記憶と言う。
 無意識と言うのは要するに「思い出せない記憶」と言うことだろう、フロイトの言うところでは。ベルクソンの記憶と言うのも思い出せない。しかし両者とも過去の記憶、あるいは無意識にアクセス出来る時がある。
 ベルグソンの場合は膨大な過去の記憶の堆積にゆるみ、あるいは亀裂が出来た時には、あるいは睡眠中のように知覚が停止しているときに、つまり現在に注意が集中していないときに、意識でとらえることが出来る。ま、これが思い出すということだろう。
 フロイトの場合は連想法とか夢分析と言う手を使ってむりりやり思い出させる。なぜそんなことをするのかと言うと、フロイトの考え方ではある種の記憶は思い出すと都合が悪い。あるいは本人にとって耐えられないほどつらい記憶だからだ。  
 しかも完全に忘却の彼方に押し込められないものがある。そういう記憶は直に思い出すとマズイので変形屈折して現在の患者の心身に悪い影響を与えている。それが説明のつかない精神病、統合失調症や心身症の原因だと主張するわけ。だから思い出させれば説明のつかない精神病、心身症は直ると強弁するわけだ。ずいぶん杜撰な考えだと思う。
 思い出さないように自己規制をかけるのはそれなりの理由があるからだろう。それを思い出させれば精神病が直るということもあるだろうが、そういう思い出は時限爆弾みたいなものだから発掘されて「意識と言う外気」に晒されたら爆発する危険がある。
 世間には時々家族殺人などで動機のわからない惨劇が起こるが、これなんか、何かの拍子に「禁じられた記憶」がよみがえったためではないかと思うときがある。つまり昔の記憶で記憶の底に押し込められているのは大体が幼児の記憶だろうから、家族に関係する記憶が多いだろう。
 私はフロイトの著書論文は一行も読んだことはないが、巷間伝えられているフロイトの説が、私が上記で要約した通りだとすると、非常にずさんで危険な理論だと思う。
 さらに言えば、記憶の定義の縁辺も明確にしておかないといけない。ベルクソンは過去の記憶は一つ残らず残っているという。どこに残っているかと言うことも定義の問題なのだが、ベルクソンは分かりやすくない。脳髄の中ではないというのだね。これはちょっと、トチ狂った考えだ、科学的には、あるいは常識的にも。それでは心の中か、いや違うというらしい。魂の中だというようだ。翻訳では。フランス語で心と魂とはどう違うのか。英語で言うMINDとSOULの違いみたいなものか。この辺もはっきりとしない。魂と言えば、日本でも頭ではなくて胸にあるとか腹にあるとかいうからね。
 ベルクソンは飛躍して宇宙魂みたいなことも言っていたのではないか。もっともプラトンにも宇宙魂という考えはあったようだが。とするとこれはユンクの集合的無意識だっけ、それにちかい。いずれにせよ、フロイトとベルクソンは無関係と言うほど距離がある。小林秀雄が分からないなりにウンウン言って関係をつけようとしたらしいが無理な話だ。
 また記憶の残り方についても、フロイトはどうか、つまり記憶は一つ残らず永久に(まあ死ぬまで)残っているということは言っていない、たぶん。一部は消失するとも言っていないようだ。要するに明確に突き詰めて考えていない、ベルクソンのように。ベルクソンの純粋記憶とフロイトの無意識は全くの別物である。

 以上順不同な記述でで失礼しました。なにしろテーマが無意識だから扱いが難しい。渡辺哲夫氏が著書「フロイトとベルクソン」で同時代に生きていた有名な二人の著作になぜ相互参照がないのか、と不思議がるのは意味がない。

 


ドグラ・マグラ

2022-08-28 18:37:26 | 書評

 前回のアップからだいぶご無沙汰をしていますが、前回触れたベルクソンのまわりをチビチビ身を入れずに読んでいます。彼の主著と言う「物質と記憶」など。岩波文庫で訳者は熊野純彦氏。岩波文庫は訳者の略歴なんかを載せていないのでどういう人か調べました。門外漢なのでね。
 東大文学部長、東大図書館長などをされた方のようです。著書を見るとカント、ヘーゲル、マルクスなどについてのものがある。訳書ではカントの純粋理性批判などがある。なかなか多方面で精力的なかたのようです。
 今回この方に触れたのは、上記したベルグソンの訳書の解説の中で夢野久作の「ドグラ・マグラ」に触れているからです。一体どういう関係があるのか。この本は奇書だそうです。日本の三大奇書の一つと言う人もあるそうです。いまはなかなか入手できないという。で書名だけ記憶に引っかかったわけですが、先日書店で角川文庫にあるのを見つけた。上下各300ページ強、入手困難と言うが令和四年四月120刷発行とある。結構出回って売れているわけだ。入手困難(インターネット情報)なんて誤解されるようなことを書かないでほしい。
 さて「ドグラ・」(以下ド)ですが箸にも棒にもかからない駄作ですね。最も上巻二百ページ当たりで読むのを放棄しましたが。そしてベルグソンとの関係は熊野氏のいうように関係があるとも思えない。あるとすれば、曲解、こじつけがあるのかもしれない。
 大正時代、昭和初期には文壇でも、何もわからない連中(小林秀雄のような)でもみんなベルグソン、ベルグソンと騒いだそうですから夢野久作も相乗りしたのかもしれない。
 思想的なことは別にしても、小説としては拙劣です。ゴシック小説、ホラー、SF風通俗科学小説、推理小説といろいろレッテルは貼れるでしょうが、致命的なのは文章が不味い。記述が幼稚ということにつきます。

次回はフロイトとベルクソン


プチ・ベルクソン ブーム 

2022-08-07 08:42:05 | 哲学書評

 この間ある大書店の哲学棚の前を通ったらベルクソン全集とか彼の著作がかなり並べられていた。日本でも大正時代を中心としてもてはやされた哲学者の一人だったが、以後忘れられた存在だった。どういうわけがミニブーム再来の兆しだ。
 哲学界も種切れで、やれポスト構造主義だ、新実在論だというのも陳腐になったので、ベルクソンで一山当てようというのだろう。哲学講釈で飯を食っている人たちが新しいタネを見つけてリバイバルを狙ったのだろう。なにか(よりどころ)がないと食っていけないからね。
 わたしも最近彼の翻訳を二、三贖ってみたのだが、これが厄介な代物だ。
私の考えでは哲学、形而上学は科学(実証科学と古い言葉では言うが)を拠り所としてはいけない。逆でなければいけない。彼の主著と言う「物質と記憶」(岩波文庫)を見ているが妙なことを書いている。この本の最後に『要約と結論』というのがある。此の冒頭がおどろおどろしい。
『私たちが事実から引き出し、推論を通じて確証した思想によれば云々』
最初の句から『推論』するに、これを敷衍して解釈すれば『実証科学に基づけば』ということだろう。これがおかしい。形而上学は実証科学に基づいてはいけない。形而上学は実証科学に仮説となる前提を提供する立場にある=ポパー参照
 もっとも本書は1896年発行であるから当時の実証科学(人体生理学などとと思われる)に基づいているらしい。(実証)科学は日進月歩である。100年以上前の解剖学、生理学を論証の証拠とするのはナンセンスである。しかも文章を読むと、本当に当時の科学に基づいているというにしては議論が粗雑である。