穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

カント「判断力批判」

2016-02-28 18:29:32 | カント

このブログでは「小説ときどき哲学書」となっているが、大分小説ばかりやっていたので久しぶりにカント「判断力批判」。

 カントの最晩年に出されたものだが、そのせいかどうか、くどい繰り返しが多いね。まだ序論と第一序論しか読んでいない。とはいっても全体の四分の一くらいになる。

 翻訳書でしか読めないので、昨年出た熊野純彦氏の訳で読んでいる。いま新刊書店で手に入るのは三種類らしい。熊野氏の訳を選んだ理由は活字が大きいという、それだけである。岩波文庫青帯で上下二巻があるが、細字である。あと、大きな活字では上下二冊になったものがあるようだが、これは書店で上巻だとか下巻だとかだけでそろって入手できない。で熊野氏におちついた。英訳でもいいのだが、インターネットで探したが見つからなかった。

 読んでいて、おかしいなと思う所が結構ある。正しい訳かどうかというのは原文と参照出来ないから分からないが、日本語の文章として妙なところがおおい。また訳語に、これはなんだ、というものがある。

 そう言う時には別の翻訳と参照することにしているので、今回は岩波文庫を買った。これは初版が半世紀前である。細字だから通読するのではなくて、熊野訳で引っかかる所をチェックするためである。いちいち例を挙げると煩雑な思いをさせるだけだろうが、あきらかに岩波文庫の方が抵抗無く読める。

 若い学生諸君でまだ眼のいい人には岩波文庫をすすめる。

 


村上春樹の長編を通し狂言として観るには無理がある

2016-02-13 08:43:50 | 村上春樹

「多崎つくる」読了。小説としての構成ではいままで読んだ彼の作品の中で一番きっちりとまとまっている。一体感がある。

 時間のある時にちょいと一幕見ると村上作品にはいいところがある。前にもいった様に彼は日本の小説家の平均より文章がうまいからです。しかし始めから終わりまで通して読むと興を覚えるという作品はない。手を替え品を替え、多種のオカルト調味料をふりかけたチカチカドンドンのカレー料理の連続で、わたしがバラエティというわけですが、いささかしらける。

 「たざきつくる」はそういうところがない。そういう意味では彼の作品のなかでは一番かも知れない。オカルト調味料も一種類だけしか使っていないし、それを手品師のようにショウアップしていない。

 なにがオカルトだって? 前回述べた脱魂憑依現象です。もっとも彼はそんなことをかいていない。かれの叙述に従えば

クロ; 悪霊

つくる; 地下水脈でつながっている(村上のユング、河合かぶれ)

ただし、結末の数ページはよくない。息切れがしたのかな。めでたし、めでたしという結末は村上美学に反するかも、そして結末を明示するのも村上の趣向に反するからかも知れない。「つくると沙羅は末永く幸せに暮らしましたとさ」ではしまらないと思ったのだろうが。

 


「多崎つくる君」が憑依魔だという仮説

2016-02-11 22:47:37 | 村上春樹

 大型書店に「たざきつくる君」の文庫版が組体操のピラミッドみたいにてんこ盛りでした。「村上春樹はなぜ売れるか」を探求しているアタシとしては購入しない訳にはいきません。 

これは単行本の時に読んだんですがすんなり読めなかった。このブログを書くために大分彼の作品を読み込んできたためか、彼の作品にもなじんで来たようで、あっというまに半分ほど読みました。

 単行本の時の評価は訂正する必要を認めます。なかなかのお作とみました。

 インターネットの書評で誰がシロをレイプしたかなんてのがありましたが、驚きましたな。つくる君じゃなきゃ誰なんだと数人の名前があがっております。

 例によってサイコ女が出て来ます。それがシロです。もっとも憑依されやすい媒体でありますな。途中まで読んだところでワタシの仮説はたざきつくる君がサイコのシロに憑依したと見ると辻褄が合うようです。

 この線で村上氏は随所に伏線をバラまいているようにみえますが。

 もっとも、作者の意図がそういうことかどうかは保証の限りではありません。また村上氏の意図がそうであっても、当然明言しないでしょうがね。



村上春樹の妊娠恐怖症

2016-02-09 09:23:46 | 村上春樹

ねじまき鳥どうやら最後までいった。この小説の主人公は誰でしょう。これはレビュー(軽演劇)だから主役は沢山いるが、首座たる主役は誰でしょう。 

僕でしょうか。どうも違うな。派手なオベベを着て出てくるマドンナは多い。加納姉妹、ナツメグ、テレフォンセックスの女、笠原メイなど。主役はクミコでしょう。間宮中尉や牛河は一つの物語をなしているが、中世の物語の様にてんでんばらばらの挿話を一冊にまとめたという色合いが強い。 

村上春樹の通奏低音は妊娠恐怖症であると断定してよい。(彼の全作品を読んだわけではありませんが)。あれだけ女性にサービスする主夫を主人公(記述者)とするにもかかわらず育児の記述がまったくない。

 村上春樹自身も子供がいないらしい。クミコの謎は解けない(解かない)ままで終わるのだが、妊娠恐怖症でしょう。この恐怖はクミコのものなのか、村上春樹自身のものか、あるいは誰か具体的なモデルがあるのか、あるいは全くの観念遊戯上の概念なのか。断定することは難しい。

 ねじまき鳥に限って言えば、加納クレタと僕の子供と暗示されるコルシカという嬰児がいる。クレタは妊娠するとクレタ島に行くといって姿を消す。姉のマルタの言う所によると、彼女はコルシカという子供を生んで一人で育てている。

 小説にはそういう伝聞しか出てこない。ねじまき鳥は広い意味で彼の冒険小説の系列に入る。すなわちハードボイルと世界の終わりだっけ、羊をめぐる冒険、ダンスダンスダンスの系列だ。物語の形式は行き当たりばったりの巡礼形式(犬も歩けば棒にあたる)である。

そしてねじまき鳥は記述の暴力性がその中では一番強い。

巡礼形式で思い出した。最近書店で文庫になった「たざきつくる君」がてんこ盛りだ。この小説も昔の謎を巡礼形式でたづねて回るものだったかな。前に読んで極めて印象が薄かった。本も捨ててしまった。今回書いたついでに文庫でも買ってもう一度読んでみるか。

 

 


犬が女の尻に噛みついても

2016-02-05 08:56:02 | 村上春樹

犬が女の尻に噛みついてもニュースにはならない。AKB48のかわいいおねえちゃんが犬のケツにかぶりつけばニュースになる。マスコミの新入社員が最初に習うことである。

 ねじまき鳥クロニクル at 2−415(ポジション リポート)

 村上春樹の小説は、この一手で攻めるようだ。腕がよければ成功する。比較の問題だが、ダンスダンスダンスにくらべてねじまき鳥は濫用が鼻につく。成功しているとは言えない。

 登場人物の描写(いわゆるキャラがたつというのかな)にもムラがある。

よいほう:加納姉妹、間宮中尉

まあまあ:クミコ、おじさん

だめ:笠原メイ、札幌のギターの流し(新宿の再会は何なの)

脇役でよく描けているのはクリーニング屋のおやじ

 僕:論外、かれは主人公ではないしね。

 これで『読者の批判権』を10円使った。結構使いでがあるね。



作者に対する敬意

2016-02-04 08:38:50 | 村上春樹

書評をするにあたって著者に対する敬意が必要である。この場合出版社から涙金をいただいて書評をしている職業的書評家をのぞく。

 彼らに必要な技術は、ゴマスリであり、ヨイショである。どんな本でも褒めてなんぼという世界である。ここで言っているのは報酬をもらって歯の浮くようなコピーや解説を書く連中ではない。

 著者に敬意を払うということは、ゆっくり読むということである。著者の中には夢遊病患者のように書き流している連中もいる。流行作家というのは大体そう言う者である。こういう連中は論外であるが、数年かけて長編を書き上げる作家の作品については、ゆっくりと読むのが礼儀である。

 よく、長編を徹夜で読んだ、面白いから、というヤツがおるが論外である。7年ぶりの小説を同じく七年かけて読めと言っているのではない。せめてワン・シッティング20頁くらいのペースで読むのが礼儀であろう。

 一般読者は作者に対する敬意を払うという義務があると同時に支払った書籍代で批判権を購入したということも言える。文庫で700円、800円を払ったら、それだけの批判権が発生する。これを作者、出版社は否定することは出来ない。


ねじまき鳥はひょっとして

2016-02-02 07:56:32 | 村上春樹

まずポジション・レポルト 文庫二巻五合目あたり:

この小説を強く押す人がある。一巻目を読んで、あるいは、と思った。

二巻目になり、まもなくだれる。大長編でどこでもだれないというのはなかなか難しい。もちろん他の村上作品でも例外はないが、比較的波が少ないのが彼の特徴であった(私が読んだかぎりでは)。

この作品でダレが目立つというのは逆に「鳴る」ところがかなり高いということの結果ということもある。

この小説はオカルト小説であり、ファンタジー小説である。セックス・マジック小説である。このことは作品の評価に取っては中立的でプラスでもマイナスでもない。

冒頭の話に戻るが、「ボク」が空き家の枯れ井戸に入る所である。非常にまずい、下手である。

一人称小説(ボクの語り)であるから、第三者の長い長いモノローグや手紙で処理するところが多い。三人称小説なら会話や、彼らが視点(ナレイター)になるところをすべて独白でやっつける。

そして一巻ではこの独白部分がいいんだね。それと彼の作品にしては「家族」に触れるところが増えている。主として第三者の独白としてだが。

あるプロの評論家からの「マタ読み」なんだが、最初この小説は1、2巻でおわりだったが、尻切れとんぼなので大分時間をあけて第三巻が発表されたという。村上作品は語りの過程を賞味するもので、どの作品も結末はとってつけたようなものだ。ねじまき鳥もここまで読んだ限りでは「結末」なんてつけるのは難しそうだ。

結末をつけるのは容易だが、程度の高い結末をつけるのは困難だ、という意味である。

突飛ですが、ベートーベンの第九みたいなものだね。結末がつかなくて法華の太鼓みたいなチカチカドンドンのリフレーンが延々と続く。